220.激戦の予感
ハーニンゲ領の領主と共にある国家運営に携わっている者たちが今、最も力を注いでいるのは、黒髪の秋穂との休戦協定である。
ハーニンゲ領都に辿り着いたランドスカープ通商団がまず最初にしたことは、貿易自由化だの関税云々だの軍を連れてきたことに対する抗議を受けるだのといったことではなく、ハーニンゲ領と秋穂との間を取り持つことであった。
まずは一時休戦に納得してもらい、しかる後本格的な終戦の話にうつる、というのは何処も同じ流れであるが、それを個人を相手にしてしまうというのも前例がない。少なくともハーニンゲ領においては。
とはいえ、さっさと休戦を決めておかないといつ秋穂が動き出すか全くわからず、一度秋穂が動き出せばハーニンゲ領にとって、特に統治側にいる人間にとって決して許容出来ぬ甚大なる被害の発生が確実視されている。
つまり、前例があろうとなかろうと、致命的な問題が自身の身に降りかかるほどの必要性に迫られれば、官僚たちも必死に動くという話だ。
「大変だねー」
とは、この圧倒的圧力を生み出している黒髪の秋穂こと柊秋穂さんである。
商人ハッセの離れで秋穂は、つい先日の血生臭い修羅場なぞなかったかのように、のんびりと料理長との新たな料理の開発を楽しんでいる最中だ。
後にそんな呑気な自分を殴りたくなる秋穂だが、この時点では秋穂にもどうしようもない。
凪が陥っているとんでもない窮地、ハーニンゲが連続して迎えた危機の中で最大のものがソコにあるということを、秋穂だけでなく領都の誰もがまだ知らなかったのだから。
楠木涼太のハーニンゲにおける仕事は、そろそろ終わりを迎えようとしていた。
仕事なんてものは探せば幾らでも出てくるものではあるし、これより先もこういったことを仕事にしたとしても、十分にこのハーニンゲ領各地の人間から金をとれるだけの事業が既に立ち上がってはいる。
とはいえこれら全て涼太が中心にあってこそではあるし、涼太はこの仕事を誰かに引き継ぐつもりも引き継ぎが成立するとも思っていないので、この仕事は涼太がそう決めたのならばこれで終わりとなる。
それを惜しいと思えるほど充実した時間であった、とはこの仕事に従事した、というより大半は巻き込まれたともいうべき立場の事務員であったり、騎士であったり、の者たち皆が考えたことだ。
特に涼太の護衛についていた五人はそう感じていたものだが、そこは大人である。全員きちんと割り切っていた。
そんな中、涼太のもとに一つの報告が入る。
「狼の群?」
そんな単語一つで、この国に迫る圧倒的脅威を感じ取れるほど、涼太の勘は鋭くはない。
女護衛、彼女はもう変に恋愛にこだわってはおらず涼太にとってとてもとても付き合いやすい女性になっている、は雑談ていどの気安さでこの話をしていた。
「この街の街長にそういった報告が入っているそうです。領都に戻られるのでしたらリョータ様も十分な護衛をつけてくださいね」
「人里にかかわってくるの?」
「実際にどんな被害が出ているのかまでは。所在ははっきりとしているらしいのでそれほど心配はいらないとも思いますが、何せ狼ですから、移動速度はかなりのものでしょうし」
「そりゃ確かに怖い。ハーニンゲって魔獣災害多いんだよね」
「ああ、それに関してもう一つ。リョータ様のご友人の金色のナギ様が、討伐困難と言われていた魔獣を数匹、退治してしまったという話が」
「……何をしてるんだアイツは」
「現地の者たちは喜んでいますよ。もう一人の方は領都で大人しくなさっているようですが、リョータ様といいナギ様といい、本当に、元気な方々ですよね」
ハーニンゲにとって、涼太の仕事が極めて有益であったとこの女護衛含む皆が認めている。その仲間であるナギもまた魔獣を退治しハーニンゲのためになる、他の誰にもできぬ仕事をこなしてくれているのだ。
冗談めかした口調ながら、女護衛の声には感謝の念が込められている。
そして、領都の人間たちは今、必死になって秋穂大暴れを涼太と凪に伝わらぬようにしている。
せめても休戦協定が結ばれるまでは、これ以上対処せねばならぬ人間を増やしたくはないのだろう。
権力者がなりふり構わず動けばこういうことができてしまうのが封建制社会というものであり、涼太たちとの認識に差が生じているところだ。
『居場所がわかってるんなら、さっさと軍でも出して退治しちゃえばいいのに』
なんてことを考えた涼太であるが、そんな簡単な話でもないのだろうとも思うので、これ以上このことに思考を回すことはなかった。
秋穂同様、後でその安易な考えをとても後悔した涼太であるが、何度考え直してもこの時点の涼太ではどうにもしようのないことであった。
不知火凪は、あの狼の群を迎撃するのに適した場所は何処か、と考えて、考えて、考えて、考えるのを諦めた。
『そもそも私、この辺の地理詳しくないし』
かといって狩人にソレを聞いたとしても、狼の群を凪がどう迎撃するのかがわからないというのに場所を聞かれても困るだけだろう。
ではどう迎え撃つか、となった時、凪も思考が止まってしまうのだ。
『いや、さすがに、あの数の獣の群とか相手したことないし』
ただの獣の群ならばいい。だが、アレはどう見ても統率の取れた群だ。あくまで凪の感覚的なものだが、群の長はもうそれこそ狼王を名乗ってもいいぐらいに頭が良いと思われる。
それに、一斉に凪を見たあの狼たちの視線を覚えている。獣だの、知能が低いだの、そんなことが全く頭をかすりもしなかった。アレを凪の感覚は恐るべき戦士の群と捉えていた。
つまり、凪が思いつく限りの手段をとって凪を殺しに来る、ということだ。
『あの、姿勢が低すぎる狼たちの群が、一度に襲ってきたなら私はどうする?』
頭の中で対処法が次々浮かんでくるが、やはり人を相手するようにはできない。そもそもからして、凪の学んだ剣術は対人用だ。獣のような人ではない形をしたものと戦うのはあくまでその応用でしかない。
不知火凪は、敵が目の前に出たとなれば僅かな躊躇もなく剣を抜く。これは同時に、殺し合いを許容したということでもある。殺すし殺される、そういったところにまで一瞬の停滞なく踏み込んでいける。凪は殺し合いを始めるのに準備を必要としない。
だが、だからと戦いに備えないという話ではない。
如何に勝つか、如何に殺すかを考え、工夫し、それが可能ならば可能な限り敵に対し有利に戦えるよう備える。
そもそもからして、毎日積み重ねている鍛錬なんてものは、備えの最たるものであろう。
『遮蔽を取るか、視界を取るか』
さんざん考えた末、凪は視界の確保を優先した。
人間ならば当然存在する死角は凪にももちろんある。これを補うために常に周囲を見渡しながら戦うのが凪のやり方だが、林の中などで戦った場合、凪側の死角が増えることの弊害の方が大きそうだ。
それによって凪の負担が増えるが、対処しようのない不測の事態は減る。後は凪の体力と技術次第だ。
だが、と戦場を想定する段になると、首をかしげることになる凪だ。
『じゃあ、逆に見通しの良いド平地でアレを迎え撃つの?』
さしもの凪も冷や汗が出た。とんでもないことになりそうである。起伏のある場所や川などの障害がある場所なんてものも考えたが、基本は林の中を選ばない理由と同じ理由で却下された。
つまり、ソレこそが結論と相成った。ド平地で千を超える狼の群を迎え撃つのだ。
『……危険を覚悟で、林の中にしよっかな』
狼には木の上への攻撃手段がない、という通常の狼への対応としては正解の選択であるが、あの群を相手にそれは通用しないのでは、という気が凪はしているのだ。
そしてそうなった時、八方どころか地面以外の三百六十度全てから立体的に襲い掛かられることになる。コレに対応し続けられるのは宇宙世紀の新人類ぐらいのものだろう。
どうしたもんだか、と頭を悩ませている凪は、隠れる気もない気配の移動を察知した。
即座に判断する。というより身体が動いた。凪の身体は今いる林の中から、少し離れた開けた土地を目指して走っていた。
そんな自分に苦笑する凪。
『ああ、やっぱり上からも来られるのは嫌だったのね、私も』
山中の移動、それも群での移動となればどうしてもその走る気配、つまり山の他の生物が走る群を見て反応する、を避けられない。
狩人たちはこれをすら避けての移動が可能であるし、本来は狼もそれほど多くない数であれば同様の動きが可能だ。だが、少なくとも今凪に迫っている群にそんな真似はありえない。
今、来るのは少し凪にとっても意外であった。
あの群を追跡した凪は群のおおまかな移動速度を把握していたが、それを大きく上回る速さであったのだ。
『ふん、あちらさんも本気ってわけ……ん?』
気配が、少し凪の思っていたものと違う。
開けた場所に出る。足場はそれほどよくはないが、視界が通る草木のない場所だ。
そこで足を止めると、追ってきていた狼たちも木々の間からのそりと姿を現す。だが、出てきたのは三十匹ほどで。
『クカーッカッカッカ! いたぜいたぜいたぜええええ! このドローメ様の手柄がよう! ありがとなあ黄金カブト! お前のおかげで俺は隊長になれるんだからよおおおおおお!』
知能の高い魔狼が複数いる群である。
彼らの間での確執やより高位を望む争いもあるのだ。つまるところ、ドローメによる抜け駆けであった。
このドローメの抜け駆けを凪は別の意図で受け取った。
『ふーん。ほんっと猪口才よな、コイツら』
凪という戦士の力量を見定めるための捨て石である。
狼の顔つきだの表情だの言葉だのは一切わからない凪の目からは、小隊長ドローメの野心に燃える瞳も、仲間のために捨て石を買って出た決意に満ちた目に見えている。
だがこれは、凪にとっての好機でもある。
『ちょうどいいわ。事前情報が足りてないのはこっちもなのよね』
ドローメの合図と共に、三十匹が一斉に動き出す。
だがそれは常の狼の動きではない。凪の周囲を駆け回りつつ、各々が仕掛ける機を窺っている。ここにドローメ自身も加わっている。
ドローメは他の狼より身体二つ分は大きいのだが、デカくて目立つ分、逆にそちらに意識がいきがちになってしまう。
ただ漫然と走っているのではない。速度に緩急をつけ凪の隙を窺いつつ、いつでも急転換して襲い掛かる、そんな動きである。
ご丁寧に襲い掛かるフリまでしてくるのだから、コイツらはもう野生の狼とはまるで別の存在と言ってよかろう。
『どーして、かしらね』
戦う前は、案外に不安は多いものだ。特に、未知の敵と戦うことになったとなれば。
全く新しい敵、全く新しい戦術、全く新しい技術、そういったものを前に、しかし、いざ剣を抜いて身構えるとなると、ベッドの上で物を考えている時とはまるで違った感覚がある。
凪は、自分の身体の内に溜め込まれている、気の遠くなるような修練の積み重ねを信じている。誰よりもだ。
これが通用しない相手がいる、状況がある、なんてことは考えていない。届かぬことがあったとするのならそれは、凪が自分の力を上手く使ってやることができなかったせいだ、と考える。
だから凪は恐れない。未知をすら、乗り越えられる力があると凪は信じているからだ。
狼が人へと迫る様は、大地を滑る、という形容がぴたりとくる。
人でいうのなら、ひざ下の高さで致死の牙が、走行に適した四本脚にて突っ込んでくるのである。
決して軽くはないその体重を乗せ、飛び込んできた狼を、それは狼にとってすら予期せぬ速度で、凪の刃が迎え撃つ。
『!?』
人の死角を知っている狼の攻めだ、当然凪の死角から迫っていたはずなのに、駆ける狼の眼前には、一瞬で身を翻した凪の振るう刃が迫っていた。
狼はもう止まれない。だから止まらず、斬られた後のことを考える。少しでも前へ、牙を、爪を伸ばしてほんの僅かでも傷を残してやらんとする。
すぱり、と下方より縦まっぷたつに両断された狼は、生前の意識に身体は従いそれでもなお凪へと迫っていったが、斬りながら上へと敵の突進衝撃を逸らす凪の剣術により、その遺体は途中で力尽き崩れ落ちた。
その一閃の危険さを、集まった狼たち皆が共有した。
ただの一撃で、狼たちはコレが魔狼に率いられた三十匹の群の手にも余るかもしれぬ、と察した。だから彼らは指揮官である魔狼を見る。
それでもなお踏み込むかどうかは、魔狼ドローメの判断だからだ。
『引くな! 殺れ! 勝ち方は俺が教えてやる!』
ドローメの雄叫び一つで狼たちは覚悟を決めた。
これがフェンリルの群だ。常の狼とはもうあり方から変化してしまっている。戦士の中の戦士たちの集い。こうなった狼たちは、直接の指揮官であるドローメか、彼らの王フェンリルの言葉以外では絶対に止まらなくなる。
己の死をすら武器にして、狼たちは凪へと襲い掛かっていった。
その光景を、魔狼ドローメは信じられぬ思いで見つめていた。
『ば、馬鹿、な、三十匹だぞ? これだけの数で、たった一匹の人間を囲んだというのに。もう十匹も殺されているのに、まだかすり傷一つつけられぬままだと?』
コレに襲われてはドローメすら死を覚悟せねばならぬ。配下の狼たちはそれほどの動きであったのだ。なのにこの人間、黄金カブトは涼しい顔のまま、ただの一度もその戦闘姿勢が崩れることはない。
ここまでくるともう上手い下手の問題ではない。そもそもからして、黄金カブトという存在そのものが、この魔狼ドローメに率いられた三十匹の狼たちより遥かに勝っているということであろう。
『ぐっ……だからと、ここまできて引けるものか!』
抜け駆けまでしたというのに、傷一つ与えられずただ三十匹の仲間を失っただけ、なんて話を持ち帰れるわけがない。
フェンリルの群に入り、更に上を目指せると確信した自身の配下たちを見て、ドローメは彼ら全てを失う覚悟を決めた。
『お前ら! 山津波を仕掛けるぞ!』
残った配下の狼たちはといえば、その言葉を聞いても動じたふうはない。むしろ、ようやく決断したか、といった様子すら見られる。
ドローメが山津波の先陣三匹を指名すると、彼らは喜び勇んでこれを受け入れてくれた。
残った二十匹が一所に集まり、そして、ドローメの号令が放たれる。
『やれい! 山津波!』
狼たちが三列に並び、一斉に凪へと襲い掛かっていく。それぞれの列の先頭にはドローメが指名した先陣がそれぞれ一匹づつ。
これが殺された瞬間、残る者が上下左右より一斉に飛び掛かる。これこそがドローメ小隊の必殺山津波だ。
そんな仕掛けが三方より同時にかかってくるのだ。通常であればそもそも三匹の同時攻撃を防ぐことはありえない。
だが、当然の如く黄金カブトは三匹の同時攻撃に対し、凄まじい速さで三匹共を葬り去ってしまう。
その瞬間、さながら先陣三匹の身体が爆ぜたかのように、その後背より無数の狼たちが飛び掛かってきた。
『見たか! これぞ我が必殺の山津波よ! 貴様の素早さもここまで全周囲を取り囲んでしまえば……』
これまでは凪の必殺の間合いに入る時は、狼たちは十分な注意と避けることのできる何かを用意して踏み込んでいた。だがこの山津波は、凪の対応能力を上回る数で一斉に攻める、というのがその狙いだ。
残った二十匹全てが凪の間合いの内へと飛び込んでいき、そしてそれらは、正に神速の身のこなしとも言うべき凪の剣により、次々と斬り倒されていく。
瞬間的にその場を飛びのくといった移動を数度繰り返すことで、凪は狼たちの視界から一瞬で消え失せ、狼が凪を見失ったことによってできた猶予の間に狼を一匹ずつ仕留めていった、という現象が起こっているのだが、それを為し得るにはよほどの技術が必要とされよう。
瞬く間に攻め込むのが山津波ならば、これをすり抜けた凪が瞬く間に狼たちの数を斬り減らしたのも道理である。
それでも、手足を、胴の半ばを失った狼たちは、それでも立ち上がり凪へと挑もうとしていた。
だが、ドローメは、凪の動きを見ていた彼は、それまでの凪の戦いは決して凪の全力ではなかったとようやく思い知った彼は、呆然とした顔でこれを見るのみだ。
『こ、これ、は、どうにも、ならん。こんなにも、こんなにも速く動かれたら、誰にも、勝てるわけがないではないか……』
魔狼ドローメは、知能が高いせいで逆に、他の狼たちのように勇敢に、或いは無謀にはなれなかった。
数歩後ずさりする。フェンリルの群において、決してありえぬ後退を、ドローメは当人が気付かぬ間にしてしまっていたのだ。
それにはたと気付いたドローメだったが、最早心中深くに根付いた恐怖は拭えない。そのまま更に数歩下がり、そして身を翻そうとした瞬間、その声が聞こえた。
『あ……』
それは雄叫びだ。
ドローメが何度も聞いた、その度心の底から震えがきた、誰よりも憧れた、フェンリルの雄叫びだ。
声の聞こえる方をドローメが振り向くと、遥か遠い場所に、フェンリルだけではない、魔狼の幹部たちも揃っていて、じっとドローメの方を見ている。
彼らは山の向こう側だ。決して援軍に来ただのといった話ではない。なのに、彼らがそこに居てくれるということが嬉しい。そして、どうしようもなく恥ずかしい。
フェンリルは雄叫び以外、何も言わなかった。それは他の幹部たちもだ。
恐怖に竦んだドローメの心が、ただの一声で蘇る。そうだ、ドローメも、あそこに並びたかったのだ。フェンリルの傍で、彼の力になれていると信じたかったのだ。
『お、おお、おおおおおお、おおおおおおおおおおおおお!!』
ドローメもまた吠えた。
遥か遠く、爪の先ほどにしか見えぬ小さなフェンリルの首が、縦に小さく揺れるのが見えた気がした。
それだけでドローメは、何処までだって行ける気になれた。
『見ていろフェンリル! 幹部共! このドローメ様の力を今こそ! お前たちに示してくれる!』
小細工抜き、真っ向からドローメは凪へと飛び掛かっていく。
この時の駆ける速さが、その後に続く全ての攻撃の起点となる。下手な刃は狼の体重と速度を重ね合わせたもので弾き飛ばしてしまえるのだ。
更に、衝突寸前での動きが狼たちの攻撃に様々な変化をもたらす。こここそが彼らの腕の見せ所というわけだ。
『だが、今回は変化も無しだ! ありったけをぶちこんでくれる!』
変化の気配だけ見せながら、ドローメは最大の威力を発揮できる、そのままの突進を選んだ。
すり抜け様に凪の足を狩り取る。牙で食いつき引きずり倒す、なんて話ではない。千切りとるつもりで大きく口を開き、しかし、寸前で逆に凪に動かれかわされてしまった。
『チッ! だが! 何度だって……』
急停止し反転しようとしたドローメだったが、身体が全く言うことを聞いてくれない。
それどころか首を動かすこともできない。通り過ぎた前を見たまま、どんどんと視点が低くなっていく。
下半分を斬り落とされたドローメは、そのまま地面に激突し意識が途切れるその瞬間まで、狙う凪の姿を探し、飛び掛かって食らってやるつもりであった。
仲間の死を見届けたフェンリルは、幹部たちと共に群へと戻っている。
並走する仲間のスコルは、フェンリルのやったことに否定的であるようだ。
『ほんっと、フェンリルは仲間に甘すぎるな。勝手して抜け駆けする野郎なんざほっときゃいいのに、しかもアイツ、最後逃げようとしてたろ。あんなクソわざわざ煽ってやらんでも良かったろうに』
同じく並走するハティは、ドローメには友を馬鹿にされた恨みがあるのだが、それを根に持っている様子はない。
『そこがフェンリルの良い所だろう。それに、事前にアレを知れたのは僥倖と言っていい。まったく、想像以上の化け物だな』
少し後ろを走っているゲルギャが、重々しく答える。
『最後に単身挑むことができたのだ、俺もドローメのことはもう認めてやるさ。ならば、アレが為した成果もまた評価すべきだ。……まともにやっては仕留められん。疲れるまで待つ必要がある、か』
呟くようにギョッルが漏らす。
『総がかりだ、たった一人を相手にな。なるほど、フェンリルの言う通りだったな。人間の中には、到底信じられぬ怪物が潜んでいる、と』
フェンリルはぼやくように返した。
『俺も信じらんないよ。狼が混ざってるマグヌスならともかく、黄金カブトみたいな何処から見ても人間にしか見えないようなのが、あんなとんでもない動きするだなんてさ。アレ、俺よか速いだろ』
スコルは走りながら大いに喚いた。
『あー! 嫌だ嫌だ! せっかくこんだけデカイ群になったってのに! どうしてこう厄介な敵ばっか出てくるかね! 人間の砦の時といい! この土地に入ってすぐに出てきた猿の群といい! ロクな奴に出くわさない!』
そういった敵を打倒することでフェンリルの群は力をつけていったのだ。それは幹部たちは皆わかっている。
それでも、目の前に次々と置かれている障害たちに対し、文句の一つも言ってやりたいというのもまた、皆が心から頷けることでもあった。




