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55.

 

 

 「冬乃殿」

 沖田達の背を見送り、首筋ににじむ汗を手の甲で拭った時、

 安藤が寄ってきた。

 

 「心より御礼申し上げる。冬乃殿のおかげで拙者、命拾いしたに違いない」

 やはり血塗れになっている安藤が、その坊主頭を下げて。

 「そんな、」

 安藤の無事を前に、再び込みあげた安堵感で、冬乃が息をつく。

 「御無事でいらして本当に嬉しいです」

 

 仏門にいた安藤が、どんな覚悟で新選組へ入ったのかは、冬乃には分からない。

 安藤がいたという知恩院は、幕府との関わりの深い寺院であり。

 救世を志したからこそ、この乱世を放っておけず、武術を修めている彼は彼の出来ることをしようと考えたのだろうか。

 

 この時期、まだ幕府の権威は、いくら昔よりは落ちたとはいえ当然に健在で、勝海舟などの極一部を除いては、多くの者が、幕府の元に再び乱世の治まる事を良しとした。

 天皇はもとより、会津や桑名、土佐の藩主は、その最たる存在であり。

 

 

 やがて討幕の中心となってゆく薩摩も、

 のちの徳川最後の将軍となる一橋慶喜や会津らの独裁となった朝廷内で、今や立場を失っており、その排他ぶりに失望して幕府離れを始めてはいたが、

 完全に幕府と訣別の意思を固めるのは、あと少し先の話である。

 

 長州藩内の急進派でさえ、討幕という概念を持って動いていたかは、この時期まだ定かではなく。

 

 彼らを中心とした“過激尊王攘夷派”の望みが、あくまで幕府の天皇への服従と、攘夷の即時実行、

 そしてそのための朝廷での復権であったのなら、

 

 現時点で、彼らが或いは幕府以上に憎んでいた相手は、

 先の政変と今回の池田屋事変の一連で、その望みを邪魔立てした会津と、

 先の政変で同じく邪魔立てした上、攘夷の急先鋒と世間では思われつつその実まったく攘夷を考えていない薩摩、

 そして、その上で、

 当然に。

 同志の直の仇。新選組だった。

 

 

 

 (まだ、この先、新選組が休める時は当分こない)

 

 「安藤様」

 冬乃は、穏やかな表情で佇む安藤を見上げる。

 

 (せめて、)

 「どうか今日は、ゆっくりお寝みになってください」

 

 冬乃の労りに安藤はもう一度礼を言うと、隊士部屋へと帰っていった。

 

 

 

 

 

 事変後は、冬乃の想像したとおり、隊士達が各々の武勇伝を語って安らいでいられる機会も無しに、再び連日での更なる残党狩りを余儀なくされ、まさに休む間もないといった状況だった。

 

 屯所は報復の襲撃を受ける可能性に備えて、夜も煌々と松明が焚かれ、

 当然に屯所だけでなく、いまや京都は、長州が攻め入ってきて戦争になるとの噂でもちきりだった。

 

 

 強化巡察の続く緊迫した状況下で、組に応援で派遣されていた会津藩士が、歴とした土佐藩士に傷を負わせてしまう事件まで起こって、

 傷を負わされ両藩でおおごととなったことを恥じて、土佐藩士は切腹、両藩の軋轢を避けるために会津藩士も切腹するという哀しい結果に終わり、

 組の誰もが、もはや心身ともに疲労困憊していた。

 

 

 

 

 そんな重たい空気の蔓延する屯所で、冬乃は今日も一日の仕事の後、八木家で風呂を終えて、前川屯所離れへ戻ってきた。

 

 「冬乃さん、ちょっといい」

 冬乃が女使用人部屋へ入って暫く、襖ごしに沖田の声がした。

 

 「はい・・っ、どうぞ」

 先日に制服で幕末へ戻ってこられたおかげで、平成での下着ならある。毎日仕事の後に洗っては夜の間に乾かしていた。

 どちらにしても、この暑さでとても風呂後につけていられたものではないので、夜は肌に直接、薄い襦袢一枚で過ごしていた。

 そんなだから、このままでは胸の形が露わなために、冬乃は隣の部屋へ行くときは、暑くても上掛けを羽織っている。

 

 (あづい)

 

 いまも、沖田の声に急いで上掛けを羽織って前をしっかり帯紐で閉じた、

 そんなあいかわらず見るからに暑苦しい恰好で、襖を開けた沖田を出迎えた冬乃を

 一瞥し沖田が、

 「来てもらえる?」

 と副長部屋のほうへ顔を向け。

 

 沖田について部屋に入ると、薄灯りの中、まだ治りきっていないで臥せている山南がいて、副長部屋のほうには土方が座っていた。

 

 

 おもえば池田屋以降、今までまともに土方と顔を合わせていなかった気がする。

 

 「考えてみりゃ、おまえの言ったとおり、本当に“でかい捕り物があった”な」

 土方が開口一番そう言い放つなり、ふっと微笑った。

 「まあ、はったりかもしれねえが」

 

 (そりゃそうも思うよね)

 なんらそれ以外に、具体的な予言を土方にしなかったのだから仕方ない。

 

 「で、本題だが。前回頼んだ件を、してもらう」

 

 「・・・」

 

 潜入捜査の件、だろう。

 冬乃は未だ立ったまま黙って頷いた。

 

 「断るなら今のうちだぜ」

 

 「いいえ、承ります」

 冬乃ははっきりと告げる。

 

 「なら、明日は使用人の仕事を休んで、総司について回るように」

 「はい」

 

 「明日いきなりは泊まらないから」

 安心していいよ、とばかりに、横で懐手の沖田が溜息をついた。

 (きゃ)

 沖田が浴衣一枚で懐手をしているせいで、はだけた襟から褐色の分厚い胸板と、その下の割れた腹筋までも、沖田を向いた冬乃の目に飛び込んできて。

 冬乃は大慌てで目を逸らして、

 「では、持ち物はとくに・・?」

 俯いたまま尋ね。

 

 「ああ。明日は、目的の旅籠及び周辺の状況を遠目に確認しに行ってもらうだけだ。ただし見られても怪しまれぬよう、しっかり恋仲演じて、仲良く散歩してるように歩けよ」

 土方がにやりと返した。

 

 「は、はい」

 て、

 (恋仲演じるって、どんなの?!)

 この時代なら、普通に連れ立って歩いているだけでも充分なのでは。

 「普通に歩いてるだけでいいでしょうが」

 沖田も同じ疑問を懐いたのか、同時に呆れた声がした。

 

 土方が鼻先で笑い、「話は以上だ」と手を振り。

 どうも揶揄われただけらしい。

 

 冬乃はどきどきしたままに、二人へ一礼すると、床の中から山南が心配そうに見ているのへ、大丈夫ですと目で会釈をして部屋へと戻った。

 

 

 何にしても。

 明日は沖田とお散歩、である。

 

 (・・・)

 仕事なのに、頬が緩んでしまうのを止められず、冬乃は上掛けを脱ぎながら小躍りしそうになって慌てて留まる。

 

 (そうだ、)

 それに明日ついに、いつかの帷子に袖を通せるではないか。

 行李を仕舞ってある押し入れのほうを、冬乃はおもわず見やった。

 

 押し入れの中の、量が増えてきたので八木妻女から借りたもうひとつの行李には、

 沖田が預かっていてくれた、仕立てを終えて店から届いた袷も入っている。それもいつか着れる機会が来るだろうか。

 

 

 (とにかく明日たのしみ・・)

 

 今夜きちんと寝られますように。

 井戸から汲んでおいた水を手にとりながら、冬乃はひとつ深呼吸した。

   

 






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