063.凪と裁判
裁判所の衛兵長を務める男は、上司から回されてきた命令書を読み終えると、不愉快そうにこれを机の上に投げ出した。
現在裁判所では、明らかに面倒そうな件が回ってきていると認識していたこともあり、衛兵長の傍に控えていた副長は衛兵長に問うた。
「何か厄介ごとですか」
「いいや。例の裁判、衛兵の数を三十に増やせとのお達しだ」
本来、裁判の最中に暴れるような馬鹿は、そもそも裁判に出廷が許されない。それが犯罪の容疑者であるのならば、裁判など行なわず書類のみの審査で裁判長が判決をくだして終わりだ。
にもかかわらず多数の衛兵が必要だというのはつまり、裁判に出ていいような人間ではない者が出廷するということで。
副長は嫌そうな顔で言った。
「やっぱり厄介ごとじゃないですか。衛兵三十人って魔獣でも出てくるんですか?」
「女だと。書類には書いてないが、オッテル騎士団のヴェイセルが口出してきたらしい。どうしてこう、この街のエライさんはどいつもこいつもアレには甘いんだか」
「金でも持ってるんでしょうよ。忌々しい話です」
衛兵長も全く同感であるが、上司が書類にしてまで出してきた指示書を無視するわけにもいかない。
この裁判の内容は衛兵長も把握している。
「門衛を殴った殴らないって話、か。しかもこの年の女がね。馬鹿馬鹿しい、どうせあの馬鹿息子が目を付けた女を合法的にモノにしようって話だろ。付き合ってられるか」
「親族は皆立派な方ですのに、どこからあんな馬鹿が生まれてきたんでしょうかね」
「立派。はっ、立派ときたか。知ってるか、あの一族が抱えている愛妾はみーんな裁判で引っ張ってきたんだとよ。その裁判とやらがまっとうなもんだったとは到底思えないね」
「裁判長もですか?」
「まさか。あの人だけは別さ。……だがな、あの人一人の考えで、全てを決められるなんてこともないんだろうよ。あー、嫌だ嫌だ。俺ぁこんな胸糞悪いことじゃなくて、もっと楽しいことして生きていたいんだよ」
「剣術とか?」
「そう、剣術とかだ。いっそ仕事ほっぽりだして、他所の街に武者修行にでも出ちまおうか」
衛兵長はこの街で一番大きな剣術道場の師範代であり、ソルナの街の最強戦士候補の一角である。
そこまで磨き上げたからこそ、裁判所の衛兵長なんていう待遇の良い仕事が回ってきてくれたのだ。
副長はとても良い笑顔で言った。
「じゃあその時は後釜に私を推薦していってくださいね。なんなら推薦は今すぐでもいいですよ」
「それやったらお前俺のこと追い出しにかかるだろーがっ」
涼太と凪と秋穂の三人は、リネスタードを出る前にランドスカープの国の法律を調べていた。
そして調べれば調べるほど湧き上がる疑問。
凪が額に皺を寄せながら言う。
「なんでこう、妙にふんわりした内容ばっかりなのよ」
人を殺すな、物を盗むな、そういった禁止事項はわかる。だがこれに対する捜査方法や有罪無罪の判別方法が、涼太たちの感覚からすれば雑としか言いようがない内容であったのだ。
こんなものどうとでも誤魔化す余地がある、或いは司法側がどうとでも有罪をでっちあげる余地がある、そんな内容ばかりであったことが不満なのだ。
だが少し考えると三人共が理解する。
犯罪者を捕まえるための技術が現代と比して著しく劣っているのだから、その劣った捜査能力を基準に法律を考えたのなら、そりゃふんわりともしてくるわという話で。
裁判も、どちらかといえば争いごとを調停するといった意味合いが強く、捜査当局によって罪を犯したことが立証されているのならば(その立証されたとする基準も涼太たちにはとても受け入れ難いものであるが)裁判にて判決を下すなんてことはせず、量刑に照らして裁判長が判を押すのみで罪状が確定する。
また捜査内容だけではなく、その人物が過去にどういった生き方をしてきたかも判決に大きな影響を与えており、そういった過去の事例が確認できない、すなわち余所者はその部分で大きな不利を背負わされる。
状況証拠のみで逮捕する場合もあれば、捜査担当者の勘に対して拷問の許可が出たりもする。
ならばなんでもありの無法地帯かと思いきや、民衆が大きな不満を溜めることのないよう、基本的に公平で公正な裁判であるよう統治者側はそれなりに配慮していたりもする。
秋穂は口をへの字に曲げて呟く。
「……なんか、もにょる。すっごく、もにょる」
「結局のところ、その地区の一番上がしっかりしてるかどうかが下のほうにまで影響してくるってことなんだろうな。実に中世らしいと思わないか?」
「自分がそれに巻き込まれてなければそー思えるかもしれないけどさー」
涼太は凪に話を振る。
「だそうだが、法律も知らんうちから好き放題してた凪の感想は?」
不満気に涼太を見返す凪。
「棘のある言い方するわねぇ……郷に入ったら郷に従うべきらしいんだけど、もし言われるがままに従ったら私、何もしてなくてもとんでもないことになるのよねぇ。どうにかなるのコレ?」
「どーにもならんな」
「どーにもならないねえ」
「でしょ」
どうにもならないから諦めて大人しく我慢して過ごす、なんて真似をするつもりは欠片もないのである。
不知火凪は、その人生において敵意を向けられることが多かった。
学生をやっていた頃から自身が刺々しくそこら中に敵意を振りまいていたのだから、当然相手からもそれを向けられることになるだろう。
だが、集団全てが凪の敵。そんな場所に真正面から乗り込んでいくのはやはり凪にとってもあまり好ましい行為ではなく。
『何度やっても慣れないわねコレ』
一々全ての敵意に反応してやりたくなる。それが許されるのならこの敵意の雨もまたアクセントの一つとして受け入れられるのかもしれないが、あいにくとコイツら全員今すぐ斬り殺すというわけにもいかない。
その敵意の理由の幾分かは、彼らを待たせたことによるものでもあろう。
聞こえてくるひそひそ声の中には、そういった声も多かった。
法廷は、凪が想像していた、テレビで見たことのある裁判所の中に似ていた。
中央正面に一番偉そうな人間がいる。彼が裁判長だろうし、その左右脇に並ぶ人間もまたそれなりに権限のある人間と思われる。
そして右側に若い貴族が何人かの人間を引き連れ集まっている。左側には見たことのない人間が並んでいるが、彼らは下調べした時にあった凪の世界でいうところの検察の人間であるのだろう。
『……検察と告発者とで左右の席を占めてるってどーいうことよ』
そもそも凪は弁護人を用意しておらず、弁護は自身で行わなければならない。そして後ろ側の席は全て傍聴席、見物人の席だ。これも満席状態で、街中が注目しているという噂は本当であったようだ。
凪の席はこの空間の中央、被告人席。
既にその時点で納得のいかない話であるが、それを職員君に言ってもしょうがないので黙っていた。
凪が被告席に立つと、裁判長が裁判開始の声を発した。
厳かで重みのある良い声だと、思えた。
『重みがあるのは声だけかっ』
検察、というか告発者である若い貴族の告発内容を精査する衛士は、そもそも彼らが暴行を受けたのが今回の告発の主因であるからして、告発者の主張その全てを堂々と通してきた。
これを聞いた裁判長は、利害関係者が訴えを精査するという洒落にならない行為にも一言のつっこみもなし。
衛士の調べが如何に正しいかを語らせるための質問を重ねていく。
凪はじーっと黙ったまま、裁判長や他発言者の表情を見ていた。
若い貴族はもう、自分が如何に理不尽な目に遭った被害者であるかを語りすぎて、本当にそうであったかのように自ら信じてしまっているようだ。
その馬鹿以外は、証言者も含めて皆概ね役割を演じることに徹しており、正にプロの姿であると言えよう。
裁判長は、途中で余計な口を挟めぬような話の持っていき方をしており、そういった手法は大したものだと素直に思える。
凪は、凪に不利な話がどれだけ積み上がろうとも一切動揺を表に出さぬまま。興味深げに発言者をじっと見つめ続ける。
下手なことを言うよりこちらのほうがよほど圧力になると思ったのだが敵もさるもの、凪が如何な態度を取ろうと一切ブレることなく議事を進行していく。
『あらら。もしかしてこのまま一回も発言させないで決着まで持ってくの? そういう徹底した態度って嫌いじゃないけど、観客はそういうの面白くないんじゃないかしら』
実際、傍聴席というか観客席からは野次のようなものまで飛んできている。
あの噂の美人の声を聴いてみたい、だそうだ。その後に下卑た冗談がついていなければ聞き流してやったのだが。殺しはしないが、後で殴るぐらいは許されるだろう、とちょっと思った凪である。
裁判長が凪に発言を許したのは、審議すべき全てを終えた後で、最早この後は判決を述べるだけ、といったところまで話が進んでからだ。
やはり一切の発言を許さぬというのは駄目なのだろう。だから、それ以外の全てを整えてから発言させるのだ。
『うんうん。一切油断しないその態度。言い草は腹立つなんてものじゃないけど、そういう姿勢は嫌いじゃないわね』
凪は、自身を有利にする云々といった部分ではなく単純に疑問に思った部分を聞くことにした。
「あー、そうね。私から幾つか聞きたいことがあるわ。まず、この街じゃ他人様の商業許可証盗んでも許されるの?」
確認のために預かるというのは妥当な行為だ、とのお返事。
「なら商人の前で確認すればいい。わざわざ建物の中に持っていく必要はなかったんじゃない?」
「確認のために、建物の中の書類と突き合わせる必要があるというのは妥当性のある理由だ」
「それは衛士の理屈よね。なんで商人側がそれに合わせてあげなきゃなんないのよ。商業許可証を理不尽に取り上げるような行為が犯罪であると規定されている以上、配慮すべきは商人ではなく衛士の側なんじゃない?」
裁判長の発言を待たず、若い貴族が声を張り上げる。
「それは今回の件とは関係ない! お前が衛士に暴行を振るったのが問題なんだろう! ついさっき! 入口で私に暴力を振るったことも忘れておらんぞ! その件も追及するからそのつもりでいろよ!」
凪はそちらを見て、嘲るように笑う。
「ああ、あーそうだったの。なるほど、貴方にはあれが暴行に見えたんだ。あっはははは、それでか。あのていどが暴行。あはははははは。貴方きっとあれよね、パパにも殴られたことないのーって口。生まれてこの方殴られたことなんて一度もありませーんって、それ男の子としてどーかなー。一度ぐらいはそういう経験しとかないと、ほら、今こうして恥ずかしい思いすることになっちゃうじゃない。ねえ、兵士さん。あれが暴行? あれが暴力? あれで怪我する馬鹿、この世に存在すると思う貴方? ああ、確かに、そこのおぼっちゃんならかすり傷でも大怪我だって喚き散らしそうかもしれないわね。それで貴族を名乗る、ねえ。いざという時頼れる貴族、誇りのために死をすら厭わぬ貴族。ねえ、そんなんで本当に貴方、貴族なの?」
一気にまくしたてると、そもそも凪のような容姿麗しき女性が、これまでほとんど言葉を発していなかった彼女が、こんなにも勢いよく話してきたことに皆驚き反応が遅れる。
裁判長は凪の挑発をよろしくないと思ったのか、即座に軌道修正を図る。すなわち、挑発発言を全て無視し、その前の質問に話を戻すだ。
「衛士は法律の運用を任されている。そのための手法は各街々に委任されており、あれはその範疇であった」
「そうね、そういう決まりよね。でもそれだと、商業許可証が疑わしかった場合、この街独自の対応です、って言って商人斬り殺してもいいって解釈もできちゃうわよ」
「常識的に考えて、ありえない話だ」
「その常識を誰が見てもわかるように規定するのが法律で、それを運用が難しいからと勝手に変えたら駄目じゃない。商人の目の前で商業許可証を確認する、それが行われてさえいれば法律違反にはならなかったし、勝手に持ち出して建物の中に入ってしまったらそれは、窃盗強盗と同じ行為とみなされても仕方ないんじゃないかしら、ねえ」
凪の言葉にも裁判長は微動だにしない。
「衛士の職務に改善の余地がある、という君の主張は聞いておこう。だが、衛士がこれまで行なってきた商業許可証の確認作業に大きな問題が発生していなかったのも確かだし、商業許可証は偽造の難しいもので建物内に持ち込めば即座に問題が起こるとする君の主張には根拠が薄いと考えざるをえない。もし建物内に持ち込んだ結果、許可証の改竄や損壊が発生していたのならそれは許されざる行為であるが、少なくともこのソルナの街の衛士がそういった行為を行なったという記録は私の知る限り存在しない」
表情からも、彼がなにを考えているのかは全く読めない。凪と彼とではもう、役者が違うというものだろう。
少なくとも凪の視点からは、彼の、裁判長の悪意は一切感じ取ることはできなかった。告発者が裁判長の甥であるという真っ黒な状況だろうと、話す内容の全てが凪の立場を悪くしていくものばかりであっても、裁判長は自らの立場の中でのみ発言し行動しほんの僅かも逸脱することはなかった。
『いやぁ、やっぱり異世界だろうと本職は違うわねえ。敵だから腹も立つんだけど、やっぱり優れたものを見られるのは嬉しさもあるのよね』
本気の法律議論とやらができればまた話は違うのかもしれないが、専門家じゃない凪ではまあこのていどであろう。
なので凪はまとめに入ることにした。
「それじゃ、総評を述べるわね」
彼女の言葉の意味を、理解できる者はこの法廷には存在しなかった。
「まずはそこの裁判長。貴方は自らの職責を守った。それを認めるわ」
凪が総評を始めてから、衛兵長が大きく音を立てて一歩を踏み出す。
「貴様!」
そんな彼を無視して凪は続ける。
「でもね、そっちの馬鹿貴族。ああ、貴方の名前憶えんのヤだから馬鹿貴族って呼ぶわね。貴方は駄目。貴方の言葉はどれもこれも、私を納得させるものじゃあなかったわ」
怒鳴った衛兵長はこの中で最も重要な人物、裁判長の前に掛け寄りその前に立つ。
「まあそれも当然なんだけどね。貴方、ただの一度も私を説得しようとしてなかったし。ねえ、私の視点から見て、貴方がどんな人間に見えたと思う? 嘘つきで、人を騙して、他人を誤魔化して、自分の都合を押し通そうとする傲慢なクソ野郎でしかないわよ。さて、それでは私の立場ってものを教えてあげましょー」
衛兵長は叫ぶ。
「お前たち! なにをぼさっとしている! その女は動くぞ! 護衛対象を守れ!」
凪は彼の言葉に不満気である。
「なによ、ちょっと隠してたもの見せたていどでそんなに騒ぐことないじゃない。というかコレがわかるんなら、今更って言葉も理解できるんじゃない?」
ここで凪は完全に自らの立ち方を隠すことをやめた。衛兵長以外、誰も理解できない。だが、衛兵長にはわかった。
今見たこの女の恐るべき戦士の気配は、それすらもほんの微かに漏れ出したていどのもので。こうして目の前に立つ金色の女は、衛兵長には全く理解できぬ頂に昇り詰めた武の聖であった。
実力差を理解するからこそ、この場で最も優れた兵士である彼は一切の身動きが取れなくなってしまった。
「私はね。私を殺そうとする者、私の尊厳を奪おうとする者を、決して許さない。そこの馬鹿貴族。貴方、私を、奴隷にしようとしたわね。それは私にとって決して許してはならない行為よ。もし考えるだけだったなら、不愉快だけど咎めたりはしない。でも、貴方は行動してしまった。なら、私は貴方を殺さなければならなくなったわ」
衛兵長以外の衛兵も、凪に威圧され身動きが取れない。実力が見えたでもないのだが、武の一欠けらでも経験素養があるのなら、今の全てを見せている凪に対し無反応ではいられない。
「ま、女の子を裸にひんむいて好き放題したところで、別に死ぬわけじゃないし、よっぽど運が悪いでもなきゃ減ったりもしないわ。慣れと組み合わせによってはそれほど不快ではないとも聞くし。人一人の命と天秤にかけるようなものじゃないって、そういう見方もあるわよね。反省させ、罪を償わせればいい、そういったやり方も悪いとは言わないわ」
凪の笑み。それを見ることができた法廷正面側、左右側の席の人間は皆、凪の脅威を理解していないながらにして恐怖に震えた。
「でも、私は殺すわ。そちらの道理も一応聞くだけは聞いてあげたし、それが納得のいくものなら手を引くつもりもあったのよ。賠償用のお金も用意してあるしね。けど馬鹿貴族、アンタはホントに馬鹿すぎたわ。馬鹿は馬鹿らしく、せいぜい馬鹿馬鹿しい死に方を晒しなさい」
凪の宣言に、衛兵たちは一斉に動く。
馬鹿貴族の護衛はもちろん、法廷を守るための衛兵も馬鹿貴族の前に立ったのである。
「うんうん、そうそう。そうでなきゃね」
そして、次の瞬間。ふらりと歩いた凪がその衛兵たちの間をすり抜けていった。
衛兵全員が反応できなかった。
見えはしたのだ。なのに衛兵たちの身体が反応してくれない。
ゆっくりに見える挙動にも、衛兵たちは微動だにできず。まるで金縛りのようなソレが解けたのは、凪が馬鹿貴族の襟首を掴みこれを引きずり始めてからようやくだ。
すぐ傍を通り抜けようというのだ。これに掴みかかって止めようとする衛兵たち。
だが誰一人、凪に触れることはできなかった。逆に、一人目はその場で前に一回宙返りを、二人目は真横に向かって身体を捻りながら跳び、三人目は片足を天高くに振り上げながらすっ転ぶ。
なにが起こったのかは全くわからないが、誰がこれをやったのかだけはわかる。
衛兵たちは迂闊に凪に近寄れなくなり、その間に凪は馬鹿貴族を引きずって裁判長の前に立つ。
裁判長の前には先ほどの衛兵長がいた。彼をどけるつもりはない凪は、そちらに向かって襟をつかんだまま馬鹿貴族の顔を突き出した。
「ほら、馬鹿貴族くん。末期の言葉を叔父さんに言ってあげなさいな。貴族らしく、最期の時にも周囲に迷惑のかからないよう、あと腐れなく、綺麗に死んでみせなさい」
馬鹿貴族は抵抗はしていた、ずっと。だが、凪の膂力と掴みながら抑え込むその技術により、完全に動きを封じられてしまっていた。
動きが取れないのがわかると、彼はせめても動く口を動かしはじめた。
「貴様! このような真似をしてただで済むと思うなよ! 貴様のような無頼漢なぞ……」
彼の言葉を遮るように裁判長が怒鳴る。
「馬鹿っ! よせっ!」
「うんうん、裁判長さん正解」
片腕で馬鹿貴族の襟元を掴んでいたのだからして、もう片方の腕は空いている。
こちらを、凪は素早く振り下ろした。
法廷中に悲鳴と絶叫が。
「痛いっ! 痛ええええええええええ! な、なにが起こった!? 痛い痛い痛い痛いいいいいいいいい! 誰かっ! 誰か助けて! 痛いよおおおおおおお!」
なにが起こったのかは、周りで見ていた観客が教えてくれた。
「う、腕が千切れちまった! 嘘だろ! 剣なんて見えなかったぞ! 素手でぶった斬ったってのか!?」
この言葉に馬鹿貴族は、自らの腕が失われたことに気付き、悲鳴と泣き言とを繰り返し喚き暴れる。
が、彼の苦痛による反射行動にすら凪は首元を掴んだ姿勢のまま動かず。その場で馬鹿貴族だけがじたじたと蠢き囀っていた。
凪は悲鳴を上げる彼に肩をすくめながら、相対している裁判長に問う。
「ねえ、この馬鹿に貴族の教育しなかったの? 幾らなんでも頭悪すぎないコイツ?」
「…………」
「この期に及んで隙を見せることはしない、か。色んな意味で大人よねぇ。ねえねえ叔父さん。これからこの馬鹿死ぬんだけど、最期に言っておくことない? せめてもそのぐらいはしてあげなさいよ。可愛い甥っ子でしょ?」
裁判長はこの一瞬だけ、表情を崩した。
目を伏せ、馬鹿貴族から目を逸らし呟く。
「……アレには、雄々しく立派であったとだけ、伝えておく」
無知故の蛮勇を勇気と称して語り聞かせる、という話だ。失笑ものであるが、彼の苦悩の表情に免じて凪は笑うのは勘弁してやることにした。
裁判長の言葉の意味は、馬鹿貴族には全く伝わっていなかったが。
「叔父上! はやくっ! はやくお助けください! 衛兵! なにをしている! 何故こんな奴に好き放題させているのだ! この! 私が襲われているのだぞ!」
それはね、と彼のすぐ後ろの凪が答えてやった。
「ここで、一番強いのが私だからよ」
この裁判において、惨劇を避ける手はただ一つ。
不知火凪を納得させることであった。
不知火凪に不利益を背負わせるに足るだけの、説得力がそこにあれば凪は従うつもりであったのだ。もちろん、判決により背負わされる不利益はその大半は莫大な金銭を代価に帳消しにしうると知った上での余裕であるが。
凪にとっては、それが懲役だろうと鞭打ちだろうと、この金を払うか払わないかだけの問題であったのだ。
とはいえ、凪の納得は凪の主観により判断されるものであり、その基準の大半は現代日本で形成されたものであることを考えるに、ソルナの街の裁判長にこの条件を満たさせようというのは実にわかりやすい無理ゲーであろうて。
凪は周囲を見渡す。誰一人、捕まった馬鹿貴族を助けに動く者はいない。
兵士以外も動くかと思っていた凪だったが、彼らの中に、馬鹿貴族を身内である、その痛みは自身の痛みであるという受け取り方をしている者は見られなかった。
思っていたより状況に余裕があるので、ほんの数言のみの叔父に代わり、凪は少し馬鹿貴族に話をしてやることにした。
「リネスタード商人に難癖をつけるって話。最初の出所は貴方じゃなかったかもしれない。でも、やったのは貴方なのよ。それに、その行動により貴方は利益を享受するつもりだったわよね。なら、失敗すれば損失を被るのも道理なのよ」
馬鹿貴族だけではない。凪は自らの考えを他の者たちに向けて語っていた。
「あの場で、私の力を察してた人もいたわ。警戒してた人も。ねえ、下手に手出しすべきではない、なんて言葉、言ってくれる人いなかったの?」
凪の声音は優し気なもので。だがその優しさが向けられた先は、もう寿命残り数分となった馬鹿貴族ではなく、これを聞いているソルナの街の住民たちに対してだ。
「挙げ句、法だかに則ってさえいればなにをしてもいいだなんて。そんな話がいつまでも通り続けると、本当に思っていたの? きっとみんなが貴方の馬鹿を許してくれてたのは、貴方が未熟な若造だったから、そして貴方の家族が優れた業績を残した方だったからよ」
けど、と逆説をもって話をしめる。
「私は貴方の馬鹿を許さない。私を家畜に貶めようとした報いを受けなさい」
ごきり、と首から音が鳴る。少しの間、馬鹿貴族が声もなく身悶えしたあと全身から力が抜けるのを確認した凪は、手を放し彼をその場に落とした。
「じゃ、私の用事も済んだし。帰る、けど、いいわよね。判決は、出るのかしら?」
やはり声色も顔色も変えぬまま、裁判長は告げる。
「狼藉者による妨害があった。現時点での裁判の進行は困難であると認める」
衛兵たちは動こうとしていた。それは使命感か、もしくは後ろめたさか。だが、彼らの動きを裁判長の前に立つ衛兵長が視線のみで制する。
彼の役目はすでに変化していた。
法廷を守る、から、法廷に集まった重要人物の生命を可能な限り守る、に。衛兵長は、法廷の権威が穢されることになろうとも最早指一本動かさないだろう。
そんな彼らに凪が向けた笑顔は、決して冷笑といった悪意を伴うものではなかったのだが、状況が状況なため、彼らは全員そうは受け取らなかった。
「そ、じゃ。また、会っちゃうようなことがないといいわね」
キレのある動きで身を翻すと、凪のトレードマークである二つの金の尻尾が綺麗に弧を描く。
颯爽と法廷を立ち去る凪の姿は、やらかしたことのひどさにまるで似つかわしくない、とても美しく凛々しいものであった。




