42.
「冬乃殿?」
ふと背後からかけられた声に、夢中になって道場を覗き込んでいた冬乃ははっと振り返った。
(あ)
「如何なさった」
安藤が、少し驚いた様子で佇んでいる。
使用人が懸命に道場を覗いていたら確かに謎だろう。
「いえ、掃除させていただけそうかと見ておりました」
咄嗟にごまかした冬乃のその言葉に、
「ああ、ここは皆で朝に掃除をしているので、必要ござらんよ」
(すみません、知ってます・・)
何度目かの説明を聞いてしまい、冬乃は内心縮こまる。
「仕事熱心で感心なことです」
・・しかも褒められてしまった。
「それでは、こちらは掃除が不要なのでしたら失礼いたします」
冬乃は逃げるようにして道場を離れた。
(ふう)
道場に近づくことさえ不自然なのだ。稽古ができる機会は来るのだろうか。
だめとなれば余計に恋しくなる。素振りだけでもしたいものだが。
(・・・)
おもわず手にしている箒に目がいく。
(でもここで箒ふりまわしてたら変人でしかないし・・)
冬乃は周囲を見渡した。誰もいない。
(・・ちょっとだけなら)
箒を正眼に構える。
「・・・」
目に映った、そのあまりに不格好な即席竹刀に。だがすぐに冬乃は溜息をついた。
(なにやってんの私は)
腕を下ろし、真面目に掃除しようと箒を持ち替え。今日の清掃の割り当てである箇所を、いくつか頭に整理しながら歩みを向けた。
それからは起伏もなく、つつがなく。指折り過ごしながら、待ちに待った日はやってきた。
されど。
(お孝さんが休み・・・)
前回の、芹沢達の葬儀の時は、助かったことにお孝がいてくれて、念のために古着屋で購入してあった礼服用の白無地の袷の上に、白帯を彼女に締めてもらえたのだが。
そのお孝は、今日は居ない。
勿論八木ご妻女もまだ親戚の家で。
角屋の時に着た朱鷺色の綿入り袷を、紐で結んで着込むまでは出来たものの、帯を手に、冬乃はいま唸っていた。
(沖田様にまたお願いしてしまいたい・・・)
ううん、だめ。
いつまで彼に頼っているつもり。
(前で結んで、それを後ろへ持っていってみるしかない・・)
ていうより案外、皆もそうしてるのではないか。
沖田と藤堂とは、玄関で待ち合わせしている。
冬乃が着替え終わる頃合いを見計らってくれるだろうとはいえ、もたもたしてあまり待たせるわけにいかなかった。がんばるしかあるまい。
そして。
(なんか変)
結局、冬乃は唸っていた。
そのまま結ぶとその重さで、どうしても重力に垂れてしまって綺麗な蝶にならないのである。
(沖田様あの時どうやってたっけ・・)
溜息をつきながら、冬乃は懸命に思い起こす。
そういえば、背で帯を折っているような様子があって、さらに、蝶結びがされる前に一度ぐるりと帯の端が回ってきたような覚えがある。
(・・・いきなりは結ばない、ってこと?)
でも。
(あの時、沖田様が背で折ってたようなあの動きって、何してたんだろ)
判りそうに、なく。
(任せないで、きちんと聞いておけばよかった)
あの時冬乃は最早、緊張しすぎて、最後のほうなど完全にされるがままになっていた。
教えてもらうどころではなく。
(・・・・もう、待たせるよりは、この酷い蝶結びのまま、いったん待ち合わせ場所に行こ・・)
冬乃は腹に決めて。使用人部屋を出た。
待ち合わせの玄関先で。
「まあ、そうなるよな」
冬乃を見るなり、沖田が微笑った。
「後ろ、向こうか」
「ハイ・・」
勿論、冬乃は素直に沖田の前で、背を向ける。
背後の沖田の手で、後ろへぐるりと帯が回転させられ、よろけそうになりながら、
「冬乃ちゃん・・まさか本当に、着たこと無かったの・・?」
冬乃の前では藤堂が、来るとき遊女みたいに冬乃の胸下で結ばれていた蝶結びの帯の残像に、唖然とした様子になっているのを。冬乃は恥ずかしさに頬を染めて頷く。
冬乃の背では、解かれた帯が一度、あの時のように折られてゆく気配を感じ。
「・・・えと、じゃあ角屋の時って、・・まさか、」
いま、初めてではないかのように、沖田に任せてされるがままに帯を結われていく冬乃を目に、藤堂が震えた声を出した。
「沖田に、着つけてもらった・・わけ?」
(ハイ)
最早、冬乃は藤堂の目をみることもできずに頷き返すよりない。
「・・・」
「次お孝さんに会った時に結び方、教わっておいてね」
毎回、蝶結びじゃあね
沖田の苦笑まじりの声が、冬乃の真後ろから落ちてきた。
「はい。本当に、有難うございました」
ぴしりと締まり終えた帯を胴に、頬を染めたまま冬乃は振り返って礼を言う。
「あの、さ。もう一度、確認なんだけど」
藤堂が、その困惑した眼差しのまま、そんな冬乃と沖田を見やった。
「二人とも本当に、そういう仲・・なわけじゃないんだよね・・??」
(え)
「何故」
沖田が面白そうに笑う前で、冬乃は藤堂へ向き直りながらどぎまぎと目を瞬かせる。
「だって一緒に寝てたりさ、着付けまでしてたなんて聞いたら」
(あ)
「いえ、それ、全て私が不甲斐ないからで」
慌てて弁解した冬乃に、藤堂が瞠目する。
「冬乃ちゃんはよくがんばってるよ、不甲斐ないことないよ!むしろそれ以上むりしないで」
藤堂のほうこそ慌てたような様子になって掛けてきた、その優しい声援に冬乃が驚いて首を振った時、
「おや。皆様でどこかへお出掛けでござられるか」
玄関に通りかかった安藤が立ち止まった。
いつも作業着の冬乃が珍しく着飾っているのを見たからだろう。
「ああ、これは丁度いいところに。安藤さん、すみませんが、どこか良い甘味屋などご存知ですか」
冬乃の真後ろに立っている沖田が、すかさず安藤へ尋ね。
「は、甘味屋ですか」
「ええ、今日は甘味屋にでも行こうという話になっているのですが、私も藤堂も京にはまだまだ不案内でして、甘味屋はじめ、飲食の店には殊更疎く。京にお詳しい安藤さんでしたら、何処かご存知ではありませんか」
かなり年上の安藤に対して、言葉遣いがとんでもなく丁寧になった沖田を背後に、冬乃がどきどきと目を瞬かせる前、
安藤が「ふうむ」と記憶を巡らせている様子で腕をくむ。
安藤は僧時代、京都の寺院で修行をしていたと聞く。組内で群を抜いて京都には詳しいのだろう。
「それでしたら天神さんの手前に、良い甘味屋がありますぞ」
(天神さん)
北野天満宮だ。
おお成程、と沖田と藤堂からは歓声があがる。
「天神さんの辺りならば、他にも美味い店がたくさんありそうですね」
これは甘味屋に限らず、他にも食べ歩きしたいところだと、沖田と藤堂が顔を見合わせて。
「安藤さん、もしこれから巡察などでなければ、ご一緒に如何です。案内してはいただけないでしょうか」
「安藤さん是非!御礼に奢りますよ!」
二人が口々に誘う中、安藤が微笑った。
「勿論、喜んでご一緒仕る」
(わあ)
愉しい道中になりそうだと、冬乃は相好を崩した。
「天神さんなら御前通まで行けば、後はひたすら直進ですね」
「左様でござる」
沖田の確認に、安藤が頷く。
「ただ、冬乃殿の足ですと、行きに半時程はかかるかもしれませんな・・」
半時。一時間だ。
冬乃が早くも裾を上げようと身構えた時。
「馬で行きましょうか」
沖田があっさりと提案した。




