165.蠢動する敵味方
王都圏におけるギュルディの主な支持母体となるのは、無条件でギュルディを支持している王の血筋を引く貴族たちだ。
これは王の血を引くも後ろ盾となる貴族がいないというギュルディとほぼ同じ立場であるということから、ギュルディが勢力を伸ばしていけば、それはいずれ彼らが切望してやまない、王族の復活に繋がると期待しているからだ。
一貴族でしかない彼らに王国から多額の年金が払われることはない。貴族年金なぞ微々たるものだ、少なくとも彼らにとっては。だが、それが王族となれば話は違ってくる。そうであると、彼らは信じている。
その辺の事情を聞いた涼太は率直な疑問を述べる。
「話に聞くこの国の王って人は、そーいう無駄な出費を嫌う人なんじゃないのか?」
「そうだな、私も無駄な出費は大嫌いだ」
おうそうか、と納得した涼太である。
そういったギュルディの支持母体の代表者との面会もする一方で、ギュルディは精力的に他貴族との会合を重ねる。
それがベルガメント侯爵派閥の貴族が多いのは、彼らがギュルディが主戦場とする商業利権に食い込んでいる者たちだからであり、彼らとの取引は、ギュルディにも彼らにも利益となる素晴らしいものとなる。
その辺がわかっているベルガメント侯爵配下の貴族たちも、自ら望んでギュルディに売り込みをかけにいく。
ギュルディがこの派閥を好む理由は、きちんとギュルディにも利益になる話を持ってくることだ。
そうでなければギュルディにとっても持ち掛けた貴族にとってもただ無駄な時間を過ごしただけとなる。そんな馬鹿げたことに時間を費やすようなことはしない者が多いのだ。
一方、商取引に疎い貴族はというと、こちらはこちらで取引する価値がある。
彼らの配下の金庫番や商人は、貴族の家を維持するために必要な金銭の管理に長けており、そういった者に貴族としての体面を考えた上での取引をもちかけてくれるからだ。
そして涼太は言う。
「一番問題なのは、偉い立場にある下衆だよな……」
配下に任せるでもなく、さりとて利益をもたらすでもなく、貴族としての立場と権威権力をふりかざしてくる輩である。
だが、馬鹿にしたものではない。こういった連中が最も恐ろしく、最も警戒せねばならぬ相手なのだ。
何せ実力行使を一切厭わぬ連中なのだ、それを、王都の権益やら建前やら力関係やらを絶妙にかいくぐって行使してくるのだから、始末に負えない。
ギュルディはそういった者たちを、基本的には相手にしない。
「ま、こちらに反撃できるだけの力があると向こうに伝わっていれば、滅多なことでは動かんよ、連中は。基本、一方的に殴れる時以外は動かんものだ」
「……おう、想像以上に下衆度が高くてびっくりするなそれ」
「建前や力関係をかいくぐるってのはつまりはそういうことだろ。そこまで嫌そうな顔することか?」
正に貴族、といったギュルディを見て、ちょっと感心している涼太である。全く同じ頃、とある人物のリークによりギュルディへの印象が実は可愛いところもある、へと変化した凪と秋穂とはあまり話が合わないだろう。
涼太が一緒にいて思ったことは、王都圏の貴族たちにとって、ギュルディは同類であり、自分たちと同じ人間である、と認めている相手だということだ。
それは貴族位を剥奪され辺境に流れていたとしても変わらない。それが、ギュルディに流れる青い血の価値というものなのだろう。
涼太の目から見て、今のギュルディは鬼哭血戦十番勝負よりも、商取引の拡大の方にこそ注力しているように見えた。
『だってなあ、十番勝負に出る戦士を売り込みにくる貴族への対応、見るからに興味なさげなんだよなー。お前せっかく如何に優れた剣士かってのアピールしてきてんだからもーちょっと真剣にきいてやれって』
付き合いの長さか、或いは涼太はギュルディを見抜く術に長けているのか。
貴族同士にすら見えぬギュルディの興味のあるなしを、この短期間で涼太は見抜けるようになっていた。
凪と秋穂は、フードを深くかぶった顔の見えぬいつもの格好で、昼日中から王都を歩いている。
そこは、王都の治安関係者が最も気を使う区域で、貴族たちすら訪れる場所、高級娼館が立ち並んでいる。
幸い今は昼間なので、凪と秋穂にとってもそれほど場違い感はない。もちろん居心地の良い場所でもないので、二人はそそくさと足を速める。
目的の建物、その三階の窓から目印である布が垂れ下がっている。
本当に大丈夫なのか、そんな不安気な視線を交わしつつも、ここまで来たのだから、と意を決し二人は跳んだ。
一つ、二つ。同時に跳んだ二人は、それぞれに足場を見つけて二階の窓枠や庇を蹴った後、三階の目印のある窓に手を掛け、その下の段差に足をかける。
窓に鍵はかかっていない。これを開いてすいっと中に身を入れると、見るからに高級そうな部屋には誰もおらず、テーブルの上に、約束の通り小さなベルが置いてある。
ベルをちりんちりんと二つ鳴らすと、館の侍女らしき者がすぐに入ってきた。
「……そのままお待ちください。今、主をお呼びいたしますので」
彼女は少し驚いた顔をしていたが、二人に席を勧め持ってきたちょっとした茶菓子をテーブルに置くと、そう言って退室した。
凪も秋穂も警戒の必要な場所で食べ物を取らないよう習慣付けているのでこれに手を出すことはないが、その都度、茶菓子やらを無駄にさせてしまうことを悪いと思うのだ。
二人に毒はほとんど効かないと聞かされてはいるが、効く毒も存在するという事実が一つあるだけで、警戒すべき理由にはなるのだ。
少しして、ぱたぱたと小走りにかけてくる音。そして、扉が開いて、とても可愛らしい顔つきの娘が入ってきた。髪は、黒。それだけで彼女が加須高校生だとわかる。
「本当に来てくれたのね! ありがとう! 待ってたわ!」
彼女の名前は神岸彩乃。五条理人と共に加須高校を出奔し、娼婦として成り上がるべく五条たちとも袂を分かち、見事王都にて今一番売れっ子の娼婦リナとなった少女であった。
リナへの紹介は、聖都シムリスハムン攻略時に知遇を得た飯沼椿によるものだ。
椿から、詫びと話し合いたいことがあるから、と接触方法の説明があり、凪と秋穂はこれを了承したのだ。
正直なところを言えば、凪も秋穂も五条と共に加須高校を出た者に対し良い感情は持っていない。だが、リナはその五条のもとも飛び出して、単身王都で娼婦としての成り上がりに挑み成功したとも聞いている。
持たざる者による成り上がりなんてものは梁山泊好きな秋穂の好みドストライクである。
リナは決して持たざる者ではなかったが、彼女の持ち物を活かすためには、とんでもない手間と知恵と労力と、そして幸運に恵まれなければならないということもわかる秋穂は、話を聞いた時点でもうリナを責めるつもりはなくなっている。
そして凪はといえば、女性が身体を売るということに関して思うところはある。あるが、自分には絶対にできないことだとも思っていて、それを成し遂げたリナに対し、天晴見事、という気持ちも強い。
簡単な自己紹介の後、リナの謝罪やちょっとした会話を重ねることで、凪も秋穂もとりたててリナを敵視していないとわかると、リナは二人を招いた本題に入る。
「鬼哭血戦十番勝負の情報を流してほしいのよ。それをもとに賭けで大儲けするわ。胴元は貴族たちとは違う王都の有力商人たちで、貴族位のない人間が参加できる最大規模のものよ」
もちろん、凪と秋穂が賭けに金を出すというのなら、代わりにリナがこれを請け負ってもいい、と言う。
このリナの申し出に関して、事前に椿から内容を匂わせてあったので、凪と秋穂は涼太からの了解も得ている。
凪は重々しく頷いた後、賭けに出せる金額の規模を確認する。涼太が現在自由にできる金の全額を突っ込んでも大丈夫なていど、リナの貯金全額、それらは子爵位の人間の月間所得に匹敵する金額である。
子爵位にある者はこの収入にて領地を運営することを考えると、規模としては県一つの月の予算に匹敵すると言ってもいい。
秋穂が驚いた顔で問う。
「そんなに受けてもらえるの? その胴元」
「貴族同士の賭けは、博打としての側面もあるけど社交って意味も含まれるのよ。だから金額に関しては多少マイルドな部分もあるし、少額でも面目を保てるようにしてあるわ。でも、平民参加の方はもう完全に賭けだけが目的だから、賭け金だけを基準に規模によって住み分けしてあるの。その中での最大規模のものだから、まあ、こうなるわね。実際、人を介してだけど他の貴族も参加してるわよ」
その金額の大きさに、凪は初めて自分がやらかしたことの大きさに気付いた模様。
「……ねえ、もしかして、私たちが台無しにした鬼哭血戦、相当ヤバかった?」
「そりゃーもー。大荒れなんてものじゃなかったわね。とはいえ、双方全滅も賭けの内容には入ってたから賭けがなくなったわけでもないし、支払いは通常通り行われたわよ。超がつく大穴だったもんでエライ騒ぎにはなったけど」
そんなわけで、と続けるリナ。
「すぐにもう一度鬼哭血戦を、それも闘技場で一般公開する、何よりもわかりやすい一騎打ち形式となれば王都中で大盛り上がりよ。話をまとめたベルガメント侯爵とルンダール侯爵を称える声一色ね」
ふと気が付いたことを問う凪。
「ねえ、鬼哭血戦って、戦場周辺の人が巻き添え食うのが大前提みたいな話になってたと思うんだけど……」
リナはとても冷たい目をして言う。
「それでも、盛り上がるのよ。他人だしね。それは貴族だけの話じゃないわよ」
「なんとまあ。一気に気分が盛り下がる話ね、ソレ」
「とはいえ、そうならない一騎打ち形式をみんなが歓迎してるのも本当よ。……平民や貴族が何考えてるかなんて、一々気にしてたらやってらんないわよ」
秋穂が呑気な口調でリナに問う。
「で、私たちが受け取るのは賭けに参加できる権利だけ?」
「まさか。貴族の情報、欲しいでしょ? ギュルディ様とは別口でも。それぞれの関係性から各貴族の性格、お金の有無とか。雑多なものになるし本当にヤバいのは無理だけど、私がそうするなら結構な価値になると思うんだけど」
それは正に涼太が凪と秋穂に頼んだことでもある。
王都の主要な建物どころか、大きな貴族の邸宅はほとんどが古く魔術を帯びた建物であり、涼太の遠目遠耳の魔術が通らない。
そんな建物のあまりの多さから、ここ王都には古くから遠目遠耳の魔術があったのだろう、という確信を強めた涼太である。
もちろん、今凪と秋穂が来ているリナの高級娼館もそうである。
凪はもうリナに対し隔意はないので、とても気安い調子で声を掛ける。
「で、何知りたいのよ。おおまかな組み合わせとかはもうそっちに漏れてる?」
「え、もうソレ出てるの?」
「調整中らしいけどね、ギュルディは進捗を私たちに報告してくれるから、かなり早い段階で耳に入るわよ」
「うわぁ……こっちから頼んどいてなんだけど、それ、ギュルディ様から流していいモノとそうでないモノ、きちんと選別しといてよね。うっかりで聞いちゃいけないこと聞いちゃって消されるなんてごめんよ」
凪も秋穂も笑って、わかってるわかってる、と言うがとても不安になったリナはくれぐれも、と念を押す。
その後多少の話し合いを経て、今後も今日と同じ交流の仕方を通し、お互い情報交換をするということで話はまとまった。
リナは、椿を通して加須高校組と、この秘密の会合を通して涼太組と、ギュルディを通さぬ交流を得た。
リナ当人は気付いていないが、この事の方が下手な情報漏れよりよっぽどヤバイ件なのである。当人がこれに気付いて青ざめることになるのは、もうしばらく先の話である。
ルンダール侯爵の配下には、陰働きを得意とする者が多い。
それは暗殺なんていう直接的なものよりも、諜報といった面での強みの方がより大きいものだろう。
ルンダール侯爵家の先々代が王の不興を買うほど増長したのも、こういった圧倒的優位点あってのこと。
ただ、諜報というものはこれを運用するに、十分な知見を必要とする。それを、現ルンダール侯爵が持っているかと言われると疑問が残る。
それでも黙々と任をこなすのが封建社会における、配下たちのあり方だ。
「ギュルディ側への妨害はお主らに一任する。好きにやれい」
なんてルンダール侯爵の言葉を、真に受ける諜報員はいない。
全てを任せるなんて口にしておきながら、自身の社交に不足が出たなら諜報の不備に口を出すし、思いついた策があるのならそのために諜報員を振り回す。
せめてもの救いは、彼らにとって上位者とはそういうものだ、と代々言い伝えられているため、それ自体を理不尽なんて思うことがないくらいか。
彼らはルンダール侯爵がその時その時で思っていること、感じていることを推察し、これをもとに侯爵に問うことなく諜報を進める必要がある。
なので彼ら諜報員は侯爵自身やその周囲の人物たちにも諜報の目を張り巡らせているというのだから、本末転倒というべきか、身内にも油断せずにすむというべきか。
そんな諜報員であるからして、ルンダール侯爵の意志を忖度することに長けている。
諜報員の頭は、現状をこう捉えた。
「侯爵は、ギュルディ様の伸長を苦々しく思っておられる。ベルガメント侯爵にしてやられた分も、ここで大きく面目を施したい……いや、違うな。外に対してはそれでいいが、ギュルディ様やベルガメント侯爵に対しては『何かヒドイ目に遭わせて思い知らせてやりたい』だ」
利益を確保すればいいのではない。貸し借りを整えてほしいわけではない。この二人と顔を合わせた時に、上から目線で笑ってやりたい、それがルンダール侯爵の真の望みである。
諜報員の頭は決して自身の上位者であるルンダール侯爵を小物扱いしているわけではない。状況を正確に把握しなければ、侯爵の望む形を整えることなぞできぬ故、徹底的に侯爵を分析する必要があるのだ。
その上で、それが上位者たる侯爵の望みであるのなら、これを果たすべく犠牲を厭わず行動するのが、彼らの為すべき役目である。
なので彼は、とても大真面目にギュルディに対して如何に嫌がらせするかを、配下の犠牲をすら考慮に入れた上で考えるのである。
シグルズは街道を馬で飛ばす。それはもう騎馬突撃でもするつもりか、といった勢いだ。
「いやー、気持ちいーなー。どんだけ飛ばしてもだーれも文句言ってこないしー」
その後ろを、同じく馬に乗り駆けさせている少女ニナは、賑やかな馬の蹄の音に負けぬよう大声を出す。
「このお馬鹿っ! 馬潰れたら鬼哭血戦までに王都つけなくなるよ!」
「だーいじょうぶだって! 俺一番頑丈な馬選んできたし!」
「王都まで走りっぱなしで無事な馬なんてこの世にいるわけないでしょ! そんな馬鹿げた真似できるのはナギかアキホぐらいだよ!」
あまりにうるさいのでシグルズは仕方なく足を緩めさせる。
「なあなあ、ナギとアキホって、そんなに走れるのか?」
かと思えば、今度はさっきのニナの言葉を聞いて興味津々な様子で話し掛けてくる。
『あーもう、子供のこういう脈絡なく興味がうつってくとこ、本当面倒で嫌いっ』
自分も子供であるニナだが、その在り方は既に大人のものだ。
そんな言い合いのせいで、ニナはソレに気付くのが遅れた。
丘を越えた先に、一台の荷馬車が走っていたのだ。
『チッ』
内心舌打ちするニナ。子供二人が馬に乗って移動しているなど、賊に襲ってくれと尻を振っているようなものだ。
急に言葉を切ったニナは、不自然でないようにそのまま馬を走らせ、そちらを見もせず通り過ぎることにした。そのまま、馬車より速い速度で走れば先回りされることもない。
が、相棒がやらかした。
「おっちゃん、こんちはー」
馬の足を緩めたかと思ったら、シグルズは事もあろうに荷馬車の御者台にいる男に声を掛けてくれやがったのである。
荷馬車のおっちゃんは、目を丸くしている。
「おうこんにちは。驚いたねー、その年で馬にもう乗れるのかい? 随分と慣れてるように見えるよ」
「へへー、だろー? このまんま王都まで行くんだぜ」
『行先ばらすなああああああ!?』
「おいおい、本当かい? 王都まで何日もかかるぞ? 見る限り大人は一緒じゃないみたいだけど……」
「二人だけどへっちゃらさ! きちんと厩のある宿に泊まって、後は馬を走らせるだけだかんな!」
おっちゃんはとても感心した様子である。
「へえ、大したもんだ。私が同じ年ぐらいの頃は、自分だけで宿に泊まるなんて考えもしなかったもんだが……そうだ、コイツを持っていきな」
そう言っておっちゃんは御者台から後ろに身を乗り出し、荷馬車に積んであったリンゴを一つずつ、シグルズとニナに投げて渡す。
「ほら、食いな。うんめえぞ」
「おおっ! あんがと!」
一切の警戒なくシグルズはこれを口にする。
そして、口をすぼめる。
「すっぱ!」
「ははっ! だろう。けど、歯ごたえが違うんだよ」
「うんうん。すんごいしゃりって感じする。そんでもって甘くてすっぱい、こんなリンゴ食べたことないよ」
「そうだろうとも。完熟には少し早いもんさ。だがね、今だからこその美味さってのがあるんだよ、リンゴには。そのすっぱさも、青いからこそのはっきりとした歯ごたえも悪くはないもんだろ?」
「うん! 驚いたよ!」
なあ、と相槌を求めるようにニナを見るシグルズであったが、ニナがまだリンゴを食べてないことに驚く。
「なんだよーまだ食ってないのか? ああ、リンゴ苦手なら俺食ってやるぞ」
「こらこら、自分の分は食べたんだから他の人の分まで手を出すんじゃない」
「はーい」
おっちゃんに叱られ素直に謝るシグルズ。ニナも、警戒しているのが馬鹿らしくなった。
元より、ニナを罠にハメるには、あまりに状況がおかしすぎる。
しゃくっと一口食べると、二人が言っていた通り、甘すっぱくて、歯ごたえがはっきりとして、常のリンゴとはまた違った味わいがあった。
「……ん、おいしい」
思わず、そんな感じで漏らしたニナの言葉に、おっちゃんは顔をくしゃくしゃにして笑った。
その顔を見てニナは驚いた。この笑顔は、超一流の諜報員でもなければできぬ顔、そう学んだものだ。
もしくは、本当に心から嬉しい時にしかできぬ顔、である。
少しの間二人はおっちゃんと話をする。おっちゃんはここから王都までの道のりで、何処の町に寄るのが良いのか、何処の宿に泊まるのがいいのか、自分が知る限りの知識を披露してくれた。
ニナが警戒を解いていたのは、この笑顔を向けてくる相手は敵ではないとわかっているからだ。ニナが最初にくしゃくしゃの笑顔を知ったのは、凪と秋穂と涼太で、次にシグルズとリネスタードの人たちであった。
王都までの道行き。その途上で泊まった全ての宿で、シグルズとニナは大人たちにめっちゃくちゃ心配され、何かと世話をされていた。
宿代を受け取ってくれない人もいたぐらいだ。宿代を受け取ってくれた人も、何やかやと二人に食事や水やら馬の世話やらで、便宜を図ってくれた。
その全ての交渉は、ニナではなくシグルズがしたものだ。
シグルズは大人たちの好意を一切疑っておらず、たまにいた悪意を持つ者に対しても、シグルズは敵意を向けることもなく逆に善意を向けてこれをいなしていた。
『当人わかってやってるんじゃないんだろうけど……』
少なくともシグルズにとって、大人というものは自分を好きになってくれる相手、なのだろう。
ニナがそう思えた相手は、幾つもの試練を乗り越え初めて見つけられるものであったのに。
ニナは賢い娘だ。大人たちから好かれているのは、シグルズのその善意を疑わぬ態度にこそあるとわかっている。ニナがそうしてきたように、警戒と拒絶を表に出したうえでそうしてくれる大人など、ニナは一人しか知らない。
或いは、ニナが脛に傷持つ者ばかりと交渉を持とうとしてきたせいか。と自嘲気味に笑う。
宿を出て、二人だけで馬を走らせながら、ニナは少し感傷的になりつつ、先を行くシグルズの後姿を見ている。
そんなニナに気付いたわけでもないだろうが、シグルズが突然後ろを振り返って言った。
「なあなあ、あの峠の先! なんか道隠してある感じしねえ!?」
いついかなる時も、ニナから見れば馬鹿っぽさばかりが目立つシグルズであるが、これで相当に目敏いところもある。
確かにそこには、街道を外れて通る道が隠されている。
この辺の土地と、遠目に見た山肌の草木の分布、頭の中に入っている地理を総合して、ニナは結論を出す。
『うん、この先。隠し畑がある。それも、結構な規模の。んー、ここの領主だとー、んー、多分、薬、かな』
薬効のある植物は、国が生産を管理している。専門知識がない者が扱うにはあまりにも危険だからだ。だが、昔からある薬草を地元で勝手に使うなんてことは黙認されているものだ。
ただそれも、大規模に生産しているとなれば国も黙ってはいない。税金的に。
そんな隠し畑を、うっかり見つけるような真似をしたらどうなるか。
「このお馬鹿っ! 思い付きでなんでもかんでも首を突っ込むなっ!」
やっぱりこの馬鹿に好きにさせたらとんでもないことになる、と気を引き締めるニナ。
知識と経験と、何より警戒心が、必要な時もあるのだ。
柊秋穂が単独で、この王都にて誰かと会うというのは極めて珍しいことで。
だが、秋穂を相手に、警戒を欠かさぬギュルディ陣営に見咎められぬように、秋穂以外の誰にも気付かれずに、ほんの僅かとはいえ接触を取ってきた相手である。
彼らにそうするだけの理由も能力もある、と考えていた秋穂は、涼太と凪に相談した上でだが、彼らの誘いに乗ることにしたのだ。
指定された宿の一室。入口が二か所あるその部屋に秋穂が入ると、以前に顔を見たことのある人物がそこにいた。
スンドボーン大修道院で、秋穂がその正体を見破った潜入調査員である。
「……元気そうで何よりだ」
そう言う彼は、椅子に座ったままとても疲れた様子であった。
その対面に用意された椅子に秋穂も腰掛けながら言う。
「そっちはあんまり元気そうじゃないね」
「俺のような下っ端が、こんな重要案件の、それも交渉役なんていう似合わぬものを押し付けられれば元気も失せよう」
心底から疲れ切った口調である。
「交渉あるの? 貴方が相手ならきちんと聞くつもりはあるよ」
「うむ、正にそれこそが俺が交渉役をすることになった原因であり理由だな。……本当に俺でいいのか? もっと上を連れてこいと言うのならば喜んでそうするのだが」
「面倒だからいいよ」
「喜んでそうするのだが。今ならボスを呼ぶこともできるぞ」
「面倒だからいいよ。上司への嫌がらせは自分の責任でしてねー」
「…………本題に入ろうか」
男がまずしたことは、秋穂に自分たちへの要望はあるか、と問うことだ。
色々と聞きたいこと、確認したいことがあり、これへの対価に何が欲しいのか、というのを先に確認しておきたかったのだ。
男が準備しておいた、秋穂たちが必要とするかもしれない情報一覧を見せると、秋穂はにっこり笑い、これ全部、と返した。
秋穂を相手に腹芸は危険が大きすぎる、と考えている男は彼もまた率直に笑みを見せる。
「そいつはありがたい。何せこちらも聞きたいことが山とあるんでな」
男からの頼みは、教会との揉め事の一部始終である。これに加えて、鬼哭血戦を潰すに至った前後の話を聞きたいと言ってきた。
秋穂はこれを了承し、お互いの情報交換となったわけだ。
男は、王直下の諜報組織の一員である。
思いもかけぬ偶然により、涼太たちとのギュルディを介さぬ接点を得たことで、男は急遽下っ端諜報員から対アキホナギ専属諜報員へと大出世することになった。
待遇も給金も大きく上がったのだが、これを喜ぶ気にはまったくなれない。何せ百戦錬磨の上司たちですら彼女たちとの交渉には腰が引けているぐらいなのだから。
たった二人で三千の軍に突っ込み、これを完膚なきまでに叩き潰したとなれば、その怯えも妥当な反応であろう。
そして内心震えあがりながらもなんとか任務を果たした男が帰還すると、今度はもっと恐ろしい事態が待ち構えていた。
「陛下よりの勅命である。お主が直接、陛下に此度の報告をせよ、との仰せだ。陛下はアキホの人柄や反応を事細かにお聞きなさると思うので、十分に準備をしてから臨むように」
これは呪いだ。男はスンドボーン大修道院で諜報なんて罰当たりな真似をしていたせいで呪われてしまったのだ、と半ば以上本気で思ったものである。




