247.案外気さくな災厄たち
黒い巨大な竜が、その地に横たわっている。
かつては多数の同種が共にあったが、今では、少なくともこの黒い竜の知る限りにおいては、彼以外に竜は存在しない。
故にか、黒い竜は自らに似た者を気にかけている。
黒い竜、ニーズヘッグと呼ばれる竜は、寝そべる大地から首を上へと伸ばす。
長い首が上へ上へとのぼっていくと、木々に遮られた更に先に、その者の姿を見つける。
『ヨルムンガンド、そろそろ起きろ』
ニーズヘッグの視線の先には、ニーズヘッグをすら凌駕するほどの巨大な蛇がとぐろを巻いていた。
ニーズヘッグの言葉にヨルムンガンドと呼ばれた蛇が身を震わせて応える。
目をぱちぱちと開き、舌をちろりと出しこちらを窺う姿は、相も変わらず愛嬌がある、とニーズヘッグは思った。
ヨルムンガンドはニーズヘッグほど頭はよろしくないが、ニーズヘッグの言葉は理解しているし指示にも従うのでお気に入りだ。
『とはいえ、近寄ることもままならぬ相手だが』
ヨルムンガンドの全身からは常に猛毒が噴き出しており、さしものニーズヘッグも長時間これの傍にあることはできない。
ニーズヘッグの視線の先、ヨルムンガンドの寝床には一切の草木が生えておらず、周辺の岩々はその猛毒の影響で変異し変色してしまっており、この毒が無機物にすら効果のあるものであると示している。
初めて出会った時、自身の毒がニーズヘッグにどれほどの苦痛を与えるかをヨルムンガンドに理解させるのに、ニーズヘッグは相当な苦労を強いられたものだ。
ヨルムンガンドの側からも、ニーズヘッグは似た種であると見えていたようで、びっくりするぐらい勢いよく懐かれていたのである。
そしてそんな二体を見て、腹を抱えて笑っていたアホ、もといクソ、もといロキ、を思い出すとニーズヘッグの眉根に皺が寄る。
『あの底意地の悪い男が姿を見せなくなって随分と経つ。実に良き気分だ』
ニーズヘッグがヨルムンガンドを起こしたのには理由がある。
ヨルムンガンドを避けニーズヘッグのねぐらへと至る道を、人間が数人でこちらに向かってくるのがわかったからだ。
ここでロキのことを思い出したのは、訪ねてきたのがロキであるなよ、というニーズヘッグの願望でもある。
果たして訪れたのはロキではなく、ニーズヘッグが唯一敬意を払う人間であるオージン王と、その連れであった。
『おお、オージン王ではないか』
ロキ以外で、ニーズヘッグが意思疎通が可能な数少ない人間がオージン王である。とはいえ立場のあるオージン王は滅多にニーズヘッグの下にきたりはしない。
なので機嫌のよくなったニーズヘッグが好意的な声を出すと、オージン王もにこやかに笑い返す。
竜と人とだ。お互いの体躯の差はそれこそまともな会話すら困難なほどであるが、どちらも心得たもので、オージン王も特に大きな声を出すし、ニーズヘッグの方も首を地面に沿わせるほどに低く落としている。
「すまんな、随分と間が空いた」
『今日はどうした。遂に王を辞めて暇にでもなったか?』
「いいや、そう簡単に辞められるようなものではないさ。ニーズヘッグ、君に白いアールブを倒してもらう時がきた」
ぴくりとニーズヘッグの眉根が動く。竜の表情の変化はおおむねこの眉根に出るものらしい。
『ほほう。では、遂に戦か。ようやく肌の白いアールブなんていう馬鹿話をこの目で確かめられるというわけか』
「お主、まだソレ信じておらなんだか」
『そうは言うがな。アールブの肌が白くなっては最早人間と区別がつかんだろう。私だってそうだ、この鱗が全て真っ白になると言われたらあまりの嫌悪に気が狂うぞ』
「そんな嫌悪すら乗り越えより深き魔術を手にしたのが白いアールブ、エルフだ。決して侮っていい相手ではないぞ」
『……まるで理解できん。できんが、オージン王がそこまで言うのであれば警戒は怠るまい。ヨルムンガンドの誘導は途中まで私がやる、でいいな』
「うむ、エルフとはまた別に、ヨルムンガンドでもなくばどうにもならぬ難敵がいるのだ」
『あの巨体と猛毒とが必要になるほどか?』
「ああ。何せ相手は動く城だからな。単純な大きさでいうのであれば、ヨルムンガンドですら全周を覆い締め上げることもできぬほどだ」
『うーむ、私の知らぬ間に、人の世とは随分と得体のしれぬものになっておるようだな』
「ナグルファルとクラーケンは見たことがあるだろう? ああいうのが敵にもあるというだけの話だ」
『……まだ実際に目にするまでは信じぬが。しかし、そうだな、オージン王のその言葉が真実であるというのなら、我が種が絶滅したのもあながち寿命のみが理由ではない、ということであろうか』
オージン王はニーズヘッグのこの言葉に、確たる返事をしなかった。
それをオージン王の配慮だと理解できるだけの知性をニーズヘッグは持ち合わせている。
『気にするな。これはこれで今の世を気に入ってもいるのだ、私はな。原初の予言を果たしたお前が、何に成り果ててしまうのかも楽しみにしておるのよ』
揶揄するようにそう言うニーズヘッグ。この言葉はオージン王の同行者には聞こえぬ、オージン王にのみ届く声で発せられていた。
「会話に飢えていたのだろうが、そういう遊びは控えてもらいたいものなのだがな」
『ぐはっはっはっはっは! すまんすまん! あの馬鹿者の悪癖が移ってしまったようだ!』
勢いよく笑い出したことでオージン王に強い呼気が吹き付けられるが、オージン王は微動だにせず。
「今回、アレは私が引き連れていくから、変な心配はせんでいいぞ」
『おおう! 何よりの報せよ! ならば後は任せておけい! すぐに出るか!?』
「うむ。必要なことは配下が以前に伝えた通りだ、今更細かいことは言わぬ。存分に暴れてくれい」
『おう! ヨルムンガンド! 出るぞ!』
横たえていた首を勢いよく振り上げ咆哮をあげると、ヨルムンガンドも首を真上に伸ばしてこれに応える。
オージン王が配下の者を守るべく魔術の障壁を張った直後、ニーズヘッグはその翼を羽ばたかせ空へと舞い上がる。
そしてもう一度、今度は声でもなく意味のある言葉でもなく、出陣の雄叫びを挙げると、大空を羽ばたき飛び去っていく。
大地にとぐろを巻いていたヨルムンガンドも、その巨体に似合わぬ俊敏な動きでしゅるりと滑り進む。
途上、木々であったり大地の凹凸であったりとその侵攻を妨げる障害があったが、ヨルムンガンドの巨体を押しとどめるほどの質量はありえず。
全てを薙ぎ払いまっすぐにニーズヘッグの後を追っていった。
オージン王の配下は、空を飛んだニーズヘッグではなく、地面を這い進んでいったヨルムンガンドの削り取った大地を嫌悪の表情で見ている。
そこにはまるでなめくじが這った後のような、しかしなめくじのソレのようなきらびやかなものではない、刺激臭を漂わせる毒液が撒き散らされている。
それら一帯は、最早まともな土地として活用ができなくなったとわかっているからこその嫌悪の表情であろう。
オージン王はそれを見て、笑い言った。
「アレが脅かすのは我が国土ではない。これほどの脅威が敵ではないことを、我らはまず喜ぶべきであろう」
女船長ヘルは、もう百年以上も変わらぬ美貌を憤怒に歪め、一般的な成人女性と比して首一つ分も小さい背丈をそびやかして怒鳴りつける。
「てっめええええええ! イェスタフ! 何度言わせりゃわかるのよ! 首を! 斬るなっつってんでしょいつもいつも!」
そう叫ぶヘルの足元に、イェスタフと呼ばれた大男が斬り飛ばした敵手の首が、ごろんごろんと転がってくる。
その顔はとても口惜しそうであり、ついでにヘルに向かって注文まで付けてきた。
「ヘル姐さん、急いで首くっつけてくれ。次こそはあのクソぶった斬ってやる」
「うっさい! アンタがイェスタフから一本取るなんて百に一つしかないでしょ!」
そのまま男の斬り飛ばされた頭を蹴り返すと、首を斬られた胴体の方が転がる頭を受け止め拾い上げ、自分の首のところに据える。
「これ、さあ、何度やっても慣れねえんだよなー。頭が落ちつかねーとなんか全身がぐらんぐらんしてくる気がしてさ」
彼の首を飛ばした大男イェスタフは、大剣を肩にかつぎながら答える。
「阿呆、そんなザマで首飛ばされた後、どうやって戦うんだよ」
「誰にだって苦手なもんはあらあ。ん? 次はオリヴェルか」
また別の男が剣を抜きながら前へと出ると、相対する形でイェスタフもまた剣を構える。
そこに女船長ヘルからの注文が入る。
「いい! 絶対に傷はつけないでよ! アンタらの取れた欠片くっつけるのぜーんぶアタシの仕事なんだからね!」
はいはい、とどちらも聞いているのだか聞いていないのだか、ぶっ殺す気満々で剣を振るいだす。
ここはアーサ国沿岸部にあるビスヴューという町だ。
周辺一帯は立ち入り禁止区域となっており、唯一この町へと至る街道には物々しい関所が建っており、陸伝いでは人が入れないようになっている。
海沿いであるからして、海岸沿いに北上する形でこの地域に足を踏み入れる者も稀にいるが、大抵そうした者はロクでもない目に遭って地元に逃げ帰るハメになるので、近隣の船乗りたちは決してこの地に近寄ろうとはしない。
ここは、女船長ヘルの領域だ。
アーサ国中から集められた勇士の死体をこの地に集め、史上最強と謳われた死人使いヘルの魔術により、彼らを蘇らせこの地でその時がくるまで武芸を鍛え続ける、そんな場所であった。
本来死人使いの術、死人繰りとは死体を術者が自在に操るものであり、死体はあくまで死体でしかなく意識がないのはもちろん自立すらできない。
だが、五十年前に死んだ百人殺しのイェスタフは、己の意識を持ったままあまつさえ言葉を発するなんて真似までしており、外見やその挙動は生前の姿そのものだ。
相対しているオリヴェルも、また周囲で鍛錬をしている他の者たちも皆、ヘルの死人繰りの術で蘇った者であるが、常の死人繰りとは違い、全員が自意識を持ち行動している。
「まったく、コイツらと来た日には、アタシの魔力が無限だとでも思ってるのかねえ」
ぶちぶち文句を言いながらも、首を斬られた男の首元に手を当て術を唱えると、見る間に傷が塞がっていき元通りの姿に戻った。
「ふいー、ようやく落ち着いた。なーヘルの姐さん。そろそろ戦が近いってな本当か?」
「んなわきゃないでしょ。アンタらどいつもこいつも、いーっつも同じようなことばっか聞いてきて飽きない?」
「いいかげん実戦してーっつーつつましい要望じゃねえか。どーせ敵はランドスカープだろ? あそこなら傭兵ですーって顔してさらっと混ざってりゃ誰にもバレやしねえって」
「で、今みたいに首斬られてアタシの術がランドスカープにバレるって? 馬鹿なこと言ってないで鍛錬続けるっ」
俺が連中に負けるわけねえじゃん、とか文句を言いながらも言われた通り鍛錬へと戻る。
ヘルはその小さな背丈に相応しい小さな歩幅で、ざしゅざしゅと砂浜を歩く。
日差しがほんのり暖かい季節だが、今のように日陰に入ってしまうと多少肌寒く感じる。鍛錬中の戦士たちはそういった感覚がないせいか、いつもヘル一人だけが気温変化に一喜一憂しなければならない。
「なんでアタシばっかこんな目に遭わなきゃならないのよっ」
戦士たちが暑い寒いを感じられないのはヘルの魔術が原因なのだが、日陰を進みながらそんな愚痴を漏らす。
歩数にして百歩以上を歩いてようやく、桟橋についた。
これは常の桟橋とは異なり、上へ上へと斜めにのぼっていく階段状のもので。
その先の船、そう、ここまでヘルが長く日陰を歩くハメになった原因でもある超巨大な建造物、巨船ナグルファルに乗り込むための桟橋である。
てっぺんを見るには首を痛いほど上に向けなければならないような巨大建造物にも、ヘルは特に気にした風もなく慣れた調子で階段をのぼり船内へと。
周囲に誰もいないのを見てとった後で、一人呟く。
「遂に、陛下から連絡きちゃったかー。今年で確か百二十一年目だったかな。思えば遠くへきたもんだってねー」
甲板の端から端まで歩くだけでも相当な苦労がある、そんな巨船だ。
ここを歩くヘルの感覚的には、この船の奥にまで行くのは、隣の町まで歩いて移動するのと大差ない。
なのでヘルは便利な道具を用意してある。
甲板に乗り込んで少し歩いた先には、ヘルが座るにちょうどよい大きさの椅子と、二体の血の気の失せた青白い肌色の横たわった死体がある。
そちらに術を一つ。二体の死体はヘルが座った椅子を軽々と持ち上げ、ヘルの指示するがままに移動を始めた。
真っ暗な船内に入っていくにあたって、松明に火を付けるのもこれを持つのも、ヘルの術で動く死体だ。死体といっても、ヘルの操作によりかなり俊敏に動くもので、同時に椅子に座るヘルがあまり揺れぬようにもするので、その挙動は少し人間のそれっぽくはなくなっている。
ヘルは死体に運ばれながら、船内各所を巡り、保管されている死体を見て回る。
「いっじょーなしっ、もんだいなっし、よろしいよろしい、元気な死体ちゃんですねーっと」
別に死体が元気に動き回っているわけではない。保管庫の中の死体の状態が良いというだけの話だ。
そんな死体たちがずらりと並び、各所に置かれたこれらを全て確認するヘル。総数なんと五千を超える。
これら死体が用いるための武具の保管庫を確認し、最後にこの船唯一の生者であるヘルのための生活必需品を確かめる。
「おさけよーっし、お菓子よーっし、クソマズくて食いたくないけど燻製肉もよーし、船上焚火セットよーし、着替え山盛りよーし、今年分の遺書もよーっし」
毎年始めに書き直している遺書を手に取るヘル。
「まー、これ渡したい相手もーみーんな死んじゃってるんだけどねー」
誰に渡すでもない遺書を、専用の箱にしまい直す。
最終確認を全て済ませると、ヘルは甲板に戻り、ナグルファルの舳先に立つ。
視線の彼方先で、海が動いているのがわかる。あそこに、このデカすぎてどうやっても砂浜から出すことすらできないような巨大船ナグルファルを、腕力というか脚力というかで引っ張って支え運んでくれる海の巨獣、クラーケンがいる。
船内の遺体五千と、オージン王が特に認めた死後も戦い磨き続けた勇士たち。
「百二十年、よくも集めに集めたりって感じね。これら全部が死人兵なんだから、ふつーどうやったって負けようがないんだけど、これでも足りないとオージン王は積み上げ続けてきたんでしょうに。はてさて、何だってまた急に動くことに決めたんだか」
独り言が多いのは、随分前からのヘルの悪癖だ。
精兵たちとは会話を交わすこともできるのだが、ヘルの意識としては彼らはやはり死人でしかなく、心の内を語り合う相手にはなりえない。
ヘルは独り言にて疑問を口にはするものの、その理由がどうあれ王の命令が出ればヘルに否やはない。
手持ちのありったけを振り絞ってランドスカープを死者の国に仕立て上げてやるだけだ。
死人繰りの秘術は、通常どれだけの術者であろうとも二十人三十人を操るのが限界とされる。
この数十人に、身体の各部位が千切れたならばそれぞれが別個に動く、なんて真似をさせられるのが死人繰りという術だ。
だが、死者の神ヘルの名を冠したこの女は、五千の死体全てを同時に操ることが可能だ。
オージン王に見出されたこの女が、何故、どうやってこんな桁違いな真似ができるのか、それは当人すらわかってはいない。ただ、そういう尋常ならざる能力を持つ、ということのみを周囲も当人も知っている。
原初の予言の一節にあった死者の神の記述から、この女が死者の神ヘルであるとオージン王が確信したのも無理からぬ。それほどの、途方もない異才であった。
「それじゃ、いっちょやったりますかー」
オージン王の勧めに従いこの道を選んだことを後悔した日もある。だが、今、こうして出航の時を迎えたヘルは、感慨深げに過去を振り返るのみ。そこに悔いも憂いも見られない。
託された使命を果たしうる、喜びの顔が見えるのみであった。
原初の予言に語られる最終戦争ラグナロクとはいかなるものか。
それは人の世の終わり、終末の日、或いは、神々の運命、である。
原初の予言には多数の神々の名が挙げられているが、彼らを撃ち滅ぼす者の名もまた記されている。
毒蛇ヨルムンガンド、死者の船ナグルファル、巨狼フェンリル、炎の魔人スルト。
予言においては、これらの者たちが様々な神々を滅ぼすとされている。
現在、アーサ国内にはオージン王の近縁の者たちを中心に、原初の予言に語られている神の名を冠する者が多数存在する。
ロキなぞもその一人であるが、もし、現段階で原初の予言が成就するのであれば、神を滅ぼす者たちが狙うのはランドスカープではなくアーサではないのか。
そういった疑問を持つ者はアーサ国内にはいない。
何故なら原初の予言を全て把握しているのは、たった一人オージン王のみであるのだから。
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