156.やはり皆殺しは無理があった
隊長はその布陣を見つけるまでに、五つの陣を試したがどれもあまり効果的であったとはいえないものだった。
赤騎士が知恵を絞った陣ばかり。発想は悪くない、と隊長にも思えるものなのであったが、兵士同士の連携が必要なものが多く、どうしても隙ができてしまう。
軍用の投網を用いる陣は隊長も期待していたのだが、これを扱う兵士たちが網を使い慣れておらず、また一斉に投げるよう合図をしても、どうしても兵たちの間でバラつきが出てしまう。
同時に投げるのも難しいし、また全ての逃げ場を無くすよう投げろと指示しても、全員が狙った場所に投げられるわけでもないのだ。
これにより、ひらりひらりと隙を抜けられ、投網を投げるために踏み込んだ兵は皆斬り倒された。
両端に球をくくりつけた縄を投げつけるという、この手の達人を捕らえるための手法も試したが、回りながら空中を飛ぶ縄を綺麗に両断されてしまう。
敵はこれら様々な作戦を突破しつつ、じわりじわりと大聖堂へと進んでいく。
だがそんな状況の中で、赤騎士がこれならば、と試した陣が上手くいったのだ。
まず、決死隊だ。全身を金属鎧でがちがちに固め、斬るだのなんだのといった攻めっ気は一切排除し、両手で大きな盾を持って敵を抑えることだけを考えて突っ込むのだ。
これが一人当たり十人以上になるよう、常に追加を繰り返す。当然、こんなものでガルム二匹の足止めは叶わぬ。
ここに、周囲を取り囲む建物の窓という窓から、精鋭弓兵が矢を射掛けるのだ。
間違って味方に当たっても、金属鎧が防いでくれる、と決死隊は信じて突っ込み続け、そんな彼らを支援するように、そんな彼らの援護を受けながら、本命である弓隊が二人を狙うのだ。
矢から逃れる、なんて真似を許さぬよう、通りの前後は頑丈で分厚い木板で壁を作り、これを兵士たちが背後で支えて突破できぬよう支える。
この木壁の突破には手間がかかるし、そんなことをしていては矢はかわせないだろう。
『飛んでくる矢を、剣やら腕やらで弾くなんてふざけた真似はしてくれるんだけどな』
隊長の愚痴にも、どこか余裕のようなものが感じられる。
ようやく、ガルム二匹を倒す目途が立ったのだ。
ただ足止めするだけでエライ数の兵員が消耗するのだが、ようやくあの二匹をして足を止めざるをえない陣が見つかったのだ。ならばもっと工夫をこらし、知恵を巡らせ、この二匹を仕留める手立てを考え続ければきっと勝てる、そう思えた。
後方では赤騎士が相当頑張ってくれている。
隊長が要求する全身を覆う金属鎧も、予備含め三十人分は確保してあるし、精鋭弓兵もありったけをそこら中からかき集めてくれた。
これらの損耗は当然あるし補充もいつまでもできるわけではあるまい。それでも、隊長はあの腰が引けていた十聖剣を、とても頼もしく思えたのだ。
教会軍にとって致命的であったのは、魔獣ガルムは知恵が働く、という点を見過ごしていたところだ。
群衆が大挙して押し寄せていた頃は凪も秋穂も物を考える余裕なんてものがなかったし、疲労のせいで思考力は著しく低下していた。
だが今はそうではない。
勝つために必要となれば策の一つも練るのだ。
『こんなに上手くいっていいものかしらね』
凪は死体から拾い上げた剣の剣先を右手で掴み、これを短剣の要領で建物の窓に向けて投げる。
狙いが僅かにズレ、剣先が窓枠に当たってこれを削り、そのせいで標的の胴ではなく肩口に深く剣が突き刺さる。
『あーもうっ、やっぱ疲れてるわね私も』
それでもこれで彼はリタイアだ。また別の弓手が窓から矢を放ってくる。
こちらも、かなり腕の良い弓手だ。凪の嫌がる時を上手く狙って矢を放ってくる。
だが、それも、こうも何度も狙われればいい加減凪も慣れてくる。
優れた弓手は二種類いる。
まずは戦争にてその優れた手腕を発揮してきた者。こちらは弓手が、射る時来たれり、と納得するまで矢を放つことはない。動きよりも、凪の呼吸や思考を読むことを第一に考える。
もう一種は獣を狩ることを生業としてきた者。こちらは凪の体勢次第でがんがん矢を射ってくる。矢を射ることで凪の体勢を崩そうとすら考えるのがこちらだ。
『単純に考えれば逆なんだろうけど。山で狩りをするのと今とじゃ全然条件が違うしね』
どちらかといえば、面倒なのは狩人あがりの方か。
サーレヨック砦で見た専業軍人の弓兵と同じ動きをする方は、手数が少ないのと、凪の呼吸や思考を読もうとするその行為自体が、凪と剣術比べをしているようなものであり、そうしてくれるのなら凪にとってはそちらの方が楽なのだ。凪の剣も、投げればだがきちんと敵に届くのだから。
ただ、これは秋穂とも認識を共有しているところだが、やはり知覚範囲の外からの射撃は、二人にとって最も厄介な攻撃だ。
だから、二人は今侵攻を止めている。
敵にそうさせられている、と見せかけながら、教会軍の精鋭弓兵の消耗が最も大きい陣を維持させ、優れた弓兵を一通り仕留めてしまおう、という企みなのだ。
『うまく、いってるわよね?』
弓手を結構な数、仕留めているが彼らが今回集まった兵の中でどれだけ優れた弓兵なのかはよくわからない。
普通の兵士もこれぐらい射ることができる、と言われればそんな気もするし、熟練弓兵がこれだ、と言われればそういう気にもなってくる。
ただ、中にいる明らかにとんでもない矢を放ってくる弓手は絶対に仕留めるようにしているので、きっと目論見通り進んでいるとは思う。
『……うん。やっぱり、判断能力も、思考能力も落ちてる。当然と言えば当然なんだろうけど』
勘も働かなくなっているだろう。凪の身体にも心にも、色々と不具合が出ていそうだ。
『死ぬまで戦うってのはこういうことなのよね、きっと』
何もかもが劣化していく中、自分と周囲とを冷徹に見据え、その時々の最善を選び続ける。
『それを、死ぬまで続けるっ』
飛来する矢に、勢いがなくなったと感じる。
鋭く意識の隙間を縫うような一矢が放たれなくなって久しい。
概ね、ヤバイ弓手は仕留めたのだろう。できれば戦場に出るような魔術師もここで始末しておきたかったが、これ以上は贅沢というものだ。
凪が秋穂の視界内に入るよう動き、そちらに視線を送る。秋穂は少し考えた後で、頷いてかえした。
『敵将の位置は……んー、多分、木の壁を抜けて少し後ろ、騎乗してる、かな』
突然、秋穂が主道を聖堂方面へと向かって駆け出した。そちらには大きな木の壁が立っている。
秋穂が強烈な一撃を持っているのはここにいる皆が知っている。だから、注意はそちらに向けられる。弓手は秋穂が必殺の一打を打ち込んだ直後を狙う。
だから木の壁を砕くのは凪の仕事だ。
秋穂の後ろから勢いよく走り込み、そして、跳び上がる。
『秋穂を狙ってたんじゃ! こっちには対応できないでしょ!』
凪の言葉の通り、後ろから駆けよってきた凪が空中に跳び上がるような隙を見せても、矢の一本も飛んではこない。
押し出すような飛び蹴りを分厚い木の板に叩き込むと、これを支えていた兵士ごと、板がふわりと宙を舞う。
凪の蹴りによりななめった木板が縦に回転しながら兵士の群に向かって突っ込んでいく。これに巻き込まれた数人が千切れて飛んだ。
開いた突破口に、するりと秋穂が滑り込む。
ちょうど良い場所にいた兵士に、肩口を押し込むように体当たり。同時に、凄まじい衝撃を伴う震脚を。
その兵士が、木板がそうであったように縦に回りながら兵士の群に突っ込み薙ぎ払い、一筋の道を作り出す。
着地した凪、秋穂の作った道を駆ける。それはこの部隊の、いやさ対凪秋穂の最前線に立つ隊長へと至る道。
隊長、口惜し気にしながらも抵抗は無駄と知ってか、騎乗したそこから動かぬまま。せめても凪に聞こえるように悪態をつく。
「くそったれ、呪われろ」
「嫌よ」
馬ごと真っ二つ。馬の頭部が首までも左右に断ち分かれ、馬上の隊長もまた同じ形だ。
明らかに長さが足りていない剣をもってこんな真似をしでかすのが、今の凪の剣である。
熟練弓兵の数を減らす。それが目的で足を止めていた秋穂であるが、その最中で、秋穂は一つ、作戦目標を諦めた。
『もー無理っ! さすがに全部殺し尽くすのむーりー』
後ろから順番に行列全部を殺していけば、その先には大聖堂があるんだからそうそう容易く敵兵は引けまい。なら、三千だかの兵も皆殺しにできる。
といった秋穂と凪の目論見は、普通に、当たり前に、当然の帰結として、失敗に終わった。
『うん、ふつーに、体力もたないや』
それを、やってみなければわからなかったのか、と関係者全員がつっこんでくれるだろう。
ただ、ここまでの暴れっぷりを見た者ならば、或いは三千が千であったなら、或いは群衆なんていう増援がなかったら、或いは指揮官が今よりもっとぼんくら揃いなら、どうにかなったかもしれない、と思えてしまうような戦いぶりを見せている。
というわけで、秋穂は作戦目的を敵兵力の殲滅から、撃破へと切り替えた。
全部殺さなくてもいいんなら、わざわざ敵の陣に付き合ってやる必要もない。
まず凪と一緒に最前衛の指揮官を仕留めると、一気にここら周辺の兵が動揺する。
凪はそのまま前へと踏み込んでいったが、秋穂は凪が斬った隊長周辺の兵に狙いを付ける。
『あったりー』
必死に混乱する現場を立て直そうとする者がいたとして、そんな人間はきっとこの隊長の傍にいる者だと秋穂は考えたのだ。
勢いよく去っていった凪を追うよう指示を出そうとしていた者を、秋穂が一撃で仕留める。
二人、脇目も振らず逃げ出そうとしている。コイツだ、と秋穂は直感し、向かってくる者や怒鳴る者を無視してこの二人の内の一人を追い、残る一人には剣をぶん投げる。
どう動くべきかを即座に判断しそう動けた者が、この場で最も警戒すべき者である、と秋穂は思ったのである。
後はもう放置でいい。凪が斬り開いた突破口とは別のルートを使って秋穂も進撃する。
やはり、敵の仕掛けに乗って動くより、こちらから仕掛けた方が敵は殺しやすい。
一人でも多く殺し、一人でも多くの目に秋穂の剣を焼き付ける。
何人であろうとも、柊秋穂と不知火凪を怒らせたなら、絶対に逃れ得ぬ死が訪れると教えてやりにきたのだ、秋穂と凪は。
敵が多かろうと、敵が強かろうと、たくさんの人の支持があろうと、味方がたくさんいようとも、絶対に、ただの一歩たりとも引いてなんてやらない。
教会が、理屈も、道理も、自分の定めたルールさえ破り、最後は武力で黙らせ己を押し通すというのなら、望み通りに相手をしてやる。
『それで死んだら、その時はその時』
そう生きると決めたのだ。
死ぬまでだ。苦しくて苦しくてどうしようもなくなるほどに戦い続けて、その先で死ぬのだ、柊秋穂は。
きっと、今日がその日なのだろう、と思っている。
だからこそ、秋穂の死体を前にコイツらがえらそうに戦を語るのは絶対に許せない。秋穂の死体を前に彼らがする顔は、驚愕と畏怖でなければならない。
たくさん殺し、そして、殺されないと思っていた者をも殺すのだ。秋穂はそこまで、絶対にやりきらねばならない。
己が剣にて血路を開きながら、秋穂は兵が最も集まっている場所へと突っ込んだ。
そこは、兵士たちが一度ここに集まり、再編されて最前線へと向かう、そんな兵員集積所である。
「予定通りに! 迎え撃て!」
凛々しき声が聞こえる。
大声で他者に指示をすることに慣れている声だ。
弓兵を削っていた時、重装の歩兵が個別に秋穂へと突っ込んできていたやり方を、ここでも踏襲するようだ。
秋穂の進路真正面から突っ込めば、秋穂も足は止める、もしくは避けねばならない。それを期待しての足止め吶喊だ。
そんな勇気ある兵士を何人も何人も用意し続けられる。これが、教会の圧倒的な強みであろう。
見ると凪もここで足止めを食っている。とはいえ決して進んでいないわけではない。まっすぐに突っ切る走り方ができないだけで、迫りくる敵を斬って弾いて走り続けてはいる。
その瞬間を、指揮官らしき騎乗した赤い鎧の男は一切顔に出さなかった。
がくん、と足を取られた秋穂は、驚き真下を見る。
地面が崩れ、足裏からの反応がとても頼りないものになっている。
その現象はどうやら秋穂の周囲一帯で同時に起こっているようで、秋穂のみならず突っ込んできていた兵士も、秋穂が直前に斬った者も、ずぶりと地面に沈み込んでいる。
秋穂が聞いていた魔術と比べて、明らかに効果範囲も、及ぼされる効果自体も強力なものだ。
赤騎士がこのために準備した魔術師が土壌操作に長けた魔術師十四人で、彼らのありったけ全てを搾り取るような大魔術である、と知らない秋穂は、とんでもない魔術師がいる、と思ったものである。
『こんのっ!』
秋穂の身体が低く沈み、左の手が秋穂へと迫っていた兵士の首元を掴む。そのまま、引きずり倒すとその背に手の平を乗せる。
秋穂目掛けて、両端に重りをつけた縄が幾つも放たれる。これはボーラという武器に似たもので、手に負えない怪物や獣を相手にする時、投じた縄をからませその動きを封じる目的で使われる。
そんな武器が届く前に、秋穂は左手一本のみで、沈んだ足を泥土と化した地面から引き抜き、更に勢いよくその身体が片手逆立ちの形になる。
いや、全身のバネを用いると、逆立ちで終わらず、そのまま秋穂の身体は宙を舞う。
片腕と身体のバネのみで、秋穂の身体は魔術の効果範囲から外へと逃れる。
そう、主道は全て、立っていることもできぬほどの沼となった。ならば秋穂はどうするか。
『地面を使わなきゃいいもんねー』
秋穂は主道傍の建物のところまで、跳んでいたのだ。
片腕でそこまで吹っ飛ぶなんて、投擲武器で秋穂を狙っていた者も想定なぞしていない。
壁に足をつくと、その僅かな突起を拾いながら、秋穂は壁を走り出す。
足場さえあれば、投擲武器なぞ怖くはない。全てを走ってかわし、秋穂は泥土地帯を突破する。
必死必殺の構えであったのだ。これを事もなげに突破してのけた秋穂であるが、実はこれは、まだ兵士たちにも理解の及ぶ範疇の動きであった。
もう一人の方がよほどヒドイことをしているのだ。
その瞬間を、不知火凪は誰を見たでもなく、戦場の空気とでもいうべきもので察した。
そして、その直感に従って跳び上がったのである。戦闘の最中、確たる証拠も何もないというのに。この時の赤騎士の驚きたるや。
予兆なんてもののない沼地化の魔術を、事前に察知し跳び上がって回避するなぞ、最早それは予言であろう。
だが、赤騎士の傍には司教が連れてきた精鋭兵がいた。先んじて突っ込んできた凪を狙い、一撃で仕留めてやらんと待ち構えていたのである。
凪が跳んだ瞬間、彼は叫んだ。
「殺った!」
彼の持つボーラの重りには刃が仕込んであり、これを器用に振り回しながら凪へと投げつける。その速度は、凪が地面に着地する前に届くもので、回避なぞありえないものであった。
縄でからめとる、なんてお行儀の良いものではない。重りの刃が凪を切り裂く。そんな強烈な一撃だ。
空中で凪の身体が捻じれ動く。そして、凪は右手を伸ばす。
ボーラ命中の直前、凪の右の手の平が高速回転するボーラに触れる。
触れた。
その瞬間、どういう理屈か、凪の身体が上へと跳ねたのだ。まるで回転するボーラを支えにしたかのように。
くるくると回るボーラを掴み、凪は空中で前方に一回転。
そして手に持ったボーラを、内に一回転、外に一回転、回した後で地面に向けて投げ放つ。
べちゃりと落下したボーラは、ちょうど凪が落着する場所にある。沼地化の魔術は凪を中心に放ったものだ。ただの一跳びで越えられるようなもの(一部例外あり)ではない。
誰しもが凪も泥土に沈む、そう思ったのだが再び期待は裏切られる。
凪は、泥土に半ばまで沈んだボーラの重りを蹴って、またも宙に舞い上がったのだ。
もうここまでくると、見ている者にはまるで意味がわからない。
そして三度目の跳躍は地面に足を取られている兵士を足場に。その先は、もう、赤騎士であった。
「馬鹿な……こんな、馬鹿なことが……」
空中で、凪の剣が赤騎士の首を捉え、金属鎧で固められているはずの首が、一撃で空に跳んだ。
だが凪はそこで終わらない。
上体が揺れ動き、剣を振る体勢を再び整えボーラを放った男を斬り、最後に赤騎士の馬の後方にいた補佐官のような男を袈裟に斬って着地した。
そのありえない空中での動きは、これを遠目の魔術で見ていた楠木涼太が呆然とした顔で、マイケル・ジョーダンかお前は、と呟くほどであったとか。
聖卓会議の一員である老人は、ひどく気の進まない仕事を任されてしまった。
とはいえ、嫌なことを我慢してやることには慣れている。そうやってずっと生きてきたのだし、それは残り少なくなったこの先の人生もそうであろう。
呼吸一つで意識を整え、その扉をノックする。
返事はない。が、構わず老人は部屋の中へと。
荒い息遣いが二人分聞こえる。
老人は自身の予測が当たったことに嘆息しつつ、呼吸音が更に激しくなり、そして落ち着くまで待った後で声を掛けた。
「総大主教猊下」
とても不機嫌な声がかえってきた。
「言い訳は聞きたくない。私が、聖者力を溜めるのに時間がかかることは知っているだろう」
もちろん聖者力なんてものはこの世にない。総大主教が好んで使う彼の造語だ。
「閲兵の時間は更に延びました。襲撃者対策に力を入れる、と十聖剣より報告があがっております」
「十聖剣? 私が認めているのはヤーンのみだ。それも敗れるまでの話だがな。ランヴァルトを十聖剣に招く話はどうなった? いつまで私の護衛を空席にしておくつもりだ」
「ランヴァルトの引き抜きは不可能だと申しました。猊下には、これより死地へと赴く兵に対し激励のお言葉を、と十聖剣からの申請があがっておりますが」
下半身のみ服を着た総大主教が、のそりと立ち上がる。大層機嫌が悪そうに見える。
「そう簡単に切り替えられんと何度言わせる気だ。私は難しいことを要求しているか? 予定を立て、その通りに動け。私の望みはそれだけだ。人の予定を、それも教会の最高権威の予定をそう易々と変えられるなどと思うな馬鹿者が」
総大主教の相手をしていた絶世の美女が、呼吸を整え終わると楚々とした所作で服を身に付け、片付けと掃除を始めている。
そちらには目を向けず、総大主教は続ける。
「特に今日はひどい。誰の失策だ?」
総大主教の言葉を無視し、老人は告げる。
「確認できただけでも、死者数は三百を超えます」
「なに?」
「更に、前シムリスハムン司教、スヴァンテ様も亡くなりました。他にも貴族に多数の犠牲が出ております。たった二人を相手に、このような損害を出したことの責任は黒髪のアキホ、金色のナギ対策の総責任者である十聖剣に帰すると思われますが、結果から考えますに、誰をこの任につけても被害は変わらなかったのではないかと」
「…………本気、で言っているのか? 襲撃者は二人なのだろう?」
「猊下のその驚愕を、少し前から教会関係者皆で共有しております。魔獣ガルムの再来とまで呼ばれているこの二人に対し、兵が勇気を振り絞れるよう、どうか」
老人の言葉と表情に本気の気配を感じ取った総大主教は、ようやく彼も真剣な顔になる。
「少し、待て」
美女に着替えを手伝わせ、総大主教に相応しい豪奢でありながら篤き信仰心を表している珠玉の衣服を身にまとう。
その間、総大主教は小声でぶつぶつと呟き続けているが、女も老人も何も言わない。
着替え終わる頃、完全に気配の変わった総大主教が言う。
「さて、まいりましょう。信徒たちが待っています」
精神が切り替わったのだ。教会の最高権威者として、誰の目から見ても相応しいと思える人物へと。
そんな人間であり続けるのは不可能だ。だから、総大主教はその必要がある時のみそうして、そうでない時はシムリスハムン大聖堂の奥にて、放埓な生活を認めさせている。
彼は、自身の周囲にあるものは最高級品以外認めない。そこまでの贅沢をしたとしても、彼が信徒の前で見せる理想の総大主教像にはより以上の価値があった。
そんな値千金の総大主教像は、扉を出て外を進む姿を見るだけでも皆が納得できよう。
ただ、歩くというだけで、彼は自身が総大主教であると皆に知らしめることができる。
心の内までも高貴な聖職者に成り代わっている彼は、一刻も早く戦士たちの勇気を援けなければ、と聖堂前広場を見下ろせるテラスへと急ぐのであった。




