224.ハーニンゲ編のおわり
涼太の始めた事務所の閉鎖作業を進めていた女護衛は、残る四人の護衛仲間に呼ばれ、さしたる警戒もなくこれに応える。
「は?」
そこで、残る護衛たちが沈鬱な顔をしている理由を知った。
女護衛ほど優れた知能の持ち主が、思わず問い返さずにはいられないほど、愚かな話を聞かされたのである。
「アキホに仕掛けてやり返されて、挙げ句その話がリョータ様とナギ様に伝わらないよう隠してた? え、何それ、正気?」
護衛たちの一人が頭を抱えながら言う。
「事実だ。正気かどうかは知らん。で、この眩暈のするような出来事を、俺たちはリョータ様とナギ様に説明しなきゃならない。もちろん、間違っても二人の機嫌を損ねることのないような形で、とのお達しだ」
「まるで機嫌を損ねたのは私たちみたいな言い草ね」
「……お前さんがそこまではっきりとした皮肉を言うとはな。まあ確かに、俺も命令を受けた時はもっとひどいことを口走った気はするが」
女護衛は思わず口に手をやってしまう。
自制が利かず嫌味を言ってしまうなど、いつぶりのことであろうか。
別の護衛が至極真面目な顔で言う。
「皆で逃げるか、とも考えたんだがどう思う?」
「これを伝えずに? 気持ちだけはわからないでもないけど、冗談でもそういうこと言うのはやめておいた方がいいわ」
「……馬鹿な真似をきちんと止めてくれる者のありがたさよ。領都にそうできる人間はいなかったというのか……」
そう呟いた後で、盛大な溜息をついた。
女護衛は皆がわかっていたことをはっきりと口にする。
「五人全員で行きましょう。リョータに下手な誤魔化しは通用しない。まっすぐに行って、真正面から詰られるのが最善だと思うわ」
だよなー、と残る四人は肩を落とした。
護衛たち五人から秋穂と領主が揉めた話を聞いた凪は、ちら、と涼太の方を見るのみで、発言を譲る。
そして涼太だ。
「領都に行く。悪い、一緒にやってきた君らを信じないわけじゃないが、行くのは俺と凪の二人で、だ」
涼太も凪も、話の内容に怒っていたのは見てわかったが、だからと女護衛たちにそれをぶつけることはしなかった。
その上で女護衛たちを気遣うような真似までされてしまうのだから、情けないやら悔しいやらで、すぐに言葉が出てこない。
涼太が二人で行くと言ったのは、より不快な真似を涼太たちにしろという命令を実行せずに済むようにとの涼太の配慮である。
女護衛は絞り出すような声で言った。
「ごめんなさい」
「いいさ、少なくとも俺は、こういうのも経験がないわけじゃない。上司って生き物は、いつだって理不尽で、理解不能で、こっちのことなんかなーんにも考えちゃくんない、そう見えるもんだ」
今回の件に関しては、見えるだけじゃなく実際にそうであるのだろうが、涼太はそこまでは言わずにおいた。
領都への道中、凪は涼太の様子を見てあの五人と過ごした時間が涼太にとってどんなものだったのかを察した。
「良い人たちだったんだ」
「特に良い人、ってわけでもない。普通の人だったよ。だから俺にもあの人たちが理解できたし、俺のことも理解してもらえたんじゃないかと思ってる」
「でも楽しかったんでしょ」
「……ああ」
こんな嫌な感じの別れ方をしたくない、と思うぐらいには涼太も彼らを気に入っていた。
「きっと向こうもそう思ってたんじゃない? 五人共、しんどそーな顔してたわよ」
「そう、かな」
「そうよ」
「そうか」
ソレを信じてもいいものか、なんて思いも涼太の頭にはある。それを、凪はあっさりと断言した。
別に凪にも彼らの真意が見えたわけではない。ただ単純に、そう考えた方が涼太は気分よく過ごせる、そう思っただけだ。
凪はそうやって割り切れと言い、涼太は納得して受け入れた、そういう話である。
王立文献編纂室所属、上級官僚のビリエルは、机の上に置かれた羊皮紙に要所のみを記入しながら、対面に座る凪に質問を繰り返す。
「で、十聖剣のメルケルはどうだったんだ? 剣術のみならず、戦闘用魔術にも長けたあの方を仕留めるというのは、正直に言ってちと信じられなかったのだが」
「そう? 戦って厄介だったのはヤーンってのの方だったわよ。……メルケルってののあの覚悟と生き様は、ちょっと真似できないとも思ったけど」
これまでの戦いを、ビリエルは丁寧に凪から聞き取っている。
報告を受けた事実と事実との間にどんなものがあるのかを知ることも、より正確な記述には必要なことだ、といったビリエルの言葉は、さほど歴史に興味のない凪にはあまり響くものではなかったが、涼太に頼まれては仕方がない。
涼太が交換条件で受けたものだというのなら、質問に答えるのもやぶさかではない凪は、聞かれたことには一応真面目に考えて答えていた。
ビリエルのことを完全に忘れていた涼太が地方都市に置いてきてしまったせいで、ものすごく怒られたというのもある。涼太は時折、こういうありえないポカをする。
「あー、ごめん、そのなんちゃらいうの、名前は聞いてないからわかんない。多分、シムリスハムン大聖堂の中で斬った奴だとは思うけど……ねえ、秋穂はそれっぽいの斬ってなかったわよね」
と話を振った凪であるが、秋穂はといえば、ひどく落ち込んだ様子である。
領都で下らない敵と揉めている間に、凪がとんでもない敵とぶつかっていたというのがショックであったようで。
「……私も遊んでないで凪ちゃんと一緒に行けばよかったー」
「だーから何度も言ったでしょ。今回は完全に遊びのつもりだったんだから、あんなもの読める方がどうかしてるって」
「うー、凪ちゃんばっかー」
「いやいつも強いの持ってってるの秋穂のほーでしょーが」
恨みがましい目で見られても、凪も秋穂が近くにいるんなら当然声はかけていたのだ。
時折わき道にそれても、ビリエルの聞き取りは続く。
「シムリスハムンの大虐殺の後、随分とあっさり停戦に合意したのはどういう理由からだ? ナギがあれで納得した理由を聞きたい」
「あれってあっさりだったの? ねえ涼太、その辺は……」
そして涼太も同じく、大きくへこんだ様子であった。
「併合、併合かー。それも俺の資料を見て判断したのかー、そうかー、そうなっちゃったかー」
「ほらそこ、いつまでも愚痴ってない。ランドスカープから商人が雪崩れ込めば、遅かれ早かれ地方開発の話は出てただろうから時間の問題だったってだけよ」
秋穂が暴れる羽目になった元凶、イデオン・ヌールマンは既に処刑されている。
有力者子弟であり、あちこちに伝手や貸しを持つイデオンであったが、半数以上を失った近衛の家族はほぼ全員が敵に回り、イデオンの母や祖父母が全力で抵抗したがどうにもならずに処刑は実行された。
そして領主は引退をほのめかしたそうだが、役目を果たさない、責任を果たさないというのであれば、金銭で損失を補填しろ、というランドスカープ側からの要求は、引退しようと保持するつもりだった利権を全て寄越せ、というものであったため、二度と引退の話を出すことはなかった。
領主をやっているからこそ得られた利権なのだから、領主でなくなったのならそれを手離せ、というランドスカープ側からすれば当然の要求にも、領主は略奪者に狙われた哀れな被害者という顔をしていたが、当人がどう思っていようと現状に変化はないので放置された。
涼太はしみじみと言う。
「むかついたから開戦したんだとしても、むかつきが収まったから終戦、とはならないところが何とも難しいところだよな」
秋穂は苦笑する。
「まあ、ね」
今回それを誰よりも実感している秋穂だ。
肩をすくめる凪は、その辺はまだよくわかっていない部分でもある。
「気に食わないんならまた殴ればいいじゃない」
わかっていないが、どうすべきかはわかっている凪である。
ランドスカープ通商団団長の理路整然とした交渉もあって、結局また殴るなんてことにはならなかった。
領主が馬鹿でも、交渉を担当したハーニンゲ側の人間はきちんと話の通る人間であり、涼太たち三人の決して許せぬラインを越えるようなことはなかった。
なので三人はハーニンゲとの交渉が終わるまでの間、通商団が持ってきた大量の砂糖を使った新作お菓子の作成に力を注いでいた。
ああでもないこうでもないとハッセの屋敷の料理人と共に騒いでいるのは、休暇らしいただ楽しいだけの時間であった。
若きドルイドは夢を見た。
夢の舞台は彼も知るアーサの王都。
だが、彼の知る景色とは大きく違って見えた。
「な、なんだこれは……」
凄まじい数の民衆であふれ返っている王都の様に、若きドルイドは驚きを隠せない。
こんなにもたくさんの人間が王都にいるのを彼は見たことがない。
そして民衆たちの表情だ。
恐怖と絶望に満ちたアーサの民衆の顔なんてものを、若きドルイドは想像したことすらなかった。
オージン王の治世にあって、このようなことになるというのはおおよそ考えられないことだ。
「何が、何が起こっているのだ」
若きドルイドの目が右に向けられた。
「んなっ!?」
以前に見た、凄まじい数の狼たちだ。
いや以前どころではない。最早その数は若きドルイドにも数え切れぬほどで。
若きドルイドの目が左に向けられる。
そちらにも、同じだけの数の狼たちがいた。
「ま、万をすら、超えるというのか……なんだこれは、私は何を見ているというのだ」
若きドルイドが怯えているのは、その万を超える狼の群が、彼のよく知る都市、アーサ国王都へと向けられていたからだ。
そして、一際大きな吠え声が響く。
それはなんと、王都の城壁の内より聞こえた雄叫びだ。
既に、王都内へと侵入を果たした狼たちがいたのである。
そんな恐ろしい真似をしでかしたのは、この群一番のクソ度胸の持ち主、ギョッルである。
彼の雄叫びに合わせ、フェンリルは彼の雄叫びに応えるかのように、大きく吠え声を返す。
すると、万を超える狼たちが、一斉に王都に向かって突撃を敢行したのである。
「よせ、やめろ、やめてくれ頼むっ」
若きドルイドの声は、当然彼らには聞こえない。
あっという間にアーサが誇る城壁を乗り越え、守備隊をも蹴散らした狼たちの群は、王都にいるとんでもない数の群衆に襲い掛かった。
王都中で展開される阿鼻叫喚の地獄絵図。
「何故だ! 何故王軍がいない! 騎士団は!? 戦士団はどうした! 傭兵すらいないというのはいったいどういうことだ!」
叫んでいる彼にもわかっている。
いないということは、既に打倒されたか、もしくは別所に招き寄せられたかだ。
そしてもう手遅れだ。何処から援軍が来ようとも、フェンリルたちは王都内に侵入し、アーサのこれまで積み上げてきた全てを滅ぼさんと憎悪の目を向けてきている。
若きドルイドの視線は、通りすがりに何人もの人間を殺しながら、足を止めずに王都深くへと進んでいく。
その迷いなき動きの先に気付き、若きドルイドは悲鳴を上げた。
「う、嘘だ! よせ! やめろやめてくれ! その先には! その先には我らが……」
せめて王だけでも逃げていてくれ、そんな若きドルイドの希望は打ち砕かれた。
玉座にて、泰然と王は狼たちを待ち構えていたのだ。
「王よ! 急ぎお逃げください! 貴方だけは! 貴方だけは何としてでも……」
一斉に狼たちが襲い掛かる。
王は自ら剣を抜きこれに激しく抵抗するも、王のもとへと辿り着いたのは、見るからに歴戦気配の漂う魔狼ばかり。
これをただの一匹すら仕留めることはできず王は引きずり倒され、そして、フェンリルがその首を食いちぎった。
言葉にならぬ悲鳴を上げる若きドルイド。
彼はあまりにも大きく動揺していたせいで、首を食いちぎられる王の表情を見逃していた。
満足気に頷きながら死んだ王の顔を。
そこから先の光景を、若きドルイドは見ることができなかった。
それは予言の途中でありながら起こった出来事だ。
突如全身を衝撃が突き抜け、若きドルイドはベッドの上で大きく跳ね上がる。
全身が痙攣し、首があらぬ方へと捻じれ曲がっていく。
当然、即死だ。首だけでなく、全身の穴という穴から血を漏れ出しながら、若きドルイドは死んだ。
それはちょうど、凪がフェンリルの首をへし折った瞬間の出来事であった。




