246.王の絶望
ギュルディは今こそが、人生における絶頂期であると確信していた。
幼少の頃よりの悲願、ゲイルロズ王を王の重責より解放する、を見事果たすことができたのだ。
また様々な条件が重なった結果、共に王を支えてきた朋友たちと共に、かつて何度も語り合ったように、貴族たちの意見に左右されぬ真に国の繁栄と発展を考えた国家運営を行なうことができている。
そして直前までは想像すらしていなかった、心の底から愛しいと思える相手との結婚だ。
だからと油断をしていたわけではない。
手抜きをしていたわけでもない。
もちろん、その可能性を考えていなかったわけでもない。
ただ、考えていたからといって、備えていたからといって、ソレがギュルディにとって余裕をもって対応できる事態になってくれはしないのだ。
エルフのイェルハルドは現在、ゲイルロズ先王にかけられている不老不死の魔術を調整する役目を仰せつかっている。
とはいえそちらはもう状態の観察のみといった感じだ。エルフのイェルハルドに人体の知識はさほどない。
人を不老不死にする魔術なのだ、魔術をいくら知っていたとしても人を知らぬイェルハルドでは手を出せない。
『さりとて、人の魔術師ではおはなしにならぬ、ときた』
イェルハルドが内心で愚痴るのも、これまで王の魔術を調整してきた、と言い張る魔術師たちをその目で見たからだ。
人体を知らぬイェルハルドにも即断できた。コイツら、この魔術がどのようなものかを全く理解していないと。
なのでその事実をギュルディに伝えてやると、即座に彼らは馘首になった。もちろん王都の為政者たちは蛮族ではないので、物理的に首になったわけではない。
そして彼らの代わりにイェルハルドがゲイルロズ先王の専属魔術師となったのだ。とはいえやっていることは、娯楽を理解できぬ王に四苦八苦しながらこれを教える仕事だ。
同じ役目に、昔から王の身近な世話役であった者と、優秀な事務員であったはずだが志願してこの役目を引き受けた王が引き取り育てた者がいる。
そしてもう一人。
「陛下っ! 今日という今日は納得させてみせますよ!」
「私は既に陛下ではないと何度言わせるつもりだ」
こんなやりとりももう何度目か。
ゲイルロズ先王を陛下なんて呼んでも誰も文句をつけられない人物、新王ギュルディである。
「私にとって陛下は陛下ただ一人なのでこれでいいのです」
「……政務を外れたギュルディはちょっとありえぬほどに愚かしい事を言う」
政務に時間が空けば、すぐこちらに飛んできて考えてあった様々な娯楽を王に試すのだ。
だがその日は少し様子が違った。
「ギュルディ、一つ、思い出したことがある」
そう言ってゲイルロズ先王が語ったのは、もういつの記憶かも定かではない昔の話だ。
「あれは、きっと私であったのだろう。近くの森に、同世代の者たちと入って、それを見つけた。手の平ほどの大きさの、白と桃色の花だ」
その時の気持ちを思い出したのか、ほのかに笑うゲイルロズ先王。
こんな微かな笑みを、ここ最近はよく見せてくれるようになった。
「これの花を根本から引っ張って、それで花弁の根本を口に当てて吸うと、とても甘い味がするのだ。これがな、本当に驚いてな。幾人かはこれを知っていて、それでいて教えてくれたのだよ」
そしてこれを知った翌日、ゲイルロズ先王はなんと自分一人だけでその花が咲く森の中に出掛け、見渡す限り全ての花の蜜を吸ってしまったらしい。
「もう途中から味には飽きがきてもいたのだが、それでも夢中になって吸って回っていてな。それで後になってそれがバレて、みんなにそれはそれはもうひどく怒られたものよ。だが、うむ、あれは、お主らのいう娯楽に近いかもしれんと思った」
即座に、ギュルディの目がきらりと光る。
もちろん他の者たちもだ。花の蜜を吸うことができる、そんな花の種類を特定し、先王の記憶にある花を探し出すと同時に、別種の花も同じく楽しめるというのであればこれも用意する。
ゲイルロズ先王は王となって長いし、魔術によって不老となってからはその性格すら変化してしまっており、とても自分のこととは思えぬ記憶は優先的に忘れていく傾向があった。
それでも、娯楽を追求する日々の中で、ようやく一つ、これを思い出せたのだ。
「お任せくださいませ陛下、私がその思い出を、最高の娯楽としておみせしましょう」
「いやお主は王の仕事に専念せよ。遊んどる暇はなかろうに」
「はっはっは、辺境をさすらう日々の中、私は部下に仕事を押し付ける術を学びましたからなっ。ご心配には及びませぬとも」
ギュルディと仲間たちはその日の内に計画を立てた。
城の中庭全てをいくら吸っても飽き足りぬほどの花で埋めてやろうと。中に外れを入れるのもいい、どれが当たりでどれが外れか、一緒に探すギュルディも知らぬままできるようにしよう。
推理するのもいい、運任せにするのもいい、虫が飛び出てきて驚き思わず口に手を当てるようなハメになってもいい。
いきなり王城の中庭の花全部がそんな理由で入れ替わったら、きっとそれだけで面白いだろう。
その日の晩、イェルハルドはベッドの脇で、ベッドに横になるゲイルロズ先王に問うた。
「そろそろか」
「……うむ」
先王は言葉を発するのも苦しそうで。
「たとえば。これまで王位にあることで意識を張り詰め続けることで健康を保ってきたものが、責任から解放されたことにより全てが弛緩し生命維持も困難になった、なんて話を、お主は信じるかの」
先王は首を横に振る。
イェルハルドは続ける。
「それは、あのはしゃぐ小僧に気を使ってのことか?」
先王はやはり首を横に振った。
「体調悪化と王位継承、ほぼ同時に起こったからこそこれを関連付けてはいるが、たった一例のみでそれを普遍の法則であるかの如く語るのはおかしい、そういうことかの」
ようやく先王は首を縦に振った。
「ま、わしも同感じゃ。じゃが、他の連中はそうは思わん。その辺は諦めろ。何、だからとそのていどでどうこうなるほどアレはヤワなガキじゃなかろうよ。人間らしくせっかちではあるが、我らエルフの目から見ても十分なほどに優れた為政者じゃて」
今度は満足気に先王は頷いた。
イェルハルドは、最初に会った頃と比べて多少なりと感情が見てとれるようになったゲイルロズを見て、少なくともこれに関しては王位を譲ったのが理由であろうな、と思う。
ふとイェルハルドは気付く。ゲイルロズの目の焦点が合っていない。
『そろそろか』
イェルハルドが同じ言葉を内心で繰り返したところで、唐突にゲイルロズ先王が声を発した。
「花の、蜜だ」
「なに?」
そう言って彼は、すらすらと言葉を発することに驚くイェルハルドを他所に語り出す。イェルハルドも知らぬ者の名を挙げ、その者たちが花の蜜を吸ったらどんな顔をするかを。
「ボルイェはきっと、私を前にしても堂々と野卑な味だと貶すだろう。カールは、あれは、私が勧めたのなら何でもうまいうまいと言いそうだな。エルランドは……」
ゲイルロズ先王が語っているのは、彼が育ててきた者たちだ。既に故人となっている者もいるし、引退し穏やかな余生を過ごしている者もいる、ギュルディのように追放された者もいる。
もちろん、今宮廷で働いている者も多数いる。
そんな彼らが花の蜜を吸っているところを想像しているのだろう。
それは、我が子を見守る親の顔であった。
話疲れたのか少し休んでいると、イェルハルドが問うた。
「お主も欲しくはないか?」
必要なら今すぐ取ってきてやる、といった意図の質問に、ゲイルロズ先王は笑って答える。
「私は、随分前に、それこそ怒られるほどいただいたよ。それとな、ギュルディだ。アレは辺境に行っておったから予測が難しいが、アレならばきっと……」
最後にギュルディが花の蜜を吸った時を想像しながら、ゲイルロズ先王の意識は混濁していく。
イェルハルドは魔術を使って人を呼ぶ。
延命に役立つ魔術を行使し、その命を繋ぎながら待つと、この部屋にたくさんの人間が駆けこんできた。
賑やかで、病人相手に何をしてると言いたくなるような騒ぎになり、それでもゲイルロズ先王は目を覚ますことはなく。
城にいるのならば駆けつけられる。そんな時間、命を繋いだ後で、イェルハルドはそっと延命の魔術を解いた。
その後で席を外したのは自身がその場に相応しくないと思ったのも確かだが、見ているのも辛い、と思ったのもまた確かであった。
アーサ国のオージン王のもとには可能な限り早く、ランドスカープ王都の情報が届けられる。
それでも結構な時間差になってしまうほどの距離が、アーサとランドスカープにはある。
そういった距離を一瞬で埋めうるのは、オージン王の同盟相手であるスヴァルトアールブたちだ。だが、彼らを使役することはオージン王にもできない。
協力者であるスラーインが個人的にオージン王に情報を提供する、といったていどだ。
『来る情報来る情報、どれもこれもロクでもないものばかり、ときた』
内心そう愚痴るオージン王だが、表立ってこれを口にすることはない。
様々な情報をオージン王にもたらすために、諜報員がどれだけの手間と苦労をかけているかを知ってるからだ。
オージン王の目的を考えれば、究極的にはランドスカープ国内がどうであろうと関係はない。
だがオージン王が目指す目標に至るまでに、ランドスカープがアーサ国内にちょっかいを出すようだと困るので、これを阻害してきた。
『ゲイルロズ王も、そしておそらくは新たなるギュルディ王も、アーサへの侵攻は割に合わぬと考えていよう。それでも、それは将来的にもそうあり続けるというわけではない』
そして、とても信じ難いことではあるが、現在のランドスカープの急激な成長を考えるに、割に合うようになるまでに必要な時間は、もう五十年もいらないだろうとオージン王は判断した。
ランドスカープの影響によりアーサ国内が、オージン王の望むほどの安定を得られなくなるのはもっと早いだろう。ハーニンゲが今まさに直面している危機は、将来のアーサの姿そのものである。
『愚かしいことではあるが、事ここに至ってようやくドルイドの予言の意味が私にも理解できた。そうだ、あの時、あの場所で、ギュルディの成長を止めるにはあそこが最善であった。雷神候補が失われたあの戦こそが、分水嶺であった』
その時、僅か三人で雷神候補の前に立ちふさがり、非常識なまでの武勇にてこれを打ち砕いた者、これを促した者こそが、オージン王の敵であるのだ。
一人はギュルディの傍で絶対の障壁として身辺に侍り、残る二人が予言を打ち砕くべく行動する。
予言とは全く関係ないと思われていたボロースでの活動は、その全てがエルフの信頼を勝ち取るためのもの。
これを基に、ランドスカープ王都へと勢力を伸ばし、オージン王が対応する暇すら与えず瞬く間に中枢を奪取する。
『我らに抗するため、国内を統一する障害となる教会を完膚なきまでに打ち砕き、そして今、アーサの総力を挙げたとて戦うことすらできぬほどにランドスカープは、いやさギュルディは力をつけた』
オージン王は、ギュルディ王ならばしばらくの間は国内生産力の向上に力を入れるだろう、と見ている。
その間は時間の猶予がある、という見方もある。だが、それは絶対のものではなく、何がしかで条件が折り合わず国内生産力の向上よりもアーサとの対外戦争の方がより経済的である、となれば、当然そちらに力を傾けるであろう。
何より、時間の経過は既にオージン王の味方ではなくなった。国内生産力の向上をされてしまっては、人口の差、国土面積の差、そういったものからアーサではランドスカープに絶対に追いつけなくなるだろうし、隣国との間で大きく経済力の差が生じたならそれはもう国家存亡の危機と同義であるとオージン王は理解している。
『それでも、こちらの予言成就を防いで回る者がいるということは知れた。ならばこちらは全力でその者を排除するのみ』
最早手段を選んでいる時ではない。スラーインに頼み、スヴァルトアールブによる暗殺を依頼するしかない。
スラーインは嫌がるだろうが、そこまでしなければこの劣勢を覆すことは難しいのだ。
そんなことを考えていたオージン王のもとに、スラーイン死亡の報せが届いたのだ。
オージン王の配下たちは、その報せを受けたオージン王が自室に篭ってしまったのを見て、常にないほどの危機感を持った。
その治世の長さは他に類をみないほどであるオージン王であるが、長年申し送りを繰り返してきたこれまでのオージン王の行動に、部屋に閉じ篭って出てこなくなったなんて話があったのは、治世の最初も最初、ほんの数年の間のみであった。
それ以後オージン王は、王としての役目を放棄することなぞただの一度たりとてなく、何時如何なる時であろうと王として振る舞い、王としての在り方を崩すようなことはなかった。
だがそこで、どうすればいいのかが配下たちにはわからない。
オージン王は優れた為政者であるからこそ、配下たちにその権限や仕事を任せる部分も多く、決して自分一人で何もかもをしようとはしなかった。たとえそうできるとしても。
だから統治が滞ることもないし、既に定めた方針に従って国家を運営するに不足もない。だが、方針変更や新たな方針の提示はオージン王でなければできない仕事なのだ。
そしてこれを代わる存在も作っていない。アーサ国もまたゲイルロズ王がそうしていたのと同じく、後継者を必要としてこなかったのだ。
混乱する側近たちを他所に、オージン王は自室にて、自身が受けた衝撃のあまりの大きさに、これを消化しきれずにいた。
『……スラーインが、スラーインが、死んだなどと……』
それでも鉄の理性を持つオージン王であるからして、時間と共に冷静さも戻ってきてくれる。だが、そうすると更にその奥にあった自身にも見えていなかったものが見えてくる。
『スラーインは、元より、私よりも先に死ぬ。そうであったはずだ。なのに何故、こうまでも衝撃を受けているのか』
オージン王の真の企みの先で、スラーインもまた死ぬはずであった。
なのに今、オージン王はかつてないほどに衝撃を受けてしまっている。そのことに、オージン王は驚いているのだ。
そしてこの驚きから立ち直れた先にもまだまだ受け入れなければならないことがある。
『予言を阻む者たちの力は、スヴァルトアールブをすら凌ぐものである、ということだ。これではスヴァルトアールブによる暗殺ですら通用しなかったであろう』
今のオージン王の手持ちの最大戦力こそが、スラーインであったのだ。これを用いるつもりなぞなかったが、期せずしてオージン王に最早打つ手はないことが証明されてしまった。
オージン王は部屋に篭り、心の内を吹き荒れる激情を収めきり、そうしてようやく冷静に物事を考えられるようになり、その先に転がっている結論を、スラーイン死去の報せが届いた直後に本来ならば気付いているべき事実に、ようやくたどり着けた。
『最早、手遅れであったな』
オージン王には、ゲイルロズ王とは全く違う理による不老の力があった。
だから、どんなに不利でどんなに力の差があろうとも、この不老の力を維持できる限り、いつかはオージン王が勝利を得られるはずであった。
だがこの不老の源であるアーサ国を失えば、オージン王は己の望みを果たすことができなくなる。
そして今、アーサ国が失われる未来が確定した。
オージン王は長く人の世を生き、王位という人の世における最も大きな仕事をこなし続けてきた。
だからこそ先が見える。ギュルディという不世出の王を得たランドスカープが、アーサを飲み込む姿を。
「二百年、二百年だぞっ……それほどの長きに亘り、積み上げ、作り上げてきたものが、こんな、ものの一年二年の間に……」
あまりの無念さに涙すら溢している。
オージン王は予言の成就のために、全ての準備を整えてきた。そう、万端が整うよう、二百年以上の間ずっとそうし続けてきていたのだ。
予言は未来を指すものであり、それがいつの未来を指すのかを明示しないこともある。特に、原初の予言と言われるオージン王が成就すべきものは全て明確な時を示していない。
だから、条件が整わない間は絶対に予言の出来事を開始させなかったのだ。
予言を信じるから、条件が不足のままでも問題はない。そういう考えもあるし、確かにそういう部分もある。だが、予言は外れる可能性もあるのだ。
そして、原初の予言に語られる一連の出来事たちが、途中で途切れるようなことになればオージン王の望みを果たす予言が成立しない可能性も出てきてしまう。
だから慎重に慎重を期し、予言全てが完璧に成立するよう、オージン王は準備を整えてきたのだ。
だが、最早それも望めない。
オージン王の脳裏には、こんなことになるのであればもっと早く予言を始めておけば、なんて後ろ向きにすぎる言葉すらよぎっている。
オージン王は、オージン王だからこそ、この後は先細るのみ、予言成就の可能性は落ちていくばかりであることを悟った。
「ならば、もう、始めるしかあるまい。無念だ。全て隙なく埋め尽くすためにこそ、気の遠くなるような時間にも耐えきれたというのに」
泣き言を敢えて口にすることで、オージン王は心の内に覚悟を積み上げていく。
絶対はない。なくなった。だが、だからこそ、これよりは二百年間の中で最高の自分を発揮しなければならない。
「エルフも、スヴァルトアールブも、何もかもを飲み込む。そのために必要なものは全て整えてある。戦だ、戦だ、この世の全てと、私は戦い、勝利しなければならない」
オージン王の瞳に炎が宿る。
その日のために集め備えてきたモノたち。
死者の船ナグルファルと死の神ヘル、漆黒の竜ニーズヘッグ、巨蛇ヨルムンガンド、そして全てを飲み込む炎の巨人スルト。
この内のたった一つでも放たれれば、国の一つ二つ容易に滅びうる。そんな常軌を逸した備えを、オージン王は集めてきていたのだ。
「さあ、ギャラルホルンを鳴らせ」




