186.ベルガメント侯爵暗殺未遂事件(後編)
ベルガメント侯爵の執務室は屋敷の一階にある。二階は宿泊や応接のための部屋が多く、皆が執務に励んでいる日中はおおむね一階のみが賑やかになる。
侯爵の執務室の隣の部屋は、建物の壁に面していて壁を抜ければすぐ外だ。ここに脱出組であるベルガメント侯爵、イラリ、オーヴェ千人長、そして十人の従者たちがいる。
従者たちは指示に従い、壁際の床板を外し、その下を掘っている。
さすがに脱出のための地下道を掘るほどの時間はない。だから掘っているのは外に通じる壁と、伏せた人間が頭を出さずにすむていどの深さの堀だ。
オーヴェ千人長が具体的に誰が何処をどう堀り、出た土を何処に捨てるのか、屋内の何を掘る道具に使うのか、を細かに説明しながらやらせると、驚くほど早く屋敷の外に通じる穴が完成する。
そこからは慎重に、それまでと同じ深さの堀を敷地の外まで伸ばしていく。
この堀だが、周囲を植木や花壇で囲まれている場所を通るため、伏せたまま掘ることができるのならば、周囲から堀の存在を見抜かれることはないのだ。
『本当にそんなことで抜け出せるものか』
それは侯爵をすら含む全員の疑問であったが、隠れながら掘ってみると、案外にいけるとわかる。また高い遮蔽の取れる花壇や植木のところは掘らずに済ませられることから、作業時間も皆が最初に考えていたものよりずっと短く済む。
オーヴェ千人長の策を最もよく理解しているイラリは、感心したような、呆れたような顔になる。
『よくもまあ、こんな手を思いつくものだ』
オーヴェ千人長が指示した堀の場所は、敵集団が突入する際にも使わぬ場所であり、屋敷内を隈なく探した後、敷地内で屋敷の外を捜索する段になって初めて発見できるものだ。
この屋敷の特徴として、ベルガメント侯爵家の王都における中心となる屋敷であるが、ここは主に侯爵の執務が行なわれる場所であるため、夜会の会場となるような屋敷と比べて庭の管理が甘い部分がある。
その分伸びやすい草木を遮蔽に用い、侯爵という地位に到底相応しくない地を這って移動するという手法により屋敷を抜け出そうというこの策は、それこそこの屋敷でもなくば成立せぬもので。
『事前に準備していたわけでもなかろうに。戦上手とは聞いていたが、この手の戦いも得手であったとは』
イラリがこういう時のために考えていた身代わりを立てるという案も考えついていたのだろうし、イラリが用意した赤子を用いる策も当たり前に組み込んできた。
今回のような暗殺者が動く屋内での戦闘というものは、いわゆる戦における野戦や城攻めとは全く違うものだ。この辺りの違いは暗殺者をやっていたイラリにはよくわかっている。
イラリは侯爵に目をやる。
侯爵は既に衣服を着替え終えている。侯爵の服は、イラリがこの屋敷にきて真っ先に探した者、侯爵と背格好が似ていて処置さえしておけば偽物だと断定できない、そんな人間オルバン執事が着ている。
彼は見ていて可哀想になるぐらい震えていたが、逆にこれを断る度胸もないのだろう。今は執務室にて最期の時を過ごしている。
イラリが窓から外を覗き込むと、敵の動きが見える。
常人ならば当然見えるものではないが、草木の揺れや、下生えの乱れ、どうやっても隠しようのない影なりが見えてしまう瞬間、といったものを見逃さずにいることで、敵の動向を察することができる。
『……こちらの動きには気付いている、な。その上で、ふむ、慎重を期するか。あれは私以外にも腕の立つ戦士がいる前提の動きだ。ふふっ、さすがに大一番ともなれば思い切りよくとはいかんようだな』
この辺も完全にオーヴェ千人長に読まれているところだ。暗殺者たちが今考えていることは、如何に失策を無くすかということであり、間違っても侯爵陣営の隙を突くといったやり方ではない。
なのでオーヴェ千人長は邸内に家具で障害を作ると同時に、こちらに思わぬ手があるぞ、と警戒させるような幾つもの仕掛けを用意させた。絶対に失敗できぬ任務につく者の気持ちをよく知っているのだろう。
既に壁に穴は空き、今は幾人かが外で脱出路を掘っているところだ。
これも身を伏せたまま効率的に土を掘るやり方なんてものを、オーヴェ千人長は何処で学んだのやら、とイラリはこの恐るべき将軍の底知れぬ知恵には脱帽ものである。
だが、相手が慎重であろうとも時間は当然有限だ。
オーヴェ千人長が指示した堀は完全にそれが完成しきる前に、敵の襲撃が開始された。
こうなってしまってはイラリも動かざるをえない。侯爵とオーヴェ千人長をちらと見るイラリ。二人が頷くのを見て、イラリは扉より外に駆け出していった。
自身の邸宅ではあれど、ベルガメント侯爵はその床下に潜ったことなどない。子供の頃でもやろうと考えたことすらない。
先を進むはオーヴェ千人長だ。
床下からまっすぐ伸びる土を掘った溝の底を、器用に這いずりながら移動している。これを真似るようにベルガメント侯爵は這いずって移動する。
背後から剣戟の音が聞こえる。
勝つ算段ができている時のこの音からは恐怖も何も感じはしないものだが、全く勝てる見込みのない時のこの音は、身震いを止められぬほどの恐ろしさがある。
腕や足がすくむのを、ベルガメント侯爵家の矜持にすがって押さえ込み、一心不乱に手足を動かす。
屋敷の外に出ると、音があまり聞こえなくなった代わりに、頭上に何もないことが恐ろしく感じられてくる。
敵に見られればそれでおしまいなのに、侯爵の頭上には何もないのだ。
空を飛ぶなんてことは誰にもできぬのだから、上から見つかることはない。そう聞かされていても、見つかってはならぬ立場で開けた空間が傍にあるのだから到底落ち着いてはいられない。
もう老境に至っていると言っても過言ではないベルガメント侯爵が、若い兵士のように、幼い子供のように、地面を這って進むという今の有様にも思うところはある。
そんな侯爵を気遣ってか、オーヴェ千人長は定期的に現状を説明してくれる。
その口調に怯えも、焦りも、勇んだ様子すらない。
「這って移動するのは残り半分ほどです。難所は後二つ。正確に、確実にこなしてまいりましょう」
兵士の長なんてものをやっている者は、大抵愚か者を如何にまともに動かすかに尽力するものだ。
愚か者を動かすのに必要なのは怒声と暴力で、これは地位が上がっていっても何処かにそういった部分が残るものだ。たたき上げの将なぞは特にそういった傾向にある。
だがこのオーヴェ千人長の指示は、心掛けのしっかりした者を相手にする時、最も効率的であるような指示の出し方だと思われる。
自らの置かれた状況を明確にし、己の為すべきことを自覚できるように、言葉を重ねてくる。
『相手を見て、より適切なやり方を選んでいるのだろう。なるほど、これは……』
兵士のみならず、侯爵の郎党を従わせ、護衛の任にある者も納得させ、今また侯爵の地位にあるベルガメント侯爵の不安を取り除き目的のために専心させることができている。
自身の窮地を理解していながら、侯爵は配下貴族の顔を思い出す。
『これを死なせたら、シェルヴェン男爵に何を言われるものやら』
邸内からの戦闘音は聞こえ続けている。
それが微かに聞こえるていどのところまで逃げ、隣家との境である植え込みを抜ける。這いずるのはここまでだ。
隣家の敷地を小走りに進む。勝手口。扉の鍵を当たり前の顔で割り砕くオーヴェ千人長。大きな音を立てるのはよろしくないのでは、と口に出しそうになって堪える。任せるしかないのだから、余計な口出しはすべきではない。
そのまま屋敷の中を走る。昼日中だというのに人っ子一人見当たらない。
屋敷の内装はとりたてて珍しいものではない。だが、全く人の気配のない屋敷というものは侯爵の記憶にもない。
自分の屋敷の外、敷地内は侯爵の見知った空間であったはずなのに、這って移動するとなるとまるで見知らぬ別の場所であるように感じられた。
知っているのに知らない。そんな光景は、侯爵から現実感というものを奪い取っていくようで。
『まるで、夢の中を走っているようだ……』
そんな浮ついた侯爵の気分は、突如足を止めたオーヴェ千人長により引き締められる。
「呼吸を整えてください。次、この扉の先に出た後はしばらく休めません。決して、足を止めてはなりませぬ」
まるで侯爵の心の内を見透かしているかのようで。危機感のない自身に苛立ちながら侯爵は深呼吸と共に精神を整えにかかる。
「すまん。この先の説明を再度頼んでいいか」
「はっ」
この先どう動くかを、再度オーヴェ千人長より説明される。その説明の中で自身がどう動くのか、想像しながら侯爵は幾つかの質問を重ねる。
そんな問答の中で、侯爵は薄れてしまった自身の危機意識を再度持ち直す。鉄火場は侯爵の本領ではないのだが、こういうことを当たり前にできるのがランドスカープ三大侯爵なのである。
話を聞きながら呼吸を整えた侯爵は、オーヴェ千人長と共に走り出す。
敵の姿は一向に見えない。それは屋敷から脱出する時からずっとそうだ。見つかったらおしまいなのだからこれでいいのだが、自分のやっている警戒が本当に必要なものなのか、効果が発揮されているのかを一切確認できないというのは、どうにも辛いものなのであった。
ベルガメント侯爵邸襲撃の指揮を執る男は、既に屋敷の中に入り込み、邸宅の玄関口にて部下たちからの報告を受けている。
邸宅の人員はその全てが一階の侯爵執務室前にて籠城の構えだ。
悪い選択ではない。襲撃者側の戦力次第ではこれで援軍到達まで粘ればいいだけの話。だが、こちらは五十の精兵を揃えている。時間稼ぎもままなるまい。
実際、攻撃を開始してから見る間に侯爵側の人員は減っていっている。
壁をぶち破るなんてことも考えてはいた。敵には同じ暗殺者の月光イラリがいるのだ、コレを相手に油断はありえない。どうしても突破が難しいのなら壁を抜いて、なんてことも考えてはいた。
だが、執務室前に山と積まれた家具たちが撤去されると、なんとこのイラリが強引に突破を図ってきたのだ。
これは完全に予想外である。何故なら、これをイラリがやっても、侯爵を逃がすことにはつながらないからだ。
だがイラリは皆の予想を裏切り、暗殺者たちの殺害ではなく、自身が包囲を抜けることを最優先に動き、屋敷から抜け出してしまった。
『なん、だ? これは? あの、月光イラリが、死を恐れて屋敷より逃げ出したというのか?』
先だっては鬼哭血戦十番勝負にて見事勝利の栄光を手にした男だ。それが何故このような不名誉極まりない真似をしたのか。
侯爵が死ぬのなら、護衛のイラリもここで死ぬ。それが誇りを持つ戦士のあり方だろう。或いは、暗殺者としての矜持であろう。
部下の男が私見を述べる。
「侯爵の命、という線はありませぬか? 御嫡男にランヴァルトとイラリの二人を残したかったと」
「……ふむ。新参なればこそ、イラリがその話を受け入れる余地もあるか。もしくは、絶対に他者に譲れぬ何かを預けたか」
ベルガメント侯爵家も歴史は長い。周囲に知られていない家督相続の際の情報や物品がある可能性も否定はできない。
部下が問う。
「包囲組を動かしますか?」
「……いや、それには及ばぬ。アレは最低限の妨害のみで通して構わん」
部下は頷き指示を出す。
目的は見失わない。今彼らに求められているのは、侯爵の絶対なる死だ。
既に邸内の防衛線は崩れている。侯爵殺害は時間の問題だ。イラリが何をしようとも、侯爵を殺す方がより優先されるという目的を決して見失うことはない。
イラリ突破後、少しして報告が入る。
ベルガメント侯爵自害。執務室にいた郎党は全員死亡。
郎党が一人だけ隣の部屋にいたが、こちらは子連れでありクローゼットの中に赤子を隠し、これを守るように立ちふさがっていたとのこと。
ちなみに、このクローゼットの真下の床板を外して侯爵は逃げているのだが、子連れ女決死の演技によりこの事に気付く者はいなかった。
「侯爵の遺体は?」
「損壊が激しいので、現在確認中です。どうも、暖炉で全身を燃やそうとしていたようで」
彼が胡乱気な顔をすると、部下もまた渋い顔だ。
「部屋から誰かが脱出した形跡はありません。燃え残った手や肌を見る限りは侯爵当人であろう、とも思えるのですが……」
「この手の末期の嫌がらせは戦場では多いが、貴族家ではそう見られるものではない。再度邸内の捜索を行なえ。絶対に見落としは許さんぞ」
主君の遺体を燃やすなぞ、よほど覚悟の決まった配下にしかできまい。
当然身代わりの可能性に思い至るも、屋敷より脱出した人間はイラリのみ。それ以外は脱出できないように立ち回ったのだから当然だ。
屋敷ごと燃やしてしまうなんて雑な真似が許されない任務だ。殺害の証拠として侯爵の遺体は必ず持ち帰らなければならない。
『仕方あるまい。屋敷と外を徹底的に調査した上で、遺体を持ち帰るとするか』
元よりその可能性、つまり侯爵の身体が判別不明なほどに損壊する可能性もあったのだ。そういった時、どう対応するのかも考えてある。
身代わりとしたのならば、侯爵の身柄は何処かに必ずあるはずで。これを見つけ出してやればいいだけだ。そして隠れ潜んでいる可能性を全て消した上で帰還する。そこまでやっても、ベルガメント侯爵家の援軍がくるよりは先に撤収できるだろう。
うんざりした気分で部下に指示を出したこの男が、敷地内に脱出跡である堀を見つけ真っ青になるまで、あと二時間である。
イラリが屋敷を出た後、用意されていた包囲を抜けるべく動くのに合わせ、オーヴェ千人長と侯爵も動いた。
武力任せで強引に突破するイラリ。これを防ぐべく動いた暗殺者を仕留めることでできた包囲の穴を、するりと抜けていくオーヴェ千人長たち。
イラリを止めるべく包囲の兵を差し向けるのなら、それで空いた穴を抜ければいい。イラリを止めるべく包囲を崩さないというのであればイラリが包囲を殺し潰してできた隙間を抜ければいい。
間を計るのが難しくはあったが、それさえ誤らなければ問題はない。
包囲突破後、侯爵はオーヴェ千人長にその手腕の見事さの理由を問うた。
「まあ、戦なんてものは、敵の思わざるを為さねばそう容易くこれを打ち破れはしませぬ。ですが戦に備えるなんてことは誰しもがやっていることでして。その上で思わざる手を打とうと思ったならば、他にはないその戦い特有の何かを利用するのが一番です。軍人に限らず人というものは、滅多に起こらぬ出来事に対して備えたりはしないものですからな」
「……口で言うほど簡単なことか、それ」
まだ窮地は続く。現在の王都はルンダール侯爵の手の内にあると言っていい。この事態を受け、ベルガメント侯爵派閥の軍が王都目指し進発するだろうが、これが到着するまではベルガメント侯爵が頼れる武力はこの王都にはないのだ。
それでも喫緊の危地は脱した。イラリとも合流する予定であるし、今のところは一安心ぐらいはしていいだろう、と侯爵は息をつくのであった。
イラリは脱出の直前の、屋敷の皆の顔を思い出す。
誰しもが、運命を受け入れたなんて顔はしていなかった。全員が言葉によらず言っている。無念だと。
そして脱出するイラリに向け、血を吐くような顔で言っていたのだ。侯爵を頼む、と。
『新参の私に、それを頼むなんてことしたくもないだろうに。それでも彼らはただの一度も、私にもオーヴェ将軍にも恨み言を言うことはなかった』
それは侯爵のためにならぬと考えたのだろう。
イラリもまた侯爵子飼いの暗殺組織の出だ。侯爵に対する忠義の心は持ち合わせているつもりだった。
だが郎党として代々仕え続けてきた者たちの忠義の姿は、イラリの心を大きく揺さぶるものであった。
『お主らの無念、決して忘れぬ』




