099.ヒカリアレ
ソレを言い出したモルテンを、元加須高校生の折笠満ことミッツは信じられない思いで見つめていた。
どう控えめに見積もっても死ぬ。自身が立案したとはいえそんな作戦に、単身挑もうという神経が全く理解できない。
ミッツも死を意識していないわけではない。戦場にあって何度もソレを予感させることはあった。だがモルテンのやろうとしていることは、どう見ても特攻だ。戦に出るのと特攻に出るのとでは話が全く違う。
当のモルテンはといえば、とりたてて緊張しているでもなく、恐れ怯えているでもなく、むしろ興奮状態に近い。
そしてモルテンと仲の良い傭兵たちも、それを特別なことであると受け取っているようには見えない。
ミッツは、もしかしたらこれはミッツが誤解しているだけで、モルテンは生き残る可能性のある作戦をやっているだけなのでは、と思い直し、作戦を再度確認してみるも、やっぱりこれやったら死ぬ、と結論が出た。
涼太は、そんなミッツの心の内が手に取るようにわかった。自身も同じ心情なのだから。
そして今、モルテンの後に突っ込む予定の凪と秋穂が、モルテンと団長たちとで一緒になって打ち合わせをしているが、凪と秋穂もモルテンが何故そんなことを言い出したのか理解できずにいることを涼太は知っている。
一発勝負であるからして、準備できることは可能な限り準備しておく。なので単身で峰を駆け抜ける予定のモルテンと、その後に続く凪と秋穂以外の兵も、あちらこちらと走り回っている。
モルテンは、松明を持って峰を走り、待機している凪と秋穂の二人に灯りを照らして峰の様子を見せる。それが任務だ。
当然松明をつけていれば一応、足場である峰の様子を見ながら走ることができる。だが、バリスタに加え、より命中精度の高い弓隊も控えているのだ。
これへの対策は盾が一枚。盾と松明とを持って、暗闇の中、足二つ分ほどの幅しかない強風吹き荒れる峰を、走り抜けるとモルテンは豪語しているのだ。
落ちたら死ぬ平均台の上を、夜間に、松明の灯りのみを頼りに、矢を射掛けられ風に吹き付けられながら走る、といっているのだ。
一番身体能力の高い凪なり秋穂なりがそうするのが、最も成功率が高いのは誰しもがわかることだ。
だが、峰を抜けてそれで終わりではないのだ。抜けた後、崖下に展開している部隊を叩き潰し、登攀中の連中を引きずり下ろせなければ峰の踏破は意味のない行為になる。
敵が登攀を試みている崖下周辺は兵が展開しにくいとはいえ、かなりの数が待ち構えているだろう。これを少数、というか単身でどうにかできるのは凪と秋穂以外にいない。
如何に凪と秋穂を崖下まで送り届けるかが、今作戦の最大の課題であるのだ。
涼太にも問答をしている余裕がないことはわかっている。だが、どうしても聞かずにはおれなかった。もちろん、これから行くモルテンに聞くわけにはいかない。彼がどう考えてこの作戦に臨んでいるのかがわからない以上、下手なことを口にして彼の意思を挫くような真似は絶対にしたくない。
なので涼太はアッカ団長に問うた。
「何故、モルテンなんだ?」
アッカ団長は少し訝し気にした後、涼太に質問の意味を問う。数言の言葉を交わしただけで、アッカ団長は涼太が理解できていないことがなんなのか見抜いてくれた。
「リョータ。モルテンはな、言うなれば斬り込み隊長なんだよ。斬り込み隊ってのは、コレが仕事なんだ。皆がモルテンに一目置くのはな、奴が斬り込み隊としてただの一度も勇気の示し時を見誤らなかったからだ。傭兵ってのはどうしようもないクソ共の集まりだがな、勇者には敬意を払う。そして、勇者は勇気の代償を支払わなければならない。技量や腕力で乗り越えられる代償もあれば、運に頼るしかない代償もある、そういうことだ」
バリスタが当たればもうどうにもならない。だが矢ならば、モルテンの巨躯であれば盾で体勢を崩すことなく弾き返せる。そのうえで運動能力の高さを考えるに、モルテン以外に適任が存在しない。
凪と秋穂ならもっと成功率が高い。だが、バリスタが当たれば、運悪く強風が吹き付ければ、多数の矢に押されバランスを崩してしまえば、それだけで希少な切り札が失われてしまう。
だからこの二人を峰に送り込むのなら、少しでもその生存率を上げる試みをしなければならない。そのためのモルテンである。
お前こそいいのか、とアッカ団長は言う。
「ナギとアキホ、こんなヤバイ任務に突っ込んじまっても」
「……モルテンが本当に言った通りのことやるっていうんなら、俺が止めてもどうにもならん」
登攀挑戦中の崖の下の兵数は五十ほど。凪なり秋穂なり、どちらかが辿り着ければ蹴散らすのは可能だ。その後、敵の目を掻い潜って砦へと戻るためのルートは涼太が策定済みで、時間をかけて確実に戻ってくればいい。
モルテンにとって、モルテン隊の隊員たちにとって、峰を走るのも、突撃の合図と共に真っ先に敵に斬り込むのも同じなのだ。
誰かがやらなければならないことを、やる人間だからこそ良い待遇を与えられているのだ。だから、その時がきたなら絶対に迷わない、迷えない。それが成功率が高いだの低いだのといったことは考えない。やれ、応、それだけだ。
傭兵団一の荒くれ者。そして、傭兵団一損耗の激しい部隊、そういうことだ。そこは、強いから、賢いから、生き残れる場所ではない。死ぬ場面に遭遇したら誰よりも先に死ぬ。だから、勇者と呼ばれ、だから、誰もが敬意を払うのだ。
現に、モルテンの部下たちは皆が笑いはしゃいでいる。失敗したら次は俺が行くからな、なんて言葉を強がりでもなく言い放つような連中が、モルテンの小隊なのである。
『すげぇ、よな。戦士ってな、こういう生き物なのかよ。誰かを守るだとか、戦いの意義だとか、死ぬ理由だとか、そんな御大層なもん何一つありゃしない。なくったって、その時がきたら死に向かって突っ込める。戦に勝つためってだけで。でも……』
砦に入って、兵士たちの、戦場の空気に触れてみて、涼太にもそうする気持ちがほんの少しだけ理解できる気がした。
勝たなきゃ死ぬのだ。なら、どんな危ない目に遭おうとも、どんな無茶をすることになっても、何がなんでも勝つ、勝つために、やれることを片っ端からやる。
それに、と頬をかく涼太。
『こんな時、こんな場面だからこそ男を見せてやりたくなる。あるよな、そういうの。本当に死ぬ場面でそうしちゃう奴がいるとか思いもしなかったけど、そういう気持ちがあるのも、よくわかるよ』
命が軽い。その意味を、涼太は今、目にしているのだ。
峰の端に立ち、モルテンは煽るように凪と秋穂に言った。
「今更だがよ、お前ら本当に一度見ただけで渡れんのか? 今こうして立ってみても、しょーじき灯り無しでどうこうできる気欠片もしねえんだけど」
凪は、何処まで本気かわからぬ様子で、むっとした顔をしながら言い返した。
「さっき出てった連中が辿り着いた場所までなら今すぐにでも走れるわよ。くだらないこと言ってないで、アンタは向こうについてからの心配でもしてなさい。せっかく向こうの端まで辿り着いても、私が追いつくまでにやられてたら意味ないんだからね」
「へいへい、んじゃ行ってくるわ。おめーら、後は頼んだぞ」
おう、と皆の声が聞こえ、そして、モルテンは盾と松明とをそれぞれの手に持ち、峰を走り出した。
走り始めは、涼太が思っていたよりは素早い動きだった。慎重に峰独特の足場に慣れてからそうすると思ったのだが、モルテンは驚くほど安定した様子でひょいひょいと先を進む。
隊員の一人がぼやくように言う。
「やーっぱ小隊長のアレ、いつ見ても気味悪いよな。なんだってあのデカイ身体であんなひょこひょこ動けんだよ」
「あの人、戦場でも空中一回転とか平気でやらかすからな」
「んー、でもやっぱいつもよりは遅ぇか。ああいうとこ、きっちりしてるよなあの人。考えてやってんじゃなくて野生の勘って奴だろうけどよ」
モルテンが生きては戻れぬ場所へ走っていったというのに、兵士たちの態度は普段とまるで変わらない。
それに驚く凪と秋穂だったが、どちらもモルテンの姿から絶対に目を離さぬまま。ふと思った涼太はミッツを探す。いた。
ミッツもまた涼太を見ていた。涼太がいつも通りの兵士たちを指差してやると、ミッツは首をぶんぶんと横に振る。
ミッツ君も傭兵生活はそれほど長くはないようだ。今の兵士たちのありようは涼太同様、ミッツにとっても理解に苦しむものであるようで。
轟音。涼太も緊張した顔で見る。見えない。モルテンの持つ松明では照らせない場所への着弾だろう。あの音はバリスタだ。
改めてとんでもなく恐ろしいことをしていると思う。暗闇の中に、ぽつんとモルテンの持つ松明だけが見える。それ以外は真っ暗闇。まるで空を駆けているかのようだ。
だが暗闇の奥より、当たれば、いや自身ではなくとも足場にでも当たれば、即死間違いなしの巨大な矢がモルテン目掛けて放たれている最中なのだ。
装置が大きすぎるせいか発射音は隠しようもなく、しかも。
「おいっ! バリスタの発射音増えたぞ! チクショウ! 奴ら何基用意してやがんだよ!」
十基だ。だが、モルテンの照らす灯りの範囲内への飛来は無し。夜間に、走る標的を狙うにはあまりにバリスタは大きすぎるようだ。
「ははっ! 全然当たってねえよ! 夜中に使うもんじゃねえんだよバリスタってのはよ!」
兵たちはざまあみろと言わんばかりだ。だが涼太は知っている。そろそろ次がくる場所だと。
モルテンにも言ってある。モルテンは左手に持った盾を走りながら構え直す。そして、来た。
「おいおいおいおい! あれ! 矢撃たれてねえか!?」
遠目にだが見てわかる。矢が盾に当たるたび、モルテンの身体が揺れてしまっている。
矢が飛んでくる方向は一方向だけからと決まっているので、盾で防ぐこと自体はそれほど難しくはない。だが、盾に矢が当たれば、当然着矢の衝撃が伝わってくるのだ。
不安定な足場を走っている最中のモルテンにとっては何より嫌なことだろう。
「あっ!」
矢が当たり崩れたモルテンの重心のせいか、モルテンの足場もまた小さく崩れる。ぐらりと揺れるモルテンの身体。
だが、僅かに足裏が滑っただけで身体は崩れず。何事も無かったかのようにひょいっと次の足場へ。
兵士たちは大騒ぎである。
「やっべえ! 走れモルテン!」
「急げ急げ急げ!」
「一気に振り切れ!」
涼太は別のところに意識が向いている。
『いや、あれ、足腰が強いなんてもんじゃないだろ。すげぇなモルテン。どういう身体能力してんだ』
そもそも松明の灯りも走る数歩先ぐらいまでしか見えていないだろうに。
灯りが増えた。
夜の闇の中、モルテンの走る場所とは全く違う場所で光が灯る。涼太の額に皺がよる。あれはバリスタのある場所だ。
『手元や照準器が暗くて見えなかったって話か?』
だから狙いが全く定まらなかったと。そしてモルテンを襲う矢が少し大人しくなった。
何があった、と峰下の弓手に遠目遠耳の術を飛ばす。
「急ぎすぎるなよ! 足元には十分注意しろ! 矢は前から順番に射るんだ! 俺たちの目的は奴の足止めだぞ!」
峰の下で待ち構えていた弓手たちは、峰下を移動しながらモルテンに追いすがり、そして矢を放ち続けているのだ。
たった一人が峰を抜けたていどでどうこうなるわけがない、そんな油断は決してしていない。弓手の隊長の真剣な表情を見ればそれがよくわかる。
そして足止めということは、勝敗を決する手は弓手以外ということになる。つまり、やはり灯りをつけたことでバリスタの命中率向上が見込めるということだ。
『……ここまでか』
モルテンという気の良い男の最期が迫っているというのに冷静に状況を判断している自分を、涼太は吐き気がするほど胸糞悪いと思った。
そしてバリスタの発射音、複数。
やはり灯りの問題であったのか、今度のバリスタの矢はかなり集矢率が良かった。モルテンの持つ灯りが矢の軌跡を照り返すぐらいに。
兵たちが一斉に声をあげる。
「「「モルテン!」」」
その足元に突き刺さった矢がモルテンの足場を崩し、ずるりと一気に身体が滑り落ちる。
矢の勢いのせいか、モルテンの身体は敵のいる方向とは逆側に滑っていったが、灯りのおかげでわかる。盾を放り捨て、モルテンは片腕のみで峰の岩に掴まっていた。
「あっぶねえええええ! おっまえモルテンしぶとすぎんだろ!」
「うははははははは! さっすがモルテン! あまりに馬鹿すぎてあの世のほうが避けて通るってか!?」
「登れっ! 登れモルテン登れえええええええ!」
「盾無しじゃもう走るっきゃねえ! 腹くくれよモルテン!」
もうとっくに声が聞こえるような距離じゃない。だが、そんなことお構いなしに兵たちはモルテンに向かって怒鳴り叫ぶ。
その声が聞こえているわけでもないだろうが、モルテンは片腕のみで身体を強引に引っ張り上げ、足場を確保しどうにか一息ついた。
城壁からはもう真っ暗で周囲は何も見えない。ただモルテンのいる場所のみぼんやりと薄赤色に染まっていて、だからこそか、あの場所にいるモルテンと同じく明るい城壁上とで、繋がっているような気がしていた。
モルテンはそこで何やらごそごそと動いている。涼太は遠目の術をそちらに向ける。
『なっ! 何やってんだアイツは!』
片腕のみで、なんとモルテンは松明を自身の胸、腹にこすりつけているのだ。
もちろん火のついた松明だ。そんなものを自分にこすりつけるとかいうセルフ根性焼きを今、あのような追い込まれた場所で行う意味が本気で理解できない。
よほど強くこすったのか、モルテンの身体の前面から勢いよく火が出ている。あれは松明の脂がべっとりと身体についてしまったのだろう。
そして残った松明を、首後ろから背中に差す。松明の火は、モルテンの後頭部を照らすというか燃やしている形だ。
涼太が同時に展開していた遠耳の術がモルテンの、文字通りヤケにでもなったかのような怒鳴り声を拾った。
「いいかナギ! アキホ! 絶対見落とすんじゃねえぞ! 余所見してやがったらてめえらあの世ですげぇドエロいおしおきだ!」
かくして、両手が完全に自由になったモルテンは、峰の上へと飛び出すと、それまでよりもずっと速い速度で峰を走り出したのだ。
盾も松明も無しで、両手を完全にバランスを取るためだけに用いれるのならば、モルテンの運動能力があれば峰の上でもかなりの速度が出せる。
追い込まれた状況にありながら、モルテンはそれでも任務を果たすために必要なことを必死に考えたのだ。
バリスタも、矢も、もうかわすしかモルテンには選択肢がない。なら、そうしやすくするためにどうすればいいのか、その結果がこれだ。
走り出す前は、頭の後ろに松明つけとけば、凪や秋穂にも見やすいだろうなんてことを考えていたが、今はもうそんな意識はどこにもない。
モルテンが峰を走れば、走った場所は絶対に凪と秋穂が続いてくれる。だからモルテンは峰の終点まで、何がなんでも走り抜けるのみ。
矢の飛ぶ音がひゅんひゅんと聞こえてくるのは、戦場を駆け抜けている時と同じだ、大して怖くもない。
時折バリスタが放たれる時の木の駆動音と、矢が峰部に当たって大きく砕ける音が聞こえるが、これもまた攻城戦時にはよく聞こえる音だ、ならこちらも怖くはない。
そして案の定、モルテンの速さに矢もバリスタも対応できていない。
『はっははは! どうだ見たか! 俺だってなあ! 頭使う時がくりゃ賢いこともできるのよ! もう団長にだってデカイ顔させねえからな!』
モルテンが燃えている。
その様を愕然とした顔で見た後で、凪はすぐにも飛び出そうとしてアッカ団長に止められた。
「なんでよ!」
「モルテンが最後まで行けてからだ。失敗したなら次が行く。峰を最後までお前に見せられなきゃ意味がねえんだよ。最後の最後で暗闇に飛び込まれちゃ意味がねえんだ! お前は! 峰を渡り終えるのが仕事なんだよ!」
団長の怒鳴り声の最中も、凪はモルテンから目をそらしていない。だからその瞬間も、決して見落とすことはなかった。
「「「ああっ!」」」
兵たち全員の悲鳴。モルテンに、遂に矢が突き刺さったのだ。
矢は盾で防ぐ前提で、峰を行くのに身軽にする必要があったため、鎧は革の薄い鎧のみ。防げる部位もそれほど多くはない。矢が、また刺さった。
凪の歯軋りが見えるとアッカ団長は更に怒鳴る。
「行く時は俺が指示する! 堪えろ!」
そして内心のみで呟く。
『ナギ、ね。最初に来た時は洒落にならねえクソ女だと思ったが。ここで怒るのかよ。お前、クソっ、全然、傭兵らしくねえじゃねえか。戦士っぽくねえじゃねえか。たったこれだけの期間一緒に戦っただけで、戦友扱いしてくれんのかよお前。チクショウ、良い奴じゃねえか、コイツ』
凪の手綱を引き損なったら涼太に殺されちまう、と思いながらアッカ団長は比較的冷静に見える秋穂に言う。
「おい、ナギが突っ込みそうになったら止めてくれよな」
「わかったよ。でも、許されるなら、私も今すぐ行きたい、かな。ねえ、モルテン、もうどうにもならないの?」
「希望は持ちすぎるな。失望の瞬間が隙になる」
「…………うん」
『いってえええええよ! アホ共が好き放題射ってくれやがってよ! 足だよ足! 動き鈍るっての! 腕ならまだ……』
モルテンの腕に刺さった矢の矢羽根が、峰下から吹き上げる風に煽られると、刺さった腕ごと上に引っ張り上げられる。
「あぶねえええええ! 後痛え!」
すぐにでも抜きたいが、胴前面に火があるとはいえ、暗闇を何処までも照らしてくれているわけでもなく、意識は地面に集中していないと足を踏み外してしまう。
『いやこれナギは本当に火無しで走れるのか!? 火あってもこれだぞ!? アイツ本当に人間かよ!』
ほんの一瞬、膝から力が抜けそうになった。
矢を刺したままなのは、やはりキツイ。
一度足を止めるべきか僅かに迷うも、モルテンは自身の意識から逃げ口上を投げ捨てる。
『止まりゃ良い的だ。絶対に、峰を抜けきるまでは止まれねえ』
後頭部も、胸板も、顎下も、火で焼けて爛れはじめている。だというのに、モルテンはこの期に及んでまだ、生きて峰を抜けるつもりであった。
自分の身体に火をつけて、味方が絶対に助けに来られない場所に向かって、敵の弓とバリスタを掻い潜りながら、峰を越えた先に敵が集まっているのもわかっているのに、それでもモルテンは走って抜けて、その先の敵をぶっ殺すつもりだったのだ。
峰はまっすぐ伸びているわけではなく、ところどころで折れたり曲がったり、へこんでいたり盛り上がったりしていて、足を踏み外さないでいるのも一苦労だが、そういった予想もできない動きが敵の弓射を惑わすことに繋がってもいる。
『敵が間抜けなら、このまま……』
峰下からの怒鳴り声と共に放たれた矢が、一斉にモルテンに襲い掛かる。
『はっ、やっぱ、そりゃねえ、か』
峰の下を移動しながら弓を射るのも大変なのだ。灯りがあって狙いやすいはずのモルテンを相手に弓手がなかなか当てられなかったのは、そういう理由もあった。
だが、敵もまた学び、慣れるのだ。
十本の矢の内、八本までもが命中矢。命中の瞬間、モルテンは膝を落として上体が崩れるのを防いだ。だが、そこまでだ。
身体中から力が抜けていく。
ヤバイところに矢や剣が当たると、どんな力自慢体力自慢でもそうなってしまうということをモルテンは知っていた。
『ああっ、くそっ、これかよ……ヤベェ、力、入ら、ねえ……』
いつもなら考えるまでもなく伸びてくれる腕が、腹が立つほどにゆっくりとしか動いてくれない。
そんな貧弱になった左腕を岩に引っ掛ける。そこで初めて、左腕に矢が四本も刺さっていることに気付く。
『く、そ、根性、出せよ、俺の腕だろてめえ。このていどでへばるような、鍛え方、してねえぞ』
モルテンの発破がきいたのか、左腕はどうにか岩を抱えることに成功する。
そこでまた気付く。モルテンは、峰を落ちそうになっている。
モルテンの背筋が凍り付く。
『お、おい、待てよ。まだ、峰終わっちゃいねえんだ。これじゃ、ナギも、アキホも、通れねえじゃ、ねえか。おい、だめだだめだだめだ。まだ、ここじゃ落ちれねえ』
右腕は、左腕より反応が鈍くなっていた。こちらには左腕以上に矢が刺さっている。
左腕の側から敵が撃ってきていたのに、右腕の方が刺さった矢が多いとかどういうことだ、となんか妙に面白いと思えてしまった。
モルテンはにへらと笑いながら、動きににくい左腕と、もっと動かない右腕を伸ばして、這いずるように峰を進んでいく。
『あと、どれぐらいだ? 見えねえ。なんにも見えねえ。おい、ナギ、お前、見えてるか? 本当に見えてんのか?』
結局灯りが消えてしまい、モルテンの仕事は全て無駄だったのでは、と恐怖するモルテンであったが、ふと、思いついた。
『おお……そうだよ、頭、熱いじゃねえか……なら、火は燃えてるってことだ。は、はっははは、やっぱ俺、頭良いじゃねえか。……てめえ、ら。どうだ、俺ぁ、頭良いんだぜ。なあ、ナギよ、アキホよお、頭良い俺の、灯り。お前らにも、見えてんだろ……』
「よく、見えてるわよ、モルテン。後は、貴方に続けばいいだけ。簡単な、仕事よね」




