155.最も古典的な飽和攻撃
剣は便利だ。片手で扱え取り回しに優れ、手の延長として振り回すに適している。
拳で殴り千切るより、ずっとずっと楽に敵の急所を抉ってやれる。
凪は足も使えるが、やはり速さを追求するならば足は姿勢の確保に用いた方が効率が良い。
剣術を学ぶということは、如何に効率的に人を殺すかの術を学ぶこと、でもある。だが、如何に効率的に敵を殺し続けるか、というのはまた剣術で学んだものとは別の理がいる。
それを、ランドスカープの誰よりも、恐らくは元の世界の誰よりも、身に付けているのは凪であろう。凪と一番を競える相手は秋穂ぐらいか。
だが、今、凪がこの戦場で学んでいる人を殺す手法は、きっと他では大して役に立たぬものであろう、とも思っている。
『肉弾戦、よね、正に』
突っ込んでくる兵士、全員が全員、剣術を駆使しようだとか、上手く剣をかわそうだとか、どうやって剣を当てるかなんてこと、一切考えていない。
突っ込んで、自分勝手に剣を叩き付ける。それだけだ。それだけの人の群が、ひっきりなしに襲いかかってくるのだ。
全員全力で走っているからこそ、密集なんてことにはならず、あるていどの距離を空けている。それでも走っている者同士でぶつかって転び、後続に踏まれている者も多数いるようだが。
また敵は情報共有がロクになされていないようで、つっこんできておきながら凪を見て、ガルムはこれでいいのか、なんて叫ぶ奴までいた。
総じて雑だ。
だが、それはこの群衆が持つ圧倒的熱量故のことでもあろう。
この一年の間に数多の戦場を経験してきた凪をして、こんな戦場は想像すらしてこなかった。
戦士としての凪は、もうまっとうな剣士とは一線を画している。その振るう剣は、鎧も受ける剣も全部関係なく一撃で急所を切り裂き突き穿つ。
細かな挙動のフェイントは入れるが、基本的に一閃にて一人を殺し得る。そしてすぐ次を斬れる。
だから堪えられている。斬り倒した死体で身動きが取れなくならぬよう動き回りながら、殺到し続ける兵だか暴徒だかを殺し続け、敵の増加と殺す数とが拮抗した状態を維持できるのだ。
だがそれは、こうまでの殺意の群は、凪の全身全霊を要求する。消耗を控えるなんて意識はもうどこにもありはしない。
『人間って! ほんっとうに凄いわね!』
技量の差は天と地ほどもある戦士たちに、凪はできる対応が極めて限定されてしまっているし、ありえないほどの消耗を強いられてしまっている。
そんな群衆はまだまだ終わる気配すらない。どこまでやればいいのかも全く見えてこない。
それは、どうしようもなく強い敵を前にした時のようで。父を、おじさんを、そしてにっくきエルフのクソジジイを、凪は思い出す。
『それでも! 私が負けるわけないでしょう!』
限界ぎりぎりまで絞り出し、己とコイツらとを比べっこしたら最後に勝つのは自分だ、と凪は大人な思考を放り捨てる。
意識は全て敵を殺し続けることに注力し、いつまでも、どこまでも、コイツらが尽きるまで戦い続けると凪は決めたのだ。
戦闘中に無駄なことを考えてしまう癖のある秋穂であったが、もう今は、そんなことはしていない。
疲労がひどすぎて、そもそも考えるのも難しい。
痛い。
傷の痛さではない。息の苦しさを伴う、鍛錬中によく起こるアレだ。
今の秋穂は、熟練の剣士としては最早見る影もない。
明らかな格下相手に、掴みかかられるなんて真似さえされてしまっている。そして、秋穂の身体に敵が触れたことも一度や二度ではないのだ。
また、対多数と戦うに必須といっていい、全周囲の把握といったことはもうできてはいない。これが故に、敵に触れることを許してしまっている。
つまり今の秋穂は、常のそれと比べて死角からの攻撃に弱いということで。
まるで上空から見下ろしているかのような視野、戦況把握も、各所に大きな穴が開いてしまっている。
完璧に、どんな攻撃をされても対応できる、なんて状態ではない。だが、それでも戦える。運が悪ければ大きいのをもらってしまう、そんな状態のままで戦いを継続している。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
荒い呼吸が外からも見えるほど。
そして呼吸に合わせて動くので、文字通り呼吸を読まれてしまう状態だ。もしこの状態でミーメ辺りに打ち込んでいたら、一発で致命傷をもらっていただろう。
だが、まだ、殺せている。
どうにもならないほどに疲れすぎて視界が狭くなるなんてことにもなってないし、足が地面に張り付いたようになってしまっているということもない。
穴だらけでも戦況把握はできているし、敵の処理は、間に合っている。
そして、外からの殺意にも、どうにか気付くことができた。
「凪ちゃん!」
不知火凪は既に、思考が可能な状態ではなくなっていた。
知覚能力が敵を察知するなりその敵の状況に合わせて身体を動かす。それだけを順にこなしていく道具であり、それ以外はもう何一つできなくなっている。
ただ、うっすらと意識は残っている。
その意識も大半は、痛い、苦しい、で占められている。
もう、どうして剣を振っているのかも覚えていない。そうしなければ死んでしまうなんてことも頭にない。
苦痛に苦痛を重ねていけば、その先になにかがある。それがなんなのかもわからないが、きっとこれだけ苦しい先にあるのだからとても価値のあるものなのだろう、と思考を停止する。
時折、剣を向けるべき先の予測が三つ、四つと見える時がある。
そのどれを選ぶかで、その先の苦しさがほんの少し変化する。けど、どれが正しいのかが凪には見えない。
そして選んだ結果が正しかったのかどうかもわからないまま、次の選択、更に次の選択が凪の前に提示される。
何度も何度も選び続け、ふと凪は、ほんの一瞬のみだが、選択肢が消え一つになる時があることに気付く。
まるで瞬いているかのように一瞬のみ見えるそれが、凪はとても気になっている。
『これが、正解?』
一瞬が、少しずつ長く延びていく。そうなってくると瞬きではなく、もっとはっきりと光が差しているようで。
凪の行動すべき道しるべが、光の帯となって前方へと伸びていく。
一つ、その光に合わせてみた。
するり、といった調子で剣が振り抜ける。まるで抵抗など感じない。
それは一挙動ではない。光に沿えば、連続した動きで次々剣を振る先が見えてくる。
導かれるように、引き寄せられていく。
これが、これこそが、凪の求めた、絶対の正答だと確信する。
今の凪の知覚範囲の内において、それは確かに、最も無駄のない挙動であった。
秋穂は大声を出したつもりだったが、周囲からの騒音でかき消されてしまうていどで。それでも身体は動いている。
敵の身体の上を跳んで動くのは、やればできるかもしれないが今やるのはかなり怖い。
なので脱力した流水の如き動きで敵の群を潜り抜け、凪の下へと走る。
ほんの少し間に合わない。だから、秋穂は伸ばした手、その先の伸びた剣から手を離した。
空中で剣と矢とがぶつかって跳ねた。すぐに足元に転がる死体から剣を拾い、これを道路沿いの建物の窓に投げ込み、また別の剣を拾う。
凪は、ほんの一瞬秋穂を見た。
『うわ、マズっ』
秋穂がそう思ったのは、凪の表情がうつろなものになっていたからだ。
秋穂もかなりヒドイが、凪はそれ以上に危ない。
疲労で意識が混濁し始めている。
それでも迫る敵を殺していく速度はそこらの剣士より遥かに上で、群衆が押し寄せる状況でも適切に動けているのだが。
『ははっ、私も疲れて疲れて頭回んなくなってる時って、こんな感じなのかな』
戦場でこうなったのは、まだ一度のみだ。正確には秋穂は一度の戦場で二度こうなった。
だからこそわかる。
この状態には先があるのだ。ここから、どうにかこうにか踏ん張れて運が悪くなくて、なんとか生き永らえることができていれば、意識が戻ってくるのだ。
それまでは秋穂が凪のフォローに入る。
秋穂が凪を守るということに、疑問を差し挟む余地はない。それは当然のことだ。
だが、これから先、秋穂もきっと同じ状態になる、そう確信している。だからこそ、先に凪がそうなったのなら秋穂がそうなる前に、乗り越えて意識をはっきりと取り戻していてほしいのだ。
『まだまだ、二人でなら、私たちは戦えるんだからっ』
十聖剣の二人、クリステルとヴィンセントは、普段は利害が相反しあっている者同士、いがみあう間柄なのだが、今はお互いそれどころではなくなっている。
次々くる報告は、それほど悪い内容ではないものもある。特に標的であるアキホとナギが、今の聖都に姿を現した、あまつさえ行進の最後尾から襲ってきている、なんて話は、二人にとっては僥倖だと言えてしまうような話だ。何故そうしたのか全く意味はわからないにしても。
その後も、二人は聖都の入り組んだ街路を利用してこちらの損害を増やしてまわっている、なんて真似はせず、真っ向から主道を進んでくるなんて話であるのだから、二人の返事は「望むところだ」になる。やはり何故そうするのか全く意味がわからないが。
もちろん好ましくない話もある。行進の最後尾にいた部隊はまともに対応もできぬまま殲滅され、対応に動いた部隊も辛うじて侵攻を食い止めてはいるものの撃破なんて思いもよらない、だそうだ。
ヴィンセントは怪訝そうな顔でクリステルに問う。
「あの二人、そこまでなのか?」
「知らん。現場ではなにが起こっている? 最後尾から来たというのであれば、即応できる兵は数百はあろうに」
「そいつが、全く通用しないって報告だよな、今まできたのをまとめると」
「……ヴィンセント。お前はこういう戦の話、聞いたことがあるか?」
「ない。軍を相手に兵士二人で突っ込んでくるなんて話、あってたまるか。そいつは剣の腕が立つどうこうって話じゃねえぞ」
「少し、待て」
そう言ってクリステルは部下に言って資料を持ってこさせる。
その間に二人は果汁を加えた冷えた水をいただく。たいそう美味いこれを望んだ時に望んだだけもらえるというのが、大聖堂で高位にある者の特権だ。
これを飲んで落ち着いたところで、資料がクリステルに届けられ、クリステルはこれをヴィンセントに渡してやる。
「……いいのか?」
「最低限の情報共有はしておかんと話が進まん」
そこには教会がこれまでに調べてきた秋穂と凪の情報があった。
リネスタードで盗賊砦を叩き潰したところから始まって、リネスタードの有力組織の幹部たちを殺して回り、正体不明の千の軍隊をシーラ含む三人のみで撃退、ソルナの街でこちらもまた有力武侠組織を複数壊滅させ、ドルトレヒトから重要人物を拉致したことによりかけられた追撃隊を全滅させる。
ここまで読んだだけで、ヴィンセントは眩暈がしてきた。この間にクリステルはのんびりと軽食を取っている。
更に、ドルトレヒトの街の戦闘部隊を壊滅させておいて、この街に対し出兵したシェルヴェン軍撃退に協力し、しかる後、ドルトレヒトの援軍としてきたボロース軍とそれまで敵対していたシェルヴェン軍に協力して戦っている。ヴィンセントは意味がわからなくて何度か読み返したが、書き損じだのではなく事実であるらしい。
そして、シムリスハムン司教との揉め事に関しても、内容は極めて正確に、つまり、リネスタードに武威を示しつつ容貌に優れた二人を妾にしようと司教が動いたら、激怒した二人に反撃され十聖剣ごとぶっ殺された、とある。
「……そのブチきれそのままに、スンドボーンもシェレフテオも襲って、今こうして聖都にまで乗り込んできてるって話か?」
「うむ。理解はできるが理解できないだろう?」
「そうだな、文脈だけは一応通っているように見えるが、やっぱり色々とおかしいわ、この報告書」
「おかしいのは報告書ではない、ということが一番の問題なんだがな……」
普段なら、と力なく言うヴィンセント。
「ここまでの情報を秘匿していたことに腹がたつところだが、今回だけは認めてやる。正解だ。こんな報告書、他所に流してもみんな対応に困るだけだ」
つまり、とクリステルは言う。
「陰に潜まないシーラが二人、しかもコイツら、無為に死ぬことを全く恐れていない。コイツら二人共絶対に長生きはできんと断言できるが、コイツらが死ぬまでにどれだけの損失が出るものか。知っていたのなら絶対にこの二人は他所に押し付けていたぞ」
少し考えたあとで、はたと現状に気付くヴィンセント。
「おい、それもしかして、俺たち二人にとっては福音になるんじゃないのか?」
「そうだな。今回の損失の責任を負うべきは、今ここにいない十聖剣だ。嬉しいか?」
「……確かに地位は確保される。だがそういうのは、後始末を押し付けられる、とも言うな」
狂人二人の自殺に付き合わされ、いったいどれほどの損失を出すことになるのか。それを想像して暗澹たる思いの二人に、また別の報告がもたらされた。
「スヴァンテ様が群衆を率い、ガルムと戦って死ぬのだと戦場に向かって動き出しました。途中で兵も合流し、その総数がどれほどになったのか、いまだ確認すらとれておりません」
ヴィンセントは凄い真顔で言った。
「なあ、やっぱり俺十聖剣降りるわ。当分の間田舎にひっこんでるから後はよろしく」
「絶対に許さん。総大主教猊下よりの直接命令なんて真似をされたくなくば、きりきりと働け」
ふと思いついたことがあるヴィンセントはクリステルに問う。
「そういや他の司教様たちや聖卓会議の方々は見かけたが、リキャルド師の姿がないな。こういう窮地には率先して動く方だと思っていたんだが」
それに対してはクリステルも首をかしげる。
「そうなのだ。どうも聖堂の資料保管室に篭ってしまって、なにを言っても出てこないと。食事すらとっていただけず、従者たちは相当難儀しているそうだが……お前はなにか心当たりはあるか?」
「資料保管室? そもそもあの方が従者たちを困らせたって話は聞いたことがない。よほどのなにかがあるということか」
「ああ、だから困っているのだろう。事情の説明も拒んでいるらしいし、或いは、あの方がまたご自身のみで今回の件を収めようとしているのかもしれん」
「俺が言うまでもないだろうが、絶対にさせるなよ」
「わかっている。従者にはきちんと言い含めた聖堂騎士もつけてあるから、リキャルド師がなにか無茶をしようとしても力ずくで止めてくれる。そちらはもう任せてよかろう」
リキャルド師の不可解な行動にも、二人からのリキャルド師への信頼は揺るがない。
それはシムリスハムン大聖堂にいる全ての人間に共通していることだろう。
そしてリキャルド師は決して彼らの信頼を裏切っているわけではなかった。
彼は、シェレフテオからきたハンス神父より内密にリキャルド師のみに伝えられた超弩級の爆弾処理に躍起になっているだけだ。
そりゃ、神の正体がエルフでした、なんて話を聖域の張り直しなんて証拠と共につき付けられれば、彼も必死にならざるをえまい。
教義との整合性の確認や、この事実に対し如何なる対処をするべきか、なんてことを誰にも相談することもできず考え続けているのだ。
リキャルド師にとっては、二人の襲撃者なんぞよりよほどこちらの方が重要案件であった。
それは、機能美の極致ともいうべき動きの連続である。
繰り広げられるは紛れもない惨劇だ。ある種の滑稽さすら感じさせるほどの現実感の無さはあれど、やはりその光景にあるのは悲惨で非道で悲劇的なできごとだ。
だがその中心で、まるでそこだけ惨劇から免れたかのような、美しさすら漂わせる二人の戦士の振る舞いは、結果施される殺戮の山からは想像もできぬほどに、静謐で、流麗で、感嘆を禁じ得ぬ剣の極致であった。
さきほどからずっと、歌声と怒声以外で聞こえてくるのは、麻布を引きちぎった時のような音だ。
これが、たった二人がもたらした音とは思えぬ頻度で鳴り続けるのだ。
その音一つが鳴るたびに、人がこの世から一人失われている。
その事実を理解している一時的に殿部隊の隊長を任された男は、顔が引きつったままで固定してしまっている。
『なんだ、なんなんだコイツは。こんな、とんでもない勢いで人が死んでく戦なんざありえねえだろ。スヴァンテ様が突っ込んでから、どれだけ経った? 一刻? 経っている、よな? でもなきゃ、こんな数が死ぬなんて、ありえねえだろ』
一刻の間に生じた死者としてすら、この数はありえぬほどなのだ。
多数の犠牲者は出る。それはわかっていたことだ。あんな馬鹿な攻め方をすれば当然そうなる。
だが、それでも押し寄せる波のような群衆に、個人が抗し得る光景なぞ想像できようか。
ずっと、ずっとずっとこの二人は戦い続けていたのだ。その後で流れ込んできた、狂騒に満ちた人の群。
彼らの尋常ならざる狂乱を、真っ向より受け止め跳ね返す化け物が、人間などであるはずがない。
隊長の心中に、凄まじい焦燥が生じる。
『コイツがガルムだってんなら、群衆は無意味だ。戦士が、知恵と勇気を振り絞って初めて倒せる相手だ。つまり、この、街路を埋め尽くすほどの死人の群が、無駄な努力だってのか?』
それだけは、断じて認められることではない。
隊長の下に、他所の部隊の兵らしき者が近寄ってきた。
「もし、もしっ。かの二人を見てこられた貴方様に、是非ともお伺いしたいことがっ」
隊長が頷くと、その男は今にも泣きだしそうな顔で言う。
「このまま戦って、勝てまするか?」
「無理だ」
即答してしまったのは、隊長にとっても意外なことであった。
男は、すがるような声で言う。
「で、では。この群衆全てが、あの二人に、殺し尽くされてしまうと、そう仰せですか」
「そうだ」
魔獣なのだ、あの二人は。なれば、体力切れなぞ期待しても意味はあるまい。
そんなことはありえないのだが、体力切れがないというありえなさと、これだけの人津波を剣のみで迎え撃つありえなさと、隊長にとってはどちらも大して差はない。
確かに、見た目にはかなり消耗しているようにも見えるし、疲労を溜めている様子も見られる。
だが、そんなものかなり以前からずっとそうなのだ。そこから、いつまで経っても全く動きが衰えてくれないのだ。だから隊長はそこに期待するのを諦めている。
男は、恐らく自覚はしていないだろうが、戦士としてはあるまじき情けない声で言う。
「ではどうやって勝つのですか」
「今、後方で赤騎士殿が部隊の編成を行なっている。対ガルム用の陣を幾つもな。彼らの犠牲は、そのための時間稼ぎに費やされている。絶対に、無駄じゃねえっ」
隊長の言葉に、男は震えながら頷いた後、この場に背を向け走り出した。
それが逃走であったなら隊長も咎めたかもしれないが、彼はそんな顔をしていなかった。
彼もまた隊長と同じように、どうにかしなきゃならんと、思いつく限りのことをしようとしていたのだ。
クリステルに向かって、ヴィンセントが苦々しい顔で言う。
「なあ、もし、スヴァンテ様が亡くなっていたらどうなる?」
ヴィンセントに負けず劣らず苦々しい顔になったクリステルが言う。
「ありえん。あの方が踏み込む前に他の連中が踏み込む。そんなもの当たり前だろう」
「そうかね。俺ぁどーにも嫌な予感がしてならないんだが」
「あ、り、え、ん。前シムリスハムン司教様だぞ。そんな方が死地に飛び込もうというのに、黙って見ている馬鹿がこの国にいるものか」
殊更に強い言葉を出すのは、クリステルもまた不安に思っているせいだ。
そして最悪の報告が届く。
「群衆が突撃を開始しました。……そして、誰よりも先にスヴァンテ様が敵に挑み、死者の館に旅立たれました……」
がたり、と音を立ててクリステルが椅子の上で姿勢を崩す。
ヴィンセントは額に手を当て天を仰ぐ。
言葉もないクリステルに代わり、ヴィンセントが報告者に問う。
「それは、つまり、同行した他の貴族の方々も皆?」
「はい。……信じられぬことですが、集まった群衆たちは、まるで貴族の方々に先陣を譲るかのようであったと。スヴァンテ様たちが斬られた後で、残る群衆は一斉に敵に殺到したそうです」
その時の情景を事細かに説明すると、クリステルもヴィンセントも、報告に口を挟みはしないが、何度も何度も首を横に振っていた。
そしてその報告の最後には、悪夢のような状況説明がなされていた。
「殺到する群衆に対し、アキホとナギの二人は剣を振るって迎え撃ち、真っ向よりこれを受け止めております。少なくとも、一息に人波に呑まれるようなことはありませんでした」
クリステルもヴィンセントも、どちらもその報告内容を細かく確認しようとした。
あまりにも、これまで二人が経験してきた戦いと、いやさこの世の戦のあり方と違いすぎているからだ。
報告者は当然そうあるとわかっていたので二人の質問に丁寧に答える。報告者はクリステル配下であったが、そのクリステルから許可が出ていたのでヴィンセントからの質問にも即座に答えていた。
そこに、この部屋の中で最も低い地位の報告者に向けての、報せの使者が室内に入ってきた。
これは本来ありうべからざることだ。上位者を前にあまりに非礼がすぎる。報告者はそんな使者に大いに慌てたが、使者の表情を見てクリステルがこれを許した。
今が危急の時である、と彼は理解していたのである。そして使者は、報告者の部下が報告に訪れていて、寸刻をすら惜しむ報告がある、と報告者に対し、途中にある必要な段取りを全て無視するよう要求してきたのだ。
これもクリステルは許した。いやそれだけではなく、その部下に、直接クリステルへの報告を許したのだ。
大層恐縮する報告者を他所に、その部下が室内へと招かれた。
彼は儀礼全てを無視し、報告します、とだけ告げて報告を始める。最初の報告者はそのあまりの無礼に仰天するが、クリステルは手を挙げ彼の言葉を制する。
その報告内容は、最初の報告者が受けた報告よりほんの少し後の話だ。
そのほんの少しの間に、とんでもない数の群衆が、秋穂と凪の二人に殺害され、その被害は恐るべき速度で拡大している、と。
そして、何百いるかわからぬほどの群衆が、いずれこの二人に駆逐され尽くすだろう、という恐るべき予測を口にしたのである。
「馬鹿な!」
と即座に言ってしまったのは、最初の報告者だ。彼はそもそも、クリステル配下にあって斥候を監督する者であり、今回の部下による横紙破りの責任を問われる立場にある。
そんな上長の言葉を無視したまま部下は報告を続ける。
前線の隊長より、群衆が全滅した直後に軍による攻撃を再開すべし、という作戦があり、これを支援してほしいと彼は言う。
最早これは斥候による報告ではない。しかも、本来これを受け作戦を了承し実行に移す権限を持つのは、本陣にいる総指揮官殿であるはずなのだ。
だが、正しい。
ヴィンセントは即座にそれを認めた。
「クリステル。俺は彼の言を支持する」
彼がここに来たのは、総指揮官では受け入れてもらえず、無為に時間が過ぎるのみであると判断してのことだ。
また前線の少し後ろでは、赤騎士が軍の編成に動いているらしい。これを援護する形で、かつ編成された部隊を前線の指揮官にスムーズに受け渡すよう手配できるのは、さんざっぱら事前段取りをしてきたクリステル以外にいない。
クリステルは大きく頷いた後、腰につけていた短剣を鞘ごと抜き、報告をした部下の前まで歩み寄ってこれを手渡す。
「よくやった。これをつかわす」
驚いた顔の部下はクリステルをまじまじと見た後で、上司に目を向ける。彼は苦々しい顔ではあったが、頷いてやる。
「報告、確かに聞いたぞ。下がってよい」
「はっ」
短剣を大切そうに両手で持ちながら、彼は部屋を出ていった。
ヴィンセントは羨ましそうな顔を隠さなかった。
「こういうところ、貴族に平民が絶対にかなわないところだよな」
「当たり前だ、馬鹿者」
今部屋に残っている最初の報告者も、退室したその部下も、どちらもクリステルの郎党である。
郎党とは貴族の一族に長く仕えている平民の一族で、彼らにとって主の浮沈とは、自らの一族のそれと同義であり、その忠誠心や主の栄達を真摯に望む態度は替えの利かぬものだ。
主に越権行為を勧めるような真似をしているが、それこそが主の栄達に必要である、と彼は考えたのだ。
クリステルは迷わなかった。
「ヴィンセント。悪いが手が足りん、力を貸してくれ」
「借りに思ってくれるってんなら幾らでも」
二人とその配下たちは慌ただしく動き出す。
時間はない。だが、絶対に間に合わせてみせる、と走り出した。
遂に、人の波が、尽きた。
殺人鬼の顔で表情が固定されてしまっている凪は、そんな自分の有様にも気付かず、きょろきょろと左右を見渡す。
意識は戻っている。
この世の地獄かと思うほどの苦しさが延々と続き、記憶がところどころ飛び飛びになっている。
だがこういう経験は初めてではないので混乱も動揺もない。ただ、戦闘中に他人がそうなっている姿を見たのは初めてで、自分もそうであったと考えると背筋にうすら寒いものを感じてしまう。
秋穂も朦朧とした意識から復活していて、今はようやく訪れてくれた止まれる時間に、少しでも身体を休めようとその場で静止している。
凪は敵の死体の山の中から水袋を幾つか回収すると、内の三つを秋穂に投げる。
「お、気が利くね。ありがとー」
そう声に出した秋穂だったが、かすれるような声しか出なかったことにとても驚いた顔をしていた。
喉を潤せば治るかも、なんて甘い予測と共に水を一気に飲む。
凪もそうしているが、二人の目は水を飲みながらも前方に固定されたまま。
二人が三つ目を飲んでいる間に、陣を整えた兵士たちが、隊長の指示に従い一斉に攻撃を開始したのだ。
「まったく、休む暇もありゃしない」
戦は終わらない。膨大な死者を出した群衆による飽和攻撃の後も、教会軍は攻め手を緩める気は一切なかったのである。




