219.フェンリルの夢
リネスタードのダイン魔術工房(既に工房なんて名前ではまるで足りぬほどに規模が大きくなってしまっているが)にて。
橘拓海は、たまたま話題にのぼった魔獣に関することを、隣で別件で議論していたエルフのスキールニルに問うた。
拓海がイングの秘術により魔術師になってしまったことに関して、唸るほどに言いたいことのあるスキールニルであったが、拓海が魔術師になったということ自体は彼女はとても歓迎している。複雑なようでいて案外に単純な人物であるのだ。
「魔核が魔獣化の原因、って話は根拠のある話なの? 人間はそういうものだで思考停止してるけど、エルフはきっとその辺細かく条件とか調べてあるんじゃないの?」
ほほう、といった顔のスキールニルだ。
「そうですね。元々、魔力の影響下にある生物が変質するという話自体は、エルフの間で長く議論されてきたことですから。それらの事例を一々説明はできませんが、少なくともエルフの間でそれは定説となっているものですよ」
「ならさ、魔核があった森の深部では、今は魔獣が産まれなくなっているでいい?」
「はい。とはいえ、人間でしたら魔獣化していないとしても獣の相手には注意が必要なのでしょう。不用意に踏み込むのはやはり好ましくはないでしょうね」
「踏み込むっていうか、踏み込まれる方が心配だったんだよ。魔獣災害って人間が呼んでいるもの、エルフの方でも把握してる?」
「ああ、なるほど。もちろんそちらへの懸念も、魔獣が産まれなくなったとなれば解決したと言っていいでしょう。人間側ではアレをどう認識しているのですか?」
「数十年周期で森から魔獣があふれ出てくる、って聞いてる。たださー、魔獣ガルムみたいに数匹で出てくるのもあれば、多数の魔獣が群をなして襲ってくるってのもあって、今一よくわかってないんだよな」
ふむ、とスキールニルは少し腰を据えて話をする気になったようだ。
彼女は基本的に無知な相手を嫌う。だが、学ぶ姿勢のある相手であり、スキールニルの許容できる範囲の学習能力を持つ者ならば、丁寧にこれを説明することを厭わない。
そんな時にかわされる会話を、楽しんでいるフシすら見受けられる。
「そもそも、魔獣が森から出てくるという事態がどういうものなのか、です」
魔獣とは生物が魔力による変質したものである。この変質の中で、知能が高度化するというものがある。
高い知能を持つ魔獣は、当然生存能力も高いし、長生きすればするほどに強力な個体となっていく。この時、元が群をなす生き物であった場合、同種の魔獣ではない獣を従えるなんてことがある。
魔獣が森という生息域から人間の領域に踏み込んでくるとなった時、それほどの力を得たというのは大抵がこの群を作った場合らしい。
「魔獣が森の獣を殺して回ることで力を得るのと、配下に加えて共に暴れて回るのとでは後者の方が強いものですからね、基本、単体であったり少数である魔獣ならば知能が高くてもそこまで警戒するほどのことはないでしょう」
「群の事例、見たことある?」
「一度、魔獣猿が三百匹ほどの群を率いるのを見たことがありますね。正直、あれが人間領域に突っ込んでいたのなら、下手をするとリネスタードの城壁すら越えられていたかもしれません」
「リネスタードには来なかったと? でも、魔の森が溢れて真っ先に狙うのってここだよね」
「そうですね。森の中では考えられないぐらい食べやすい植物があるところです。毒もなく刺激物もなく、食べられることを前提に育つ栄養に満ちた植物なんてもの、人間の領域以外では育つわけがありませんから。ま、その猿共は何をトチ狂ったかエルフの領域に突っ込んできたんで、当時の戦士たちがあっという間に全滅させていましたが」
「お、おう、そりゃあ、何より? でいいのか? ともかく、そういう特別な知能の高い個体が魔力による変質で発生した時のみ、いわゆる人間が言うところの魔獣災害が発生する、という話でいいのかな」
「そうです。なので周期、というのは誤りでしょう。こう言ってはなんですが、出るか出ないかは完全に運ですよ。少なくとも自然発生的に生じる魔獣であれば、これを望む形に変質させるなんて真似はありえません」
「自然発生的でなければ?」
「沼ですよ、ソレ」
「沼?」
「何処まで調べ学んでも底なんて見えないって意味です。魔力による生物の変質の調整は、何処まで調べても意味がわからない例外が発生します。法則を求めて調査を進めているのに、必ず例外が起こるのです。逆に凄いですよね、どんな不変の法則に思えるものであっても、何処かに絶対に例外があるんですから。あんなもので成果を得ようというのは博打を打つのと大差ありません。私見ですが、まだまだその領域に踏み込むには我らの知見が足りていなさすぎるのではないか、と」
科学技術が著しく発展した世界で生きてきた拓海には、スキールニルの言葉がよく理解できる。
産業革命の最中に、どれだけ核融合の研究を進めようと実のある成果は得られない、といった話だろう。
「一定ていどの成果はあげてる、って聞こえたけど?」
「……この話題は、エルフにとってあまり好ましいものではない、と覚えておいてください」
目を見張る拓海。エルフがどうかはさておき、このスキールニルが探究の手を控えるなんて真似を認めるかの如き発言に驚いたのである。
拓海は、それでも踏み込むことをやめなかった。
「魔術師が魔力を扱うことに、変質の危険は伴う?」
「無視していい量ですね。それに、魔術を扱うことのできる存在は、同時に変質に対する耐性ができている、というのが通説です。でなければ今頃イング様は、山のような身の丈の怪物にでもなってしまっているでしょうよ」
敢えて面白おかしくこう言ったスキールニルが、口にしなかったことを拓海は考える。
無視していい量、というのは人間にとって、ではないのかと。人間よりも遥かに長い寿命のエルフが魔術を行使し続けた結果、変質に似た何かが起きたなんて事例でもあるのかもしれない。
とはいえ、耐性の話は拓海も聞いたことがあるし、実際魔術を体感した拓海の感覚的にも理解できるものだ。
「その魔獣化ってやつでさ、特別おいしい猪とか作れないかな。おいしくて穏やかでどうでもいい餌でがんがん大きく育つようなの」
スキールニルの顔がなんともいえないものになる。
「つくづく、人間とは業の深い生き物ですね。魔獣化の調整ができると聞いて、真っ先に思いつくのが美味な食用獣とかどういうことですか」
家畜云々はさておき、この話でとても重要な点が一つある。
魔獣災害、変質した獣、そういったもののなかで、エルフのスキールニルがリネスタードの城壁すら通用せぬかもしれぬという魔獣は、知能が高く群をなす魔獣であるということだ。
そして、そんなスキールニルですら見たことはない。
千匹の狼の群は。
アーサ国の王都にて、ほとんどのドルイドは生活している。
ドルイドとは、予知に特化した魔術師、というのがアーサ国知識層のドルイドに対する理解である。
厳密には違うのだが、とりあえず一般的にはこの理解で問題はない。いずれ、ドルイドである者は予知以外の特殊な何かをできるでもないし、その予知の力を得るためだけに、気の遠くなるような修行を積み重ねなければならない。
ただ、その予知とはドルイドが望んだ時に望んだ形で得られるものではなく、ある日突然、断片的な映像という形で見ることができるものだ。
極めて不安定なものであるが、結果得られるものがあまりにも大きすぎるため、ドルイドという敬称と共に彼らの育成が続けられている。
その日、若手ドルイドの一人が寝床に入る時、ふと、心がざわつくような感覚があった。
『なんだろう。体調でも崩したかな?』
規則正しい生活を繰り返しているドルイドだ。だからこそ普段通りでないことには敏感である。
だが、ちょっとした違和感ていどでしかないその落ち着かなさは、目をつむればいつも通り眠れてしまうぐらいのものであった。
そしてその日、若手ドルイドは遂に、予知の夢を見たのである。
『お、おお、おおおおおおお! これが! これが予知か! 私にも見ることができた! できたぞ!』
予知は決して安全なものではない。見てしまった未来の映像が現実に起こらなかった時、その差異は予知を見たドルイドの身体に襲い掛かる。差異の大きさ次第では死をも覚悟せねばならぬものだ。
それでも予知を求めて仲間たちと共に修行に励んでいるドルイドたちは誰しもが、いつかは自分も未来の予知を得てみせると日々努力を積み重ねているのだ。
その若きドルイドの見た映像は、少し低い視点からのものだ。
子供か、と思ったが、視点の周辺には、ちょっと見たことも聞いたこともないぐらい多数の狼が見える。
『ど、どういう群だ? いや、このような巨大な狼の群が、本当に存在し得るのか?』
狼たちはどうやら吠え声で意思の疎通を行なっているようだ。特に数匹の身体の大きな狼は、明らかに高い知能を伴っていると思われる挙動をしている。
それ自体は若いドルイドにも受け入れにくいものではない。実際に、魔獣化させた狼を彼は見たことがある。
『あのとても賢い狼と比べればまだまだ……いや待て。ちょっと待て。あそこにいるの、あれ、おい、まさか、あの魔獣にしては小さな身体と、とても利発そうな目は、フェンリルじゃないのか?』
若きドルイドの低い視点からの目は、かつて研究室で見た魔狼、フェンリルに酷似していた。
実際はあくまでフェンリル候補でしかないのだが、研究所の皆はかの賢い狼をフェンリルと呼び、中には彼が不快になるのも構わず、小さいフェンリルと呼ぶ者もいた。
若きドルイドの目となっている狼はフェンリルに近寄っていく。目が合うと、彼はとても優し気に微笑んだ。狼であってもそれがわかるぐらい、彼は表情豊かなのだ。
フェンリルが吠える。すると背後から凄まじい数の雄叫びが聞こえた。
視線の主が振り返ってくれた。そこには、見渡す限りの大地全てが、狼で覆い尽くされたとんでもない光景が広がっていた。
『な、なななななんだあの数は!? 百ではきかん! 千!? いやもっとだ! いかん、人ならともかく狼はひどく数えにくい。千五百? いや二千、それ以上だ。どうなってるんだ。こんな数の狼がいったいどこに……』
ここが何処か。それはフェンリルたちの進む先に答えがある。
絵で見た。ドルイドたちは予知の光景を現実と照らし合わせられるよう、様々な土地や建物の絵を覚えるよう要求されている。
『うむ、あの城壁の低さ、中央の太い尖塔。あれはハーニンゲの領都だ。いや、おいまさか……』
フェンリルの合図と共に、無数の狼の群があの城壁に向かって、突っ込んでいったのだ。
フェンリルの能力は、空を駆ける、だ。
これを用いて城門をあっさりと無効化するのだから、やはりフェンリルはとても知能が高い。その上、このフェンリルの動きに外の狼の群がぴたりで合わせてくる。
フェンリルだけではない。他にも多数の優れた魔狼がいるのだろう。
そして城門を突破されてしまえば、狼の群の速度に対抗できる者はいない。
簡易の柵などで一時的に狼の群を止められたとしても、中にいる魔狼がその強大な力をもってこれを粉砕してしまう。
石造りていどならば魔狼の障害とはなりえない。そして軍とはそもそも狼のような魔獣の、それも集団と戦うための準備などしてはいない。
『なんだあの狼たちの戦いは。ハーニンゲの軍がまるで赤子のようではないか。まさか、ハーニンゲの領都がこうもあっさりと……そうか、狼の群の移動速度に、軍の対応が間に合わなかった、ということか。いや、待て。それは領都の内にいる、明らかに過剰な人間の数と話が合わない。彼らは避難してきた民ではないのか?』
既にハーニンゲ領都では組織的な抵抗は失われている。ハーニンゲにおける王城にあたる城はあるが、あれもフェンリルたち精鋭があっという間に落としてしまっている。
『し、信じられん。いや、理由ははっきりしている。狼が群で人の集団を撃破する、そのための鍛錬を積んできているとしか思えない。この狼たちは驚くほどに対人戦闘に慣れすぎている。そして人間の側があまりにも狼との戦いに慣れていなさすぎる』
だが、それだけでこうまでの差がつくものなのか。
結局その後、十日ほどかけて領都の全てを狼たちが食らい尽くし、この地を去っていった。
領都を陥落させたせいか、その後組織立った抵抗を受けることなく、フェンリルたちはハーニンゲの地を蹂躙していく。
作物は全て食う。そして人も食う。女子供も関係ない、ただの一人も見逃さない。
若きドルイドの目には、これを繰り返すたび、フェンリルたちがより屈強になっていくように見えた。
そしてハーニンゲの全てを食らい尽くした頃には、フェンリルたちは五千を超える巨大な群となっていて、これが、アーサに向かうのか、それともランドスカープへと進むのか、それがはっきりする前に予知は終わってしまった。
「何という! 何ということか! 修行不足か!? 最も重要な情報を得ることができぬとは!」
寝床から跳ね起きた若きドルイドは、あまりの無念さに歯ぎしりしていたが、予知で得たものを一刻も早く王に伝えるため、部屋から駆け出していったのだ。
アーサ国国王オージンは、興奮した様子で予知を語ってくれたドルイドを退席させると、そこでようやく正直な感想を顔に出すことができた。
苦笑しながらオージンは、一人この部屋に残った側近に向かって愚痴のように溢す。
「……物事の良し悪しとは軽々に判断してよいものではない。そういう話か、これは?」
側近もまたやるせない顔をしていた。
「フェンリル候補が研究所より脱走した。そんなありえない話が報告されたのが三日前で、その十日前にはロキ様がマグヌスを連れ出しランドスカープに行ってしまったという話がこちらにあがってきていて、もうどうしてくれようかと思ってた矢先、コレですからなあ」
フェンリルの名を継ぐに相応しい候補として現フェンリルが最有力視されていたため、ロキはもう一人の候補であるマグヌスを連れ出してしまったのだが、この数日後に最有力の現フェンリルが極めて厳重な警戒を突破して研究室より逃げ出してしまったという話だ。
慌ててロキを呼び戻そうと手配していたところに、逃げ出した現フェンリルの未来に関する予知の報告があがってきたのである。
「予知の有用性が揺らぐという話ではないが、コレに振り回される我が身の間抜けさを考えずにはおれぬ。……ロキへの追捕は無しだ。マグヌスはもうアレの好きにさせて良い」
「ではやはりあの小柄な魔狼をフェンリルに、ということで」
「脱走した先で何をするかと思えば、同胞を集めハーニンゲを侵略し力を蓄えるとは。我が国とランドスカープとの緩衝地帯であるが故にこそ、両国ともに即応が難しい。まったく、アレにそのような知恵をつけたのはいったい誰だ」
「それはロキ様では?」
「アレは特に賢かったのを覚えている。ならばロキのような者を信用はすまい。まあ、今更犯人捜しをしても意味はないか。しかし、原初の予言に語られし巨大な狼とは、なるほどこういうことであったか。言われてみれば納得の形よな」
「私は原初の予言に謀られた気分です。まったく、毎度のことですが、もう少し、こう、わかりやすいものにはできなかったものかと……」
「ははははは、お主は相変わらず、原初の予言にもまるで敬意を払わんな。予知の最後、五千の狼の行く先は何処だと思う?」
「五千ていどで我らに勝てるなどと思うほど、アレは愚かではありませぬ。となれば行く先はランドスカープでしょう。かの地で更に力を蓄え、その日を迎えることになるかと」
「うむ、そうよな。ふふっ、万を超える狼の群なんてものを見られる日も近いかもしれんな」
「そこまでいければ、最早あれを小さいなどと嘲笑する者もいなくなりましょう。しかし、ふむ、手綱無しということは、ギョッルの角笛はアレにということで?」
「そういう可能性もある、ていどだな。アレが手に負えぬ厄災と化すまでには、まだ結構な時間がかかろう」
「ニーズヘッグ、ナグルファルに次ぐ、三大厄災にまで育てますかな」
「……どうだかな。いずれ、ニーズヘッグとナグルファルのみでも事は為せよう。とはいえ、新たな厄災の誕生は祝うべき慶事だ。原初の予言も、ようやく最後の一つが揃ったといったところか」
側近どころか国の主要人物たちにすら言っていない更にもう一つの厄災に関して、オージン王は決して口にすることはない。
そんな秘中の秘の存在を思慮の浅いロキが知ってしまっているのは、コレを計画した段階からずっと続く懸念材料であったが、どうやらあの男もコレだけは他所には漏らしていないようだ。
『それにしても、ランドスカープへ向かう監査官としての偽名がロッキーだと? ……本当に、あの愚かさはいったいどこの誰に似たのだか。一族にああまで浅慮な者は他におったかな』
フェンリルがアーサ国研究室より脱走したのは、固い決意を胸に秘めての事だ。
数えきれないほどの同胞の犠牲の上に、フェンリルという存在は生まれている。
フェンリルが唯一その存在を認めているマグヌスは、人間であるからこそとても慎重に術式を組んでもらえたが、フェンリルたち狼に対して研究室の者たちは失敗してもかまわない、むしろ失敗を積み重ねることで新たな法則を得ようとまでしている。
そんな研究室の者たちの実験の犠牲になった同胞たちの無数の躯に、フェンリルは復讐を誓ったのだ。
『あの恐るべきニーズヘッグをすら、俺は倒せるほどの力をつけてみせる。獣を食らい、人を食らい、俺と仲間たちは際限なく強さを増していく。人も魔獣も、全てを俺たちが食らい尽くしてやる』
殺すことで強くなる。この世界の真実の一つを、フェンリルは理解しているのだ。




