092.ドルトレヒトとの交渉
ドルトレヒト近郊に潜むことにした涼太たち一行は、街から少し離れた場所にある林の中に拠点を構える。
凪も秋穂も手慣れたもので、丸一日かけて林の中にちょっとした木の小屋を建ててしまう。雨風を凌ぐどころか、小屋の中で火を焚いても問題ない造りにしてあり、更に寝室を男女別に用意するほどの凝りようである。
新しい街に入る前にはこうして街の傍の林なりに拠点を作り、涼太がじっくりと街の中を遠目遠耳の術で調査してから乗り込むのが通例になっているので、その状況で如何に快適に過ごすかを凪と秋穂が追求したのである。基本諜報中の涼太以外は暇でもあるので。
また拠点から動かぬ涼太に代わって各種食料や日用雑貨を手に入れてくるのは凪と秋穂の役目だ。
フードで顔を隠し、声を出さずに品物を買う。こんな真似を上手くこなすために、二人は街の貧民を金で利用するなど状況に応じて色々な手を使う。
凪は笑いながら秋穂に言う。
「何処でも一緒ね。とりあえずお金さえあれば、大抵の問題は綺麗に解決してくれるわ」
「何処でもじゃないよ。貨幣経済が行き渡ってるのって都市部だけっぽいし。でも、農村部は農村部で今度は純朴な人多いから、交渉はそっちのがやりやすくはあるよね。農村部なら顔出ししても問題は起こるけど広がりはしないし」
私たちもこっちの世界に慣れてきたわねえ、としみじみ呟く凪に秋穂は苦笑する。
「私は時々ホームシックになるよ。こんなにも長い間家族の顔見てないの生まれて初めてかも」
「そうねえ。……実はちょっと私それ気にしてんのよ。私さ、あんまり、その、無理してでも帰りたいとか思えないし、ホームシックとか全然なってないから。私って自分で思ってる以上に冷たい人間なのかなーって」
「凪ちゃんはそんなこと考える暇がないぐらい今を堪能してるからでしょ。でもさ、凪ちゃんも自分の師匠に会いたいとは思わない?」
「思うっ! すっごい思う! こっちの世界のズルパワーで強くなった分はさておき、それ以外でも私絶対剣上手くなってるもの! お父さんとかおじさんにこれ見てほしい!」
「だよねー。私もおばあちゃんに見てほしいし、これでいいのか確認したい。もっとうまくやるやり方あるんじゃないかとか、見落としがあるんじゃないかとか、いっぱいおばあちゃんに聞きたいことある」
「うんうん。こうして親元離れてつくづく思うわよ。私って色々と見守ってもらってたんだなって。私が行き詰まるとすぐに声を掛けてくれたり、引っ掛かりそうなところの前には助言を先にしておいてくれたり。ホント敵わないなーって改めて思う」
「武術はともかく、今そうやってくれてるのって、涼太くんだよね」
「感謝しかないわよ涼太には。てか涼太ってアレ本当に同級? もうあれお父さんよね、絶対」
「そうそう、あの安心感は一家の大黒柱にしか出せないよ。実はもう結婚してて子供もいるって言われても頷いちゃいそう」
なんの気なしに、それこそ思いついた単語をそのまんま口にした秋穂だったが、一瞬、凪の反応が鈍ったことに気付いた。
不自然なんて言えないレベルの間であったが、武術家である秋穂が見落とすはずもない。
会話はそのまま続くが、秋穂は心の内で全く別のことを考えている。
『あ、あれ? 凪ちゃんそこで止まるの? それ、つまり……』
だがしかし、かくいう秋穂もまた自分で言っておきながらその発言に引っ掛かるものがあった。
これまで全く意識してこなかったわけではないが、そういうことを考えると関係性に問題が生じそうだとの理由から敢えて目を背けていた。
だが改めて考えてみると、秋穂が、凪が、涼太に対して思う所あるのも当然と言えば当然であろうと考え直す。
『今の環境で涼太くん意識しないのって、もうそーいう遺伝子が欠落してるとかいうレベルでしょ』
秋穂や凪のやりたいことを察してくれて、それをやりたいだけやらせてくれる。そうして問題が発生してもこれを次々と解決していき、それでもどうにもならないとなれば秋穂や凪が不満に思わないよう気を配りながら止めてくれる。
命懸けの戦場にも、人殺しの境地にも、この世の全てを敵に回すことすら厭わぬ自由の旅路にすら、共に歩んでくれる絶対の信頼を傾けて悔いのない相手。
これをすら好まぬというのならもう番の発見は諦めるべきだ。
そんな納得を得てなお、秋穂は涼太との関係性において恋愛に踏み込むのに躊躇する。
『だって、涼太くん。恋愛とかすっごい嫌いそうだし』
涼太のディオーナに対する態度は、個人としてならばそれほど悪いものでもなかった。相方の男に対してすら、馬鹿だ馬鹿だとは思ってはいるがそれなりに同情しているようにも見えた。
だが二人の恋愛関係を維持することには欠片も興味を示していない。いっそ冷徹と言ってもいいほどに。
そういうのを見てしまった身としては、躊躇せざるをえないのだ。
『どこかでそういう話を聞ける機会があればいいんだけどね』
下手を打ったら取り返しがつかない、そう思えてならない秋穂はいっそ臆病といえるほどに慎重である。
この辺は秋穂だけでなく凪も似たようなことを考えている。こういうところは、乙女らしいといえなくもないだろう。
恋愛感情がこれ以上大きくならないよう自制するなんて真似のできる女子高生に乙女らしい、なんて形容が相応しいかどうかはともかく。
涼太だけでなく凪も秋穂も、恋愛感情故なんていう言い訳のもと周囲に多大な迷惑をかけてまわるような連中を山ほど見てきている。
二人が慎重なのには、そういった理由もあるのだろう。
ドルトレヒト近郊に潜み情報収集した結果を、涼太は凪と秋穂と共有した。
その状況を凪は一言で言い表す。
「ぐっだぐだねえ」
「まあな。ただ、俺が思うにこれは得意不得意って話じゃないかなって」
「そうなの?」
「逆境が苦手なやつ、いるだろ」
「……そーいうのは指導者にそもそも向いてないと私は思うんだけど」
「逆境に強いか弱いかなんて実際に逆境ぶつけてみるまでわからんのだし、逆境に陥る前に問題を解決するような人間が上に立っているというのはそれはそれで納得のできる話だろ」
ドルトレヒトの街長はどうも情緒不安定になっているようだ。判断がころころ変わるので大きなことを何も決められないらしい。街長がこうだ、と指示した内容を、下の者は実行することができない。何せいつその指示が撤回されるかわかったものではないのだから。
ドルトレヒトを歓楽街として発展させようとした派閥のボスである街長は、これに反対した勢力の悉くを無力化しており、今更街長が頼れぬからと別勢力が台頭することもない。できない。
となれば同派閥内で話をまとめる必要があるのだが、オッテル騎士団の配下に加わり王都圏との交渉を行なうに当たり、権限は一つに集中しておくのが効率が良いからとそうしていたので、街長に続くナンバー2がおらず、街長をさしおいて前に出るような人間がいない。
その器ではない人間が、自身でそうと自覚しながらなんとかまとめようと動いているのが現状だ。
秋穂は思いつくがままに言う。
「じゃあその動いてる人の成長に期待するってのは?」
「その人もう引退間近のおじいさんだぞ。当人が言ってたが、知識の量も問題を解決する知恵も街長には全くかなわないんだそうだ。あるのは年の功だけなんだと。それでもそのじいさんが出張らないと話し合いの場すら立てられないから、どうにもしようがなくそうしてる」
そんな話をしながら三人は街道を歩いている。
朝っぱらから、凪も秋穂も顔を隠すこともなく。
普段はフードをかぶっている凪と秋穂も、今回はその必要がない。
人のいる場所で素顔を晒すのはそれこそリネスタードを出てからあまりしてこなかった行為であるが、旅の道中などは当たり前にそうしているので特に思う所もない、と涼太は思っていたのだが、人の見ているところでそうできるのはやはり凪にとっても秋穂にとっても開放感のあることのようで、そこそこ上機嫌な様子が見てとれた。
そしてドルトレヒトの街の入り口につく。
「ひっ! ひああああああああああ!?」
街中を逃げ回った凪の顔を見知っている門番の悲鳴があがる。
あれだけ街中を暴れ回った金髪はその後、ドルトレヒトが誇る精兵たちを木端微塵に蹴散らしたと聞いているのだ。ビビらないほうがおかしい。
それでも、門番のもう一人は付近を歩く民に避難を呼びかけつつ三人の前に立つ。
彼はアーレンバリ流の道場で訓練をしている男で、彼がそこで磨いていたのは剣術だけではなかった。
「何をしに来た!」
雄々しく怒鳴る。彼は道場で、勇気の示し方も学んでいたのだ。
顔を晒せる開放感と素晴らしい勇気とに機嫌を心地よく刺激された凪は、敵意の篭らぬ声で言う。
「街の長と話し合いに来たわ。取次ぎを、お願いしていい?」
彼は強く凪を睨む。
「話し合いだと!? この期に及んで何を寝ぼけたことを! 貴様等の無法は既に街の人間誰しもが知るところだぞ!」
「その無法とやらのどれもこれも、吹っ掛けられたケンカを買っただけの話よ。別に、街長に会うのにアンタたちの許可なんていらないし力ずくで通ってもいいんだけど、それじゃ、話し合いに来たって信じてもらえないでしょ? だからわざわざこうして正門から声をかけてるんじゃない。それにそもそも、アンタに交渉云々をどうこうする権限、ないでしょ?」
だからさっさと上の判断聞いてこい、と告げると彼も鼻白む。
彼は強気のまま言った。
「……私も子供の使いではない。お前たちの目的を言え。幾らなんでもこれだけの情報で敵対していた街の最高責任者との会談が成るとは思っておるまい」
「あ、そ、そう」(←思ってた)
「最低限、ドルトレヒト軍を撃退した理由、この街で貴族を殺した理由、そして先にも言ったがお前たちが会談を望む理由を言え」
涼太はぴんと来たのでここで口を挟む。どうもこの男にはエルフの話は伝わっていないようだ。
だが、この世界の平民には珍しい、きちんと道理の話ができるだけの知能を持った相手と思われた。
「お前さんたちには理解できんかもしれんがな。娼館で遊んでたらウチの二人に馬鹿貴族がちょっかいかけてきたんだよ。尻を触るていどなら鉄拳一つで我慢してやったかもしれないが、力ずくで攫うだのなんだのと言われたらそりゃ殺すしかなくなる。それを、アンタらが咎めたからこっちも咎め返した。それだけの話だ、俺たちにとっては。だから一応確認しておこうと思ってな。こっちの戦力を理解したうえでドルトレヒトがどう出るつもりなのか。心配しないでも話し合いにきたこの場で殺しをする気はないよ」
すぐ隣でぼそっと小声が。
「手首から先かな」
「私は顔の形が変わるぐらいで許したげるわよ」
聞こえなかったことにして涼太は門番をじっと見る。
門番も、偉そうに理由を言えだのなんだのと言ってはみたものの、コイツら相手に本来何かを要求できるような戦力がないことも理解はしているのだ。
「わかった、上に掛け合ってみよう。だが、許可が出ぬ限り街への立ち入りは認められないし、武装解除には応じてもらう」
くくく、と笑う凪。
「武器が有ろうが無かろうが、ドルトレヒトの防衛戦力皆殺しにできる事実に変わりはないわよ。意味のないこと言ってないでさっさと行ってらっしゃい」
渋い顔で門番は言い返す。
「それでも街への立ち入りは許可できん」
「ま、そのぐらいはいいわよ。ただ、あんまり待たせないでよね。昼前までにはお願い」
「要求は伝えておく」
待っている間、三人はそこらの木陰に腰掛け、涼太が勉強用にと用意しておいた本を三人で読んで時間を潰す。
門番の反応を見て、訝し気に秋穂は首をかしげている。
「ねえ涼太くん。ここってランドスカープの国内なのに随分と融通がきいちゃうんだね」
「基本的なルールは国内のどこでも一緒だ。けど、ルールを守らせるための戦力が足りてない場合ってのがそこそこの頻度で発生するんだよ。この街で死罪に相当する罪を犯したとして、この街の戦力でどうにもできない相手にルールを定めた王都圏から戦力が派遣されることは滅多にない。なら、それだけの戦力を向こうに回す危険性には、この街独自で対処してかなきゃならない。国が動くのは、納税を怠った時と座視できぬレベルで自身の権威が否定されたときだけだ」
「公共サービスの提供を怠っておいて納税?」
「上納金って言い方のほうが適切かもな。武力で制して国を広げ、攻め取った街に以後は金を払い続けろって話だ。わかりやすいだろ?」
「うわぁ……」
「公平な取引なんてものはありえない。お互いが納得を得るために公平っぽく見せることはあってもな。ま、揉めるたび剣振り回してたらどちらも損害が馬鹿にならんから、強い方も弱い方が我慢できる範囲の取引に収めるようにしてるみたいだけどな」
こういう話を好まない凪などは、静かに機嫌を悪くしていっているが、涼太は笑って続きを口にする。
「それにやられてる方もより弱いからそうしているだけで、自分たちが強く出られる相手には同じことしてるぞ。歓楽街構想ってなそういう話だろ」
ドルトレヒト周辺の都市で、有望な娼婦や有望な娼婦になれそうな人材は、ドルトレヒトに引き抜かれてしまっている。
娼婦の持ち主の意思に反した形であってもそうしているのだから、当然娼婦当人の意思なぞ一顧だにしないだろう。
より客足が増え、売上高もあがり、当然利益も増えるのだから歓迎している者も多いが、とても理不尽な形でワリを食う者もいるのである。
凪の機嫌が更に悪化しているのを見て、涼太は笑って言った。
「良い奴もいるし悪い奴もいる。何処も一緒だ」
「悪い奴が多すぎるのよ」
「それがこっちの世界のあり方ってやつなんだろ。郷に入ったんだからって話で納得はできんか?」
「何言ってんの。人を傷つけるな、人から奪うな、そんな話はそれこそ人が住む世界における紀元前からある不変のルールでしょ。私は、それを、守れって言ってるだけよ。それでも破るってんならこっちも相応に対処するわ」
少し考えたあと、涼太は両手を上にあげた。
「ごもっとも」
多数の物々しい出で立ちをした兵がぞろぞろと街の入り口から出てくる。
全員、とても緊張しているようだが、凪も秋穂もそれほど警戒はしなかった。あの兵たちから、これより攻め寄せるといった戦意を感じなかったせいだ。
数多の殺し合いを潜り抜けてきた結果凪も秋穂も、戦意なんて目に見えないものがわかるようになっていた。
涼太と凪と秋穂と、更にこれを案内する形になっている兵が一人。
これらをぐるりと取り囲む形で数十人の兵士が並んでいる。
中央の四人は特に気にした風もなくすたすたと道を歩いている。周囲の兵士たちは間違ってもこれに近づきすぎないようにしながら、遠まわしに包囲しつつこれに付き従っているのである。
涼太たちと共にいるもう一人の兵士は、門番であった彼だ。彼はとてもやるせない顔をしていた。
「……踏み込む勇気の持ち主以外で徒党を組んだところで、みっともないだけだから止めておけと言ったのだがな」
純粋に疑問に思ったことをそのまま口にする凪。
「なんでこんなことになったのよ」
「交渉前に武威を示せねばなめられる、だそうだ。こちらからも聞きたいことがあるんだがいいか?」
「ん? いいわよ」
「何故私の指示に従った? お前たちなら自身で口にした通り、抗議もなにも許さず力ずくでも街長と交渉してしまえただろうに。むしろそちらのほうがより有利な交渉結果が得られたはずだ」
「そのていどの有利不利、眼中にない。が答えかしらね。それにね、知ってる?」
「なにをだ?」
「なんでもかんでも力ずくって、本当はよくないのよ」
涼太と秋穂の表情が硬直したのは言いたいことをぐっと堪えたせいだろう。
兵士は、少し感心した風であった。
「そうか」
一行は街長の待つ建物へと辿り着く。
集まった兵は建物の周囲を取り囲むように配置され、建物の中にも随所に屈強な体躯を持つ兵が配されている。
そして会談場所である部屋に入ると、街長の左右に兵士がそれぞれ一人ずついる。これを見て、涼太たちを案内してきた門番の兵士が嘆息した。
街長は凪と秋穂を見るのはこれが初めてであるのか、大層驚いた顔をしていた。
「信じられん。これほどの美人があのような暴虐の徒であるなどと……」
涼太は色々と面倒な話を振られる前にさっさと本題に入る。
「で、早速話し合いに入りたいんだが、同席するのはこの人数でいいんだな?」
涼太は見ただけでわかるほどに若造である。凪や秋穂と比べれば輝かんばかりの容貌なんてものも持ち合わせてはいない、取り立てて目立たぬ男だ。
そんな小僧にタメ口をきかれて、街長は見るからに不機嫌そうな顔をするも、彼も自制はできるので余計なことは口にせず。
「ああ、そうだ。だが、その前に一つ、確かめたいことがあってな」
面倒そーだなー、といった顔を涼太もまた隠さず。
「何をだ?」
「本当に、お主たちがあのナギとアキホであるのか。あれほどの武勇を誇る者だとは到底思えぬ美しさではないか」
ぎょっとした顔の門番の兵士。街長がこの場に二人の兵を置いた理由を察したのだ。
「街長! 待ってください! それは……」
「あ? おい、貴様は私に意見を述べるような立場にないぞ。身の程を弁えろ馬鹿者が。まったく、これだから育ちの悪い連中は好かん。ああ、別に難しい話ではない。この二人はな、ドルトレヒトが誇る最強の戦士二人よ。これを相手に噂に名高きその武勇、見せていただこうと思ってな」
門番の兵士が真っ青な顔で涼太に目を向ける。が涼太は視線に気づいていながら無視して街長をまっすぐ見据える。
「……お互い、色々と揉め事があった同士だが、これはそういったものとは無関係に、だ。理由はどうあれ、剣を抜き、刃をこちらに向けるのならば、それは何よりも雄弁に殺意の証明になる。殺意を向けておいて、言葉でそれを取り繕えるとお前は本当に思っているのか?」
涼太の言い草を鼻で笑う街長。
「そう出し惜しむものでもあるまいよ。自身の目で見ねば信じぬなどという輩も世には多い、なあ、そちらの美女二人も、戦士の心得、機微を知る者であろう?」
「もちろん、指示を出した者も同罪だ。剣を抜いた奴と同じようにきちんと殺してやるよ。言っておくが、俺たちから頼むような筋のことでもないぞ、これは、だから、この先に踏み込むかどうかはお前が決めろ」
「ふん、この私に脅しときたか。小僧、後悔するな……」
そこで街長がぴたりと言葉を止めたのは、彼の両脇の戦士の様子が変化していることに気付いたからだ。
ドルトレヒトの街長は、決して無能ではないのだ。王都圏のみならずボロースともより深い繋がりを作りつつ安全保障を確保し、そのうえで新たな事業を起こし街の発展を促す。そういった企画を作り、数多の障害を乗り越え潜り抜けることのできる、優秀な男であるのだ。
だから気付けた。街長が最も頼りとする戦士の二人が二人共、これまで街長が見たこともない顔をしていることに。
そんな顔をすると街長は考えたこともない、そういった感情とは無縁であると信じていた、そう、二人は、怯えた顔を隠せずにいたのだ。
まさか、と思い街長は正面にいるもう一人の戦士、門番の男の顔を見る。
彼はさながら戦地のど真ん中にいるかのような殺気立った顔で街長を見ている。
周囲全てを見渡す。
他に特別問題のある要素は見当たらない。つまり、両脇の戦士の顔も、門番の男の顔も、今の街長と無礼な若造の会話によって生じたものであるということで。
まるで背筋全てが氷塊に変化したかのようだ。生まれてこの方味わったことのない強烈な悪寒が街長を襲う。
そう、本当にぎりっぎりで街長はそれが致命的な選択であると、気付くことができたのである。
街長には凪と秋穂の剣気を感じ取る素養はない。だが、それを感じ取れる人間を傍に置くことはできる。本来の目的は違ったが、それでも最後の最後でその安全装置は機能してくれたのだ。
「い、いや、そうだ、な。それを望まぬというのであれば無理強いするようなことでもない。さあ、椅子に掛けてくれ。話し合いを始めようじゃないか」
涼太は胡散臭げな顔でじっと街長を見る。
「こ、この二人はあくまで私の護衛だ。わ、私の立場上、そういった者を遠ざけることもで、できぬのでな。どうか理解してほしい」
「……まあ、いいけどね」
元より涼太も殺し合いにきたわけではない。
それが決裂を招く行為だと理解し思いとどまってくれたというのなら、それ以上追及するつもりはない。
死人が減るのは望ましいことで、コイツが馬鹿やらかした時死ぬのは間違いなくコイツだけでは済まないだろうから。
話し合いの結果涼太たちが得たものは、指名手配の解除、ドルトレヒトにおける行動の自由の保障、個人としては大きいが街との交渉結果としては些少としか言いようのない額の賠償金、サーレヨック砦への紹介状、である。
ドルトレヒト側は、オッテル騎士団もしくは王都圏の貴族たちよりの要請があった場合、涼太たちへの敵対行為をやむを得ないこととし、実際に損害を与えることさえしなければ敵対意思の表明までならば飲み込む、という言質を得たことか。
秋穂は街長を気に食わないと思ったらしく多少なりと不満げではあったが、異論を述べるほどでもなかったので黙っていた。
気に食わない、という理由でぶっ殺す選択をとる時もある涼太たち一行ではあるが、気に食わない全ての存在を消滅させて回るつもりもないのである。
後に涼太が、その後の街長と街の有力者との会合を盗み見たが、そこでは街長が絶好調に復活していた。
「これぞ交渉の妙というものよ。敵が強いからとただ膝を屈するのみでは利益は得られぬ。勝てぬまでも勇を示してこそ開ける道もあるのだ。わかるか? この私の交渉によりあの二人が我が軍に協力してくれるまでになったのだ。これよりの戦、最早勝利は疑いえぬ……」
涼太が気になったのは、調子を取り戻した街長ではなく、これを見守る街の有力者たちの目だ。
あれは絶対に同胞を見る目ではない。これまで盗み見てきた幾多の権力者たちが時折見せる、隠しきれぬ敵意の目であったと。




