081.貴族殺しの影響
「カスペルを殺った女がいる?」
アーレンバリ流という剣術流派は、ランドスカープの国で最も大きな流派の一つと言われている。
あまりに大きすぎて、本部が各支部道場の動きを把握しきれていなかったりもするのだが、アーレンバリ流の中で腕が立つと言われている者の情報はほとんどの道場で共有されている。
だからこそ、そんな人物が討ち取られたとなればその話は瞬く間に各道場に広がっていく。凪が盗賊砦で討ち取った、アーレンバリ流の恥晒し、女殺しのカスペルという男は、そんな有名人でもあったのだ。
「間違いねえ! 金の髪でどえらい美人! それでもってカスペルを討ち取るほどの剣士とくりゃあ奴で間違いねえさ!」
金色のナギ。リネスタードで随分と暴れたとの噂だ。
カスペルと同じ道場であったバートは、カスペルが死んだと聞いて詳しくその情報を集めたのでよく知っている。
剣術以外はどうにもならないクソ男だったが、剣術だけは、間違いなく天賦の才を持つ男だった。
「いるのか、このドルトレヒトに。よし、すぐ出るぞ、案内しろ」
バートの声に反応するかのように、奥の部屋から一人の大男がのそりと姿を現した。
「か、カスペルって言ったか? あのクズ、まだ生きて、いるのか?」
大男の形相たるや、一目見た子供が号泣しながら逃げ出すこと請け合いである。
「だーから、カスペルは死んだって言ったろ。カスペルを殺したやつが今この街にいるんだとよ」
「か、カスペルを、殺した? お、おおい、それ、はつまり、アーレンバリ流を殺したって、ことか? そ、そいつはどこだ。俺が殺す」
「あいっかわらず意味不明に理不尽な奴。まあ待ってろ、今そいつの顔を拝んでくる。お前は今日はゆっくり休んで明日の鍛錬に備えろよ」
「そ、そうか。バートがそう言うのなら、そうしよう。今日はもう、アーレンバリ流を、なめる奴はいないんだな?」
「おうよ。街は妙に賑やかだが、世の中は平和で長閑なもんだぜ」
バートの言葉に従って大男は部屋の奥へと戻っていった。
バートに報告にきた男が、本気で怯えた声を出す。
「バート、お前さ、よくもまあアレと話ができるよな」
「あれで案外気の良い男なんだぜ。アーレンバリ流で剣術を学んでそれなりの腕を持っている相手にならば、だが」
「……バートの言うそれなりって、とんでもねえ腕って意味じゃねえか……」
けらけらと笑いながらバートは部屋を出る。
宿の二階。廊下には外が見下ろせる窓がついていて、外の喧噪につられて窓から身を乗り出す。
そこに、金の髪が見えた。
駆ける後には金の胞子が零れて見える。きらきらと綺麗に輝くその髪には、バートがこれまで見たこともない美麗な容貌がついていた。
走る姿もまた美しい。
優れたものには、ただ優れているというだけでそこに美しさが内包されているもので。
その走る姿の美しさだけでも、彼女がいかに優れた身体能力を持つのかをバートに教えてくれる。
恐るべき速さで駆けていくため、姿をはっきりと見られたのはほんの一瞬だ。それでも、その一瞬でバートには十分だった。
隣の男がバートに問う。
「おい、どうしたバート」
「……………きれいだ」
「はあ!?」
「は? おい待て。もう一度言ってみろ」
オッテル騎士団正団員、レンナルトがそう問い返す。その報告の重大さに気付いているレンナルトの周囲の者は顔を青くしているが、報告者は全くそこに気付いていないらしく、レンナルトの問いに不思議そうな顔で答える。
「え? いや、木彫り職人の家が死体だらけだったって……」
「違う! その職人がどうしたのかって話だ!」
「ああ、そっちっすか。死体の中にもいなかったし、嫁さん共々行方をくらましたみたいだって」
「くらましたで済むか馬鹿! 大至急探し出せ!」
報告者が、え、俺が探すの? って顔をしている間に、レンナルトの傍にいた幾人かが大急ぎで走り出した。
木彫り職人の嫁こそが、人間とエルフの架け橋となるべく期待されているエルフ娘その人である。
その事実を知っている者は少なく、もちろん報告者もそれを知らない。
家の前に死体が転がっているのに驚いた人間が木彫り職人の家を見てみたら、中にはもっとたくさんの死体があったという話だ。
まさか、とその可能性にレンナルトが思い至った頃、事態の重大さを理解している人間がレンナルトの下に報告にきた。
木彫り職人もエルフの嫁もやはり行方不明とのことだ。
現在、街で暴れた二人の女を追うべく追撃隊を編成する、といった話であったのだが、これが完全に止まってしまっている。
レンナルトは突然激していた表情を消し、至極つまらなそうな顔で青ざめた顔の部下たちに指示を出し始める。
街の出入り口にいた人間に人の出入りを確認させること、例の二人が確かに街の外に出たのかの証言を集めること、整然と動ける兵のみを集めた精兵部隊を編成しすぐに出られるよう手配すること、また街にどれだけの被害が出たのか、娼館復旧の見込み等、細かいところまで指示を出した。
部下たちは焦り慌てながらではあったが、指示は適切なものであると思えたので言われるがままに動き出す。
レンナルトは、少し休むと言って誰もいない一室の中へ。
そこでどかりと椅子に座った後で、額を押さえて歯軋りをする。
『迂闊っ! 迂闊っ! なんたる迂闊! あの女二人! 真の狙いはエルフであったか! 貴族殺しすら囮に使うとは完全に見誤った!』
レンナルトは最悪を想定する。奪われたエルフがエルフの森付近で無残な遺体で発見されれば、もう二度とボロースとエルフの森との交易は望めまい。
それどころか激怒したエルフがボロースを襲う可能性すらありうる。
『ギュルディめ、リネスタードを掌握したとは聞いていたが早速動いてきたか。なるほど、ドルトレヒトで貴族を殺し、エルフを奪いエルフの森との関係を崩す、よい手だ。宣戦布告としては随分と上等な真似をしてくれるじゃないか』
金色のナギ、黒髪のアキオの二人はリネスタードから来たらしい、という話はレンナルトの耳にも入っている。
これら全てがギュルディの仕掛けならば、殺した貴族もギュルディが選んでそうした相手だろう。ならば王都の貴族は殺害に至るまでの事情なぞ無視し、ドルトレヒトに対する懲罰に動く。そこまで話をまとめておかなければ、通常は貴族殺しなぞそうそうできぬものだ。
顎に手を当て、じっくりと考え込むレンナルト。
『完全に後手に回っているか。ギュルディの仕掛けならば後手に回った以上、対処しきれぬも仕方がない、そう割り切るしかないな。とはいえ、あれの手駒としてのあの女二人、放置するのは危険すぎる。力の底を見たわけではないが、奴ら下手をすればボロース五剣とすら張り合えるかもしれん』
よし、とレンナルトは決断する。
ドルトレヒトでの貴族死亡への対応より、優先すべきはギュルディの手駒潰しだ。
「精兵部隊の編成を急がせろ! それと『アルベルティーナ』を呼べ! 私の名とその望みを叶えると伝えてやればすぐに飛んでくる!」
兵の編成担当はすぐに頷き駆け出していく。だが、『アルベルティーナ』を呼べと言われた者は、驚きに目を見開き足が止まってしまう。
「あ、あれらと、お知り合いだったのですか?」
「私に売り込みにきおった。はん、神秘だの秘術だのと言っておきながら、結局はそこに落ち着くものよ。いいか、決して下手に出るなよ。主はこちらだと確と思い知らせておけ」
「は、ははっ」
現在確認されている敵戦力は金黒の二人とチンピラを殺しエルフをさらった者のみ。これを相手に明らかな過剰戦力と思われたが、誰が見ても確実に勝てると思える戦力を手配すること自体に意味があるのだ。
兵の油断を招く部分もあるが、同時に決着がつく前から勝ち馬がどちらかを周囲に示すこともできる。これは行軍、諜報、調略、万事において優位に立てる極めて優れたカードとなる。
「アレらがボロース五剣に匹敵しようと、隠密に長けた部隊が展開されていようと、兵五百を揃えていればまとめて磨り潰せる。奴らに、この私のいる街を襲ったことを後悔させてやろう。ギュルディめ、貴様の好きにはさせんぞ」
ギュルディ・リードホルムは揺れる豪華な馬車の中で、対面に座る老商人と話をしている。
「ギュルディ様、王都の商人たちに随分と譲歩しているようでしたが、よろしかったので?」
「そう見えたか?」
「はい」
ギュルディは人の悪そうな顔で含み笑う。
「お前にそう見えたのなら成功だな。私の弱腰は上の貴族共にもすぐに伝わる。連中、ここぞと私の利権に食いついてくるぞ」
驚いた顔の老商人だ。
「王都の利権を手離すのですか?」
「人は渡さんし、代償はいただく。だが、もう王都圏で儲けようとは思っておらん」
「それはそれは……随分と思い切りましたな」
ぼやくように肩をすくめるギュルディ。
「単純に、こちらに回す金がないということでもある。人をかなりの数抜いてしまったからな、王都圏で商売するのも限界だろうし、これ以上貴族共の恨みを買うのも得策ではない」
「今更でしょうに」
「そう投げたものでもないぞ。リネスタード代官の件は宰相殿と話はついているし、工場持ちの貴族たちは私の王都圏撤退を知れば手のひらを返したように味方につくだろうさ」
老商人は呆れた顔で言う。
「貴族には面子もあるでしょうに、よくもまあ右から左と好きに操れるものですな」
「お前には気に食わんかもしれんが、貴族同士なら案外こんなものだぞ。相手がより高位の相手なら、問題になるのは面目ではなく利益だけだ」
「一度でいいですから、私もそんな台詞を吐いてみたいものです」
そういうわけだから、とギュルディは居住まいを正す。
「お前の息子にもその旨伝えてやってくれ。私は商売の主軸をリネスタードへ移す。お前たちがどうするかは任せる、と」
「そこは是非とも、黙ってついてこいと言ってほしかったですな。まあいいでしょう、この年になっての転居は骨ではありますが、なに、まだまだくたばるまでは時間はあるでしょう。お付き合いいたしますよ」
目を丸くするギュルディ。
「え、いやおい待て。お前は息子に家を譲って隠居するって話じゃなかったか?」
「ギュルディ様がこれから大勝負をしようというのに、おちおち隠居なぞしてられますか。というか、話を聞けば隠居してた他の連中も絶対顔出してきますぞ。こんな面白い話、見過ごせるわけがありませんでしょうに」
「勘弁してくれ。新進気鋭のリネスタードを老人会にするつもりか」
「はっはっは、その新進気鋭とかいう連中が我らより優れているというのであれば、笑って隠居してやりますがな」
ギュルディが抱えている人材は若く才気に富んだ者が多いと自負しているが、それでも、長年この世界で戦い凌ぎ続けてきた妖怪みたいなジジイ共に勝てるとも思えない。
「せめても手加減はしてやってくれよ。それと、面白い話になるのだけは保証しておいてやろう」
それは何より、と老商人は笑う。
話をしている間に馬車は目的地である今日の宿につく。
ここに入るなりギュルディと老商人は新たな報告を受けた。
「オッテル騎士団直下の街で王都の貴族が死んだ? ははっ、それはまた、面倒そうな話だな」
王都圏でならば即座に誰がどれだけ責任を負うかがはっきりするのだが、王都圏の外となるとこの線引きが難しかったりするのだ。
とはいえ、問題になるのはオッテル騎士団でありボロース領だ。ギュルディは痛くも痒くも無いどころか連中がひどい目に遭うというのなら望むところである。
「偶発的なものだとは思うが、一応背後は調べておけよ」
この時期、ボロースが望んで王都の貴族と揉めるとは思えない。
ギュルディとリネスタードが急激に力を伸ばしていることに連中も勘づいているはずだ。なら、きちんとこちらに力を向けているだろう。ボロース領主フレイズマルがそのていどもできぬ間抜けに成り下がったというのであれば、ギュルディは即座にこれに付け込むだけだ。
王都の貴族側はといえば、そもそも連中、辺境なぞには欠片の興味も無い。辺境が金になるのなら、辺境を治める者から金を奪うことを考えるのが王都の貴族という生き物だ。
「ま、面目のこともある。王都の貴族が満足するだけのモノを要求されるだろうな。さて、フレイズマルはまともに答えるかどうか……」
フレイズマルならば兵を出して踏み倒しにかかることも大いにありうる。その隙にリネスタードがちょっかい出すもよし、こちらに力をかけられぬのならここぞと街の成長に力を注ぐのもよし、だ。
「なんならこちらから騒ぎを大きくしてやってもいいな。おい、この事件の調査はかなり深くまで頼むぞ。事と次第によっては私も手を出すからな」
老商人と共に、実に愉快な話よ、と笑い合うギュルディ。
この一件、ボロース側は全てギュルディの仕込みだと信じているとギュルディが知るまで、後十日ほどである。
神岸彩乃は、五条理人の言葉に乗せられて学校を出たわけではない。あの時、あの場で、最も生存確率の高い選択であると判断したから従ったまでだ。
二年生の相談役のような立場にあった彩乃だが、自ら望んでそんな立場になったわけではないし、そもそも同級生たちに対し、高見雫がそうしているように責任を負うつもりなぞ欠片もなかった。
だから学校を出た後、五条からは二年生のまとめ役を期待され、一応それなりにまとめてはいたものの、そこに全力を注ぎこむつもりもなかった。
ただ、学年で一番と言われる美貌と、芸能事務所に所属し大人に混じって仕事をしていた経験から、それなり、ではあっても充分同級生からアドバンテージを取れるていどにはやれる彩乃だ。
彩乃の目から見ても、学校を出てからの五条は本当によくやっていると思う。
商人に裏切られていると知るや、即座に翻訳の魔術が使える魔術師を確保し、五条たちとは別行動をしていた彩乃たちのグループに密かに接触、商人と護衛の傭兵を出し抜き見事皆を連れて逃げおおせてみせた。
現地の協力者も確保していて、彼の案内で安全と思える場所まで逃げて逃げて逃げ通して、逃げた先でどうにかこうにか生活の基盤を作るまでしてみせたのだ。正直、彩乃にも五条がここまでやれる男だとは思っていなかった。
それでも、逃げた先の村で肉体労働をしながら彩乃は思うのだ。
『私は、こんなところで終わったりはしない、絶対に』
言葉も通じず常識もわからず、挙げ句魔法なんてものまである異世界に来てしまい、そこでこうして生きていける目途が立つだけでも凄いことだと彩乃も理解はしているが、それで満足するなぞまっぴらであった。
だから彩乃は、その訪れた好機を逃さなかった。
彩乃たちがいる村から三日ほど歩いた先にある大きな町に行く時、彩乃はこの世界でのし上がるための情報収集に努めた。彩乃たち女生徒は町では顔を隠せ、と現地協力者から注意されていたのでこれに従い、こつこつと情報収集したうえで、彩乃はこの世界で己がのし上がれる唯一の可能性を見つけた。
他所の大きな街から、高級娼婦の素材を探しに来たという男。彼を前に、彩乃は大博打をうった。
失敗すれば、考え得る最悪の状況にもなろう。いや、最悪の状況になったとしても、そこからだってのし上がってやる、と腹をくくったうえでの挑戦である。
「……信じられねえ……こんな、こんな女神との出会いがあるなんて……くそっ、くそっ、どうしたってんだチクショウ。涙が出てきやがった。おい、お前、本気で、ヤるつもりなんだよな。王都で、通用する女になるまで、俺についてくるつもり、あるんだよな」
彩乃は以後、自分はここ一番の引きでは絶対に当たりを引ける女だ、と自信を持って言えるようになった。
そして同時に彩乃は、五条たちのもとから単身、立ち去る道を選んだ。
源氏名リナ。神岸彩乃はこの世界で、娼婦としてのし上がる道を選んだのである。
ドルトレヒトで高級娼婦としての教育を受けていた神岸彩乃改めリナの部屋に、その日大いに焦った男が駆け込んできた。
「おいリナ。急いで支度しろ、街から逃げるぞ」
リナの耳にも入っている。コマンドーみたいな女が街で大暴れし、貴族を殺して逃げたという話が原因だという。
リナは物事の判断を他人に委ねることを嫌う。だから急ぎだとはわかっていても、男に事情の詳しい説明を請う。男もこれを、嫌がらずきちんと説明してくれた。
「ドルトレヒトの街の娼館業は終わりだ。いや産業全てが終わった。貴族が死んだんだぞ、当主は絶対に落とし前を要求する。その額は、こんな街じゃあ到底払いきれないようなものになる。リナ、お前はこの街の街長にとっちゃそれなりに高価な財産でしかない。街長が切羽詰まればお前は捨て値で売り捨てられる。そんなクソみたいな扱いで王都に行ってみろ、高級娼婦どころか人間扱いしてもらえるかさえわからねえよ」
「街の財産が勝手に逃げたらマズくない?」
「大いにマズイ。だから今だ。まだ街の連中はほとんど事態のヤバさに気付いてねえ。警戒の薄い今のうちに街を出る。逃げきれさえすりゃ次の拠点のアテはある。正直に言って、逃げきれるかどうかは賭けになるが、ここに残るよりゃ遥かにマシだ」
「……そう、なら、マレーネ婆に協力を頼みましょう」
「はあ? おいおい、アイツに言っちまったら意味ねえだろ」
「貴方の話の通りなら、街長、きっと私をその貴族に譲り渡すことになっても、マレーネ婆に金なんて絶対払わないでしょ。なら、私が逃げきって王都とのツテになったほうがずっとマレーネ婆の利益になると思うわよ」
「……むむ。むう、確かに、それは、そうかもしれねえな……お前の顔のヤバさ知ってる奴もほとんどいねえし、そっか、なら、あのごうつく婆なら乗ってくるな。奴が味方につけば逃げるのなんざどうとでもなる」
お前のツラのこと知ってるのは一人、二人、と指折り数えると、男はうんうんと頷く。
「おし、そのていどならマレーネ婆にも処理しきれる数だろ。俺ぁマレーネ婆に話通してくるから、お前は逃げる支度進めとけよ」
慌ただしく部屋を去る男。
リナはあの男を信頼している。王都一の娼婦を見出し育てるというあの男の夢に対する情熱を、信じているのだ。
男はいわゆるスカウトと呼ばれる仕事に近い仕事をしている。リナのいた世界のスカウトとは違って、一から十まで全部自身で手配しなければならないうえに娼館に相当なあがりを持っていかれるが、それでも、王都一の娼婦を見いだせたのならその利益は莫大なものとなろう。
そんな夢のような話を掴むため、時間を、手間を、これまでに積み上げていたコネやノウハウを、出し惜しむことなく全力で駆使し駆け抜けてくれる、そんな男であるとリナは信じているのだ。
リナも男も、機会と環境さえ与えられればリナは王都一の娼婦になれると信じている。
身支度を整えるリナの下に、再び男が戻ってくる。
「はっははは、リナの言う通りだったわ。マレーネ婆、驚くぐれぇ話が早かったぜ。馬車と人と速攻で用意してくれるそうだからさっさと出ていけだとよ」
どうやらリナが王都一の娼婦になれると信じてくれているのは、もう一人いたようだ。
リナは顔と首元に炭を塗りたくり、フードをかぶって部屋を出る。
馬車の傍には、見知った顔が待っていた。
「あら、貴女……いいの?」
片腕に包帯を巻いたあまり見目のよろしくない娼婦が、馬車の御者台に乗り込みながら言う。
「は、はい。その、私、残っていても、きっといじめ殺されるだけだってマレーネ婆が……」
貴族のお遊びで殺される予定だった少女だ。それが、貴族は殺されたのにこの少女は生きている。そしてそれが理由でドルトレヒトの街は未曽有の危機を迎えることになる。
理屈ではない。少女の立場は極めて弱いものであるのだから、ここに当たらずに済ませられるような大人は、こんな汚れた場所にそうそう落ちてはこないものだ。
男はその少女を見て訳知り顔で頷いた。
「なるほど、お前の顔なら門衛に娼婦じゃないって言ってもすぐに納得してもらえるわな」
ぽかりと男の頭をはたくリナ。
「そういう無神経なこと言わないの。ほら、急ぐんだから行くわよ」
ここまで順調にきていたのに、自身の力の全く及ばぬところから理不尽に危機を押し付けられたリナだ。
だが、望みを果たすというのは、成功するというのはそういうことだと、リナは向こうの世界の成功者、失敗者を数多見てきて知っている。
『私は、こんなところで躓いてらんないのよ! 絶対に、絶対に絶対に! この世界でも私は勝ち残ってみせる!』
合流した凪と秋穂の二人は、エルフ娘ディオーナにもその彼氏にも特に悪感情は持っていないので、この二人をどう扱うかはアルフォンスと涼太が好きにすればいい、と二人に関わろうとはしなかった。
ただ、凪は一応確認のためにディオーナと男に問う。
「で、逃げる気あるの? もし逃げるんなら馬車用意しないとだから早めに言ってよね」
ディオーナも男もそう問う凪の意図はわからなかったが、まさか皆が聞いている中で逃げるなんて言うつもりもなく、凪の言葉をきちんと否定した。
ひそひそと秋穂が涼太に言う。
「……あれ、両足へし折って馬車で運ぶって話だよね」
「骨折った状態で馬車の振動に耐えろって? アイツ時々鬼や悪魔でもしないよーなこと平気で言うよな」
「それでいて優しくしてるつもりなんだよねぇ、あれ」
「こらそこっ! 人の善意を悪く言わない! 紐つけて引きずってくよりずっと人道的でしょ!」
「「やっぱりそれ善意なんだ」」
腹を抱えて笑っているアルフォンスと、抱き合って震えるディオーナと男。
これに荷物を積んだ馬が二頭。これが一行の全てだ。
移動の最中、時々涼太一人だけが馬に乗って移動する。
ディオーナと男がいるのだから馬を駆けさせようという話ではない。単純に涼太が馬に乗る練習をしているだけだ。
「あ、アルフォンス、こんなもんか?」
「全然駄目だ。リョータは何度言ってもわからんなぁ。足を前に伸ばすなと言っているだろうが」
「そ、そうは言うがな。足をぴんと伸ばしてないと、危なっかしくって」
「そのほうがよほど危ない。いいから言われた場所に足を置いて、その状態で身体を崩さないよう練習しろ。それができねば走らせるなぞ到底できぬ話だ」
運動神経の化身である凪と秋穂の両名は、数時間の練習であっという間にコツを掴み、早足どころか走らせることもできるようになっている。
他者が乗るのを見ていたので、どうやるかはなんとなくわかってた、だそうだが涼太にはコイツらの頭の中がどうなっているか全く理解できない。
こっちにもきちんと鐙があってよかったね、と秋穂は涼太を慰めたものだが、アホみたいにがくんがくん揺れる馬の上で、それをありがたがる気に涼太はなれなかった。
凪が真面目顔で言う。
「涼太が馬使えるようになってくれれば、道中私たちも走れるようになるんだから、一刻も早く乗れるようになってよね」
鍛錬の一環として、旅の最中は涼太が馬に乗って駆け、凪と秋穂は走って移動することにしよう、となっているのだ。
アルフォンスなどは、それは良いと乗り気であるが、話を聞いたディオーナと男はなにを言っているのか理解できない、といった顔をしていた。
幸い、同行者のいる今回はそうするつもりはないので、この二人は生涯理解できぬままであろう。
追っ手がかかっているのは知っているだろうに、一行に緊張感なんてものはなく、実に長閑な旅であった。




