29日のイヤな予感
次の日、父は何事もなかったように、朝食を食べてる。
(といっても、パンとコーヒー、目玉焼きという簡単なものだけど)
「二日酔い、大丈夫ですか?上野先生」
ウィスキーを無理に飲ませた都築さんが、申し訳なさそうだった。
「いや、昨日は飲まなかったはずだ。なんだか、途中から記憶があいまいで
スタジオでスコアを見て再確認してたはずなんだけどな。
また、何か憑いたとか。はは」
不思議そうにする山崎と脇坂に、昨夜の事を話した。
ただ、いくら父が仕事の本気モードでも”記憶がない”ってのが、不思議だな。
「まあ、事故か相当なショックをうければ、別ですが。。ところで、上野先生は、
ちゃんと食事をとってましたか?」
「昨日は昼はお弁当で、夜は都築さんがおにぎりをスタジオに
おいたはずなんだけど・・・もしかして食べてなかったかも」
夕べは空腹にウィスキーか。それは、飲んだ途端、すぐ効くか。
「低血糖状態で、意識朦朧としてたんでしょうかね~よくわかりませんが」
脇坂の話が、昨夜の真相かもな。
僕は午前中は家で練習、山崎も脇坂もそれぞれ講習会に出かけて行った。
脇坂は、かなりキツい講習会らしく、夜、遅くまで勉強してようだ。
父は、午後はリハーサル。朝食後、”やけに眠いから”ともう一度、ベッドへ入った。
練習に入る前、都築さんと話しをして、例の父を揶揄するメモをみせた。
「上野先生は、この手のメモは気にしないでしょう。
よくも悪くも、マイペースの人ですから」
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午後は 西師匠の所で、特訓4日目。
約束の午後1時に師匠のお宅を訪問すると、橋田が先にいた。
橋田とは、ザルツブルグへのツァー旅行で一緒になってからは、たまにメール
するくらいの、つきあいが続いていた。
「お、上野。久しぶりだな。そういえば、上野の師匠は西先生だったものな」
「橋田こそ、どうした?まさかウチの先生に鞍替えするとか?」
僕は、シレっと冗談を言った。
この前の橋田のメールでは、喧嘩のように口論になりながらも、正岡先生と
受験曲を練習してるって内容だったし。
ちなみに、僕の西師匠の先生が、正岡先生だ。だから僕にとっては、正岡大師匠
になるわけなんだけど。
「はは、大丈夫だよ。正岡の爺とは上手くやってる。
今日は、師匠のお使いだ。”初見練習用の楽譜が西の所にあるから取りに行け”
だって。ところで、お前は、初見練習、やったか?」
「もちろんさ」
おそらく、橋田の取りに来た楽譜は、父の作曲したものだ。
「お使いの途中、中を見てはいけませんよ。橋田君」
「見るわけないだろうが、見たら初見練習にならん」
橋田は楽譜と、正岡先生へのお歳暮を持って帰っていった。
「いや、ごめんごめん。遅くなってしまったね。
上野先生作曲の”初見練習用曲”、正岡先生にも、使ってもらうんだ。
事務局のほうは、柿沢さんって秘書から、了解を得てるから。
裕一君に最初にいうべきだったかな?」
「いえいえ、父の曲が役に立つなら僕としてもうれしいです」
正直な所、原譜は読めないだろうから山崎がPCで清書し、ついでに
事務所名と作曲者名も入れただろう。
柿沢さんなら、”この手の作曲も、商売になるかも”とか思ってるかもしれないけど。
今日は、ショパンのエチュードで指慣らしから。
もっとも、もっと基礎の練習は家でしてきてるが。
エチュード10-4は、最近、人気の曲のようで、試しにクラスの女子たちに聞いて
もらったら、半分以上、曲は知ってた。恐るべしメディアの力だな。
僕はこの曲を、高速でミスタッチなく軽い音。しかも大胆にダイナミクスを付ける。
ってのを理想にして、頑張ってるのだけど・・
なかなかテンポアップできてない。無理にすると、ミスタッチがでてきて、細かい音
のニュアンスを出せなくなる。
「なるほど、多分、このくらいのテンポが、今の裕一君には限界かもしれないよ。
早弾きする演奏家に比べれば、当然、遅いけれど、このテンポで十分だよ。
受験までに、これ以上速いテンポで弾こうと目指すと、期間がたりなくて、指の
故障につながるからね。後はダイナミクスと 細かいところかな」
そういって、先生は、見本を弾きだす。
「ほら、ここは前は、こうだけど、次は半音上がってる。特にアクセントで強調する
というより、心にとめておく。
それだけで、和音のニュアンスが変わる のが聞こえてくるはずだから」
エチュードの練習は、それの繰り返しで終わった。
「うん、7割方の仕上がりかな」
え?これで7割か。うmmm
次はバッハだった。平均律2集から5番の、今日はフーガだけ。
何か、弾いていて 調子狂う、今日はおかしいな
「ははは、やっぱりね。悪い悪い。ちょっとしたいたずら。
受験でも、プロの演奏会のプログラムでも、大抵は 時代順に弾くんだ。
さっきまで、ショパンをばりばり弾いてたから、裕一君、バッハも
ロマンチックになりすぎてるんだ。
でも、バロックとはいえ、甘い旋律はところどころにあるから、そこを
自分で感じて下さい」
ベートーヴェンのピアノソナタ ”ワルトシュタイン”は、最後まで通すを
3回やった所で、僕はエネルギーつきた。
指ももちろん疲れてるけど、集中力がきれた。これ以上弾いてもミスを連発する
だけだ。
師匠もわかってたようで、そこで休憩にはいり、僕はホっとした。
休憩後は、1楽章をひたすらしつこく、細かく練習。
やれやれと思った所で、聴音のテスト・・
「今年は、これで終わりだね。聴音、若干苦手そうだから、気を付けて。
来年は、ソナタは1楽章を中心にやります」
音大の受験では、ソナタは全曲を弾くことはない。
多い受験生に、ソナタだけで20分も時間をとってられないし、
多くは1楽章、もしくは最終楽章、つまり 難しくて速い曲 を課題で弾くことになる
レッスンが終わり、先生のお宅を出ると、雪がチラついてた。
なんかイヤな予感。東京って、少しの雪で交通がマヒするんだ。




