226.オージン王、動く
アルベルティナにとっての魔術は、手段の一つでしかない。
自身が生まれながらに持つ、魅了の効果がある魔力を放出してしまわぬよう操作するための手段だ。
だからエルフの森にいた時から、楽しむという意味では魔術を学ぶより歌を学ぶ方がずっと楽しかった。
だが、今いるここリネスタードでは、不用意にアルベルティナが歌を歌うわけにはいかない。エルフの森と違って、アルベルティナの魔術に抗する術がない者も多いのだから。
『ふーん♪ ふーん♪ ふふーん♪』
声に出しては魔術になってしまうので頭の中のみで歌いながら、アルベルティナはリネスタード傍の林に入っていく。
女の子、それも妙齢の美しい女性が一人でこんなところをうろつくのは不用心この上ない行為だが、即死の不意打ち以外であったならアルベルティナには絶対の対抗手段があるし、そういった目的で行使できるぐらいにはこの魅了の魔術を使いこなせるようにはなっている。
林の奥にはアルベルティナの背丈の倍ていど高さの小さな滝がある。ここがアルベルティナが見つけた絶好の場所だ。
『たーきのおっとで♪ きっこえないー♪』
うっかり林に入り込む人がいても、という話だ。滝の音は結構な音量であるしアルベルティナがそう判断したのも無理はないが、実はこの滝の音よりも、アルベルティナが本気で出した声の方が大きかったりする。
もちろん、この滝の音で妨害されているのも事実であるのでそれなりに近づかなければ声が聞かれることはない。
アルベルティナは大きく息を吸いこみ、そして歌いだす。
声に魔力が乗り切っている状態がアルベルティナが歌っていて一番気持ちが良いもので、エルフの森に招かれる前から何とかしてこれができる時間を取れるよう工夫していたものだ。
ただ、ここら一帯に住む人たちの生活を考えこれを避けることはできても、つい数日前にきた人間が、いきなり人気のない林の中に入ってくるのは予測しきれまい。
ひとしきり歌った後で、少し休憩といって周囲に目をやったところで、ようやく歌をずっと聞いていたらしい、狼顔の変な人間に気付いた。
「あ」
マグヌスとの邂逅でアルベルティナが最も驚いたのは、その狼顔ではなく、アルベルティナが全力で歌っていた空間にいたにもかかわらず、全くその影響を受けたように見えなかったことだ。
挨拶と、魔術を使ってしまったことに対する謝罪と、本当に大丈夫なのかの確認をすると、相手のマグヌスはその狼顔に似合わぬ実に紳士な対応で返してくれた。
こうして長く話をしていると、話をするのが苦手なアルベルティナは時々言葉に詰まることがあるのだが、マグヌスはそれでも一切不快そうな顔を見せずにいてくれる。
それどころか、アルベルティナの話をとても嬉しそうに聞いてくれるのだ。
『いい人だー』
幼い頃から自分の魅了の術に影響されてきた人を見ていたアルベルティナだ。魅了にかかっているかどうかは見ただけでもあるていど判別できる。
そして、魅了の術の存在を知った人間がどういう反応をするのかもわかっている。だが、このマグヌスと名乗った青年は、ほんの一瞬であろうとアルベルティナへの嫌悪や非難を見せることはなかった。
『とってもいい人だー』
彼は自信満々に答えてくれたものだ。
「今の俺にはそれこそエルフの幻術であろうと通じん。だからアルベルティナも俺の前ならば、気にすることなく思うように振る舞ってくれていい」
『とってもとってもいい人だー』
エルフの森でそうであったように、アルベルティナは嬉しそうに話をする。
音楽の話、魔術の話、嫌な人の話、良い人の話、話したいことはたくさんある。
だがそれを、聞いている人に楽しんでもらえるように話す自信はアルベルティナにはない。だから、その中でも厳選した楽しそうな話のみ、アルベルティナは他人に話す。
それをすら、今は難しかったのだ。イングもスキールニルも魔術の研究に没頭しており、これを邪魔するのはあまりに申し訳ない。
ただ、この目の前の狼顔の人は、そんなつまらないだろうとアルベルティナが思う話さえも、とても嬉しそうに、楽しそうに聞いてくれるのだ。
「それでね、私思ったの。この人よっぽど私のことが嫌なんだなーって。でもね、そういう人の中でもこの人、きっと悪い人じゃないんだなって思えたのが……」
アルベルティナはたくさん話がしたかった。エルフの森で見聞きした目新しいことを、イングやスキールニルと旅をして出会ったたくさんのことを、リネスタードにきて見知った思いもよらぬことを、話は上手くないけれど、それでも話をしたかった。
それらを、時に驚き、一緒になって喜び、悲しそうにもし、怒ってくれたりもしながら聞いてくれるマグヌスに、アルベルティナは一生懸命に話を続けるのだった。
ちなみに。一目ぼれをしていながら、その類まれなる精神力で恋愛気配を消し去ることに成功していたマグヌスは、内心その場で身もだえせんばかりであった。
『なんだこの可愛い生き物は。まるで、子供がおかーさんに今日あったことを嬉しそうに懐きながら報告しているよーではないかっ。そのちょっと大人しめな風貌でその仕草はズルいだろうっ』
時折我慢しきれず漏れ出してしまった愛しさとか嬉しさとかのせいで、アルベルティナは話を喜んでくれていると考え、更に話を続ける。
両者にとって好ましい好循環なのであった。
アーサ国とランドスカープ国の間では、幾つかの点で利害関係がぶつかってはいるものの、基本的には友好的な隣国同士だ。
双方の王や有力貴族は、隙あらばお互いの国から利益を盗み取ろうと狙ってはいるものの、これらも常日頃からの交流あってのものだ。
そんな交流の一つに、お互いの王都に商館を置くというものがある。
この商館を中心に交易を行なう、というのが本来の目的で、今では互いの国への諜報の最前線ともなっている。
その商人は、アーサ国内のランドスカープ商館から退出すると、商館長のいる二階の部屋を見上げ、小さく嘆息した。
『商館長が察している気配はなし、か。さて、どうしたものか』
この商人は、最近のアーサ国内の動きに違和感を持っていた。
『何故、今、各地の備蓄食料の監査を実行するのか』
現在アーサ王都では、ランドスカープ王の退位と新王ギュルディの即位が伝わり、ある種の混乱状態にある。
ゲイルロズ前王は不死として知られており、そんな存在を敢えて退位させる意味がわからない。ランドスカープの貴族たちは、王は王として、権力争いはその下でするというのがもう百年以上前から続いていたのだ。
そうまでして権力を奪取したとて、他貴族を治めうるものなのか、そこまでせねばならぬ何かがあったのか、そういった情報はよほど上位の者でなくば入手できぬものである。
そんな大きな情報をアーサ王家が得た時期を、商人は正確に突き止めている。
その上で、この情報を得た直後にしたことが、各地の備蓄食料の監査であったのだ。
『商館長も、備蓄食料の監査は王位交代前に出された指示が、偶々遅れたのだと考えている。だが、あの、オージン王がかかる事態にそのような不手際を見せるか?』
それ以外に幾つかの重要な判断を下しているので、そちらに目がいってしまうからこそ、備蓄食料監査の指示が明らかに浮いて見えてしまう。少なくとも商人の目からは。
蟄居中のトーレ将軍の復職や、国境付近への警戒のための派兵など、オージン王が新たな王の出現に対し十全の警戒態勢を敷いているというのがわかる、様々な指示が出されている。
商人は部屋を出ると、その足でアーサ貴族の下へ向かう。
金を貸し出している相手だ。幾つかのおいしい商談を伴って貴族の下を訪れると、商談に加えて雑談にも応じてくれる。
「おお、これはまた珍しくもよろしいものを。魔兜とは、あまり出回らぬ逸品ではないか」
魔術により強化された兜は、戦の場では頼りになるものであるし何よりも、出兵する貴族の家族が贈るものとしては最上位に当たる物だ。
それが貴族であろうとも、無事を祈る家族の想いは皆同じということであろう。
「なんとも巡り合わせの良いことよ。実はな、つい先日叔母上からこういったものの手持ちがないかと問われたばかりでな……」
この貴族、社交的で、誰からも好かれる好人物であるのだが、少し配慮や思慮が足りないところがある。
そしてこの情報だけは、絶対に他所に流してはならないものであった。それはこの貴族に声を掛けた叔母とやらも同罪だ。
叔母は身内相手だからと油断をし、そしてこの貴族はそもそも、この情報を漏らすことが致命的なものであると、認識していないのであろう。
『……最悪、だな』
それはこの貴族に対してか、叔母に対してか、はたまた、自身が陥った境遇に対してか。商人自身にもよくわかってはいなかった。
貴族の邸宅を辞した商人は大急ぎで店へと戻り、各種の手配を整えにかかる。
『備蓄食料を根こそぎ持っていく形であれば、よほどの大軍であっても穀物相場に一切の影響を出さぬままに糧食を確保できる』
そしてこの貴族の叔母は、現時点で出兵するのならば最有力とされるエッベ将軍の親族である。
エッベ将軍が情報を漏らしたとは思えない。だが、親族であり、親しい仲であれば、将軍の出陣前の気配を察することもできよう。だからこそ、魔術の篭った防具を求めたのだろう。
『そして、そして、ああ、クソッタれめ。遠からず私にコレが漏れたのが王家側にもバレるだろう。つまり、私にできることはもう一つしかないということだ』
商人は急ぎ準備を整える。
王が代わり、混乱する王都の状況を把握し、新たな指示を受け取るために、商人はアーサを出てランドスカープへと帰還する。
突然ではあるが、これを部下たちに説明した時、ほとんど全ての部下がその説明に納得してくれた。
実際、未曽有の事態ではあるのだ、ゲイルロズ王の退位にしても、王都における三大侯爵同士の騒乱にしても。
そこで商人は、一つだけつまらない真似をした。
「どうする、この機会にランドスカープに一度戻りたいという者がいるのなら、一緒に連れていってやってもいいぞ」
皆、アーサ王都での仕事に慣れており、逆に他所で働くとなればまた一からやりなおしな部分も多い。そして一時の休暇とするにはランドスカープ行きはいくらなんでも時間がかかりすぎる。
なのでこれに応える者は一人しかいなかった。
『ほう』
そう、一人いたのだ。
まだ若く仕事もさほど重要なものをこなしているわけではない。なので商人はこの男をほとんど知らない。
それでも、視線が交わった瞬間感じるものがあった商人はこの若い男の同行を許し、すぐさまアーサの王都を出立した。
道中、商人は若い男に問うた。
「何か、確証でも得たか?」
何の、とは問わない。商人は若い男を何度か試したが、若い男は商人同様、一切合切を捨てることになっても即座の離脱を望んだ。
「……ギュルディ様の教えに、ありました。確証を得た上で判断するような贅沢は、我ら商人の立場では望むべくもない、と」
この若い男がギュルディの言葉を聞いたことがあるというのではない。ギュルディの教えは、その配下組織に広く伝えられているのだ。
ある意味、この教えを聞き実践しているかどうかこそが、ギュルディの持つ商人による諜報網に入っているかどうかを区別するものである。
「そうだな。続く言葉を覚えているか」
「もちろんです。そして下した判断を自ら疑うような真似は許されない。確証を得ていない判断だと決して忘れぬままに、己の判断を信じ進んでいると誰しもに認めさせなければならない」
「で、どうだ? やってみた感想は」
「最低の気分です。誤りだった場合は己の出世が十年は遅れることを許容しなければなりません。ですがそれでも、自分が、誤っていると、そうであってほしいと願ってしまいます」
「……それはきっと悪いことではないさ。何せ私も、お前と同じことを考えているのだからな」
もし、アーサ国が秘密裡にランドスカープへの出兵を企てているのだとしたら、今アーサ王都に残されている商人たちの生存は絶望的だ。
商人たちにもアーサの出兵が察せられるほどに事態が進行した頃には、最早手遅れであろう。
あるていどの立場を得ている者ならば、或いは軟禁なんて真似もしてもらえるかもしれないが、商人の立場では情報が漏れぬようさっさと殺してしまうのが一番早く確実な手段だ。
つまり商人と若い男は、それとわかっていて仲間たち皆を見捨てて逃げ出したということだ。
「……せめても、これがランドスカープのためになるというのならば、僅かでもそれが救いになってくれると思うのですが」
「私はギュルディ様とは直接の面識はない。だが、傍にお仕えしている方を知っている。あの方ならば、それが確定情報でなかったとしても、正しく価値を判断してくださるだろう」
その夜、二人は一杯だけ酒を飲み、翌日からは全力で演技の準備を整える。
道中、一切の疑念を抱かれぬよう、それはアーサ国内を抜けてからも続けられる。本気のアーサならば、ランドスカープ国内に逃げ込んだところでどうとでもする手段を持つと、商人は知っているのだから。
ランドスカープ王都王城の一室にて、心底から呆れた顔をしているのは、ギュルディ王が特に抜擢した将の一人である、ヴェイセルであった。
「アーサの王都から、それもあのオージン王が極秘裏に差配している企みを見抜いてくる諜報員っていったい何者なんですか」
ギュルディは肩をすくめる。
「それには私も驚いている。時折、商人たちからは私でも驚くような冴えを見せる者が出てくるんだ。だが、しかし、そうか、誰が動くかと待ち構えていれば……」
くくく、と含み笑うヴェイセル。
「国内の反対勢力が動くとばかり思っていましたからね。それがちょっとやりすぎたせいで、皆怖気づいてしまったかと思っていたら、まさかまさかのオージン王ですよ」
同じく笑い出すギュルディだ。
「これまでのオージン王からは考えられぬほどに思い切りが良い。予言か?」
「どうあれ、確かに上手い手の一つではありましょう。難癖をつけるのであれば、即位直後の今しかない。その上でカテガット峡谷を抜けてくる道でしたら、不意打ちには最適でしょう」
「対策は?」
「今すぐ私をかの地に派遣してください。即応できる兵をかき集めてカテガットで迎撃の準備を整えて、足止めしている間に兵を集めて十分な援軍を回してもらえば、まあ、十中八九勝てるでしょうな」
「わかった、任せる。時に、この情報が来ず、敵が領内に侵入するまで気付けなかったとしたら、どう対応していた?」
「それでしたらカテガットで止めるのは無理ですな。そしてそこから王都までは迎撃に向いた土地はありません。なので、それっぽい平地で、敵の半数ていどの兵数で野戦を挑むしかないでしょう。それなら向こうも全軍で突っ込んできてくれます」
「……さらっと言ってるが、半数でアーサに勝てるものか?」
「手は色々ありますが、まあ一番わかりやすい手は、首脳陣の暗殺、でしょうか。陽動を搦めてしまえばもうコレ、正直防ぐ手段がありませんしねえ」
とはいえ、暗殺要員が出張ってくれるかどうか定かではないので、他の手を用意しますけどね、とやはり軽く言ってくるヴェイセルだ。
敵が領内で暴れまわるのはとても困るし、それがわかっているアーサはそういった戦略を採るだろう。これを当たり前に前提としたヴェイセルの作戦に、ギュルディが思いつくものではもう言うべきことはない。
「私が準備しておくものは書き残しておいてくれよ。それ以外はそちらに完全に投げてしまうから、私は私でこちらの話を進めているぞ」
「はい。とはいえ不測の事態に備え、情報分析官の連中に準備だけはさせといてください」
「……お前から見ても、危うさはあるか」
「アーサの将軍ってのをほとんど見たことがないですが、唯一動きが見られたのがトーレ将軍ってのでしたからね。アレは、絶対に油断していい相手じゃありません」
「お前がそういうほどの将がぞろぞろいるなんて考えたくもないがな」
現時点において、ヴェイセルが創造的な仕事を一切していないのは、正にこの時、戦をするためであった。
そのための段取りを整え待ち構えていたところに飛び込んできたのは、国内反対勢力ではなく、アーサのオージン王であったという話だ。
しかも、ギュルディたちが待ち構えていた相手である国内貴族たちは、先の騒乱により三大侯爵はほぼギュルディの手の内に収まり、それ以外の有力貴族は、その前のリネスタード包囲戦においてカゾで粉々にされていたり、重要な後援者たりえた教会もほぼ壊滅状態だ。
大きな勢力は軒並み力を失っており、旗頭になれる者がいない。その上、辺境との取引によって結構な数の貴族たちが手出しを躊躇するような状況に。
それでも油断はせず蜂起に備えていたら、アーサが来たというわけだ。
部屋を出て動き始めるヴェイセルを見送ったギュルディは、一人呟く。
「ヴェイセルのお披露目は、随分と派手な舞台になりそうだな」
リネスタード対ボロースの戦において、ヴェイセルもそれなりに存在感を示したが、それはあくまで辺境での話だ。
王都圏においてはヴェイセルはまだまだ無名の将でしかない。
だが、コイツはそんなシロモノではない、というのはギュルディ配下の情報分析官全員の一致した意見だ。
ここまで表に出さぬままに運用できていたこの天才を、敵は絶対に考慮してはいまい。であるのなら、間違いなく一戦はコイツを使って確実に勝利できる、それがギュルディ陣営の考えだ。
そんな罠に、最大の難敵であるオージン王がかかってくれたのだから笑いも漏れようものだ。
だが、これは戦だ。圧倒的優位を何処まで積み上げたとて、実際に矛を交えるまでは結果はわからない。そういう部分がどうしても残ってしまうのが戦なのだ。
それはきっと、確証を得ぬままに判断しなければならない、といった立場と、とても似たものであるのだろう。




