217.救いの主
涼太のもとに、領都より客人が訪れていた。
ビリエルという名のランドスカープ人で、彼とはランドスカープからハーニンゲまでの道程で一緒であった。途上にあった不可思議な景色、柱状節理の解説をしてくれたのも彼である。
彼が何を目的にハーニンゲに来たのかは知らない涼太だったが、彼はこの時に初めて、自身の身分を口にした。
「王立文献編纂室所員、ビリエルだ。今日はおりいって君に頼みごとがあってきた」
あまり聞き覚えのない役職だ。だが、すぐに涼太はぴんときた。
「もしかして、史書の編纂か?」
「おお、知っていたのか。いかにも、我らはランドスカープ史の編纂を仕事としている。その仕事に関してなんだが……」
彼が言ったのは、史書に載せることになった、秋穂と凪の話である。
「え、嘘、マジで?」
「嘘なぞつくか。だが、これには問題がある。とてもとても大きな問題が。わかるか? 史書とは後世に残す後進の者たちのための道しるべだ。である以上、記述は正確を期さねばならぬ。ならぬのだが、問題がある。調査を重ね正確な描写をしたとて、何度読んでも到底本当に起こった出来事だとは思えぬものを書かねばならなくなった時、我々はどうすべきだと思う?」
「あー」
たった二人で教会の聖地に乗り込んで三千の兵を粉砕し教会の主要人物をほぼ皆殺しにした上、途上で死んだ兵は千人を超えている。
ビリエルはとても疲れた顔で言った。
「神話や寓話であっても、ここまで無茶は言ってこんぞ。伝説にあるガルムとて、実際に殺したのは百人にも満たぬ数で、それが、千、せん、せんにんだぞ。さんざっぱら調べたのだがな、千を超える遺体の処理だのの生々しい話も山と聞けたし、実際にその目にした者からも話を聞けた。主道いっぱいに死体が敷き詰められていた、なんて話が誇張でも比喩でもなくそのまんま起こった出来事だったなんて話、誰が信じるというのかっ」
他にも教会との揉め事は調べてあり、スンドボーン、シェレフテオでの戦いも、更にそれ以前の活動に関してもかなり細かいところまで調べてある。
よくもまあここまで調べたもんだ、と感心している涼太であったが、ビリエルからすればたまったものではない。調べても調べても、千人を殺したという話を裏付けるような内容ばかりが出てくるのだから。
「それで今回、無理を言って商隊に参加させてもらい、アキホとナギを近くで観察しようと思い立ったわけだが」
「……おおう、思ってたより活動的だった」
「ナギは早々に何処かに消え、アキホはもう何をやってるのか皆目見当もつかん。で、この二人と同行してきたリョータに話を聞こうと思ったわけだ。というかあの二人、ハーニンゲで何をしているのだ?」
「山で遊んでるのと、街で遊んでるのとがいる。ま、正直どう言い繕ったってどうにもならんだろ。注釈で、極めて非常識な能力を持っていたとでも書くしかないんじゃないか」
「それはまったくもって美しくない」
「……おおう、そういう感じなんだ、ランドスカープの編纂室は。ま、俺でよければ話ぐらいはしてもいいんだが、その、な、今はちょっと立て込んでいてな」
「うむ、話は聞いている。随分とハーニンゲに入れ込んでいるようだが、正直、交易のみに注力している国が、その交易で失策をやらかしたというのだから、私なぞはもうほうっておけとしか思わんのだが」
涼太は周囲を見渡して、ハーニンゲ人の護衛が話を聞いていないことを確認した上で声を潜める。
「ランドスカープの人間の大半はそんな感想だな。実際、アーサとランドスカープとの間を仲介することで相当な儲けになってたんだからしょうがないとも思うが」
「だから、それが崩れたのなら国も崩れる。妥当な結末だろうよ。一人の歴史家として言わせてもらえるのであれば、かつて栄華を誇りながらも滅びていった都市のことを少しでも学んでいたのであれば、交易のみに偏重した国家運営なぞ恐ろしくてやってられんと思うのだがね」
「歴史家だからこそ言える意見かもな。明らかに割の悪い投資をしろ、って話だぜそれ」
「それが王の役目だ。そこ、に不安を抱かずに済む我らはきっと、幸福な時代を生きているのだろう。新王ギュルディ様にも不安はないしな」
「王としての実績はまだだろ」
「ゲイルロズ先王の仕事を当たり前に全て引き継げている段階で、少なくとも私はあの方を不安視はしておらんよ。それに、王都にはびこっていた暗殺者やら剣術道場やらの理不尽な暴力を一掃してくださったのだぞ、見事という他はない」
歴史編纂という仕事のわりに、現在の国の在り方を随分と正確に把握しているように見える。
現代人的な感覚でいうところの知識人というのは専門分野に特化しているという印象があるが、この時代の知識人とはこうした社会情勢から何から幅広く学んでいることが多い。
なので涼太は、この人にこう頼むのである。
「凪と秋穂の話、俺の仕事が終わった後でよければいくらでもしてやる。だから、こっちの仕事手伝っていってくれないか」
利敵行為に当たるのでは、と渋るビリエルを説得し、涼太は優秀なお手伝い要員を一人確保したのである。
涼太がハーニンゲの人間とここ一月ほどで必死になって作った建物と、その中の人間たちを見て、ビリエルは呆気にとられた馬鹿面を晒すことになった。
「おい、おい、おい、おい、リョータ。おいリョータ。これはいったいどういうわけだ」
「ハーニンゲの人間は結局のところ、工場ってものがどんなものなのかを幾ら話したところで理解できなかったんだ。考え方からして異質だしな。なら、直接見えるところに作ってやれば、具体的にどんなシロモノなのか馬鹿でもわかるようになるだろ?」
「やっぱりこれ工場か!? 工場は管理と運用がとんでもなく難しいと聞いていたのだぞ! それを! そんな一月かそこらで! それも工場がどういったものかも知らない連中を相手に! どうやって作るなんて真似ができたんだ!」
「規模は小さいし、人数も少ない。とはいえ、ランドスカープの工場ってのはこれの規模を大きくしたものだ、って説明すれば、それがどういうものかを想像しやすくはなってくれたようでな。この一月、俺も結構頑張ったんだぞ」
「頑張って作れるものなのか!? そもそも! 他国でこれを作ってしまうとか何を考えているのだ!」
「アーサからの視察を受け入れてんだ、今更だろ。それにそもそも、王都の工場は規模がでかすぎるせいで関係者が多すぎて、とっくに隠すことなんて諦めてるぞ」
「いや、お前、だからってなあ」
「ま、実はコレ、働いてる人みーんなそれなりに教育受けてる人間なんだよ。三日前まで畑耕してました、なんて人にやらせたらそりゃ上手くいかないけど、知識層の人間が働くのであれば、これでもどうにか稼働はできるんだよ」
ビリエルが喚いている間にも工場での流れ作業は続いており、これを視察する者も多く訪れている。
眉根をこれでもかとねじれさせながら、ビリエルは涼太を見る。
「簡易版をあっさりと作ってしまえるぐらい工場に精通しているだなんて聞いていないぞ。リネスタードの工場で学んだか?」
「そんなところだ。言っとくが、リネスタードの工場は王都のそれよりずっと進んでるぞ」
ここから先は小声でビリエルの耳元で囁く。
「向こうじゃ製紙工場が稼働し始めた。羊皮紙とは比べ物にならないぐらい安価で、使いやすい紙が大量に出回ることになる」
驚愕に歪んだビリエルの顔からは、国史編纂に携わる文系エリートの姿はまるで見られない。
「お前、そういうとんでもないことを、こんなところでさらっとだな、くそっ、その話は何処まで広がって、いや上の連中は把握しているはず、ああ、なるほど、混乱を避けるためか」
「理解が早くて助かる。砂糖なんかもそうだったけど、生産量が劇的に増加することで社会構造にすら変化を与えるような商品は、それこそ商人の好きにさせるんじゃなくてお上が管理してかないと」
「……大いなる変化の時代に生きているという自覚はあったが、なるほど、お前のような人間が複数存在し力を発揮することで、時代は大きく動いていくものなのだなぁ」
なんか遠い目とかしだしたビリエルだ。
くすくすと笑う涼太。
「大量の紙を真っ先に予約した相手なんだけどな、人間やらギュルディやらがそうするより先に、エルフが可能な限り全部くれ、だってさ。ま、さすがにギュルディが要求する分は別枠だろうけどさ」
「……あのな、私は時代が動く、社会が動く、そういったものを記録している人間なんだ。その私に、正に歴史が動いたとでもいうべき情報をそうぽんぽんと投げつけてくるんじゃない。エルフて、お前、鬼哭血戦に参戦するぐらい仲が良いことにも驚いたものだが……」
王都にいた時、実はリネスタードよりの連絡が涼太にあったのだ。
ダインの研究所にシェレフテオで会った二人のエルフがいると聞いて、本当に行ったんだと笑っていた涼太である。
さて、と涼太は話を続ける。
「報酬の情報はこんなもんでいいな。んじゃあキリキリと働いてもらおうか。ランドスカープの事情に詳しい事務員ってやつ、本当に貴重でありがたいんだよなー。あっちの事務員用の部屋で自分の立場を説明してくれれば、これでもかってぐらいこきつかってくれるから頑張ってな」
「……全部が終わったら、アキホとナギの話も頼むぞ」
「おう任せとけ。んじゃよろしくー」
こうしてビリエルが働きだしてしばらくして、女護衛がとても良い笑顔で涼太に言った。
「本当に助かりました。あの方、ランドスカープの上級官僚じゃないですか。何処からそんな方連れてきたんです?」
「はっはっは、日頃の行ないってやつさー」
女護衛は常日頃から涼太を上手く持ち上げるべく備えているのだが、今回もそうだが、涼太を持ち上げるのに女護衛は大した工夫も努力も、実は必要がなかったのである。
務めが大切で、務めを果たすことが喜びである。そういった人間は、価値基準がその務めをこなすための助力となるか否か、であったりする。
涼太がそういう人間であると見た女護衛は、涼太の務めの助力となれるよう全力を注いだ。
『いやー、ここまで必死に仕事したのって私初めてかも』
女護衛さん、それ自体がとても楽しかった模様。
ただ、本気で仕事をして、成功して喜び、失敗して悔しがる、それは他者から見てとても魅力的に映る、というのも女護衛は理解しているところだ。
そんな女護衛から見ても、涼太からそれなりの好意は勝ち取れていると思える。
仕事の妨げにならないていどに物理的距離を縮めてみたり、都合の合う限りは一緒に行動するようにしたり、共にあるというだけで常に上機嫌である、といった女護衛からの好意も伝わるよう繰り返している。
男女の仲を意識しているのなら、この時点で何かしらの反応があるところだ。だが、ない。
『んー、さて、ここからは……』
手練手管は数多ある。だが、美人にモテたというだけで浮ついてしまうような間抜けが相手ではない。
はしたないと思われず、さりとて女性らしさを、もっと言えば女性に対し男性なら誰しもが感じる情欲をかきたてるようなモノを、見せてやらねばならない。
女護衛が涼太篭絡を任務としているということは、他の護衛と共有している情報ではない。
だが、だからこそ、女護衛が涼太に対し好意的であると思えるしぐさを見て、彼らもまた女護衛が涼太を男性として意識している、と考える。
『二人は放置、一人は協力的、残りは不明だけど……うーん、あれ、私に気があるのが一人二人混じってる、わね』
それらを上手く操作し調整しながら、涼太のみに意識を集中できるよう環境を整える。
そういったことをさらっとやってのけるのが、諜報員として彼女が重宝される所以である。
そしてそんな優秀な諜報員である女護衛だからこそ打つ手は早い。一つの手が上手くいかなければ別の手を、それでも駄目ならまた別の手をと次々と策を講じていく。
そうしていった結果、自然と涼太の好む女性像に近づいていくし、それはまた涼太が女護衛を女性として意識する切っ掛けにもなっていく。
この辺の立ち回りの妙は、何処ぞの金黒とは比べ物にならぬ巧みさである。
だが。
『………そろそろ、かな』
それでも、最後の一線、お互い踏み込まずにはおれぬ間合いにまでは、涼太は決して踏み込もうとはしてこない。
ここまでやってもそうならないというのならその理由は明らかだ。涼太が、自覚的にそういった状況にならぬよう行動しているせいだ。
それはつまり、涼太の側からの遠回しな拒否の合図だ。女護衛の好意を知って、それを表に出さぬままに、涼太にその気はない、と女護衛を傷つけぬよう気を配りながら振る舞っているのだ。
常の恋愛ならばここで終わりだ。相手にその気がないというのに、無理に押してもロクなことにはならない。ましてや相手は、恋愛に対し冷静に対処できる大人であるのだ。
だが、ロクなことになろうとなるまいと、それでも関係を持つことを望まれて女護衛はここにいるのだ。
『準備は整った。リョータの性質は見切ったし、私が仕掛ければ、まず間違いなくリョータは私に手を出すことになる。そうせざるをえないよう、全てを整え終えてる』
だが、これをやったなら涼太は気付くだろう。女護衛がこれまで涼太に見せてきた自身の人物像から、女護衛の本質はかけ離れたものであるということを。
いや全てが別というわけでもなく、それもまた女護衛の持つ一面でしかない。だが、涼太がソレを好まぬと知っていながら仕掛けたと、涼太にバレることになる。
一切疑われることなく涼太と結ばれればそれが最善であったのだが、任務を果たすにはどうやらそれでは上手くいかぬようだ。
準備が整ってから丸一日、女護衛はこれを実行に移すかどうかで迷っていた。
迷って迷って、悩んで悩んで、そして、溜息一つと共に呟く。
『これまでね。これ以上の危険は、上にまで話が行く可能性が出てくる』
自身の優秀さを証明することこそが、諜報員としての価値だ。それのみが、諜報員として働く女護衛の全てである。
それでも尚引いたのは、涼太が気に入っただのという次元の話ではない。涼太の後ろにいる二人に対し、言い訳の立たぬ形でこれを篭絡してしまった場合の危険を考えたのだ。
苦り切った顔の女護衛は、自分に言い聞かせるように漏らした。
「きっと、ここで引いた決断が、後々になって響いてくる。そう信じましょう」
危険な手を、もしやっていたらどうなったのか、そんなものはそれこそやってみなければわからないものだ。だが、やってしまったらもう、取り返しはつかない。
だから、危険を恐れて引いた時、それが正しい判断だったかどうかを判別する術はない。もしかしたら上手くやれていたかもしれない、そんな気持ちをこれからずっと抱えていかなければならない。この後で、上役に今回の失敗を詰られるたびにきっとそう思うことだろう。
そこまで先がわかっていながら、わかってしまう人間だからこそ、女護衛は進退を誤らずに済んだのであろう。
女護衛が撤退の決断を下したまさにその日、イデオン・ヌールマンの屋敷に黒髪の秋穂が襲撃をかけていた。
関係者全てが不幸になる未来を避け得たのは確かに、彼女が悩みに悩んだ末出した撤退の決断なのである。




