116.絶望の城
森が、爆ぜた。
遥か遠くの景色ならば、それは小さく細かく見えるもので。迫力なんてものは感じようもないはずだ。
なのに、ソレを見てしまった懲罰軍の兵士たちは誰しもが、思わずその場で足を止めてしまった。
行軍の最中で、リネスタードから見えるからこそ気を引き締めろと何度も注意されていたのに、彼らは足を止めてしまったのだ。
小さい。とってもちっちゃい。
遠くて、あまりに遠すぎるせいでそこはきっと別の世界であると思えてしまうような場所で。
隊長やその上から怒られるなんて思考も吹っ飛んでしまっている兵士たちは、ソレがなんなのかを知ろうと思い、皆一様に目を細める。
すぐに周囲から抗議の声があがる。だが、ソレを見ている兵士は誰一人動かない。
いったい何が、とソレを見てしまった兵士もまた同様に動けなくなった。
兵士たちだけではない。隊長もだ。
何をしている、なんて叱責の後で、ソレを見てしまい兵士たちと変わらぬ間抜け面でソレを見続ける。
小さいし、遠いしで、危ないとか怖いとかは全く思わない。だが、変だ、異常だ、あってはならぬ、そんな光景であることはわかる。
兵士の一人が呟く。
「ありゃ……城、か?」
「馬鹿言え。城が動くかよ」
別の兵士が溢す。
「デカすぎねえかあれ」
「見間違い、じゃねえよな。巨人ってわけでもなし、なんだありゃ」
戸惑った口調の兵士は言う。
「敵、か? それとも味方? どっちだ?」
「そもそもあれ、戦争に関係あんのか?」
何時しか、軍の全てが足を止めていた。
一万の軍勢全てが、誰が音頭を取ったでもなくごく自然に、上よりの命令を無視してその場に足を止めてしまっていた。
山の斜面を下りながらであったせいか、相手が平野の端にいたせいか、一万の兵士全てがそれを目にすることができていた。
デカくて四角い何かが動いてる、である。他にどうとも形容しようがない。
兵士たちがざわざわと騒ぎ出す。どうするんだ、というのが彼らの大半が考えていることだろう。
そしてどうするんだ、を考えねばならぬ立場の者たち、つまり本陣もまたひどく戸惑ったままであった。
参謀が、ソレから目を離さぬままに口を開く。
「だれ、か。アレが敵か味方か、わかる者は?」
別の参謀が答えて曰く。
「味方にあんなものがいるなんて、聞いていない。なら、敵、か?」
本陣の中で、誰よりも先に、アレの由来に思いが至ったのは、アーサ国から来た軍師トーレであった。
『まさか、まさか、まさかまさかまさかまさかっ! リネスタードには魔術師ダインがいるという! ならばあれが! あれこそが! 奴が我が国を欺いてまで作らんとした、動く城壁だというのか!?』
遠すぎて材質は見えない。だが、森の木々を吹っ飛ばした跡があり、ソレが進んだ跡地にはその痕跡が色濃く刻まれている。
ならば材質が剣や弓でどうこうできるていどの硬度なんてことはなかろう。
将軍が、誰よりも先に自らを取り戻し口を開く。
「誰か、あの動く城のこと、聞き知っている者はおるか?」
そうだ、動く城壁とトーレは考えたが、アレはもう動く城というのが相応しかろう。
将軍の言葉にも、誰も返事をする者はない。トーレもまた、魔術師ダインと動く城壁の話はアーサ国の醜聞であるため、ランドスカープの者に話すわけにもいかない。
だが、将軍の言葉でようやくトーレも思考のとっかかりを得ることができた。
『そうだ、まずはあれが、城なのか、魔物なのかを定めねばならぬ』
超巨大な魔物として対処すべきか、動く城として対処すべきか。見極めなければ勝利は覚束ぬ。アレの他にもリネスタードの城壁の内には五千以上の敵がいるはずなのだ。
魔物ならば倒す、城ならば乗り越える、そして如何にそうするかを考えるのが軍師の仕事だ。
トーレは大きく声を張り上げた。
「将軍! まずはアレの正体を探るべきかと! 騎馬隊にて矢で射掛け、接近を試み、あの巨大な代物が如何に動くのか、どれほど堅いのか、如何に倒すべきかを探りましょう!」
あのような、神話の中にしか出てこないようなこの世の理から外れたようなシロモノを目にして、現実的な対処を当たり前の顔で口にできることの恐ろしさよ。
参謀たちの誰しもが、この軍師トーレという男から底知れぬ不気味さを感じたが、それは同時に、頼もしさを伴うものでもある。
将軍もすぐに反応する。
「うむ! その策を採る! 騎馬隊を出せ! それとリネスタードがこの機を狙っているかもしれぬ! 斥候を出し警戒を密にせよ! 行軍は続ける! ははっ! ちょうどいいではないか! あの動く城を乗り越えるのに! リネスタードの城壁でも利用してやるか!?」
豪胆さを敢えて演出してみせた将軍のその言葉に、余裕のまったくなかった参謀たちは皆ころっと引っ掛かる。
元より勇気だけは有り余っている連中だ。
「おおっ! それは面白き策でございます!」
「なんのなんの! あのていどの城ならば用意していた攻城兵器群で十分対処できますわい!」
「城壁ほどの頑強さが本当にあるものか? 動けるだけの重量ていどならば真っ向から打ち破ることも可能かもしれん!」
「辺境の奇策なぞ! 我ら王都の精兵に通じるものか! 叩き潰してくれましょうぞ!」
参謀たちが如何に戦うかを語り合っている間に、騎馬隊が命令に従い駆け出していく。
選ばれたのは、勇猛さこそが尊ばれるこの懲罰軍において、慎重さを評価されている珍しい男だ。今こそ真の勇気を示す時、なんて抜かす連中には絶対に任せられない役割である。
そういう勇気に満ちた人間が必要なのが戦であるし、その価値は確かに尊いものであろうが、今この場で望まれている能力ではない。
騎馬隊にはトーレが直接出向いて何度も言葉をかけていた。
騎馬隊隊長は自らに期待されている役割を、よく理解してくれたと思う。
『なるほど。きちんと探せばこういう男もいるものか。それもそうだ、猪ばかりでは戦にならん』
上が勇猛さ全振りであろうとも、部下たちはきちんと生き残るために必要なことを考えているものなのだろう。
そうでなくてはそもそも軍が成立しない。上が重んじることによってその比率は変わるのだろうが、勇猛さを持つ者、慎重さを持つ者、どちらもが軍にはいるものなのだろうと改めて知ったトーレである。
軍師トーレは妙に感心した様子であったが、その慎重さを買われた騎馬隊隊長はといえば、率いる部下たちの顔ぶれを見て先行きの不安を感じずにはいられない。
『さて、こいつらが何処まで俺の言うことに従ってくれるもんだか』
今回の任務、ともすれば臆病ともとられかねない動きを要求されている。動く城なんていう前代未聞の化け物に突っ込もうというのだから当然の配慮であるのだが、実に残念なことに自軍の兵はそうは思わないだろう。
こうして城への偵察を行なっている様子を、全軍が見ることができているのだ。この状況で、隊長の後ろを走る部下たちが臆病にみられるような動きを納得してくれるものか。
出立の前に、軍師トーレが隊長のみならず隊員全ての前でこの任務の重要性となすべき役割を丁寧に説明してくれたので、一応、頭の中では理解はしてくれているはずだ。
他所の国からきた軍師なぞアテになるものか、と隊長自身は思っていたのだが、思っていたよりずっと気さくで親しみやすく、何よりこうした重要な場面で細かい仕事をこなしてくれる。
『こっちの仕事の助けになるってんなら、そうだな、認めてやってもいいか』
表立って逆らうような真似はしないが、隊長に限らず他国者に対する認識など誰しもがこんなものである。
隊長は部下たちの顔を見る。
全員、きちんと緊張はしてくれているようだ。ここは敵の勢力下、リネスタードのおひざ元である。いつ何処から敵が出てくるかわからん土地を騎馬にて勢いよく駆け抜けるというのはそれだけでおっかないものだ。
ただ、こういった時隊長の特質は最大限に活きてくる。
出立前に目星をつけていたルート通りに、皆を先導しながら馬を走らせる。
決して走り易い場所ばかりを通るわけではない。むしろ騎馬なのに何故そこを、といった場所ばかり走っている。
恐らく、観戦している歩兵たちはごちゃごちゃとつまらんことを言っているのだろうが、わかる者にはわかってもらえよう。隊長は敵が待ち伏せや罠を仕掛けにくい場所を選んで走っているのだ。
そのルートも、走りながら途上で数度の変更を加える。
今隊長の頭にあるのはあの巨大な動く城のことではない。如何に敵地を無傷で抜けるか、だけである。
後ろに続く部下たちも、あまり賢いとはいえないがそれぐらいはわかってくれている。
騎馬の優れたところはその速度もさることながら、悪路走破性の高さもまた優位な点である。
だというのに走り易いところをわざわざ走るのは馬鹿のすることだ。きちんと馬の優位を活かし、騎馬ならではのルート選びで安全性を確保すべきであろう。
傍目には当たり前に、経験者からすれば思わず頷いてやりたくなるような巧みな走りで、騎馬隊はソレへと近づいていく。
近寄るにつれて、隊長は自身の集中力が乱れていくのがわかる。隊長でこうなのだから、部下たちはもっとひどいであろう。
『くっそ、でっけぇなぁ、コイツ』
近づけば近づくほどに、動く城のデカさがわかってくる。
魔獣を退治するように戦えるかもしれない、なんて話はもう頭の片隅にもない。
城だ、城壁だ、聳え立つ尖塔だ。
あの上部から矢を射掛けられたら、それだけでこちらには為す術がない。
そして近寄るにつれて聞こえてくる音。響く音、轟く音、振動すら伝わってきそうな、心を弱らせる恐怖の旋律。
何よりも恐ろしいのが、音も聞こえているし、威容を恐ろしくも感じている。なのに、まだまだ全然動く城に届いてはいないことだ。
もっと近寄らねばならない。あの姿がもっと大きく、あの音がもっと大きく、この胸の恐怖もまたもっと大きく、なっていくのだろう。
隊長だけではない、隊員の全員が思っていた。単騎の偵察でなくてよかったと。
皆と一緒ならば、逃げるなんて選択も選びようがない。もし単身であったのなら、この恐怖に何処まで抗えたものか。
騎馬隊隊長は、ふと思いついて部下の一人に指示を出す。
「おい! 騎射だ! 矢を見て距離を測るぞ!」
この隊長、慎重さだけが売りの男ではない。斥候の任を頼むに最も重要な能力、機転の利く柔軟な頭を持っているのだ。
隊長が命じた男はこの隊で唯一、馬を走らせながら矢を放つことができる。
隊として動く時はあまり使わぬ曲芸扱いであるが、今はこの上なく頼もしいものだ。
部下は言われた通りに矢を放つが、隊の全員が驚くほど矢の飛距離が短い。彼はもう一度矢を番え放ったが、飛んだ距離は大して変わらなかった。
「くっそ! 隊長ダメだ! 相手がデカすぎて目測が狂っちまう!」
「い、いやこれでいい! 全員わかったか! 目で見ちゃ距離が狂う! これから数度矢を射させるからそれを見て距離を測れ!」
隊長が思っていたよりずっと矢の届いた距離が短かったことに動揺はしていても、目的は果たしたのだからこれでいい、と隊長は馬をそのまま進める。
隊長の心中に、いや、隊員全ても一緒だ、巣食う不安がある。
あんなに近く見えたはずなのに、どうしてあれだけしか矢が届いていないんだと。
あんなによく見えるのに、何故、距離が合わないんだ。
あんなにデカイのに、これから先近寄っていけばもっともっと、デカくなるということかと。
一度丘を挟んだことで動く城への視界が切れる。
ほんの少しほっとして、それで馬を一気に走らせ丘を越える。
『っ!?』
無理だ、咄嗟にそう判断した隊長は手綱を強く引いてしまった。
続く隊員たちもそうだ。全員が一斉に、丘を越えてすぐのところで手綱を引いた。引かされた。
凄まじい轟音、そして弾けるようにまき散らされる大地、そしてそして、まだまだ距離があるはずなのに、見上げないとてっぺんが見えないほどの、デカさ。
デカイのだ。もう、こんなにデカイものなんて見たことがないと断言できるぐらい。
いや静止しているのならばわかる。このデカさもきっと許せる。だが、途上の木々を、壁を、家を、易々と蹴散らし進む巨体が、地響きのような轟音と共に進んでくるのだ。
「あ、あんなもん、どうしろってんだよ!」
隊員が思わず叫んでしまうが、誰も彼の言葉に異論はない。隊員たちの意思は統一されており、アレに近寄れなんていう馬鹿なこと命じたクソをぶっ殺してやりたい、である。
だが、隊長だけは違った。
いや一緒なのだが、彼は声を掛けられてしまっていたのだ、異国よりの軍師に。そして彼は、隊員たちと一緒に騒いで喚いていい立場ではない。皆を率いて生き残らせてやらなければならない、隊長であるのだ。
自身の人生の中で最大級だと断言できるほどの勇気を振り絞り、隊長は怒鳴った。
「み、見ろ! あの速さなら! 俺たちの馬の方が速いぞ!」
隊員たちが一斉にあの巨大な城の、端っこの部分に目を向ける。動く城と、動かぬ大地とを見比べてその速度を目で測ったのである。
「お、おおっ! そうだよ! あれならこっちのが速ぇ!」
騎馬隊にとって最も重要なことは、己の騎馬より敵が速いかどうか、である。
どれだけ恐ろしい相手でも、どれだけ強い相手でも、馬がより速ければ逃げることはできるのだ。
アクセルソン伯配下の兵は、勇気をこそ誉とする。それを試された場所で、絶対に引いてはならぬと何度も何度も言われ続けてきている。
隊長は、敢えて言った。
「矢狭間は見えぬ! ならば正面から行くぞ! 途中で左方に旋回し敵の動きを見定める! 敵が何処から見ているか、何処から撃ってくるかわからん! 注意だけは決して怠るなよ!」
そうして、彼ら騎馬隊はこの巨大な動く城に向かって、真っ向から騎馬にて突っ込んでいったのだ。
まだ開戦すらしていないが、この戦において最も勇敢であったのは間違いなくこの男たちであろう。
「信じらんねえ、アイツら、マジで正面から突っ込んできたぞ」
呆然とした顔で正面ガラスから眼下を見下ろす加須高校生徒。
さもありなん。そもそも、あんな小さな騎馬が何十騎かでどうしようというのか。馬の質量も大したものだが、そんなもの、機動要塞カゾと比べるようなものではない。
突っ込んでくる兵たちの顔が、目が見える。もう完全に、正気の目をしていない。
「え? 特攻? え? なんでいきなり特攻?」
そんな見当違いの彼の台詞を無視して、橘拓海はその瞬間をじっと見据えている。
その隣にいる高見雫に向かって、拓海は正面を向いたままで宣言した。
「殺すよ」
「うん」
戦闘機動に入るなり、機動指示は雫から拓海に切り替わっている。
拓海の手を、雫がきゅっと握りしめる。意外なことに、拓海の手は震えてはいなかった。
一万の軍を見て、あれがリネスタードで何をするつもりなのか、拓海はその高い知能で正確に察し、理解していた。
だから拓海は、その選択を迷うことなく選ぶことができた。
拓海の眼前で騎馬隊が直角に、ぐいん、といった感じで右方へと曲がっていく。
「第二! 出力上げろ!」
拓海の指示に、即座に第二魔導炉が応じる。
機動要塞カゾは、そのまま前へと進んでいる。だが、急激な力場の変化により、前に進みながら機動要塞カゾの右翼部分が前方へとせり出したのだ。
それはさながらドリフト走行のようで。
校舎の中にいた皆が、急激な姿勢の変化にひっくり返りそうになっている中、機動要塞カゾは拓海が意図した通りに動き、右側が斜め前に突き出る形になった後で、拓海は姿勢を戻すよう指示を出す。
敵が逃げようとしていく方向に向かって、要塞を斜めにズラすことでその進行方向に壁を作る形にしようとしたのだが、要塞の移動速度も騎馬の移動速度も速すぎるのと、カゾ自体の巨体のせいで拓海の目には騎馬たちがどうなったのかわからない。
伝声管に怒鳴る拓海。
「屋上観測班! 正面から突っ込んできた騎馬隊はどうなった!?」
少ししてから返事が。
「全部で二十二騎! 右側を回ってそのまま後方に抜けてった! もう一度接近するつもりっぽいぞ!」
突入時は三十騎はいたはず。
潰した反動も何も感じない。音もしなかった。神様が天罰を下すこともなければ、精神が何か別のシロモノに変容するような気配もない。
実感なんてものは欠片も感じなかった。
なら、まだやれる、と拓海は次なる標的を指示する。
「騎馬隊は放置でいい! 懲罰軍先鋒に移動先を固定! 速度は七分のまま! 合図出すまではこの速さ維持で!」
屋上観測班より、通過したはずの騎馬隊が側面を並走しているとの報告が入る。だが、馬から校舎に飛び移るのはまず無理だ。
どういうつもりかわからないが、騎馬たちは並走を続ける。護衛の兵たちが弓で射っていいかと問うてきたので許可を出した。
数騎が撃ち抜かれるとすぐに弓の射程から離れたが、騎馬隊は決して並走をやめなかった。
「何の、つもりだ?」
彼らの目的は斥候である。斥候したところでどうにもならない、と知っているのはこの要塞の能力を知っている校舎内の人間、乗組員のみで、そうでない者にとっては数多確認すべき事項があるということに、思い至らなかったのである。
そして騎馬隊の隊長は、この脅威に対し彼なりの結論を出していた。その出た結論が、到底受け入れられるものではなかったが故の、必死の並走であったのだ。
遠く騎馬隊の奮闘を眺めている懲罰軍兵士たちは、騎馬隊が彼らへと接近したことでようやく動く城の巨大さを認識した。しかもあの巨体でありながら、騎馬隊の動きに反応するほどに機敏にも動ける。
だがそれでもまだ距離がありすぎることと、あまり現実味のある光景でないことから、彼らはそれを脅威であると理解することがなかった。
もちろん首脳陣であるところの参謀たちは、そんな呑気なことは言っていないが。
「ば、馬鹿な! 騎馬を走らせてようやく追い越せる速さだと!?」
「もっと近寄れないのか、手足を引っ掛ける突起部があるようにも見えるのだが」
「ええい連中は何故戻ってこないのだ! 詳しい話を聞かねばならぬというのに……」
そう言った参謀の言葉で全員が気付いた。
騎馬ならばどうにか速度負けすることはない。だが、騎馬以外ではどうにもならぬほどの速さである。ならば、今から本陣にまで報告に戻ったところで、対処するための時間なぞほとんどなかろう。
三騎のみ、並走を始めてからすぐに離脱していたようだが、あの速さを相手にこれを待っていては到底対処なぞ間に合わぬ。
それに気付いた時、並走を続ける騎馬隊の理由に思い至った。並走しながら、周囲を回り、そして矢を射掛けられながらも決して離れず、逆に無理矢理でも馬から矢を射ようとしているのは、見通しの良いところにいるだろう本陣たちに、少しでもこの城の情報を伝えるためだと。
本来の斥候であるのなら、あそこまで踏み込むのは厳禁だ。犠牲を出すような危険度の高い行為は斥候の段階ではそもそも行なうべきではない。
それでも、そうする理由。そうせざるをえない理由。
トーレ軍師は、すぐに将軍も、その理由を理解する。
『騎馬隊の連中は、一万の軍でもどうにもならんと判断したのか』
『奴等は、必死に我らに伝えておる。早く逃げろ、何をやってもどうにもならんから、今すぐに逃げろ、と』
あの建物に本当に城壁並の硬度があるのなら、それがあの速さで動いているのなら、そうすることに何かしらの制限が存在しないというのであれば。
トーレ軍師、将軍、共に歯を強く食いしばる。
「将軍っ、意見具申を」
「言うな。お主が言うてはならぬ」
客将にこれを言わせるわけにはいかない。こんな、反発しか生まぬ現実を突きつける役目を、外からきた者に任せるなどという無責任な真似だけは絶対にできぬ。それが将軍の矜持だ。
参謀たちに向かって将軍が怒鳴る。
「あの動く城! あれに城壁の固さと騎馬に準ずる速さがあるとして、こちらが取らねばならぬ対策を述べよ!」
即座に声が上がる。
「しょ、将軍! その条件では兵士ではどうにもなりません!」
「どうにもならんで済むか! ならぬを為すための策を考えるが参謀ぞ!」
別の参謀が声を上げる。
「ですが将軍! その場合ですと攻城の策全てが通用しませぬ! 攻城兵器はあんな速さの相手を想定しておりませぬし、騎馬に準ずる速度となれば乗り込むのに兵一人につき馬一騎が必要となり、そのうえ馬を使い捨てにせねばなりません!」
「そうすれば、乗り込めるのか?」
「……い、いえ。誰がどういう意図で作ったものかわかりませんが、私が戦を想定してアレを作ったとしたならば、馬で近寄り飛び乗るなんてやり方が簡単にできるような造りにはいたしません」
「ではどうする! あれが我が軍に突っ込んできたとして! 槍衾で! 隊列を組んだことで! 受け止めることができるのか!?」
物凄い勢いで首を横に振るまた別の参謀が声を出した。
「む、無理です! あの速さであの大きさのものが突っ込んだならば、それこそリネスタードの城壁すら粉砕しかねません! 人の身ではたとえ万の兵が集まっていようと太刀打ちできるものではありますまい!」
「……では、引くしかあるまい」
ざわつく参謀たち。まだ戦ってすらいないというのに軍を引くとは何事か、といったアクセルソン伯の言葉が脳裏をかすめたのだろう。
だが将軍もトーレ軍師もよくよくわかっている。アレを相手に一当てなんてした日には、ただそれだけで全軍を踏み潰されかねない。馬に準ずる速度で城壁が動くのだ。歩兵では逃げることすら叶わぬだろう。
彼らが騒いでいる間に、騎馬隊に新たな動きがみられた。
三騎が動く城目掛けて急接近を狙ったのである。
それが決死の覚悟でそうしているだろうことは、少なくともトーレ軍師と将軍にはすぐにわかった。全く動く気配のないこちらの様子に、彼らはその命を賭けるべき、と考えたのだろう。
城の上から降り注ぐ矢に一騎が射殺され、残る二騎が城に近寄る。優れた馬術であることは、この距離からでもよくわかる。
だが、その騎馬の動きが大きく揺れた。二騎が二騎ともそうなったのだ。
何故そうなったのかは見えない。だが、近寄りきれない。そうこうしている間に一騎がまた射殺される。残り一騎。
彼は、勢いを付けて城に再度近寄り、そして、騎馬の上に立ち、城目掛けて大きく飛び出した。
それは、明らかに不自然な動きだった。
飛びつかんとした彼の身体が、空中で不可解な動きを見せ、まるで見えない壁でもあるかのように弾かれ、届くはずだった城の壁に触れることなく地面に落下したのである。
どうにもならぬ、と皆に報せるために、彼は彼のできるありったけを、振り絞ったのだろう。
将軍は顔を伏せ呟く。
「……すまんっ。よく、やってくれた」
将軍は再度撤退を指示する。騎馬隊の無残なやられ方を見て、参謀たちも打つ手は思いつかず納得してくれた。
将軍は、ただやられっぱなしではない、と皆に示してみせる。
「あれだけの巨体だ。山岳地のような地形は移動できぬのではないか? ならばこのまま山に入ればあれも追ってはこれまい」
また、一つ所に固まっていてはあれの一撫でで全滅してしまう。だからこちらは可能な限りたくさんに軍を分け広く展開する。
そして敵城の動きを観察し、山での動きを見極めることで城のできることできないことを見極め、再度の攻勢への準備とする。
将軍がそこまで一気に話すと、参謀たちも話を理解したようで、すぐに軍を動かしにかかる。
その間に、将軍がトーレ軍師に小声で問う。
「リネスタードはどう動く?」
「こちらが山に動くことぐらいは読んでいるでしょう、軍を小分けにすることも。追撃の絶好の機会ですな。そして追撃に出られたからといってこちらは兵を集めることもできず、しかも山は奴等の地元で、いいように狩り取られることになるでしょう」
「……あの城が山に入ってこれねば、対処する手立てはある」
「囮の軍にて城を引きつけ、その間に残る全軍を山の裏側まで撤退させます。軍は分けたままで各軍が独自に撤退路を確保させましょう。アレが山を迂回してきたとしても、それで稼いだ時間で、最悪一隊は捕捉されるかもしれませんが、残りは撤収が間に合うと私は考えます」
「後先考えぬ全力の撤退、か。万の軍を動かし、リネスタードまで後一歩と迫りながら、このザマか」
「将軍、万の軍勢なればこそ、ですぞ。アレへの対策を怠れば、誤れば、万の軍が文字通り全滅しかねません。私も、将軍も、この戦に誰がどれだけのものを賭けているのかを理解しています。それでも尚、勝てぬは勝てぬのです。アレが相手では戦にすらなりえません。我らの首がかかっていようとも、兵士たちだけは何としてでも帰してやらねばお国が滅びます」
もしかしたら、にも期待させてはもらえない。恐らく激高するであろうアクセルソン伯に将軍は首を差し出すことになろうが、それでも、一万もの兵が国元に戻れぬとなれば、領地の維持すら覚束なくなろう。それだけは何としてでも避けなけれなならない。
将軍は、完全に腹をくくった男の顔で軍師に言う。
「トーレ軍師、貴殿が来てくれたこと、心より感謝する。かかる異常事態においても、貴殿が動じることなく冷静であり続け進言を続けてくれたこと、我が軍将兵に代わって礼を言う」
「……将軍こそ。無念さを飲み込み、よくぞ決断してくださった。さあ、後は我らが軍の精強さをリネスタードの奴等に思い知らせてやるだけです」
「おう、連中に目に物見せてくれん」
今にも萎えそうな自身の戦意を鼓舞するように、将軍はそう言い放った。




