028.秋穂とアンドレアス
秋穂が喧嘩と言ったからというわけでもないだろうが、アンドレアスの初手は剣術でもなんでもない、椅子を掴んでぶん投げて、その間にテーブルの後ろに移動しつつこれを秋穂に向かって蹴り出すことであった。
飛んできた椅子に対し、秋穂は見せる意図でわざと難度の高い技を繰り出す。
椅子の角に片手で触れ、勢いよく真横に腕を引くと、椅子は空中で急角度に向きが変化し、直角に真横へと吹っ飛んでいった。
そして同じく滑りくる机の上に片腕を前に伸ばしつつ飛び込み、片腕のみを机につき、身体を縦に一回転させる。
片腕のみでそうしたのは、残る腕には抜いた剣を握っているからだ。
『さあ、どうする?』
机を飛び越え、秋穂はアンドレアスへと斬りかかる。
アンドレアス、頭上より襲い来る秋穂の剣を恐れず。逆に前へと踏み出してきた。
秋穂の剣がアンドレアスに触れる。これが斬る動きをする前にアンドレアスの頭突きが秋穂の鼻っ面に叩き込まれる。
空中から飛び掛かるように斬りかかった秋穂の顔に、アンドレアスの頭が叩き込まれたのだ。その勢いだけで秋穂の上半身は大きく後ろに跳ね飛ばされる。
うわぁ、といった顔をしたのはアンドレアスの配下たちだ。秋穂のとんでもない美形顔を平気な顔で狙ったアンドレアスの容赦のなさに驚いたのだ。
秋穂は後方に吹っ飛ばされるも、足から着地しそれ以上崩れる様子はない。アンドレアスもそれがわかっていたのか追撃はない。
「むー、ちょ、ちょっと調子に乗り過ぎたかも」
「……冗談、だろ?」
アンドレアスの肩口から、じわりと血が滲んできていた。剣が当たってから斬る猶予なんてほとんどなかったはずだ。
自分の鼻の下をごしごしとこすって、鼻血をふき取る秋穂。
「次はそういう無茶は控えたほうがいいかもね。もうコツは掴んだよ」
「親切過ぎてムカツクぜてめえ! 後その綺麗な顔に食らってもまるでビビってねえのは評価してやる!」
キミも大概親切だよ、と呟き苦笑すると、秋穂は今度は剣を持たぬ手を前にして半身になる。
半開きに構えた手の平。指をこきりと鳴らすと、アンドレアスはこの挑発に真っ向から乗ってくれた。
身体の予備動作から見えた。右から来る。
わかっていても、そのあまりの速度に秋穂の対応に余裕はない。
前に出した腕を上に上げながら半歩下がる。
動きが洗練されているでもない。鍛錬を積み重ねた技術でもない。優れた術理を備えているのですらない。
ただ純粋に、生物として速いのだ。
そして恐らく、この速さを地力のみで成し得るというのなら、剣戟の威力も比類なきものであろう。
『有名になるだけはあるってことかな。この速さに慣れるまで、私がもてばいいんだけど』
アンドレアスはまだ二十歳になったばかりだ。だが、潜り抜けてきた修羅場の数はリネスタードでも有数のもので。
乗り越えた死線の数だけでいうのならば、アンドレアスに匹敵するのはそれこそコンラードぐらいのものだ。もちろんシーラは例外である。
数多の敵と戦ってきたアンドレアスであったが、今回遭遇したこの黒髪の美少女はあまりにも異質すぎた。
『剣がっ! ぜんっぜん見えねえ!』
秋穂の動きが独特過ぎて、予測を基に対応することが困難である。だからアンドレアスは、その場その場で対応するしかない。
剣を振りかぶるといったわかりやすい予備動作は一切ない。手にした剣が、振るっている人物とは全く独立した思考の下、好き勝手に飛び回っているように見えてくる。
アンドレアスが剣を剣にて受け止める。そうできる一撃だった。
そこから、噛み合った剣の背を、女、秋穂が蹴り飛ばす。
そもそもからして、自分が振った剣を自分の足で蹴れるとか色々とおかしい。足の関節が柔らかすぎるし、威力のある剣撃と直後の重い蹴りを両立させてるとかいっそズルイの域だ。
そしてこの蹴りがまた厄介で。
蹴りによって剣がアンドレアスの剣を回り込んで滑り進む。その様は剣が曲がりうねる蛇になったかのようで。
『んにゃろっ!』
いつもならばここでやられる前にやれとばかりに剣がアンドレアスに触れる前に、敵を蹴るなりなんなりしているところだが、今回だけはそれは避けなければとアンドレアスの本能が言う。
剣が曲がって見えたのは幻視だと断じ、自らの剣に腕を押し当て強引に押し出す。曲がり伸びる剣は、この動きでどうにか伸びを止められた。
だが、蛇は二頭いた。
『蹴りもだとおおおおお!?』
右から剣を蹴っていたはずの蹴りが、目の前で見ても全く理解できない挙動で左からアンドレアスを襲う。
もうこれは下がるしかない。できない。
そして後退すれば敵は前へと進んでくる。態勢は当然アンドレアス不利。
一つ、二つ、三つ。
大層嫌らしい、小憎らしい、苛立たしい連撃だ。アンドレアスの視界を奪う高さに二つの剣を重ねておいて、剣を持たぬ手の先を狙って最後の一つを忍ばせる。
『っがああああ! 俺っ! 俺の手! まだあるか俺の手!?』
当人にも全く理解できない驚くほどの反射速度で、どうにかこうにかこれをかわす。
思わず目視で存在を確認する。それほどヤバイ一撃であった。
そしてその一瞬を、隙とみなしたとてできることなどたかが知れている。知れている、はずなのだ。
『消えた!?』
アンドレアスの視界から、完全に秋穂の姿が消えうせた。
ほんの一瞬、視界の隅に自身の左手を捉えただけ。視界の逆隅には秋穂を捉えていたというのに。
そんな僅かの間に、僅かな距離しか動けぬはずなのに、アンドレアスの視界から丸々存在全てが消えてなくなるなどと。
ざりっ、そんな音が下方から。
背筋と、ついでに脛に鳥肌が走る。
幸い軸足は後ろだ。前に置いた足を大きく引きながら剣を下段に払う。
何故そんな真似をしたのかも自分ではわからないが、それ以外下からの攻撃を遮る方法が思いつかなかった。
脛のすぐ前で、甲高い金属音が響く。振るった剣は弾かれ、アンドレアスの脛に強打が叩き込まれるも、どうにか痛いで済んだ。剣が無ければ痛いすら感じ得なかっただろう。
いったいどうやって、その答えはすぐに出た。
黒髪の女、柊秋穂は両足を大きく前後に広げ、地面にぺたりと座り込んでしまっている。その体勢から、上体を前に倒し片腕で握った剣を前へと伸ばしていた。
『そんな剣アリかよ!?』
敵の眼前で座ってしまうというのがまず信じられない。
だがそんなありえない、おっかない真似のせいで、アンドレアスは秋穂の姿を僅かの間完全に見失ってしまったのだ。
奇襲は防いだ、ならば敵の体勢の悪さから今度はこちらの番だ、などとアンドレアスは思わない。つくづく勘の良い男なのだ。
牽制のつもりで、伸びた秋穂の足先を狙って剣を払うと、気味の悪い挙動で足が引っ込む。前後に伸びていた足が閉じていくにつれ、沈んでいた身体も起き上がっていく。この挙動がありえないほど素早く行われ、あっという間に直立した元の姿勢へと。
『クソッタレ! 頭がどうにかなりそうだ! 俺ぁ本当に人間と斬り合ってんのか!?』
秋穂が、笑った。
それは見る者全てを蕩けさせる、城や国をすら傾けかねない天上の笑みであったが、対峙するアンドレアスにはわかっている。
あれは、好敵手を見つけた戦士の笑みだ。
秋穂は剣を逆手に持つ。
そのままで剣を薙ぐ。が、アンドレアスの眼前で剣はくるりと半回転。薙ぐのとはまた別種の軌跡を描いてくる。
受ければ弾かれる。避けるアンドレアスであったが、なんとこの剣、回転が止まらないままなのだ。
柄の部分に金属の輪でもついていて、ここに指を差し込み剣を回している、ならば理解はできる。だが見た目は普通の剣でありながら、切っ先が大きく前に後ろに右に左に、ぐるんぐるんと回っているのだ。
秋穂の手の内で風切り音を響かせながら高速で回転を続け、そのままに秋穂はアンドレアスに斬りかかる。
『大道芸かっつの!?』
だがその一閃一閃全てが致死の一撃。この芸のおひねりは自らの首とあらば、そう易々とこれを認めてやるわけにはいくまいて。
回転を続けることで、秋穂の手の内の剣の間合いは都度変化を続ける。このせいで切っ先やら軌道やらを見切ることが極めて困難に。
また剣だけでなく当人も回る。
回転は速さと威力を生み出す。ついでにこの時、剣だけでなく蹴りまで飛んでくる。
およそ剣のみでは決してありえぬ凄まじき連撃である。
攻撃は上下に綺麗に振り分けられており、例え一瞬たりとも気を抜く余裕はない。
そして気を抜かぬままに隙を突かれる。
上への剣閃を剣にて弾いた反動で僅かに重心が沈んだところに、間髪容れぬ下段への蹴りが入った。
『いってえええええ! おまっ! その足っ! 中に何入れてやがる! 金槌でぶん殴られたみてえに痛ぇええええええ!』
最もかわしにくい腿への一撃をアンドレアスは鍛えた筋肉にて弾き返したが、骨にまで響く衝撃にアンドレアスの全身が震えた。
それでも、それでも、だ。アンドレアスは続く剣の一撃だけは絶対にもらわない。
全く予測のつかぬ動きに翻弄されながらも、優先順位だけは決して見誤らず。
そんなアンドレアスを、秋穂は確実に追い込んでいった。
下段の蹴りは即効性のある攻撃ではない。だが、秋穂の下段蹴りを一度くらったら、二度食らいたいとは思うまい。
警戒すべき一撃である、と認識させられれば十分だ。
そういった優位を積み上げ続けているのだが、秋穂はこの敵、アンドレアスに対してそれだけで勝てるという気にはどうしてもなれない。
『はっ! やっ! すっ! ぎっ! るっ! なんで!? なんでこのタイミングでかわせるの!? 私もう絶対当たったと思って危うく身体流れちゃうところだったし! 明らかにっ! 予測できてないびっくり顔と体勢からでもっ! 当たり前にひらひらかわすのやーめーよーよっ!』
秋穂の常識では既に二度、決着の一撃を放っていたはずである。
なのに当たらない。しかも当たらない理由がわからない。何故かなんでか躱された、そう言うしかない不可思議回避を二度も食らっているのだ。
異世界にきてから秋穂が遭遇した強敵としてはエドガーがその筆頭であるが、エドガーはむしろ熟達した技術や老練な立ち回りを感じさせてくれる男だった。
そのうえで恐ろしく高い身体能力をぶん回してくるのだから秋穂も随分と苦戦したものだが、アンドレアスはエドガーのそういった技や経験といった部分全てを身体能力と反射神経に突っ込んだかのような男だ。
いや、それに加えてもう一つ。
『っぎゃー! ソレやめてって言ってるでしょおおおおお!』
秋穂の連撃にすら挟み込めるほど、予備動作もなく振りも速い縦一文字の斬撃。これだけはもう、エドガーどころか秋穂や凪にだって真似できないだろう、究極無比の必殺攻撃である。
初見の時かわせたのはきちんと秋穂が戦いやすいよう組み立てていたからで、むしろ追い詰め追い込んだことで、無理な体勢からコレを使わざるをえないようしむけた秋穂の勝利である。
だが、その後も一切気を抜けない。この一撃があるせいで秋穂の大振りな攻撃は全て封じられてしまった。
絶対的な一と、極めて応用範囲の広い反射能力の向上とこれに応えきれる身体作りに全てをつぎ込んだ、向こうの世界では絶対にありえない、同じ敵手とは二度と戦わぬ実戦のみを想定した剣士、それがアンドレアスなのだ。
二人の戦いは続く。
見ている者からすれば手に汗握る激闘であるし、当人たちにとっても一瞬の気の緩みも許されぬ戦場だ。
だが、秋穂は既に、勝利を確信していた。
『うん。技の差だね。このままじっくり積み重ねたら私が勝つ』
攻撃手段を絶対の一に大きく依存しているのだから、これを防ぐ手立てを用意されればもうアンドレアスの不利は覆しようもないのだ。
大振りはしない、虚をつく動きも無しだ。順当に、堅実に、秋穂の技術を丁寧に繰り返すことで、じわりじわりとアンドレアスの手筋を奪っていく。
アンドレアス側には、もう対抗手段が残されていない。少なくとも秋穂にはそう見える。だが、何故かアンドレアスに動きはない。
秋穂優勢がわかっていないわけでもないだろう。そんな間抜けな戦士では絶対にない。ならば何故。
警戒しながら、秋穂は攻め手を緩めて距離を取る。
そして問うた。
「どうして、何もしないの?」
秋穂もアンドレアスも呼吸は荒い。
アンドレアスは小首をかしげる。
「そりゃ逃げろってことか?」
「逃がさないけど、このままよりはそっちのほうがいいんじゃないかな」
うーむ、とアンドレアスは少し口籠る。
「そりゃ、おめえ、えーっと、なんで逃げないんだっけか俺?」
「いやそれ私が聞いてるんだよ」
「ああ、うん、言われてみりゃそうだな。いつもなら逃げてるところだコレ。なーんで俺、勝ちの目うっすいのに残ってんだろうな」
「だーかーらっ、ソレ私が聞いてるのっ」
「いやだっておめーよー、めんどくせえじゃん。逃げて、どうするってんだよ」
自分で口にして自分で納得したのか何度も頷くアンドレアス。
「ああ、ああ、そうだそうだ。めんどくせえんだよ、もう」
秋穂は口を尖らせる。
「何よそれー。私じゃそんなに不満なの?」
「いやいやいやいや、そいつは違うぜ。おめえは最高だ。おめえみたいな良い女、初めて見たぜ俺ぁ。エドガーとのことなんざほっといちまっても良かったってのによ、わざわざ俺の所来てくれるなんざ、お前良い奴すぎるって。そいつには俺も感謝してるさ、本気でな」
「じゃあなんでよ」
「あー、何つーか、上手く言えねえんだけどさ。お前は良い奴だし、良い戦士だ。だけどな、なんか……そう、エドガーはちっと、違かったんだわ。アレがいねえんじゃもう、俺ぁ何がなんでも殺したい奴なんていねーしよ。そう思ったらもう面倒くさくなってな」
緊迫した戦闘の最中でありながら、思わず呆れ顔になる秋穂だ。
「だったらなんで街であんなに暴れたのよ」
「はっはっは、なんでだろうな。やっぱムカついてたのかもな」
この男に言ってやりたい正論は山ほど頭に浮かんだが、秋穂はその全てを口にしなかった。
この男の暴走のせいで、リネスタードの街はとんでもないことになってしまっている。今回の騒ぎで犠牲になる人間の数は百人を超えるだろうというのがギュルディの推測だ。
だが、そんなこと、この男にとっては心底からどうでもいいのだろう。巻き込まれるのが敵であろうと味方であろうと、結果として誰が死んでしまおうと。
秋穂の視界の片隅には、アンドレアスの発言に動揺している下っ端たちと、全く動じずただ諦め顔の店番の男が見えた。
そっか、と秋穂は呟き、剣を構え直す。
「貴方は、絶対に殺しておかないと駄目な人なんだね」
「よく言われるよ。本当にそうできた奴は、きっとお前が最初で最後だ」
十歩の距離を一歩で埋める。
一瞬で飛びこんだ秋穂に対し、アンドレアスは堅実に受けるという選択を取らなかった。
秋穂が対応を間違える僅かな可能性に賭け、一発逆転狙いの剣閃を飛ばす。
アンドレアス必殺の一撃であったが、それは既に今日、六度も秋穂は見ていた。五回までは裏を取らせてもらえなかったのだが、今の間で出されたのなら秋穂ならばできる。
振り下ろされる剣の軌道から外れざまに一撃。
脇腹を深く抉り取られたアンドレアスは、何かを言おうとしてにやりと笑うが、言葉を発することもできずそのまま前のめりに倒れた。
アンドレアスの脇腹から零れ落ちているものを見れば、決着がついたのは誰の目にも明らかだ。
下っ端たちは皆激昂し、一斉に秋穂目掛けて突っ込もうとした。
アンドレアスはこの下っ端たちになんの感情も持ち合わせてはいなかったが、彼らにとってのアンドレアスは憧れの英雄そのものであったのだろう。
だが、彼らの暴走を店番の男の怒声が止めた。
「止まれ馬鹿野郎!」
そして続けざまに指示を出す。
「このクソ共絶対に生かして帰さねえ。下の連中呼んでこい! ついでに弓と槍持ってこさせろ! 残った連中は足止めだ! 急げ!」
店番の男の指示に、男たちは一斉にこれに従う。全員、怒りを堪えている様子はない。彼らは皆が皆、店番の男の指示通りにすれば仇が討てると信じているのだろう。
そして彼の判断は正しい。
現状、リネスタードの街で暴れまわっているのは商業組合の傭兵とブランドストレーム家のチンピラがほとんどで、鉱山街の連中は皆鉱山街に集まったまま動いていない。
商業組合とブランドストレーム家がおっぱじめてからかなり経つ。現在リネスタードの街で最も戦力を残しているのは鉱山街であろう。
その数の力ですり潰す。
アンドレアスを殺した信じられぬ化け物が相手ではあるが、やりようがないわけではない。店番の男はそう思っていたし、自信もあったのだ。




