207.平和な国
客人の身柄というものは、公的にはその客人を招いた庇護者の預かりとなるもので。
社会通念的には、凪、秋穂、涼太の三人の身柄は、ハーニンゲ商人であるハッセ・ロセアンが預かっていることになる。
これはこの三人がやらかしたことの責任をハッセが取る、という意味であるが、それ以外の見方も存在する。
つまり、三人に対して責任を負うハッセのもとに、三人を自由にする権利がある、と。
もちろんそんな権限が本当にあったとして、その権限目当てでハッセを破滅させたとしても、客人と主との信頼関係を考えれば普通はその前に客人を放逐なりするものだ。それで権限云々の話は終わりだ。
そこでイデオン・ヌールマンは言うわけだ。ハッセとその一族の身の破滅と、三人とを天秤に乗せろ、と。
この交渉に乗ったが最後、ハッセはランドスカープ側からの信頼を失うが、ハーニンゲ全体が対ランドスカープに備えるというのであれば、ハッセにはランドスカープ側についている商人を説得するという役目も生じるし、決して無条件の服従を強いられるような極めて弱い立場にはなるまい。
イデオンの部下はしかりしかりと何度も頷く。
「なるほど。破滅せぬ、その先にも未来はある、と見せてこその取引ということですな」
「その通りよ。未だにランドスカープとの取引を重んじる先の見えなさに腹は立つが、さりとてアレもハーニンゲ商人。領地のためとならば諦めもつこう」
主人と客人の関係性について、厳密に法で定められているわけではない。あくまで、社会通念的にどうこう、という話だ。
ただ、逆に法に曖昧さが多いこの時代にとってその社会通念的に、というものは現代では考えられないほどの権威と説得力を持つ。
つまり、イデオンの狙いは決して無理筋ではないし、仮にもハーニンゲにおいて対ランドスカープ取引の第一人者とまで言われるほどの商人を相手に、その破滅を天秤にかけるほど追い詰めることができるという前提は、それこそイデオンほどの力と知恵のある貴族でもなくば成し得ぬことだ。
この件に関わる全ての人間にとって、真に不幸な話であった。
ハッセ・ロセアンは決して愚か者ではない。
少なくともランドスカープの大商人が後を任せられる、と思えるような人物であるのは間違いない。
ただその彼をしても、認識の差というものを埋めることはできなかった。
ハッセの部下が毎週の定期便であるランドスカープ王都からの連絡を持ってくる。
これを読んだハッセは深刻そうな顔を見せ、側近が不安げに問うてくる。
「また、よくない報せですか?」
「これを良くない、と言ってしまうのに抵抗はあるのだがな。やはり王都圏での混乱はほぼないものと考えた方がいいようだ」
「……信じられません。百年以上君臨し続けた王の退位なぞ、そう易々と認められるものなのでしょうか。ましてや相手は、十年近くの間王都圏より離れていた者だというのに」
「全く混乱がないではないが、少なくとも抵抗勢力は存在しない。一番文句をつけてきそうな三大貴族は全て直前の政争で抵抗力を失い、国内屈指の勢力だった教会も組織立った活動ができぬありさまだ。文句を言おうにも、何処を旗印にしていいのか誰にもわからんのだろう」
「では、アクセルソン伯は……」
「兵を失いすぎた。声高に叫ぶだけで、今までそうしてきたように兵を動かすことはないのだから、誰もアレを恐れることはない。むしろ、ここぞと周囲から圧力をかけられているようだ。あれではとてもとても新王には逆らえん」
側近は苦々し気な顔で言う。
「それは、つまるところ、辺境との取引がよほどにおいしい、ということでしょうか」
「それだけではないが、あの報告されてきた数字を、どうやら信じるしかなくなってきたようだな。あんな馬鹿げた数字でもなくば、国内各勢力が新王の即位にほぼ全て沈黙するなぞ、考えられんだろう」
「それは、つまり、辺境の工場の話も信じるしかない、と」
「そう言っている」
「それはそれはつまりつまり、綿の輸入は、最早避けられぬ、と」
「あの数字を信じるのであれば、ランドスカープ国内の綿は確実に余る。余るのなら、他所に流すしかなくなるよなぁ……むしろ、ギリギリまで輸出を堪えてくれたことを感謝せねばなるまい」
「余るほど作れと我らが命じたわけではありますまい」
「それで通すには、あまりに経済格差がありすぎる。ハーニンゲ領内では綿のことだけを話しているが、来るとなればそれ以外も一気に来るぞ。アイツら本当に穀物相場を見ているのか」
「穀物だけではありませんなー。馬車一台分の砂糖なんて馬鹿みたいな発注が普通に通ってしまいそうなぐらい、色んなものが溢れる気配が広がっています。ここまで堪えてもらえてたのですから、新王になんとか、もう少し、待ってはもらえないものでしょうか」
「待った分こちらの受け入れ態勢が整うというのであれば話も聞いてもらえようが、正直、これ以上は領主様も受け入れられまい。それはきっとアーサも同じことよ。それをギュルディ王は完全に見切っておられよう。最も致命的なものだ。よほどランドスカープを知る者でもなくば、ギュルディ新王がどれほどのお方か誰も知らんのだ」
首を落とし、二人は大きく嘆息する。
辺境を統一し、王都圏に舞い戻るや三大貴族の全てを押さえ、偉大なるゲイルロズ王に即位を認めさせ、新たに王位についた。そんな恐るべき王が隣国に生まれたことの意味を、少なくともハーニンゲの領主も貴族もまだ理解しきれていないのだ。
ハッセに代表されるランドスカープの実情をよく知る者たちはわかっている。
今、ランドスカープが動くということは、十二年前にランドスカープ貴族が単独で馬鹿をやらかした、というのではなく、ランドスカープ全体の意思としてそうなるということだ。
そしてそうなった時、軍事力であれ、経済的なものであれ、ハーニンゲにはこれに抗うことなどできはしない。経済規模で言うのならば、辺境区どころか、リネスタード地域にすら最早負けているのがハーニンゲなのだ。
その状態で抵抗なぞ全くの無意味だ。辛うじて、命を賭してハーニンゲの意地を見せる、的な意味だけはあるかもしれない。
その後の統治において、著しい不利益を被ることと比べどちらがマシかは考えるまでもないだろうが。
側近の青ざめた顔に向かって、ハッセは気休めを言う。
「ギュルディ新王は経済に強いとは聞くが、無体な侵略者であるという話も軍事を好むという話も聞かん。ランドスカープによる全力の軍事侵攻という事態は、今のところはまだ考えなくてもいいだろう。ギュルディ新王の即位に対し、アーサがどう出るかがまだはっきりとしておらん。それが見えるまでは様子見に徹するしかないだろうな」
それが常識的な判断というやつであったが、そもそもの情報格差というもののせいで、常識という部分に大いなる齟齬があった。
そして、ランドスカープによる経済進出への対策準備に追われるハッセは、この齟齬より生じた誤解を解いて回ってやるほど暇でもなかったのである。
何せハッセは、ハーニンゲが経済的に壊滅的打撃を被るとわかっているのだから、これより自らの財産を、そして身内たちを守らなければならない。
そして根が善良なハッセはそれだけではなく、全ては無理だとしても可能な限りハーニンゲの財産を、地位や権威を、残そうと最後の最後まで手間をかけ工夫を積み重ねていくだろう。そういう人間だからこそ、ランドスカープの商人たちも彼をハーニンゲ商人の第一人者として信頼しているのだ。
ハッセはこの時点でハーニンゲ商人からの攻撃をほとんど考えていなかった。
今している仕事が自分のみならずハーニンゲ全体のためになると信じていたからこそ、ハーニンゲ商人からの攻撃に対し隙を作ってしまっていたのだ。
それでも、イデオンのような強力な攻撃力を持つ者でもなくばハッセを一撃で追い詰めるのは難しかったろう。そして攻撃を認識さえしてしまえばハッセもその地力に相応しい抵抗もしよう。だからこそ、ハッセはイデオンに、してやられたのである。
柊秋穂の最近の興味の半分はハッセの屋敷の料理人の料理で、残る半分はこのハーニンゲ領という土地に向けられていた。
ハーニンゲ領はアーサとランドスカープとの間にあり、どちらの国もまだ成立しておらず北部と南部という形で分かれていた頃から交易で賑わっていた土地である。
北部のアーサと南部のランドスカープとで大量の物資をやりとりするのならばここを通るしかない、といった場所であり、その重要性から何度か侵略の憂き目に遭っている。アーサ側、ランドスカープ側双方より。
とはいえこの二国が成立した頃より、ハーニンゲ領は独立領として安定し始める。どちらの国にとっても、相手の国を攻める気がないのであればハーニンゲは緩衝地帯として都合の良い存在であったのだ。
「土地柄っていうのは歴史に紐づいてるもんなんだねえ」
基本的に、軍事行動をせねばならない時はもう、この土地は負けているのだ。
ハーニンゲが繁栄するためには、そもそも両国に軍事行動を起こさせないことが肝要であり、そのためにこそ力を注ぐことがこの土地の人間にとっての最善であった。
ランドスカープにとっても、ハーニンゲや更にその先のアーサとの交易を確保できていることが、無理をして軍事行動に出ることの危険度と比べ、より有利であると考えられるものであった。
尚武の国であるランドスカープとは、住民の種類からして違うと秋穂は感じている。
そしてこの争いごとを常としない空気感は、どうやらハーニンゲだけでなく、アーサ国もそうであるらしい。
そのためハーニンゲの住人は、どちらかといえばランドスカープよりもアーサ国に親しみを感じているように思えた。
『いい、国みたいだね、思ってたよりずっと』
アーサ国はランドスカープに対し色々とやらかしている、と秋穂は聞いているので、そちらでならばともかく、ここハーニンゲではあまり無茶はしたくないなー、なんて思っている秋穂だ。
揉め事は避けるべし、ということで、ハーニンゲでは顔を出していても問題にはならないだろうが、フードはきちんと被って顔を隠している秋穂だ。
そんな人間が街をうろついている方がよほど怪しい、という見方もあるし、実際に誰何の声をかけられることもあるが、身分証明用にハッセの家の紋章を見せればそれで口を開くまでもなく事足りる。
秋穂はフードをかぶったままで、今日は特に隠れるでもなく街をぶらついている。
じろじろとこちらを見る視線も、顔を隠している怪しさ故であるのならば、それほど気になるものでもない。
平和で安全な街だと秋穂も思っている。だが、秋穂の周囲一帯に誰がいてどう動いているのか、秋穂は細大漏らさず把握している。
『こんな真似、向こうにいた頃はしてなかったんだけどなー。随分とこっちの世界にも慣れちゃったね』
人は多い。さすがに交易の街だけはある。だが、その中で注視すべき人物はそれほどいるわけではないし、それならば秋穂にもそれほど負担になるものでもない。
ただ、秋穂はこんな状態だからこそ、異変には即座に気付ける。
「あ、あれ?」
「おい、どうし、あれ?」
「あら、なん、だ?」
三人の男が、店から出るなりその場に転んでしまった。
働き盛り、見るからに健康そうな体躯の男たち三人は、店を出たすぐのところで、不思議そうにしながら身体の不調に戸惑った顔をしている。
『へー』
秋穂はもちろん気付いている。あの三人の不調の原因に。それは少し遅れて店から出てきた老人にもわかっているのだろう。店を出るなり老人はまっすぐに秋穂を見てきた。
『へー、へー、へー』
秋穂の擬態は、よほどの剣士でもなくば見破れぬものだ。だが、見破れぬまでも、何かを感じることができる者もいる。
勘の鋭い者ならば、それとわからぬままに危機として感じ取ることができる者もいるのだ。
最初の三人は、秋穂の気配に気づき、しかし恐るべき脅威と意識的に認識できぬからこそ戸惑い、しかし身体は接近を拒否したため、不可思議な動きをすることになった。
それを見て老人は、三人を守るために店を出て、脅威の元である秋穂に視線を向けたのである。
三人も老人も、当然のように帯剣している。もちろん秋穂も。
ふと、秋穂はシーラと初めて会った時のことを思い出した。
『あー、シーラがあの時感じてたのはこれかー。どーしよ、ってなるね。別にどうにかする気ないんだけどなー』
無視するのもどうかと思い、秋穂は老人のもとに足を向ける。声を掛けながら。
「警戒するのもわかるけど、さすがに街中で理由もなく始めたり、しないよ」
老人は特に姿勢も態度も変化はなし。自然体のままで言葉を返す。
「そうか。いや、それはすまなんだ。お主のような相手を見るのはここでは珍しいものでな」
「私もそう聞いてたんだけど、まさかすぐにおじいさんみたいな人と出くわすとは思わなかったなー。私、秋穂。そっちは?」
「ヴィクトルじゃ。しかし、とんでもない臭いじゃのう。おぬし、これまでいったい何人斬ってきたんじゃ?」
「数えてないよ、さすがに」
「惨いことをする。斬らずに済ませる道もあったはずじゃろうに。それがたった一人でも、減らせるものなら減らしておくべきじゃったのう」
この老人の剛毅さに、秋穂は呆気に取られてしまった。
秋穂の技量を知って尚、こんなことを真正面から言ってくるのだから。
「言い訳、したいけど、みっともないから我慢する」
「カカカカカ、若い者はかっこうつかんぐらいでちょうど良いのよ。いいから、聞いてやるから言ってみい」
「……減らせるものは減らしてコレだし。幾人かは剣を抜いたのに見逃してるんだよ? 結構頑張ってると思うんだけどなー」
今度は老人が目を丸くする番である。
老人の目には、秋穂の姿がかつて秋穂がシーラを見た時のように、真っ赤に染まって見えていたのだ。
それこそ何百人と殺していなければ到底辿り着けぬ境地であろうと老人は予測したし、そこまで殺すのであればそれはもう、四六時中積極的に殺して回るような人間でもなくばありえない、と断じてしまっていたほどだ。
「死者の国で戦士を殺し尽くして出戻りでもしたか?」
「おじいさん、悪意なければ何言ってもいいと思ってるでしょ。さすがに傷つくよ私でも、初対面の人にそこまで言われたら」
秋穂のあくまで普通の人っぽい返答に、老人ヴィクトルはカカカと笑い出す。
「すまんすまん、噂に聞く黒髪のアキホが、ずいぶんと可愛らしいことを言うものでついな。で、わざわざハーニンゲにまで出張ってきた理由を聞いてもよいか? ここにはお主に見合うような剣士なぞおらんぞ」
「そういう国を見てみたかった、ってのが理由かな。この国なら、私たちでも剣を抜かずに過ごせそう。長居はしないから心配しないで」
ヴィクトルは、今度は柔和な笑みを見せる。
「その、気持ちはワシにもわかる。そのつもりがあるのなら、ここはほんに良き国じゃよ」
「そっか。じゃ、もののついでで一つ頼まれてもらってくれないかな」
「ふむ、頼み事にもよるが」
「私の顔見て、どうするのが最善か、一つ忠告をもらいたいなって」
「…………顔を見たら石になる呪いとかそーいうのか?」
「だーからっ! おじーさん私のこと何だと思ってるのかな!? 私はちょっとだけ、見た目に難があるのっ」
カカカ、とまた笑い、ヴィクトルは秋穂の奇妙な願いを了承する。そして秋穂がヴィクトルにだけ見えるようにフードを外す。
秋穂の顔を見てしまったヴィクトルは、すん、と感情の抜けた顔になり、そしてそのままの顔で言った。
「そのフードは大正解じゃ。ここでも絶対に脱がないことをお勧めする。……ここは平和な街じゃが、馬鹿が絶無なわけではないからの。というかお主の顔じゃと、賢い者まで馬鹿になりそうじゃ」
「あー、やっぱり無理かー。惑わされない人ってのもいるんだけどねー」
「自制心のない者にはどうしてもな。若いモンが色に狂った時はもう、当人にもどーにもならんもんじゃからのー。しかし、こうして近くでお主を見ていると、その気配といい顔といい、本当に人間かどうか疑わしく思えてくるのう。人でない何かが正体を隠そうというのなら、もーちょっとこー人間くさーい部分を用意すべきではないかのー」
「に、ん、げ、ん、だよ! ほんっとにもうっ、誰も彼も、自分の修行不足を棚に上げて言いたい放題してくれるんだからっ」
高らかに声を上げて笑うヴィクトル。
「そうかそうか修行不足か。なるほど、それは一本取られたわい。己の未熟を種族やら生まれのせいにするなというのは確かに道理よ。カッカッカ、実に人間らしい、よき答えじゃて」
そんなやりとりをして、秋穂はヴィクトルと別れた。
秋穂の懐の内にするりと入り込み、警戒を解いてみせるその振る舞いは正に年経た人間ならではの妙技であり、それを秋穂が不快に思うことはなかった。すぐに人をからかってくる面倒臭いおじーちゃん、ていどだ。
だが、秋穂が去った後でようやく身動きが取れるようになった老人の後ろにいた三人にとっては、そんな生易しい反応で済む話ではなかった。
「し、師匠、何故、あれを見逃したのですか」
「そ、そそそそうです。あれは、絶対に放置してはならぬ猛獣ではありませぬか」
「恐ろしい。あれが、黒髪のアキホか。誇大な噂ばかりと思っていたがとんでもない、噂ではまるで足りぬ怪物ぞ」
弟子三人がきちんと秋穂の脅威に気付いていることにヴィクトルは満足気であった。
「勝てんよ、ワシでも。それと、アレの気配に気付けたのは上出来じゃが、その後がよろしくない。いいか、今日の感覚を忘れるでないぞ。そして次からは、その時万全に動けるように備えておけい。逃げるすらできぬではいくら敵を見抜けたとて話にもならんわ」
弟子三人は頭を下げ恐縮する。
老人ヴィクトルは秋穂が去っていった方を眺めながら心の内で呟いた。
『さて、馬鹿息子も孫もランドスカープの王都にいるというのに死の報せも入ってこん。ということは、アレとは無事ぶつからずに済んだということか。できれば、敵を見抜いて戦うのを避けた、であってほしいの。それこそが、我がベロニウス流剣術のあり方なのじゃからな』




