221.フェンリル軍団の脅威
狩人は、凪からの申し出、というか命令のような指示を受け、これに対し素直に従えずにいた。
ここはハーニンゲだ。なのに、他所からぽっと出てきただけの、利害関係すらない通りすがりのランドスカープ人が、今正に、ハーニンゲのために命を懸けて戦おうとしてくれているのだ。
それをただ黙って見ているどころか、その見ていることすら止めろと言われているわけだ。
凪がそう言う理由も理解している。山に慣れている狩人とはいえ、あの巨大な群にもし見つかるようなヘマをやらかしたら絶対に助からない。
だから見物すら避けろというのも理解はできる。だが納得はできない。
「……よしっ、俺は行く。結果がどう転ぶにしても、せめてもあの人の結末だけはこの目で見ておかなきゃならねえ」
仲間たちは五人いるが、その言葉を口に出せずにずっと黙りこくっていたのだ。
そして一人が口にしてしまったというのに、やはり残りの者は口を開けずにいる。彼はそんな皆を慮り、陽気な口調で言った。
「心配すんな、見つかった時は、戦ってるあの人に迷惑がかからねえようさっさと自害して果ててみせる。さあ、お前らはもしもの時のための連絡要員として待機だ。いいか、決着がついてからが勝負だ。勝てば良し、負けたのならすぐに次の手に移る。ソレはお前らがしっかりしてねえといけねんだからな、後は頼むぜ」
そう言って狩人の男は小屋を出ていった。
一緒に戦うなんて話ではない。ただ遠くから戦いを見ている、それだけだ。ただそれだけのことに、彼は死を覚悟せねばならないのだ。
それだけのことをするために、この男は自らの死をすら飲み込むと決めたのだ。
何か出来ることがあるかもしれない。そんなか細い可能性のみをその理由として。
彼が出立した後で、小屋に残った他の狩人たちは大きな嘆息を漏らした。
「アイツのああいうところ、良いところだとは思うんだがな」
「義理堅いにもほどがあらあ。気持ちはわかるが、あそこまではちょっとな」
「決して人付き合いの良い男じゃあないんだが、不義理な真似だけは絶対にしねえ奴だ。くそっ、仕方ねえ、アイツのことはもう神様にでも祈るしかねえ。俺たちは俺たちのやるべきことをするぞ」
こうして、凪の戦い唯一の観戦者も出揃う。
凪とフェンリルとの戦いに正式名称はない。狩人が森で獣を狩るのに、一々名前を付けたりはしないのと同じことだ。
世間的にそれは戦とは認められておらず、これの脅威を理解しているのは極一部の人間のみ。それも、彼らがその脅威を統治者に理解させることは結局のところできないままだ。
予言を得たオージン王すら、今の段階でのフェンリルの脅威度を理解はしておらず、未来はさておきそれが既に一国の危機となるまでに成長しているとは知らなかった。
だから、これに凪が一人で立ち向かったのだ。
『きっと、秋穂も涼太も怒るわよねー』
だが、二人を呼んでいる時間はない。今、凪が戦わなければ犠牲者の発生は止められない。
ハーニンゲの民を守らなければならない、なんて使命感に燃えているわけではない。
ただ、理不尽な暴力に無力な民が蹂躙される、その事実が、心の底から気に食わないだけだ。
そこまで考えて、くすりと凪は笑みを溢す。
『それだけでこんな場所に立ってるってんだから、私の酔狂もここに極まれりって感じね』
結局凪は、見渡すばかりのド平野を戦場に選んだ。
そこは日照と水と地形の関係で、森の中に突然、下生えしか生えぬ平地が生じている珍しい土地で。
狼の群の気配を感じた凪は、そのど真ん中へと走って向かう。
その場に辿り着くと、狼たちの気配の動きも止まった。いや、極めて静かな動きではあるが、狼たちは移動を続けている。
『はっ、さすが。如才ないわね。アンタら本当に狼なの?』
この広大な平野を覆うように、狼たちが移動を始めているのだ。それは包囲であり、絶対に逃さじといった断固たる決意がそこから見てとれる。
或いは包囲が完成する直前、そここそが各個撃破の最後の機会とも言えようが、狼たちの移動速度を考えればそれも望み薄だ。
凪はもう黙って包囲の完成を見ているしかない。
気配は伝わっている。
この広い平野を取り囲むようにある木々からは、最早生物の気配が感じられない。いるのは、気配を消した戦士のみだ。
風の音はある。下生えがたなびき揺れる音もする。彼方から山の音も聞こえてくる。けど、凪の周囲にあるのはそれだけで、本来あるべき音の数種が完全に失われている。
上は、薄く小さい雲が空を走るのみで、空は真っ青な色を見せている。高度はそれなりに高く風の強い土地であるが、天候の変化は望めまい。
凪が驚き、ほんの少し常より大きく目を見開く。
「うわ、来た」
攻めにかかる瞬間の気配が、一切感じられなかった。
もし合図などを出していたのなら、合図を出す方、もしくは合図を受け取った者たちのどちらかが出す何かを凪は感じ取ったかもしれないが、それらがあった様子はない。
本当に一斉に、平野を取り囲む全周囲より同時に、無数の狼たちが音もなく飛び出してきたのだ。
僅かに下生えを蹴る音のみが聞こえる。それだけが凪の周囲を取り囲み、とても殺意を伴うとは思えぬ小さな音の集合体が凪へと迫ってきていた。
鬨の声もない、勇む声も聞こえない、だだっぴろい平野全てを覆う恐るべき数の狼たちはしかし、全ての闘志をその身の内におさめきったままで、突撃を敢行しているのだ。
『……恐れ入ったわ。これ、今度こそ本当に、私も死ぬかもしんない』
秋穂が以前言っていた、ボロースのミーメと戦った時に感じた絶望は、きっとこういうものだったのだろうと実感する。
そして、それでも引くなんて気が欠片も起きなかったという秋穂の感覚も理解できた。
危なかったら逃げる、なんて判断は、戦場に辿り着く前、机の前に座ってするものだ。いざ剣を抜いてしまえば、そんな考えは彼方に吹っ飛んでしまう。
どう殺すか、どう殺されないか、それ以外はない。いらない。今の凪の頭にある言葉はただ一つ。
『ブッ殺す!』
身体的にならともかく精神的にはもう、女性を名乗るのは他の女性の迷惑にしかならないので、凪は今すぐやめるべきだと思われる。
無造作に、無作為に、片っ端から飛び掛かってくるなんて戦い方を狼たちはしない。
つい先ごろ、凪が抜け駆けした先遣隊と戦った時の戦い方は、それこそがこの集団の戦い方であったようで。
夥しい数の狼たちはしかし、凪の周囲を駆け回り、踏み込む気配を見せては引き下がり、時に必殺の間を掴んで飛び込んでくる狼も、凪が反応し対応すれば即座に身を翻して間合いより外れる。
この大きく開けた空間を、後から突っ込んできたはずの狼たちの方が十分に活用している。
凪は今、全周囲を狼たちに取り囲まれ、全周囲より必殺の気配を放たれ続け、そして実際に踏み込んでくる者への対応を迫られ続けている。
凪の疲労を蓄積させるべし、といった作戦を立てこれを実行するためにフェンリルが選んだ手法がこれだ。
『なんって腹の立つケダモノたちなのよっ!』
凪もしょっぱなは様子見のはずだったのだが、のっけから無理押しせざるをえなくなってしまった。
凪の死角より踏み込んだ一匹。それへの対応をわざと遅らせ、踏み込めると錯覚させてからの動きだ。
凪はそのまま、踏み込んできた一匹へ焦って対応しようとしたフリをした直後、意を抜いた形で全く別方向へと踏み込んだのだ。
得意の気配消しだ。戦場の只中、殺気立った身でありながらもこれを行なえるほどに、凪はこの技に熟達していた。何せ便利なので。
だが、気配消しではなく、不意を突いたというその一事をもって一匹を叩き斬れたものの、その先が続かない。
『対応が早いっ』
この瞬間に突っ込んできたのは一際身体の大きな、恐らくは魔狼であろう。
二匹めへと踏み出す凪の左方より突っ込んでくる。こちらへの対応を迫られ振り返った時にはもう、凪が標的としていた狼は距離を開けていて、凪の無理押しにより変形しかけていた包囲も正しい形へと戻ってしまう。
そして突っ込んだ魔狼はといえば、作戦をよくよく理解しているのか、凪の剣と何度もやりあうような真似はせず、ただ一度の交錯のみで後退していった。
殺気立ったぶっころすぞ気配漂う凪と交錯し、傷一つなく後退していったのだ、この魔狼は。
『ああっ、もうっ、なんって見事な動き!』
魔狼が恐るべき手練れであることはもちろんだが、それほどの者が役割に徹しているというのが凄い。
逆にこのせいで、先日あった抜け駆けを更に凪は誤解することになる。
『この統率っぷりを見るにやっぱりこの前のアレ、こっちの手筋を見るための捨て石だったかー。実際の動きにはそんな気配なかったけど、それが逆におっかないわ。まったく、何よコレ、獣と戦ってる気がまるでしないわ』
教会の幹部が当初、対凪秋穂戦で思い描いていた戦い方はまさしくこれである。
知恵を巡らせた優れた指揮官の指揮のもと、時に集めた手練れがここぞの急所を押さえつつ動きを止め、消耗を強いて損失が少ないままに勝利する。
それを理想的な形で実現したのは、人間ではなく狼の群であった、と。
だが、そんな戦い方、そして軍としての強靭さを試すのは、恐らくはこの世界でも有数の理不尽、不知火凪である。
凪は剣を片手持ちに切り替え、空いた手を前方へと翳しつつ、この開いた手を曲げこきりと指を鳴らした。
『長丁場だからって手を抜いた真似は通用しないっと。いいわよ、なら、早速だけど本気で行ってあげようじゃない』
そこからの凪の突進は、包囲網の一角をただの一撃で粉砕する、それはそれはもう強烈なもので。
そもそもからして、凪の足の速さは狼のそれに勝る。
絶対に仕留めると定めた相手は決して凪からは逃れられないし、背を向けたからと全力で走る凪の背に追いすがることはどの狼にもできないのだ。
最初の一匹まで、そしてそこからも血を見ぬ時間が続いていたが、ここにきて一気に戦況は動いた。
戦い全般に言えることだが、一方が踏み込めば、もう一方も踏み込む形を取らざるを得ないものだ。
なので凪が必死必殺の間合いに踏み込んだ以上、フェンリル側もそうしなくてはならなくなる。そしてここでフェンリル側にも必殺の力があると証明してみせなければ、以後の戦いで大きな不利を背負うことになる。
フェンリルは叫ぶ。仲間の損失を承知で。心に深い傷を負いながらも。
『全て予定通りだ! 次の段階に移れ!』
狼たちは、実はそれほどに実戦経験があるわけではない。
狩りと戦は別物だ。ましてや狼たちの大半は人間と戦った経験なんてものもない。当たり前に人間を見掛けたら逃げるようにしていた。
だから今こうしてフェンリルの群の狼たちが、数多の戦を乗り越えてきた凪と戦えているのは、それぞれの隊の隊長の指揮とそれ以前から行なっていた訓練によるものだ。
狼が訓練、と大抵の人間は思うものだが、人とて従順な獣を訓練し活用するものだ。それが同族で意思の疎通も可能な相手となれば訓練もより容易かろうて。
既にフェンリルの両翼として活躍しているスコルとハティは、それを最も早く、最も多く経験してきた狼だ。
スコルがぼやくようにハティに漏らす。
『なー、俺が今まで率いてきたのは何だったんだーっつーぐらい強くなったよな、コイツら』
『まったく、こんなやり方、何処でどう覚えてきたのやら。フェンリルの考えることにはいつも驚かされる』
『人間に勝つ、ってのは思いつきや勢いで言い出したことじゃなく、勝てる見込みがあってのことって話だ。つくづく信じらんねえ奴だわ。あーやっぱり俺も人間の言葉覚えねえといけねえか』
「……ソウシロ」
ぎょっとしてハティを見るスコル。ハティは少し得意げであった。
「イミ、ワカッタカ。オマエモ、オボエタ、ナ」
「スコシダケ。ゲルギャニ、オソワッタ」
「アイツハ、サイショカラ、カナリオボエテイタナ」
「……ハヤイ、ユックリハナセ」
ふはは、と笑うハティ。
狼の口で人間の言葉を発音可能なことを、フェンリルは狼人マグヌスで知ったのだ。
ならばと一念発起しこれを自分で話せるようになるまで、ものの一年もかからなかった。そして自分の口でも話せるようになると、フェンリルの知識はそこから爆発的に増えていった。
やはり聞くだけよりも、会話ができる方が得られるものは圧倒的に多いのだ。
フェンリルはだからこそ、仲間で特に知恵に優れた魔狼たちには人間の言葉を覚える事を推奨するのだ。
特に、貴重な本を手に入れた時が、人間の知恵と技を学ぶとても大きな機会になるとフェンリルは強く主張していた。
大きな目的以外にはあまり自己主張をしないフェンリルが、こうした学ぶことに関してだけはやたら饒舌になるし、機嫌も良くなる。
仲間たち皆が、学ぶということはフェンリルの数少ない好む行為だと理解していた。
『スコルはあまりこういうことは好まないと思っていたのだがな、良いことだ』
『いやさ、フェンリルがあんまりにも楽しそうに言うもんだから気にはなってたんだ。んで、やってみたら、まあ、そんなに悪くはなかった、かな』
そして、食べることと狩りとメス以外に楽しみのない狼たちにとっては、学ぶことという新たな楽しみもまた受け入れられつつあったのだ。
フェンリルの指示はいつだって正しい。
皆がそう信仰するぐらいには、群を作ってからのフェンリルの選択は正解ばかりであった。
ただそれでも、フェンリルは選択の度に後悔を積み重ねていた。
フェンリルが求めたのは仲間であり、下僕でも配下でもない。そして、失われても惜しいとも悲しいとも思わないような相手を、仲間とは言わないのだ。
フェンリルにとっては群の全ての狼たちは仲間であった。たとえ一匹たりとて失われて欲しいなどとは思わない。
それを甘い、というのは狼たちにとってすら共有されている感覚ではあるが、それがフェンリルなのだ、とも思われている。
基本的に、仲間想いで優しい良い奴なのだ、フェンリルは。
そんなフェンリルが仲間の犠牲を飲み込まねばならぬ敵と戦う時、それはもう長く傍にいる魔狼の中でも数匹しか知らぬことだが、彼はとても傷ついているのだ。
それでも、前へと進む強さがあるフェンリルだからこそ、それ自体を誰も問題とはしない。
『四つ目だ! 気張れよみんな!』
凪に向けられた陣はこれで四つ目だ。
それ以前の三つの陣は既に破られた後だが、それぞれに特徴があり、そして対策を思いつけねば思わぬ消耗を強いられる、そんな陣でもあった。
凪の周囲を駆け回る円運動はそのままに、今度は激しい出入りを繰り返す直線的な動きも加わる。
またそこに時折魔狼をも踏み込み要員とすることで、凪への負担をより大きくする工夫がなされている。
ただこの魔狼を踏み込ませるというのはかなりの博打要素でもある。
『ゲルギャ!』
隊長を任せている彼らが失われると、一気にその隊の統制が崩れる恐れがある。それでも、彼らを使わねばならぬほどに敵である黄金カブトは強いのだ。
そんな隊長の一人であるゲルギャの頭に、黄金カブトの剣が叩き付けられた。
鉄パチキの異名をとるゲルギャの頭突きは、鋼すら打ち砕くと思われていたのだが、凪の一撃をまともにもらったゲルギャは大きく吹き飛び、大地を勢いよく転がっていく。
遂に隊長にまで犠牲が、と誰もが青くなっていたところで、戦意と指揮の重要性を理解しているゲルギャが、もう男の意地とかなんかそういうもののみを頼りに必死に立ち上がってくれたおかげで、狼たちの意気が落ちることだけは防げた。
すぐにゲルギャに駆け寄るフェンリル。そんなフェンリルにゲルギャは不機嫌そうに言うのだ。
『ば、馬鹿野郎、大将が、おめー、そんな、簡単に動いてんじゃねえよ』
と、普段ならば重々しい怒声になるところを、焦点の合わぬふらふらした目で途切れ途切れに言われても怖くもなんともないわけで。
『は、ははっ、さすがは鉄パチキのゲルギャだ。さすがの黄金カブトも、お前の頭はそう簡単には叩き割れないらしいな』
『あったりめえだ。……なあフェンリル、俺からは見えねえんだが、アイツの剣、どうなった? 折れた感じはしなかったが』
『ああ、健在だ。よっぽど硬い剣を使って……』
『いいや、違う。ありゃ黄金カブトの技だ。俺のドタマに叩き込んで吹っ飛ばしておきながら、アイツから受けた衝撃は、なんといっていいか、優しく強かった、そんな感じだ。力任せにどうこってんじゃ絶対にねえ。いいか、忘れんなよフェンリル。アイツは、俺のドタマの硬さに負けねえぐらいすげぇ技を持ってやがる』
凪の剣撃を真っ向から受けこれを防いだ、というこれまで凪がぶっ殺してきた人間全てが驚愕するような偉業よりも、ゲルギャは凪の能力を明かすことに注力する。
そしてその内容をフェンリルは大声で叫び、戦闘中の全ての仲間たちと情報を共有する。
自慢の鉄頭の威力が侮られる、自分の力がダシにされている、そんなことを考えもしない。ゲルギャも、フェンリルも、ただただ一心に黄金カブトの打倒を考えている。
これまで凪が戦ったどの敵とも違う。
最初からずっと徹頭徹尾、凪を倒さねばならぬ強力無比な難敵だと考え、打倒のために持てるありったけの全てを注ぎ込んでいる。
凪がコレに勝つためには、相手の油断をつくだの、相手の弱点を探るだのといったことでは不可能だ。
ただただ純粋に、この恐るべき集団フェンリルを上回る以外に勝利する術はないのだ。




