ショパン 黒鍵のエチュード
八重子先生のレッスンは、8月はそれで終わった。
自由課題として出されたショパンの「夜想曲」から2曲選ぶのだけど、
1曲は、20番(遺作)にした。あと、一曲は迷ってる。
20番は4分ほどの短い曲で、哀愁にみちた曲。
それほど難しくはないけど、35連符や、連続するトリルを、きれいに弾くのが
難しい。
レッスンからもどり、夕食を食べてると、電話がなった。
母さんからで、いろいろ事情があって、こちらに来るのが遅くなるそうだ。
8月の4日に来るということで、僕は、ちょうど、夏季セミナーのために
3日には東京に向かうので、すれ違いだ。
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夕食後、音楽室で練習しようとすると、山崎が入ってきた。
「あっと練習中悪い。ちょっと資料を取りに来ただけだし。」
「イヤ、気を遣わなくていいよ。練習しだすと集中するから、何も気にならないし」
もうずっと、ピアノを練習しだすと、楽譜と曲の世界に入り込むせいか、
時間も部屋の温度や明るさも気にならないときもある。
そのせいで、最近、俊一叔父さんに会えないのは寂しいけど。
「ところで、裕一、お前、やっぱ少しマザコンの気があるな」
「マザコンも何も、僕は母親に育てられた記憶があまりないのだけど」
「そこなんだよ。だから母親をかえって恋しい ってあるかもな」
「もしかして、そういう噂でも聞いた」
「ビンゴ!陸上部関係者から、”裕一の美しすぎる母親”の情報がでたんだな」
美しすぎる・・・・うm。プラス 天然すぎて世間知らず。なのだけど。
母さんの音楽に対する執念を目の当たりにしたら、だれも”マザコン”
なんて、噂はしないだろうな。
苦悩してた”シャコンヌ”は、あの後、どうなったのかな。
セミナーから帰ってきたら、それとなく探りをいえてみよう。
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その夜は、ショパンのエチュードを集中的に練習する事にした、
さあ、はじめようとしたら、父がドアをあけてノッソリはいってきた。
片手には、インスタントコーヒーをいれたカップを持って。
「課題がたまってるんだってね。休み中が正念場だから、頑張って練習。
今日は体調がいいから、聞くだけ聞いてあげるよ」
父は、本当の休暇の最中で、音楽を頭の中にいれたくないらしい。
「父、無理しないでいい。大事なスポンサー様だし、休暇が終わった後、
バリバリ働いて稼いでもらわないと、困るから。
遠慮しないで、出て行っていいよ(暗に出て行って)」
「いやいやいやいや。大丈夫。今日、一日だけの大サービス。
裕一がセミナーから帰ってくるくらいに、また春香と旅行に行くかもしれなし。
春香が、美瑛の丘の風景を見たいって言っていたからさ。」
と、父は旅行のことを考え、ウキウキしてる。
「じゃあ、聞くだけ聞いてていいよ。今日はショパンのエチュード、
集中練習するつもりだったけど、いい?」
いつものようにソファにだらしなく座る父は、どうぞどうぞと、手で合図
してきた。
最初はエチュード「黒鍵」
仕上げがまだだったので、曲想を自分なりにつけていく。
いろんな演奏家の「黒鍵」を聞いたけど、プロは、やはりすごいと思った。
この曲は、ダイナミクスや、テンポを細かく指示してる。
でも、自由なテンポというわけじゃなく、ritしたあとは、かならず、元のテンポ
に戻る。強弱の切り替えも重要。それをこなして、一つの物語を作るよう曲を
演奏してる。
ネットの動画で、”練習中”っていう「黒鍵」も聞いたけど、統一性ってとこで
くらべものにならない。たとえ、音符どおり、記号通り、インテンポでひいても
それだけなのだ。何も、こちらに伝わってこない。
”ああ、楽譜通りに弾こうと努力してる”ってのは、伝わるけど。
これが、プロとアマの決定的な差なんだ。
僕の演奏はどうなんだろう?
そんなこと心にとめ、練習し始める。最初にとおして。次は片手ずつ。
次は、左右のバランスを考えて。
最後に自分のベストと思える演奏ができるよう、通しで何回か。
(ベストの演奏はできなかった)
次の曲に行く前に、父があくびをしながら、立ち上がった。
「裕一。あまりあせる必要ないぞ。その曲はそこらへんまでOK
じゃないかな?プロの演奏家の練習じゃないんだし。」
は~やれやれ 父は言いながら、音楽室を出ていった。
緊張感0の、マエストロ・雅之上野は、どこにでもいる田舎の中年オヤジだった




