076.れっつびぎんざきりんぐたーいむ
「おお、おおおお、おおおおおおおおおっ! ほ、本当に凄いぞっ! なんたる美貌か! そ、それにその黒い髪はなんだ!? 黒か! その発想はなかったわ! 艶やかさが際立つ最高の色ではないか!」
おいおい、何が金髪だ、麗しくも斬新な黒髪ではないか、と彼は隣の若貴族に言うが、そう、もう一人いるのである。
なんの騒ぎよ、とこちらを向く金の髪を持つ美女。こちらもまた黒髪の彼女に勝るとも劣らぬ美しさを持つ。
若貴族はもう一人とは違う優雅な姿勢を崩さぬまま言う。
「失礼するよ、どうやらご同輩がこちらに来ていると聞いてね、是非一言挨拶をと参ったわけだ」
彼は優雅に家名を名乗り、自らの身分を明らかにする。若貴族ほどの立場の者にこれをされたのならば相手も応えぬわけにはいかぬ、それが貴族同士の礼儀というものだ。
だが、より近くにいる黒髪、柊秋穂は、彼らを完全に無視したうえで、事もあろうに隣の娼婦に声を掛ける。
「ねえ、これ、私たちが返事しなきゃダメなのかな。こういうの店のほうで対応するんじゃないの?」
真っ青になった娼婦が大慌てで口を開く。
「きっ、貴族様同士の話し合いに私たち平民が口を挟むことはできません。どうか、どうかご容赦を……」
場の雰囲気を崩さぬといった配慮すらできぬほどに怯えうろたえる彼女に、しかたがなく貴族と向き合う秋穂。
そんな秋穂に、若貴族は憐憫の表情を見せた。それは凪と秋穂に対する憐憫ではなく、こんな馬鹿娘を持ってしまった親たちへの哀れみである。
「ふむ、まだ教育半ばの子らによる火遊びか。これ以上家の名に傷をつけたくなくば、不用意な発言は控え、我が問いのみに答えよ。いまだ教育も終わらぬ半人前が、親の爵位のみで一人前の貴族を相手にできると思うなよ」
秋穂は、居丈高な彼の態度をくすりと笑う。
「答えられることとそうでないことがあるかな。言ってみれば」
家と名を言うよう告げる若貴族であったが、秋穂は凪と顔を見合わせ笑うのみ。さすがにこの態度には若貴族だけでなくもう一人も機嫌を損ねる。
「……どうもこの娘共、己の立場がわかっておらぬようだな。面倒ではあるが、ここは先達たる我等が一つ、貴族のあるべき姿を……」
くすくす笑いをやめぬまま、秋穂は彼らにこう告げた。
「家なんて聞かれてもねえ。私たちそもそも貴族なんかじゃないもの。ソルナの街から来た、へ、い、み、ん、よ。で、そちらは貴族様だっけ? こんな娼館で幾ら偉そうにふんぞりかえっても、威厳なんて出しようもないでしょうに」
貴族二人のみならず、共にあった娼婦たち全員も硬直する。
名を出した貴族を相手に、自身は貴族にあらずなんて断言してしまうなど正気の沙汰ではない。それは、貴族ではないとして扱われても文句は言わぬという意味でもある。
何度も首を横に振りながら、若貴族は深く深く嘆息した。
「度し難い馬鹿よな。おい、我らの従者たちを呼んでこい。この世間知らずに貴族のなんたるかを教えてやろうではないか」
突然、若貴族のすぐ脇から笑い声が聞こえる。
「けっひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ、若様、若殿様」
若貴族は驚いた顔であるが、いきなり自身の左隣に湧いて出てきたその人影に、驚いた顔のみで特にそれ以上の反応はせず答える。
「なんだ、影を付けてあったのか」
「けひゃひゃひゃひゃ、若様、御身は大事な婚姻を控える身でありますれば」
「ならばそのまま影に潜んでおればよいものを。……ああ、言わんでもいい、あの女で遊ばせろというのであろう?」
「ご名答。若様、こうまでの上玉を、独り占めとは意地が悪ぅございますぞ」
「お前のその女好きはどうにかならんものか。我らの後でならば好きにせよ。どの道、最早この女共は家になど帰さぬ」
荒事になる、そんな気配から娼婦たちが部屋の隅に逃げ、秋穂と凪は席を立つ。
その秋穂がにこにこしたままで問い掛ける。
「ねえ、そこの影とか言う人。もしかして、強い人なの?」
「もう何を言っても遅い。言の葉は口から出てしまえば取り返しがつかぬ。それを後悔と共に覚えておけい」
秋穂は若貴族の忠告なぞ放置で言いたいことを言う。
「じゃあ試すね。私その影クン蹴るから、頑張って避けてみよー」
「は?」
せーの、と合図まで出してやったうえで、秋穂は踏み込んでの前蹴りを叩き込む。
若貴族の斜め前に、突如秋穂の姿が現れる。そして少し遅れて、若貴族の後方より盛大な衝突音が。
一瞬で縮まった距離。秋穂は若貴族を下から覗き込むようにしながら言った。
「なんだ、かっこうつけて出てきた割に、全然弱いよ」
若貴族が驚き振り向くと、木の壁に頭から突き刺さった影の姿が見えた。
「きっ! 貴様!」
「で、どうしてくれるのかなー。私を? 家に帰さない? ん? それってもしかして、はんざいこーいの宣言ってやつかなー?」
煽るような秋穂の言葉に、若貴族は激昂しながらその襟首を掴む。いや、掴めない。
伸ばした腕の手首を取られ、一捻りで若貴族の身体が反対を向くほどに勢いよく回転し床へと叩き付けられる。
信じられぬ、といった顔のもう一人の貴族。
「な、なんということを!? 貴族に手を出せば貴様一人の咎では済まぬぞ!」
「そう、じゃあ、二人やったら、どうなっちゃうのかなー」
その貴族の横っ面を、秋穂的には加減して、貴族的には全身全霊女の力ではありえない強烈無比な一撃で、殴り倒す。
あまりの衝撃に貴族の全身は痙攣し、仰向けに倒れ身動きが取れなくなってしまっている。
娼婦たちの中でこの場でのリーダー格の者が、今この店で貴族が害された場合どうなるのかに遅ればせながら気付いた。
「おっ! お待ちください! お待ちくださいませ!」
滑り込むように貴族と秋穂の間にその身を割り込ませる。
「どうか! どうか怒りをお鎮めくださいませ! こちらのお方はれっきとした王都の貴族様でございます! 一時の感情で全てを台無しにしてはなりませぬ! どうか! どうかご寛恕を!」
娼婦は必死に叫び、これ以上の狼藉を防がんと頭を床にこすりつける。
その間に、呼ばれていた従者たちが不穏な気配を感じ取り部屋に駆け込んできた。そして、その惨状を見て唖然とする。
彼らが何をさておいても守らなければならない主が、一人は床に這いつくばって呻いており、もう一人にいたっては床に寝転がり中空を眺めながら痙攣しているではないか。
「わっ! 若様あああああああああ!」
倒れる二人をそれぞれの従者たちが抱え起こし無事を確かめる。そんな彼らに、秋穂は凪の真似をした小憎らしい顔で笑い言う。
「ねえ、ねえ。そこの頭の悪いのがケンカを売ってきたからとりあえず殴っといたんだけど、どっちも一発でそのザマなんだよね。どうする? 君たちが代わりに続きする?」
驚くべき美女であるし、珍しい真っ黒な髪の持ち主でもある。だが、そんなことは今の従者たちにとってはどうでもいい。
主家の若君をこんな目に遭わされて、黙っているようでは従者は務まらぬ。
「きっさまあああああ! 何処の何者かは知らんが生きてここを出られると思うなああああああ!」
そう言って従者たちの長が剣を抜いた。抜いて、しまったのだ。
あちゃー、と秋穂、あらあら、と凪。
より身分の高い者が低位の者に向けて剣を抜くなんてことはよくあることで。その延長でしかなかったのだろう、少なくとも従者たちにとっては。
剣で脅し叩き伏せ、意識のはっきりと戻った若君たちにこの二人の扱いを問う、そんなつもりだったのだろう。
だが、しかし、凪にとっても秋穂にとっても、剣を抜くというのはつまり、開戦の合図である。殺意の表明である。自らの命を賭け金に乗せた証である。
涼太曰くの殺人許可証、でもある。
従者たちの中で唯一剣の心得のあった者は、室内の大気の変化を感じ取った。
部屋中を無数に走る刃に一瞬で全身を細切れに刻まれる幻視をし、じわりと染み入る赤黒い死毒に全身を覆われる様を夢想し、そして知る。二匹の巨竜がこの小さな部屋の中にいることを。
「あ……あが……」
彼は従者たちの中で最も荒事に長けている者であり、こうした場面では真っ先に動くのだが、その彼がその場に立ちすくんだままピクリとも動かない。
それを訝しく思うも、従者たちがだからと止まる謂れはない。
殺しはしないが身体に無礼の代償を払わせてやる、と襲い掛かる従者たち。剣の心得のある者は咄嗟に言葉が口を出る。
「よせっ! 手を出すな!」
「無理よ、死ななきゃわからないわ」
凪は動かず。そう呟くのみ。
今回は秋穂のみが動いた。
先頭の男が振り下ろす剣を、より速く前に踏み込むことで間合いを殺し、振り下ろされる剣の柄を下から押し上げるようにしながら弾くと、いつのまにかその剣が秋穂の手の内に移っている。
その時点で、秋穂は剣を頭上に振り上げている形だ。後はこれを振り下ろすのみ。
胴正面を斜めに切り裂かれる様は、実はあまりお目にかかれる姿ではない。通常胴体前面は誰であろうと守ろうとするのだから。
そんな稀有な事象を技量の圧倒的な差にて現出する。
従者たちは、剣が真横に、水平になったのは見えた。その下で秋穂が色々動いた挙動は意味がわからなかったが。
その剣が真横に薙がれるまでの速さは、従者が剣を受けに回そうと力を込めるより速かった。
次は剣が逆を向く。水平真横ではあるが、剣の向きが反対になった。もちろんこちらも、剣を手にした秋穂がどう動いてこうなったのかはまるでわからない。
従者の長がそうしたように、すぐに剣を抜いた者たちは皆斬られた。
元々荒事向けでなく、剣を抜くのは他人の仕事と割り切っていた従者の一人と、怯えている心得のある者、そして壁に突き刺さっていたが、なんとかもがいて抜け出した影の三人のみが生存を許された。
荒事向けでない従者はもう、怯え震えて使い物にならない。そして影は、秋穂が従者を斬る動きを見て、先ほど食らった全く見えなかった前蹴りすら加減の産物であると知る。
なんとか床から立ち上がった貴族の傍へと走り、耳元で鋭く小声で注意する。
「若、絶対に起きないでください。目を合わせても駄目です。どんなに嬲られようと、決して抵抗の意思を見せてはなりません。アレは、いけません。アレは、何を持ってきたところでどうにもなりません」
影のこんな真剣な声、若貴族はこれまで聞いたことがない。
無言で頷き、言われるがままに床に伏せる。
そして影は更に驚愕することになる。こんな街に居る意味がまるでわからない怪物は、この黒髪だけではなかった。
「さ、て。私はどうしようかしらね」
ちらと娼婦たちを見る凪。彼女たちは恐ろしさのあまり言葉もなくその場で震えたままだ。だが、それでも、たった一人の娼婦が、先ほど秋穂と貴族の間に割って入った勇敢な娼婦が、怯え震えながらも立ち上がり、言葉をかけてきた。
「お、おそれながら。お客様方の、ご要望をお伺いしたく。いったい、何をお望みでこのような……」
敬意に値する使命感だ。彼女は、多数の死者が出ている中であっても、落としどころを探るつもりであったのだ。
凪はその娼婦をじっと見る。
「ねえ、貴族がわざわざここに来たってことは、殺してしまっても構わない娼婦を期待してのこと、って聞いたんだけど。それ、今何処にいるのかしら?」
娼婦の女は、これは絶対に口にできぬと口籠る。口にしてしまえば、もう一人の貴族もまた被害に遭うだろう。だが、それは娼婦ではなく影の口からもたらされた。
「若が遊んでいた部屋におる。そちらにいるもう一人と、遊んでいる最中であろうよ」
若貴族は必死に驚きを隠そうとした。何故仲間の貴族を売るような真似を、と考えたのだが、少し考えて影の思考を理解する。
標的は多いほうが生存確率は上がる。そんな判断を下した影に若貴族は戦慄した。
『そっ、そこまでせねばならぬほどの窮地かっ』
凪と秋穂が二人の貴族に同行を命じる。逆らうわけにもいかぬ二人は無言のままでこれに付き従う。影もまた。しかし、二人生き残った従者は、自身を指名されなかったと安堵しその場に残ったままであった。
影が内心で激昂するも、騒いでは女二人を刺激することになると我慢した。
『おのれっ! この時この場で怖じるか不忠者めが!』
若貴族でないほうの貴族は、若貴族に肩を借りて歩いている。彼はまだ足元が覚束ないのだ。
小声で若貴族は問う。
「大丈夫か? 身体はどうだ?」
「……す、すまん。吐き気がひどい、が、我慢はできる」
もっと何かを話したそうであったが、若貴族はそれ以上は会話を切る。何が連中の逆鱗に触れるかわからぬ以上、不用意な発言は避けるべきで、彼もまたそれを理解したので沈黙を続けることに。
また彼は影が仲間の貴族を売ったことに関しても、文句がないわけではないが理解はした。影は若貴族の郎党であるのだ。影にとって他の何を犠牲にしてでも守らなければならないのは若貴族であるのだから。
娼婦は案内を渋ったので、影が部屋の場所を説明した。
そして部屋の扉を開く。
「ん?」
そんな危機感の全く感じられない声と共に、三人目の貴族が部屋の入り口を見る。
部屋の中からはちょうど娼婦たちが一斉に掛け声をかけていたところだ。
「「「「「がーんばれっ、がーんばれっ」」」」」
満面の笑みで手を叩いている娼婦たちがいた。
そして、貴族に仰向けに組み伏せられ、片腕を別の娼婦に押さえ込まれ、両足もまた別の娼婦に、逆腕も更に別の娼婦に、完全に押さえつけられている娼婦がいた。
貴族は、身動きできず天井を見上げる娼婦の腕を、斬り落とさんと剣をのこぎりのように上下に動かしていた。
娼婦はそう命じられたのか悲鳴を必死に堪えている。それを残った娼婦たちが、声を出さないように頑張れ、と笑顔で応援していたのだ。
常の凪ならば、攻める気配を完全に殺し瞬間移動したかの如き接近を果たし得たのだろうが、瞬時に沸騰した頭でそれは無理があった。
他の娼婦には触れぬまま、貴族の顔面のみを器用に蹴り飛ばす。貴族の横顔に足裏の形がくっきりと残る蹴りだ。
ごろごろと部屋を転がっていく貴族の後をすたすたと追い、これの襟首を掴んで引きずり上げる。
「ねえ、コレ、もういいわよね?」
「相変わらず我慢弱いよねー」
「意志が弱いんじゃなくて、その意思がないだけよっ」
「はいはい、まーやっちゃってもいいんじゃない」
蹴り飛ばした後、貴族を追う途上で貴族が持っていた剣を拾ってあった凪は、秋穂の言葉のすぐ後にこれを振り下ろした。
斬り落とそうとしていた側の娼婦の腕と、同じ左腕が一瞬で千切れる。
すぱりと、断面図がはっきりと見えるほどの斬り方もできたが凪はそうはしなかった。娼婦にしようとしていたことと同じようにしてやりたかったのだろう。
激痛に悶え苦しむ貴族を、部屋の奥へと放り投げる。床を跳ねた瞬間、彼の腕から一際強く血が噴き出した。
「で、まだ押さえてるそこの連中。ソレ、見てると気分が悪いんだけど」
凪の忠告に、抑え込んでいた娼婦が慌てて飛びのく。腕から血を流す娼婦は、動けるようになるとすぐに傷口を自身の手で押さえ、痛みを堪えるようにその場に蹲る。
彼女の目には、押さえ込んでいた娼婦たちに対しても、直接危害を加えた貴族に対しても、恨みの色は見えなかった。
そんなあり方が悲しくて、凪は残る貴族に八つ当たりをする。
庇おうとする影を押しのけ、凪は若貴族の襟を掴み引き寄せる。
「ねえ、あれ、そんなに楽しいの?」
影が若貴族の視界に入る場所に移動し、凪に見えない位置から必死に首を横に振る。
その意を汲んだ若貴族は、凪の言葉をきちんと否定した。
「い、いや、私は、そんなに楽しいとは、思っていなかった。こ、この男も、だ。安い金で、良い女を抱けると聞いたので、ここに来たのだ」
返答を聞いた凪は、つまらなそうに若貴族を突き飛ばし手を離す。
秋穂は近くの娼婦に聞いている。
「あの娘の治療とか、できる人いるの?」
娼婦たち全員が、その娘よりも奥の貴族の治療をしたくて仕方がないのだが、秋穂はきちんと口に出し、あれは駄目だけど、とこれを否定する。
すると要領の良い娼婦が一人、なら私が連れていきます、と言い出した。娼婦全員の非難の視線がその娘に集まるも、彼女は青ざめた顔で祈るように秋穂を見ている。
上手く逃げ出したいだけ、という彼女の意図はわかる。そして秋穂は、これを言い出した彼女が凪が怪我人から離れるよう命じた後で、腕を怪我した娼婦を敵を見る目で見ていたことを覚えている。
「貴女は一人だけで、そっちの貴族を見てあげてて」
腕の千切れた貴族の治療をしてやれ、という意味である。彼女はそんな心得はないと言ったが、だからいいんだ、と返してやらせる。腕を怪我した娼婦は、気の毒そうにこれを見ていた娼婦に外に連れ出すよう命じた。
凪は建物の外壁に耳を当てている。そしてにたりと笑った。
「来たわよ」
壁の外からは、多数の人間が集まった喧噪が聞こえてきていた。




