父と僕
いつもと同じようにソファに寝そべっている父に、
練習の手を止め、僕は聞いてみた。
「かあさんは、NYの事務所に移れそうなの?この間、東京で、
アリサさんとかあさんが、移れるよう調整してる って話は聞いたけど」
「正直な所、ウチも厳しいかもしれない。一人のマネージャーが増え、
奏者が増えたとしても、仕事がとれなければ、負担がふえるっていうことだし・・」
この口調だと、母がNYに事務所を移すのは、難航してるのかもしれない
「今までどおり、母さんは東京の事務所でいいんじゃないの?
僕がいうのもさしでがましいけど、NYに移した所で父も忙しく演奏会で
飛び回ってるのだから、同じじゃないの?」
「僕は春香にNYに根拠をもって、もっと自由に動いてもらいたいんだ。
日本にいると、これ以上、春香の音楽がのびない気がする。
この間のようにノイローゼ寸前にならないようにするには、
縁やしがらみを断ち切って、日本を出るのがいいと思ったんだ」
なるほど、それが父の母さんに対する気持ちか。
”この国にいたら、これ以上のびないよ”とは本人には言えないよな。
父は自分の言いたいことだけ言ったら、疲れたのかソファでまた眠りだした。
それを強引に起して、寝室まで引っ張っていった。
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あっという間に日は過ぎていって、今日は西師匠のレッスン日。
正直、自信がない。
最初は、平均律から。
さらいなおすと、中学の時の僕は、”いったい何を考えて弾いていた?”な
疑問な部分、満載だった。12番のフーガは、難しいとしか思ってなかったけど、
改めて弾いてみると、主題の単調なリズムが発展して複雑になったり、
心が希望へ変わっていうような曲で、はまった。
次の13番は、牧歌のようなのどかさが好きだ。
青野んちの牧地を思い出させる曲。
牛がノンビリ草を食べてて、時間がゆっくり流れていくようだった。
(ただし、一般人は立ち入り禁止だ)
こまごました注意はあったけど、だいたい克服できた。
問題になったのは、12番フーガの主題の弾きわけ。十分にできてなかったらしい。
やってるつもりで、出来てないのは悔しい。
ショパンのエチュード、10-9は、左手の拡張とレガート
の練習だけど、上手くいった。
25-9は、予想どおり、軽いスタッカートにするように注意。
何度目だろう。この”軽いスタッカート”の注意。
先生の音を聞けばなるほどと思うのだけど、自分でやると難しい。
これは、もう一度だ。
ベートーヴェンの4番。
1楽章は、あれほど練習したのに。
”ここは出来てるね。じゃあ、次、ここはこう弾いたほうがいい”
ときた。じゃあ、最初からいってほしかった・・と思ったが、そこの
部分は奏者にとって解釈のわかれる部分だったようだ。
先生は、僕を尊重してくれたんだ。
2,3,4楽章は、止められずに弾き終わって。先生の顔を見ると、
渋い顔をしてる。
「4楽章は、まあまあかな。2楽章は、ゆっくりした中にも、リズムを
はっきり・・・」
2楽章と3楽章のマイナーの部分は、注意のてんこ盛りだった。
止めなかったのは、時間の関係でピンポイントで指導したかったのかも。
ベートーベンは、2,3楽章をもう一度。あと次にやる3番の譜読み。
ショパンのエチュードは、25-9と、25-4.
25-9は、やっぱりOKにならなかった。僕は好きな曲なんだけな。
東京の家に帰ると、母さんが待っていた。
アリサさんはNYに出張中。事務所の話かな。
「裕一、明日からヨーロッパでしょ。母さんが成田まで送ってあげる。」
ありがたいけど、かあさんの帰り道のほうが、心配だよ。
空港から出られるのかとか、乗り継ぎできるのかとか・・
「父が勝手にとってきてくれたツアーだけど、この際だから、目いっぱい
勉強してくるよ」
「雅之さんって、そういう所が素敵なのよね。私も行きたいくらいだわ」
かあさんの的はずれな惚気は、この際スルーだ。
父が、母さんの音楽的な事を考えての事務所移転は、絶対秘密だし。
あくる日、成田空港のツアーの集合場所に行った。
だいたい、ツアーのメンバーは30名前後って所か、音大生から
定年後のご夫婦まで年齢層はいろいろ。
そこに以外な顔を発見した。
橋田だ!!げ、旅行中、ずっと一緒?、まじ帰りたい。
その橋田が僕に近づいて来た。
正確には橋田親子だった。橋田、母親と一緒だ。
「こんにちは。上野君だっけ。一人で参加なのね。
うちの息子と同級生だっけ。ありがたいわ。仲良くしてあげてね」
なんか、幼稚園ママみたいだな・・
橋田は、表情のない目をして、こちらに軽く頭を下げた。
母親が、いなくなると、”いつもの皮肉屋の橋田”にもどるかと思ったら、
暗くて無言のままだった。
そして、橋田がポツリと一言 「俺、ピアノ、もう無理かも・・」
覚えがある、あの目、言葉、中3の秋の終わり、自信を失っていた僕と同じだ




