064.先制反撃
裁判所で起こった大事件は、その日のうちにすぐさま馬鹿貴族の親のもとにも伝わった。
当主は当然大激怒。
関係した者全てを処断する勢いであったのだが、彼を説得するために当事者であり彼の弟でもある裁判長が説明に訪れた。
部屋の扉を閉ざし、二人だけの話し合いが行われたが、中からは当主の怒声が何度も聞こえてくるような激しい話し合いであった模様。
だが、裁判長は我慢強く説明を続け、敵の尋常ならざる戦闘力を、少なくとも裁判長の彼が把握した分は全て当主に伝えきった。
相手は、通りすがりに思いつきで踏み潰せるような虫ではなく、こちらに大いなる損失をもたらすことのできる敵である、と当主が認識さえしてくれれば、大事な息子のことであろうと当主が判断を誤ることはないと裁判長は兄である彼を信頼していた。
当主は弟の信頼に応え、少なくとも表面上は冷静さを取り戻す。無論、だからとこれを見過ごすといった話ではない。
話が終わると、裁判長は部屋を出る。すると、他人さまにとても見せられないような顔の義理の姉がそこにいた。
当主は今後の対応を協議するため、他の人間を呼び相談の最中で、彼女、つまり馬鹿貴族の母親の激情を引き受けられるのは、現在裁判長の彼しかいない。
ヒステリックに喚き叫ぶ彼女の相手をしながら、裁判長は頭の中だけで嘆息する。
『……どちらも、アレを甘やかしすぎた。この世に怒らせてはならん相手など幾らでもいるというのに』
もっと早くに王都にでも送り込み、向こうで貴族の厳しさを学ばせるべきであった、と裁判長は思うのだ。とはいえ、最も可愛がっている三男を手放すのをこの母が強硬に拒むであろうし、当主はそれに抗しきれまい。
さんざっぱら怒鳴り詰り泣きわめき、疲れ果てた義理の姉が退室した後、裁判長は一度当主の許に行き、どう動くつもりかの確認をしようと思った。
だが、その足が止まる。
その場でじっと止まったまま、険しい表情で考え込んだ後、裁判長は当主にはこれ以上顔を合わせず屋敷を出た。
それは虫の知らせだなんて曖昧なものではない。
裁判長は、ナギという女が仕掛けてきたことに関して、戦力がナギだけで仕掛けてきたとは思っていない。
であるのならこれは、下手をすれば一族全ての危機となりうるような事案ではないのかと懸念している。
裁判長の一族の当主は兄だが、有力者は裁判長を含め数名いる。それらが全滅することだけは絶対に避けなければならない。そんな思考は貴族ならば誰しもが持っているものだろう。
そしてこれは裁判長の感覚的なものではあるが、裁判長はあのナギという少女に恨まれてはいないと思われる。
感情的に問題がないのなら後は理屈を整えるだけだ。
裁判長は一時的に、当主から距離を置こうと決めた。
当主に対してもそのための理由はある。彼の息子、甥っ子を見殺しにしたいたたまれなさのため、とでも言えばいい。
屋敷を出る馬車の中で、裁判長はそんなことを考えていた。
走る馬車を、見定めている者がいるなどと夢にも思わず。
「あれは、どうするの?」
秋穂の声に、涼太は首を横に振る。
「ありゃ凪が言ってた裁判長だ。理性に則ってきちんと自分の身の安全を考えられる人間だと」
「あれ、私も不思議だったんだよね。凪ちゃんの理屈なら、凪ちゃんに隷属の判決を下そうとした当人ってことでしょ? ならどう見てもアウトだよねあの人も」
「凪も色々と理由を言ってたが、つまるところ凪がアイツを気に入ったってことなんだろうよ」
そんな馬鹿な、といった様子で眉のねじくれている秋穂の顔を見て、涼太は肩をすくめる。
「凪ってさ、警察とか検察とか、そういう治安側の人、結構好きだろ。そういう立場の人が、あくまでその職権の中で行なったことであるのなら、凪にとってそれは許せない行為ではないんだろうな。当人がその判決に従うかどうかはさておき」
秋穂は首を横に振る。全く理解できないといった顔であり、涼太も実は同感である。
とはいえ凪がそう言うのなら無理してどうこうしようとは思わないし、裁判所で暴れた凪に対し、あの場で凪に殺されないための選択を正しく選べた人間であるのなら、涼太もむしろ生かしておくべきではないかとも思うのだ。
「ま、とはいえ屋敷の連中はみんなアウトだけどな」
屋敷で当主が誰とどんな相談をしたのか、全て涼太の遠目遠耳の魔術により筒抜けであった。
秋穂は笑って言う。
「その魔術、つまらない下らない魔術だって言われてるってベネくんの言葉、ぜーったいになにかの間違いだよね」
「だよなぁ。待ちの姿勢でありながら先制攻撃ができるんだぜ、この魔術あれば。意味わかんねえぐらい強いだろコレ」
開戦の判断は、誰を殺すかの決断は難しいものだ。本当にその相手が殺さなければならないほどの敵なのかを判断するための情報なぞ、そう容易く集められるものではない。
それっぽいのは全部殺す、などと雑な真似をしたならば、誤殺の山から恐ろしい勢いで敵が増えていくことだろう。
本当に殺す必要のある相手を驚くべき速さと正確さで確認することができるのだから、この魔術は涼太たちにとっての生命線の一つだ。
「んじゃ、頼む秋穂」
「はいはーい、おっまかせー」
子供を殺され復讐を誓う。わかる話だ。
だが、その子供を殺す十分な理由が涼太たちにあって、そんな涼太たちの事情を一切斟酌せず一方的に殺しにかかるというのであれば、これに対する先制反撃をためらう理由は何処にもありはしない。
秋穂が単身屋敷に乗り込み、当主とその傍で凪を殺す企みをしていた者たちを次々と殺していく中、涼太は魔術でこれを確認しながら呟いた。
「貴族らしい態度ってやつなのかね、こういうの。自分は安全な場所にいて、相手はただ一方的に殺されるだけだって形。そうであることをまるで疑っていない態度が貴族らしいってやつなら、悪いがお前らじゃ俺たちには絶対勝てねえよ」
ちなみに凪はといえば、まだ動くはずがないという周囲全員の予想に応えるかのように、宿にて待機中である。
これを囮に、涼太と秋穂でさっさとこの揉め事に決着をつけるべく動いたという話だ。
あの馬鹿貴族が所属する権力集団の、最も高い位置にいるのが今秋穂が襲っている当主だ。これを正面より殺してしまうほどの戦力が涼太たちにあると知れれば、少なくともあの馬鹿貴族がやったような不用意なちょっかいをかけてくる馬鹿はいなくなるだろう。
涼太が指定した対象全てと、邪魔に入った者を殺しきった秋穂は、屋敷を出て涼太と合流する。
その疲れ切った顔は、戦闘による疲労ではあるまい。
二人で並んで歩きながら、秋穂はやるせない顔で語る。
「そのお母さんって人がね、ホント綺麗な人なんだけど、すっごかったんだよ。目の前で旦那と長男とを殺されればそりゃ発狂もするもんなんだろうけど、私相手にね、蝋燭の燭台もってつっこんでくるの。動きはもう素人どころか、燭台にすら振り回されるていどの腕力なんだけどその顔がね、あれ、一生夢に見そう。戦場では必死顔を随分と見たものだけど、ああいうのとは根本的に違うものだよ。鬼女なんて伝承は何処の国にでもあるものだけど、母親ってのがああいうものだっていうんなら、そりゃ何処でも伝承になるよ。いや、母親なら誰でもなれるってわけじゃないねアレ。当人にそういう素養ないと絶対無理。とりあえずウチのお母さんとかおばあちゃんじゃ絶対ありえない」
常になく饒舌なのは、よほどの驚きであったせいか。
「でも、ね。あれを単に母の愛っていうのは、私はちょっと違うと思う。子供のことだけを想って必死になっている母親っていうのとは、また少し違うものなんじゃないかなあ。てかそんな良いものだとは到底思えなかったよー」
涼太も魔術でこれを確認していたが、直接対峙していた秋穂はより強烈にその悪意を感じ取っていたのだろう。
冷静に見ることのできていた涼太にはわかった。あの夫人、燭台を秋穂に弾かれた時、それはそれは驚いた様子だった。あの態度から察するに、秋穂が夫人の意思に沿わぬ行動をとることが信じられなかったのだろう。
秋穂に斬られた時もまた、自分が死ぬということすら理解していなかったように見えた。死を迎えるその直前まで、秋穂を恨み呪っていて、そうしていれば秋穂は彼女の望む無残な死を遂げると心から信じているようであった。
『人間、あそこまで眼前の現実を無視できるものなのかね』
当主もその取り巻きたちも、秋穂が攻めてきたと知るや、襲撃者であり敵対者である秋穂を外道畜生と罵倒したのは馬鹿貴族母と一緒だったが、同時に己が不覚を自覚もしていたのだ。
だから必死に逃げようともしたし、間違っても秋穂が当主たちに手心を加えるなんてことを期待もしなかった。
この二人を足して二で割って、年齢分経験を不足させればあの馬鹿貴族になるというのなら、アレが二人の息子であるという事実も納得がいこうものだ。
そして今回、こういう動きをさせるに当たって涼太が懸念していたことを問う。
「で、どうだった? 殺し屋みたいな動きになったけど」
「んー、確かに戦争するのとは違う感じ。街でチンピラと戦ったのとも違う。でも、今回は特に、相手が私の感覚からすれば悪い人だったからかな、殺すことに抵抗らしい抵抗はなかったよ」
嫌な未来予想図を頭の奥底に封じ込め、涼太は心の底から祈るように告げる。
「願わくは、今後もこうであってほしいものだよ」
どれだけ必要性があろうとも、子供も含めた族滅なんて真似だけはせずにすましたい涼太だ。
実際に幾人もを手に掛けた涼太は思うのだ。自分のやっていることに、自分なりの正義がある、正しさがある、と信じられなければ、とてもではないが人を殺すなんて真似をそう何度も繰り返せるものではないと。
『ただ、凪と秋穂の様子を見るに戦場ではまた少し勝手が違うみたいだな』
とはいえ、そこに自身が踏み込めるとは思わない涼太だ。自分の分というものを弁えているのである。
オッテル騎士団の支部にて、オッテル騎士団正団員ヴェイセルは、その報告に言葉を失っていた。
せめても報告者は心得た者で淡々と事実だけを告げてくれたので、余計なことに気を回さずただひたすらにヘコむことができているのが救いだ。
報告全てを終えた報告者は、一度ヴェイセルの反応を待つ。
ヴェイセルは、情けない表情で報告者に問う。
「俺の判断ミスだと思うか?」
「判断を誤ったのはヴェイセル様だけではないでしょう」
「そうだよな、こんなもん読めるほうがどうかしてる。幾ら辺境だからって、ここまで思い切りの良い動き方する奴は見たことないぞ」
「ナギ一党が正門で揉め事を起こしたのはあくまで突発的な事故であった、という甘すぎる予測を立てていたのはヴェイセル様だけですけどね」
「言ーうーなー。あのナギってのに腹芸ができるとは思えなかったんだよ。となると絵を描いたのは残る二人のどちらかか。くっそ、連中とんでもなく段取りがいいぞ」
「ソルナの街の人間でアレに協力している者がいると考えるべきですが……」
「ああ。だが、そいつが誰だかが全く見当もつかない。この街のことなのに、俺の耳に一切入ってこないってのはちーとばかり普通じゃねえぞ」
「……協力者がいるということは他の陣営も考えているでしょうし、その場合協力者候補として最も有力なのはヴェイセル様ですよね」
「言ー! うー! なー! もしもの時のために保険かけといたのが裏目った!」
ソルナの貴族と揉めた時点で、凪たちにそれだけのことができるなにかがあると考えていた者は多く、そんな相手とのソルナの街側からの接点の一つになる、という目的でヴェイセルは凪たちと接触していた。
そしてそれを街の有力者たちに伝えてあったのだが、この際ヴェイセルが幾つかの情報をあちらに流した、と考えるのが、街にきて大して時間も経っていない凪たちが、それこそソルナの街の人間にすら難しい速さで動けた原因であろうという話には、十分な説得力があるだろう。
一般的にそれは、裏切りと呼ばれる行為に近いものだ。
かくして、ソルナの街で一番揉め事を嫌う、調整役の第一人者であるヴェイセルは今回の件で身動きが取れなくなってしまう。
ヴェイセルは全力で誤解を解きに動かねばならない。そしてこの間に、ソルナの街の血の気の多いのが動き出すのだ。
ワイアーム戦士団の槍使いは、拍手喝采雨霰、凪の所業によくぞやったと大声でこれを褒め称える。
裁判の結果次第で、貴族か凪かにちょっかいを出して金をせびろう、なんてことを考えていた槍使いは裁判の傍聴席に人を出しており、すぐにこの報せを知ることができた。
貴族が即座の報復に動くと踏み、これを監視させたところ、なんと貴族の本拠地も襲撃されてしまったと。
法や治安を盾に、なにかとワイアーム戦士団の暴力を掣肘してきた連中だ。これに対し良い感情なぞ持っていなかった槍使いの反応も当然であろう。
だがこの話を聞いた双剣使いは、それが引き起こす事態をこそ危惧する。
「……笑っている場合か。ソルナの街の治安悪化はこちらの望むところではない。無法者に裁判所をなめられたなんて話、他所の街に聞かれたらどうなる」
長剣使いはもとからそういう人間なのか、あまり危機感をいだいているようには見えない。
「腕ずくが通りやすくなると考えれば悪い変化ではあるまい。法で固められ商売で攻められたらウチはどうにもならんだろう」
「それをどうにかできるようになれ、というのがミーメさんが俺たちを各街に派遣している理由だろうが。治安の悪化はソルナの街全体の取引量低下に繋がる。そんなことは誰も望んじゃいないんだよ」
長剣使いは双剣使いの言うこともわからないでもないので素直にこれを認め黙った。
だが心の中ではまた別のことを考えていたりする。
『誰も望んでいないというわりに、オッテル騎士団も派遣組合もやる気満々に見えるんだがな』
槍使いが部下たちを集め大声で発破をかけている。
「いいか! この機を逃すんじゃねえぞ! ここで一気に動いてソルナで一番の戦闘集団が何処なのか、連中に教えてやるぞ! 俺たちはボロース最強のワイアーム戦士団だ! お前ら絶対なめられるんじゃねえぞ!」
額を押さえる双剣使いの姿が見えた。長剣使いはそんな彼を慮り、思いを口にすることはなかった。
『何処もかしこも元気なものだ。お前には悪いが、私は裁判経済で頭を捻っているよりこちらのほうがよほど好みだぞ』
派遣組合の組合長は、もう、とてもではないが人前に出せるような顔をしていなかった。
こんなにも怒ったこの男を見るのは、補佐の男も初めてだ。
「くそっ! くそっ! くそったれがあああああっ! なめやがって! ふざけんななめやがって! なめてくれやがったなド畜生があああああ!」
部屋の中でまともな形をしているのはもう補佐の男ぐらいのものだ。他は机から椅子から棚から壁から床、天井にまで穴が空いてひどい有様である。
ソルナの街で貴族に手を出すような馬鹿は、それこそオッテル騎士団やワイアーム戦士団すらやらなかったことだ。
当たり前だ。オッテル騎士団もワイアーム戦士団も、どちらも広義の意味では治安維持組織の一員であるのだから。そういった建前があり、これを表立って踏みにじるようなことは、この街の治安を任されている人間の顔に泥を塗る行為となる。
ソルナの街の治安を、表から支えるのが衛士たちと裁判所ならば、裏からこれを守るのは長くソルナの街に根を張ってきた派遣組合の誇るべき仕事であるのだ。
今回事件を起こした金髪のナギという女は、どう見てもまっとうな人間ではない。表社会から放り出された、世間の裏街道を行く組合長と同じ世界の人間だ。
そんな人間が動くというのなら、対応するのは衛士ではなくこの街を陰より支える派遣組合であり、組合長であるのだ。
そういった表社会に適応できぬ人間も、彼が睨みを利かせている限りソルナの街で馬鹿はやれない。そんな存在であろうとし続けてきた組合長にとって、今回の事件は到底許せるものではなかったのである。
「ぶっ殺してやる! ぶっ殺してやる! ぶっ殺してやる! ぶっ殺してやる! ぶっ殺してやる! ぶっ殺してやるぁああああああああああ!」
補佐の男も今回の件を聞いた時は、彼に負けず劣らずの怒りを感じていたと思っていたのだが、組合長のキレっぷりを延々見せられていたせいで、彼よりずっと先に冷静さを取り戻すことができた。
さんざっぱら暴れに暴れて部屋を半壊させた後で、ようやく動きを止めた組合長に、補佐の男は声を掛ける。
「今回ばっかりは俺も止めねえ。奴からはなにがなんでもケジメを取らなきゃならねえが、だが、だ、組合長。お前、わかってるか?」
「あ!? なにをだよ!」
「衛士の連中が揃いも揃って手も足も出なかったんだぞ。ベロニウス流の師範代もあの場に居たってのにだ。しかもだ、裁判所で好き放題やったナギってのと、館に乗り込んで片っ端から殺して回った奴は別人だ。あの館にも衛士は常駐してたはずだってのに、全員殺され、手傷一つ負わせることはできなかったって話だ。わかるか?」
「だからなんだってんだよ!」
「敵は滅茶苦茶つええって言ってんだよ。動きの速さから考えりゃ、ハナッからあの一族を狙ってたって考えるのが妥当だ。ってことはだ、やらかしてもそれに勝てる戦力を用意してきたってことだ。わかるか? 今、俺たちが、とりあえずで集められる人数集めて突っ込む程度で、どうこうなるような戦力のはずがねえって話だ」
親の仇を見るような目を向けてくる組合長に、内心結構ビビリながらも補佐は強く睨み返す。
「これ以上なめられるのだけは絶対に許せねえ。今回だけは採算もクソもねえ、絶対に負けようのねえありったけであのクソ共ぶっ潰す。さもなきゃ俺たちぁ、恥ずかしくってソルナの街歩けなくなっちまうぞ」
「おうよ! その通りだ! 全員集めろ! 他所の街に行ってる連中も全員だ! 絶対に逃げられねえよう追い詰めて! この世に生まれてきたこと後悔させてやる!」




