158.終末の鐘の音
後に、この光景を見た者たちは口をそろえて言う。
「まるで無人の野を行くが如し」
当人たちに言わせれば、無人の野を行くのにこんなに苦労した挙げ句死にかけるような目に遭ってたまるか、だそうで。
シムリスハムン大聖堂前広場に集まった兵、ざっと千人超。これらを、するするするりとすり抜けて、凪と秋穂の二人は大聖堂に入ってしまったのである。
迂回したというのならわかる。兵に偽装したというのもアリだ。魔術で身を隠したと言われても納得はできよう。
だが、剣を抜き、兵士の群全てよりの殺意を向けられながら、兵の大軍中央を突破した挙げ句、行きがけの駄賃とばかりに軍の将と幕僚たちを皆殺しにして背後に控える大聖堂への侵入を許した、というのはあまりにも意味がわからない。
シムリスハムンの大聖堂は、とりあえず公開されている部分に関しては二人も情報を得ているし、建築関係の人間から公開されていない部分に関してもあるていどの予測は聞けている。
なので聖堂内を走るその姿に迷いはない。あるのは、教会側からはとてもそうとは思えぬ、とんでもなく苦労した敵陣突破の愚痴であった。
『なんなのよアイツら! どーしてこんだけ殺したってのに平気な顔して向かってこれるのよ! 頭おかしいわよアイツら!』
『もーやだー。しんどいー、死ぬー、疲れ死んじゃうよー。つー、かー、れー、たー、よー、たすけてーりょーたくーん』
怯えた敵とも何度も戦ってきた二人だ。それがどれだけ楽なことかも知っている。
なので十分な数を殺し、しかも大将まで討ち取ったとなれば敵兵が怯えるのは当然だ、という思考があったのだが、何故か敵の抵抗がやむことはなく、聖堂内に侵入するまでほんっとに苦労したのである。
最後の方はもう足の速さで振り切ったようなもので、聖堂内で兵が待ち構えるなんて態勢を整えていなかったことから入ってしまった後はようやく余裕が出てきた。ついでに愚痴も。
二人は予定通りに二手に分かれる。
秋穂が聖堂よりの避難路を押さえ、凪は最短距離で主要人物のいる部屋を目指す。
聖堂内にいる兵の数はそれほどでもない。いや、重要拠点の防備という意味ではそれに相応しい数がいるのだが、それまでの敵の数が異常であったせいか、大した数じゃないなどと思えてしまっている。
そんな中、凪はその一閃を、必死の形相で身をよじってかわした。
『んなっ!?』
敵兵を蹴散らしながら廊下の角を曲がった直後、凄まじい突きが凪を狙ってきたのである。
剣を受けに回す余裕もない。どうにかこうにか急所を外すので精一杯。その切っ先が剣を持つ側の二の腕を貫くのを止めることができなかった。
だが、そこまでだ。
凪が全力で肉を締めると、敵の剣は凪の腕に埋まったままで動かなくなる。この間に凪は剣を逆腕に投げており、咄嗟に剣から手を離した襲撃者であったが僅かに遅く、凪の剣にて袈裟に斬り倒されていた。
「ぐっ、無念」
そう残して倒れる男。
凪は腕から剣を抜き、忌々し気にこれを捨てようとした後で思い直して手持ちの剣をこちらと交換する。
「信じられない。ここまできて、まーだこんな腕利きが残ってるっての? もー、教会ってどんだけ層が厚いのよ」
文句を漏らしながら通路を進むと、そこに、凪の侵攻を塞ぐように男が一人立ちふさがっている。
「くそう、やっぱり無茶だったじゃねえか……」
男は無念そうにそう呟きながら剣を構える。
「それでも、腕一本奪ったのか。なら、俺も負けてらんねえよな。ここは通さねえ、来い魔獣ガルム」
利き腕は傷があるので逆腕で剣を持つ凪は、彼の背後でばたばたと音がすることに気付き、問答をしている猶予はないと判断した。
「どーせ魔獣ですよーだ。がおー、たーべちゃーうぞー」
利き腕ではないとはいえ、この男、凪の初撃を見事に受けてみせた。
ぎしり、と剣から音がするのは、凪の打ち込みの強さ故だ。
二撃目も、男はどうにか剣戟を逸らすことができた。だが、押し込まれる形になってしまう。
「ちく、しょうっ」
不意打ちもなく、真っ向から向かい合うには、あまりにも凪とは技量に差がありすぎた。
三撃目は避けようもなく、男は肩口から斬り伏せられた。
たとえ四肢をもがれようとも道を譲る気のなかった男であるが、致命傷とは、そんな決意をすら踏みにじるものだ。
全身を襲う寒々しい脱力感と、脳を焼くような口惜しさを共に抱えながら倒れた男は、必死に身体を捻って廊下を行く凪を見つめる。
思いもよらぬことがあった。なんと凪の方も男を見ていたのだ。
「そっか……さっきのも、貴方も、十聖剣だったのね。道理で」
十聖剣であることを示すものを幾つか身につけている。というか、今凪が振るっている剣は正にそれだ。
当然その剣は、十聖剣の地位に相応しい業物である。これをちゃっかり拾って使っていることに、腹立たしさより苦笑いが浮かぶ。
そして凪の最後の一言、道理で、のただ一つの単語のみで少し救われた気になってしまうのは、やはり彼も、教会の重鎮である以上に剣士であったということであろう。
シムリスハムン大聖堂は、そもそもからして、ここから誰かが逃げ出さねばならぬ、といった想定をしていない。
何者かが攻めてくることなんてことはその前提に無いのだ。
なので避難計画なんてものもなければ、避難経路なんてものも用意されていない。
実際に、シムリスハムン大聖堂から逃げ出さねばならぬような事態は、この街ができてからというものただの一度も起こってはいない。大聖堂建設以前の旧聖堂を使っていた時期を含めてもだ。
それは教会関係者たちの意識にも根付いていて、聖堂騎士が必死に避難の必要性を訴えても、誰一人それを理解してはくれなかった。
ただ一人、友である同じ聖堂騎士の男のみが、彼の言葉を信じ、というかこれ幸いと利用して、自身がその警護を任されている聖卓会議の一人を強引に避難させることに成功しているのみだ。
「こ、これ、何をするかっ」
「リキャルド師の身の安全のみを考えよ、そう命じられておりますれば」
「私はそれどころではないのだと……ああ、ならばついでだ、一度私の屋敷に行ってくれ。あそこにある資料と比べてみたいものがあってな……」
「はいはい、承りましたとも」
聖堂騎士が聖卓会議の人間を拉致同然に小脇に抱えてさらっていく姿を見た教会関係者は皆、ぎょっとした顔をしていたそうな。
リキャルド師の耳には襲撃者二人のことは一切入っておらず、聖堂騎士は後でリキャルド師がどれほど苦悩するかをわかった上でもこれを報せなかった。
なにがなんでも生き残らせなければならない人物である、との認識は、多数の教会関係者が共有しているところである。
そういった例外はともかく、それ以外の聖卓会議の面々は皆、常識的な発言で聖堂騎士の進言を断った。つまり、シムリスハムン大聖堂より逃げる聖職者がいるものか、である。
風向きが変わったのは、その報告を受けてからだ。
「あ、アキホとナギの二人に! 正面の軍が突破されました! 現在! 大聖堂へ侵入されております! 皆さま! ただちに避難を!」
思考が止まってしまった者、そんな馬鹿なと信じぬ者、信じた上でもどうしてよいかわからぬ者、色々だったが、教会にて重職にあり常に判断業務をこなしてきたはずの彼らは誰一人、この報告に対し能動的な何かを行なうことができなかった。
だが、切羽詰まった危機感を持っていたのはそういった管理職の者ではなく、警護をその任とする聖堂騎士や兵士たちだ。
まるで動こうとしない彼らを引っ張ってでも移動させ、避難を開始する。
ただ、上位者に対して力ずくでも連れ出そうと動き出せる勇敢なる者というものはそう多くはない。
腰が引けた状態で上司の命令に従っている者は、上位者が強く抗議すればこれに抗せず足を止めてしまう。
そして、凪が来る。
「こういうの斬るのって、あんまり気分良くないのよね。だから、さっさと済ませることにするわ」
護衛なのか被護衛対象なのか、凪は区別をつけない。
近くから順番に、かつ漏れなく確実に、一人一人仕留めていく。
ここでようやく、迫りくる危機に気付いた教会上位者たちである。
シムリスハムン大聖堂内で、神を信じぬ蛮族の襲撃を受け、死ぬ。そんな未来を、この場の誰一人想像していた者はいない。
だが、一人残らず凪は斬った。
『責任を負うべきは確かに、最も権力を持ち権威を行使しうる存在よね。けど、だからって、それ以外の者に一切の責がないってのは違うと思うのよね』
護衛は皆凪を相手に戦った。少なくとも戦おうとはした。
だが護衛される立場の者は、誰一人剣を握ることもなかったし、凪を睨み抵抗を示すこともなかった。
『どれがそうしたのか知らないけど、この中にいたのよね、私たちを神敵に認定した奴。あー、なんか、真面目に相手するのが馬鹿らしくなってくるわ』
凪が襲撃にて仕留めたのは聖卓会議のメンバーが三人、司教補佐クラスの人間が十七人、式に招かれていた司教が一人、である。
凪たちのことを殺す、という決定を下しておきながら、やりかえされたら自分は無力な一般人だみたいな顔をして、右往左往しながらなんてひどいことをと死んでいくのだ。
如何に教会に勝利するかを真面目に考えていた自分が馬鹿らしく思えてくる。
『そんなもんだ、って言われればそうなのかもしれないけどさ』
もうちょっと、雄々しい、誇り高い、この際敬虔な、でもいい、そういったところがあって欲しいと思う凪だ。
ただ、凪が殺した者の中に、総大主教のみが許される色を使った服を着た者はいなかった。
『そういう本物は、秋穂に譲ることになりそうね』
シムリスハムン大聖堂は避難を想定していない造りであるために、避難しようとした時使われる通路は簡単に予測できてしまうもので。
そうでもなければ、凪と秋穂の二人のみで一網打尽とはいくまい。いや、それも相当に無茶な話であるが。
既に、気を抜けば足がもつれてしまいそうなぐらい疲れている秋穂であったが、意識を張っていればまだまだ保つ。
ふと、窓の外から状況に相応しくない明るい声が聞こえたのでそちらを見てみた。
「うむ。これはこれで楽でいいかもしれんな」
「はいはい、もうそれでいいですから大人しくしててくださいよ」
騎士らしき大柄な男が、老人を小脇に抱えて走っているのが見えた。
老人は楽しそうであったので、拉致誘拐なんて話ではなさそうだ。
不思議そうな顔でこれを見て首をかしげる秋穂。
「……教会って色んな人がいるんだね」
秋穂がそう呟いたのと、がやがやと騒がしい集団が角を曲がってきたのが同時である。
「総大主教猊下、今大聖堂を離れられるのは……」
「うーるせえよ、俺の聖者勘が今は引けっつってんだ。てか今日の分はもー十分働いたんだから好きにさせろや」
「大聖堂の外でそうされるのは……」
「だったらちょーどいいや、俺も一度スンドボーンに行ってみたかったんだわ、手配しとけ。あそこなら多少は融通が利くだろ」
「猊下、今はそのような……」
言動からはとてもそうは思えないが、着ているものは確かに、総大主教のみに許される色のものだ。
一応、確認のため秋穂は声を掛けてみる。
「あー、もしかして、そーだいしゅきょーげーか? ですか?」
総大主教に加え、その周囲にいるのは教会でも相応の地位にある者ばかり。そんな集団に、それも大聖堂内で声をかけてくるような無礼な相手なぞありえない。
そして危機感を持っている聖堂騎士は、即座に反応した。
総大主教の前でその許可も得ず剣を抜くなんて行為は、よほど覚悟の決まった者でもなくばできまい。
「猊下! 急ぎ迂回を!」
彼は、この集団の中では浮いた存在であった。というよりも、たかが聖堂騎士風情が総大主教に避難を促し、これを総大主教が受け入れてしまったという、周囲の者からすればなんてことをしてくれたんだ、といった話であり、憎まれ恨まれてすらいた。
恐らく避難云々が終わって一段落したところで、彼は罷免され、よりヒドイ目に遭わされていただろう。
何が凄いかと言えば、聖堂騎士のこの言葉に誰よりも先に反応したのはその総大主教であったのだ。
「おう、任せる。……他のボンクラとは比べ物にならん。お前は、聖堂騎士としちゃ十分及第点だ。最期まで励めよ」
「ははっ! ありがたきお言葉!」
相手が、襲撃者の内の一人であり、これを食い止めるに命を懸けねばならぬ、と察しえたのは聖堂騎士と総大主教の二人のみであった。
さっさと来た通路を戻る総大主教に、他の教会関係者たちもついていく。その護衛も一緒に。その場には剣を抜いた聖堂騎士のみが残るつもりのようだ。
彼は構えた剣を下段に下げる。
僅かに右方に傾いたこの構えを、秋穂は見たことがない。
『あ、この人』
強い。それもめっちゃくちゃ強い。
そう思った瞬間、聖堂騎士が間合いの内に踏み出してきた。その剣が鋭く弧を描く。
『来るっ』
円を描ききると思えた剣先は、突如鋭角的に変化し、円の内側に斬り込んでくる。
上側から回り込んでくるような剣だ。だが、その剣の狙いが斬撃なのか刺突なのか今一はっきりとしない、不気味な動きをする。
秋穂は伸びてきた剣に自らの剣を合わせる。
「ぬっ」
聖堂騎士の呻き声は、不気味な剣をより不気味な動きで返されたせいだ。
聖堂騎士の剣が直線の動きに切り替わった直後、再び円の動きへと戻ってしまった。それは、聖堂騎士がそうしたのではなく、剣を打ち合わせた秋穂がそうさせたのだ。
回しきれなかった残りの円の動きを秋穂の剣の誘導により強制され、そのまま、外に向かって聖堂騎士の剣は弾き飛ばされてしまった。
咄嗟に、懐の短剣を抜く聖堂騎士。剣を弾いた後の秋穂の剣の根元にこれを押し当て、どうにか攻撃を防ぐ。
「やるね」
「なんたること、我が円剣の極意を初見で見切ったというのか」
聖堂騎士が身に付けた円剣の極意は、決して他者には見せていない。見たのは全て死者のみだ。
だがその動きは、円を描き攻防一体となす術理は、秋穂の学んだ武術にもあるものだ。
「その技、元々私は知ってたってだけだよ」
ソコへと辿り着けたことに敬意を表し、秋穂は彼に答え合わせをしてやってから動いた。
手首のみにて剣を返し、短剣を弾くともう聖堂騎士には秋穂の剣を防ぐ術はない。
そこから、鎧の手甲と胸甲を用いて六度秋穂の剣を防いだのだから、確かに彼は優れた剣士であったのだろう。
だが、円の動きを自らの秘奥としている彼は、秋穂の相手としては相性が悪すぎたのであろう。七度目に、遂に防御は破綻し斬り伏せられた。
もっと時間がかかると思ったのだが、それだけで仕留められたことに、秋穂は少し驚いた。
『化勁は得意だけど。うん、やっぱり。へろっへろになってはじめて気づいたかも。私、身体のキレとか反応速度も、はっきりとわかるぐらい上がってる』
敵の攻撃をいなす技術を総じて化勁というが、この聖堂騎士の技はそういった技術に近しいものであった。化勁を学んだ秋穂は、当然対化勁の技も身につけている。
その上で、秋穂自身もわかっていなかった地力の向上があったようだ。
彼の最後の望みがなんであるのかは秋穂にもわかっている。
この見事な技に敬意を表して見逃してやってもいいかも、と思えたが、ここで手加減をしてこの戦全部が台無しになっては凪にも涼太にも合わせる顔がないので、ごめん、と一つ謝りながら秋穂は駆ける。
一人、また一人、と遅れている者から順に仕留めていく。
最後尾には当然護衛が走っていたが、こちらはもう先の聖堂騎士の見事な技術を欠片も感じさせぬ雑兵でしかなかったので、さくっと処した。
あの調子だと、と秋穂が予想した通り、一番速く、一番遠くまで逃げていたのは総大主教であった。
一番の地位にある者だ。一応、何を言うのか聞くつもりで総大主教を蹴り倒した後、周囲の全ての者を斬って、立ち上がる彼を見た。
彼は立ち上がろうとして、しかし周囲に転がる屍たちを見ると、その場にすてん、と転がってしまった。
「なんだ、こりゃ。俺は夢でも見てんのか?」
「魔獣ガルムってこんな感じなんでしょ? さんざん人のことそう罵ってたのに何を今更」
「馬鹿野郎。蛮族をガルム呼ばわりするなんざ、この上なく敬意を払ってる証拠だぞ。……何か、交渉でもあんのか?」
「ううん、無いよ。ただ、貴方を殺せば教会との戦も一区切りになるし、何か言いたいことでもあるんなら聞いておこっかなって」
「そうかい、なら愚痴でも言わせてもらおうか。くそったれが、ガルムが来るってんなら二十年遅いってんだよ。先代、先々代の時には好き勝手やらせてたくせに、なんで俺の代になって来やがんだ。ああ、そうだ。最期だってんなら教えてくれてもいいよな。答え合わせの一つもしていってくれよ」
「答え合わせ?」
「てめーはアーサのオージン王の手の者か」
あまりに意外すぎる名前が出たことでびっくり顔を素直にさらしてしまう秋穂。
「……なんだ、違うのか? 連中が手を回したって話じゃ、ねえのか?」
「リネスタード絡みでアーサの国には迷惑かけられたことあるけど、その人のことはよく知らないよ。教会って、隣の国の王様と揉めてたの?」
「そりゃ揉めるさ。先代も先々代も、ランドスカープの総大主教がアーサ王の影響下にあったなんて真似されりゃ、誰だって揉める。そいつを俺の代でひっくり返した途端、この様だ。関与を疑うのも当然だろ」
「むむう、君、上手い話の仕方するね。思わず生かしておこうかなーなんて考えちゃったよ」
ぷっと噴き出す総大主教。
「キミ、なんて呼ばれたのはいつ以来だろうな。ああ、やっぱり、総大主教なんてもの、引き受けるんじゃなかった」
「じゃあ、そろそろ最期の言葉、お願い」
「容赦のねえ女だ。おい、お前が本当にアーサと関係ねえってんなら、ランドスカープばっかに迷惑かけてねーでアーサでも暴れてこい。それが公平ってもんだ。ついでにオージン王が頭抱えるようなことでもしてくれりゃ、あの世で腹叩いて大笑いしてやるよ」
考えとく、と言って彼の首を刎ねた。
一瞬、首を持っていくかどうか迷った秋穂だが、ここまで殺されておいて総大主教の死だけを隠す理由もないか、と考え直し遺体と一緒に置いていくことにした。
壁によりかかって待っていた凪が、小走りに階段を昇ってきた秋穂に問う。
「どう?」
「ばっちり」
凪があげた手をぱんと叩きながら秋穂がその隣に並ぶ。
二人が合流場所としたのは、シムリスハムン大聖堂で最も高い場所だ。
シムリスハムンの大鐘楼。街中に届く大きな鐘が先端にある高い高い塔である。
こんな逃げ道のない場所にきて、二人がどうするかと言えば、まずは耳栓である。
あれだけの乱戦でありながら、致命傷らしきものは一切負わなかった二人は、懐の内にあるものも無事なままで。耳栓を付けて、では、と一度鐘を手で押してみる。
それほど重くはない。二人にとっては。
二人はお互い頷き合った後で、せーのとこの大鐘を鳴らした。
シムリスハムンに住む者ならば、この鐘の音は聞き慣れたものだ。
だが、今日のそれはいつもとは違う。違うことが、誰しもにわかった。
いつものように綺麗には響かず、何処か音の語尾が籠っているように聞こえる。そしていつもと違って音の鳴る間隔が一定ではない。
その微妙なズレは、聞く者に不安感を抱かせるに十分だ。
ましてや、今、このシムリスハムンにおいては、前代未聞の大虐殺が行なわれているのだから。
神を冒涜するかのような鐘の音は、いつまで経っても止まらない。シムリスハムン大聖堂のど真ん中にある大鐘楼の鐘の音が、だ。
これを聞く街の民は、不安そうに塔を見る。見えぬ場所にいる者さえ、そちらの方角を見ずにはいられない。
民も、兵士も、神父さえもが、そうしていた。
そして最も不幸なのは、この塔が見える場所にいてしまった者だ。
鐘の音の最後、文字通り最後の一鳴りとなったその瞬間を見てしまったのだから。
「「せーのっ」」
凪と秋穂は、二人で一緒に、大きな鐘を蹴り飛ばす。
二人の蹴りに耐えられる鐘なぞあるわけがない。一撃で鐘は鐘楼より外れ、外に勢いよく飛び出していった。
大聖堂の、神の荘厳さを毎日のように伝えてきた大鐘が、鐘楼より落下する様を見るハメになった者の驚愕と絶望はどれほどのものであったか。
やることやった凪と秋穂は、ゆっくりと歩いて鐘楼を降りたが、階段を埋め尽くすほどの逆上した兵士たちなんてものもおらず、いっそ鐘楼ごと焼き殺してやろうなんてやけになった者もおらず。
鐘楼を降りきった場所で、数十人が集まって二人を見ていた。
兵士がいる。神父もいる。もっと高い地位の者もいた。
だが、誰もが二人を見るのみで、その行動を制しようとはしない。声すら出さぬ。
意味がわからぬ二人は顔を見合わせるが、集まった彼らは一斉にその場に跪き、神へと祈り始めた。
全員、決死の表情をしているから、てっきりヤる気だとばかり思っていたのだが、集まった者たちはただただ、祈りを続けるのみだ。
その祈りの言葉を聞き、凪は不愉快そうに眉を顰め、秋穂は呆れた顔で肩をすくめる。
どちらにとっても好意的になれる行動ではなかったが、その必死さに免じて、何も言わずに立ち去ってやることにした。
見咎める者もいなくなった場所で、秋穂と凪が揃って愚痴った。
「ねえ凪ちゃん、私たちって、カミサマの怒り、天罰なんだって」
「そうやってなんでもかんでも神様のせいにするの、絶対良くないと思うのよね、私は」
凪と秋穂に聖堂への突破を許した兵士たち。
本陣にいた管理職たちがごっそり殺されてしまい、各隊隊長たちでは聖堂への突入を命令できるだけの権限がない。シムリスハムン大聖堂は、警備に当たる人間も他とは地位が違うのだ。
それに聖堂内には、この場に集まった兵とは比べ物にならぬ精兵が警護にあたっている、と兵士たちは誰しもが信じていた。
それは決して間違ってはいないのだが、半端な精兵は凪と秋穂にとっては雑兵と変わらず、費用対効果が著しく悪化するだけである。
不安はある。それまでの暴虐の数々、そして、不安しか生まない鐘の音。
いつしか兵士たちは、大聖堂の正面ではなく、彼らが参拝する時に使う側面入り口に集まっていた。
中から誰かが、事情を知る誰かが出てきて説明してくれるのではないか、そんなことを考えて。
いや、彼らの心情をより正確に記すなら、大聖堂に乗り込んだあの二人が、神の御力によって討ち取られた、という話を聞きたくて。
だから彼らがその出現に、絶望しながらも誰一人声も上げなかったのは、内心で誰しもがそうである可能性を心に描いていたからだろう。
集まった兵たち。
これを見下ろしながら、大聖堂西側入り口より姿を現したのは、秋穂と凪の二人であった。
大聖堂に突入した時と同じ、返り血まみれの姿で、二人は集まった兵たちを睥睨する。
そして、同時に言った。
「「どけ」」
二人はそのまま歩を進める。
その進む先が分かった瞬間、そちらにいた兵士たちは一斉に動いた。多数の兵士が集まった集団であったが、前の方の兵士が下がると後ろの方の兵士も下がって隙間を空け、凪と秋穂の進路を空けるよう動いてくれた。
なので秋穂と凪はその進路を邪魔されることもなく、とりたてて急ぐ様子もなく、悠々と歩き続ける。
その中で、二人が大聖堂から出てきたことが信じられぬ様子の兵士が一人、呆然とした顔のままで立っていた。
避ければ通れる。そんな位置であったが、間合いの内に入ることを凪は許さず。呆然とした顔のままの兵士は、その顔のままで頭部が斬れ飛び、胴以下はその場に崩れ落ちる。
集まった兵士たちは即座に動く。二人から、より距離を取れるように。二人の進む道が広がった。
が、一人、運の悪い兵士がいた。
下がる時に躓いたのか、後ろの兵士の身体に当たって跳ね返り、むしろ前に出てしまったのだ。
それは、明らかに秋穂がそのまま進めば剣の届くだろう範囲にある。
前に出た兵士は体勢を崩していて、今にも倒れそうであった。そんな彼の身体を、後ろから数人の男たちが掴み、引っ張り、後ろに引きずり込んでくれた。
通りすがりながら、秋穂は馬鹿をやっているそちらをじっと見る。
引き込んでもらえた男も、引き込んで助けた者たちも、まるで生きた心地がしない時間であったが、秋穂は間合いの内より外れたのならそれでよし、とそのまま通り過ぎてくれた。
兵士たちは、冷や汗を流しながら安堵した。
魔獣ガルムに勇気を示せば死者の館に行くことができる。
そんな神の教えを疑っているわけではない。だが、これと戦って死んだ者たちは、本当にガルムに勇気を認められたのだろうか。
ならば何故、ガルムたちはあのように惨い扱いをするのだろう。死者たちに対し、あの二人は一瞥をすらくれることもないではないか。
勇気を示したはずの死者たちに対し、ガルムはまるで無感動で、無反応で、興味の欠片も持っていないように見えるのは、どういうわけなのか。
あれではまるでただただ無意味に、脅威に身を晒し死んでしまったかのようではないか。
それを直接ガルムに問う勇気を持つ者はいなかった。
それを問うて、これまでに生じた多数の死者たちの死を無意味なものにすることなど、恐ろしくてとてもできるものではなかったのだ。




