第7話 悪意の訪問
「顔色が良くなりましたね、カイド様」
「……ああ。おかげさまでな」
朝の光が差し込むサロンで、カイド様は少し気まずそうにティーカップを傾けた。
高熱で倒れてから三日。
驚異的な回復力で執務に復帰した彼は、以前よりも少しだけ、私との距離が縮まっていた。
物理的な距離ではなく、精神的な意味で。
私が淹れた紅茶を、文句も言わずに飲んでくれているのがその証拠だ。
以前なら「執事の淹れたもの以外は飲まん」とか言い出しそうだったのに。
「子供たちも安心していますよ。『パパ、もうしなない?』って、毎日聞いてくるんですから」
「……死なん。あいつらに心配されるほど、ヤワではないつもりだ」
カイド様はフンと鼻を鳴らしたが、口元が緩んでいるのを私は見逃さなかった。
病み上がりの彼を気遣って、ルカとリナは毎日手紙(といっても、まだ字が書けないので絵のようなものだが)を執務室のドアの下から差し入れているらしい。
平和だ。
この屋敷に来た当初の、針のむしろのような緊張感はもうない。
使用人たちも、私が子供たちの世話を焼くことを黙認し始めている。
カイド様との関係も、契約上の他人行儀なものから、少し信頼し合えるパートナーへと変化しつつあった。
このまま、穏やかな日常が続いてくれればいい。
子供たちが成長し、カイド様が親としての自信を取り戻すまで。
私はそのサポート役に徹するだけで幸せだ。
――そう思っていた矢先のことだった。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「入れ」
カイド様が短く応じる。
扉が開き、執事のセバスチャンが入ってきた。
いつもなら音もなく歩く彼が、今日は少し足取りが重い。
その手には、銀のトレイに載せられた一通の手紙があった。
「旦那様、奥様。……王都より、急ぎの書簡が届いております」
セバスチャンの表情が硬い。
嫌な予感がした。
王都からの便りなんて、ろくなものであるはずがない。
「差出人は?」
カイド様がカップを置き、鋭い眼差しを向ける。
「……フォレス男爵夫人、マリア様でございます」
その名を聞いた瞬間、私の心臓がドクリと跳ねた。
全身の血が引いていくような感覚。
忘れようとしていた、あの家の匂いが蘇る。
マリア。私の継母。
父の後妻として入り込み、私を虐げ、家財を浪費し、最後には借金のカタとして私を売り飛ばした張本人。
「……私宛、ですか?」
喉が張り付くような感覚を覚えながら、私は尋ねた。
「はい。表向きは『愛する娘の安否を気遣う手紙』となっておりますが……封蝋の色が、緊急を告げる赤です」
セバスチャンがトレイを私の方へ差し出した。
毒々しい赤い封蝋。
まるで血のようだ。
私は震える指先を隠すように、拳を握りしめた。
受け取りたくない。
この手紙を開けた瞬間、今の平穏が壊れてしまう気がする。
「……俺が見よう」
横から伸びてきた大きな手が、手紙を取り上げた。
カイド様だ。
「カイド様、それは……!」
「君の実家からの手紙だ。当主である俺が確認する権利がある」
彼はそう言うと、躊躇なく封を切った。
ペーパーナイフが紙を裂く音が、やけに大きく響く。
彼は便箋を取り出し、素早く目を通していく。
読み進めるにつれ、その眉間には深い皺が刻まれていった。
室内の温度が数度下がったかのような、冷ややかな空気が漂い始める。
「……くだらん」
カイド様は吐き捨てるように言い、手紙をテーブルに放り投げた。
「典型的な強請りだ」
「ゆすり……?」
私は恐る恐る、投げ出された便箋を拾い上げた。
そこには、見慣れた継母の、ヒステリックでねじ曲がった筆跡が踊っていた。
『親愛なる娘、エレナへ。
北の地での暮らしはいかが? 毎日寒くて、辛い思いをしているのではないかと、お母様は夜も眠れません。
風の噂で聞きましたよ。あの野蛮な辺境伯が、あなたを冷遇し、満足な食事も与えず、地下牢のような部屋に閉じ込めていると』
地下牢? 満足な食事?
一体どこからそんな話が出てきたの?
確かに最初は冷遇されていたけれど、今は違う。
それに、「野蛮な辺境伯」だなんて、よくもぬけぬけと……。
手紙は続く。
『可哀想なエレナ。お父様も心配して、胸を痛めています。
私たちは今すぐにでもあなたを助け出し、温かい我が家へ連れ戻してあげたいと思っているの。
でも、それには先立つものが必要です。弁護士を雇い、辺境伯の非道を王宮に訴え出る準備もしなくてはなりません』
嘘だ。
全部、嘘だ。
父が私を心配するはずがない。
彼らは私が売られた時、厄介払いができたと笑っていたのだから。
そして、最後の一文に私は息を飲んだ。
『もし、辺境伯様がこの訴えを穏便に済ませたいと仰るなら、私たちにも考えがあります。
慰謝料として金貨一千枚。
これが用意できれば、私たちも涙を飲んで、娘の嫁ぎ先での幸せを見守ることにしましょう。
返事は一週間以内に。
もし返答がなければ、私たちは「虐待された娘を救う」ために、あらゆる手段を使います』
金貨一千枚。
小さな城が買えるほどの金額だ。
借金の肩代わりだけでなく、さらにむしり取ろうというのか。
しかも、虐待の事実を捏造して。
「……っ」
私は手紙を握りつぶした。
怒りで手が震える。
自分たちが贅沢をするために、私を利用し、今度はカイド様まで巻き込もうとしている。
辺境伯家は武門の名家だ。
王都の貴族たちからは野蛮だと蔑まれているけれど、その分、評判には敏感にならざるを得ない立場でもある。
もし「妻を虐待している」なんて噂が広まれば、カイド様の立場は悪くなる。
魔獣討伐の予算を削られたり、王家からの心証が悪くなったりするかもしれない。
「申し訳ありません、カイド様……」
私は頭を下げた。
私のせいで。
私がこの家に来たせいで、彼に迷惑をかけてしまう。
「すぐに、断りの手紙を書きます。虐待なんて事実無根だと。二度と関わってくるなと」
「……無駄だろうな」
カイド様は冷たく言った。
「相手は最初から、金を巻き上げることしか考えていない。事実かどうかなど関係ないのだ。俺が反論すれば、『脅されているに違いない』と騒ぎ立てるだろう」
「では、どうすれば……」
「無視だ」
彼は断言した。
「一千枚などというふざけた要求に応じるつもりはない。放置しておけばいい。奴らに辺境まで来る度胸などあるまい」
「でも……!」
私は食い下がった。
継母の執念深さを、カイド様は知らない。
彼女はお金のためなら何でもする人だ。
無視されればされるほど、過激な行動に出るに決まっている。
「彼女は……マリアは、常識が通じる相手ではありません。無視をすれば、本当に王宮に訴え出るかもしれませんし、あることないこと噂を流すでしょう」
「言わせておけ。俺の悪評など、今さら一つや二つ増えたところで痛くも痒くもない」
カイド様は平然と言い放った。
強い人だ。
自分のことだけなら、それでいいのかもしれない。
でも、子供たちは?
もし継母がこの屋敷に乗り込んできて、ルカやリナに危害を加えたら?
あの子たちは、やっと安心できる場所を見つけたばかりなのに。
「……私、実家に戻って話をつけてきます」
思い詰めた私は、とっさにそう言っていた。
「私が直接会って、今の生活が幸せだと証明すれば、彼らも手出しはできな……」
「馬鹿を言うな」
カイド様の鋭い声が、私の言葉を遮った。
「戻れば、二度とここへは帰って来られないぞ。奴らは君を監禁し、俺から金を搾り取るための人質にするだけだ」
「ですが……!」
「エレナ」
名前を呼ばれ、私はハッとして顔を上げた。
カイド様が、真剣な眼差しで私を見据えていた。
「君は今、ヴォルグ家の人間だ。俺の妻だ」
その言葉の重みに、心臓が跳ねた。
「契約上の関係とはいえ、俺の庇護下にある者を、むざむざハイエナの餌食にするつもりはない。……それに」
彼は少しだけ言い淀み、視線を逸らした。
「……子供たちが、悲しむ」
その一言が、私の胸に深く突き刺さった。
そうだ。
私が実家に戻れば、ルカとリナはまた孤独になる。
やっと笑顔を取り戻したあの子たちを、またあの冷たい部屋に戻すことになる。
それは、どんな脅迫よりも恐ろしいことだ。
「……はい。おっしゃる通りです」
私は力を抜いた。
カイド様の言う通りだ。焦って動けば、相手の思う壺だ。
「すみません。取り乱しました」
「わかればいい。……セバスチャン」
「はい」
「屋敷の警備を強化しろ。不審な人物は、ネズミ一匹たりとも通すな」
「かしこまりました」
セバスチャンが一礼して下がっていく。
カイド様は立ち上がり、窓の外を見た。
遠く、南の方角――王都のある空を睨むように。
「冬の嵐が来るかもしれん。……備えだけはしておけ」
それは天候のことなのか、それともこれから訪れる厄災のことなのか。
彼の背中には、張り詰めた緊張感が漂っていた。
私は手元の手紙を見つめた。
くしゃくしゃになった便箋。
そこから滲み出る悪意は、決して消えてはいない。
(平穏を守るって、こんなに難しいことだったのね)
前世でも、今世でも。
幸せになろうとすると、必ず誰かが足を引っ張りに来る。
でも、今回は違う。
私には味方がいる。
不器用だけど頼もしい夫と、守るべき子供たちがいる。
(負けないわ)
私は心の中で、継母に対して宣戦布告をした。
金貨一千枚? ふざけないで。
銅貨一枚だって渡すつもりはない。
もしこの屋敷に手を出そうというのなら、私が全力で排除してやる。
私は手紙を暖炉に投げ入れた。
炎が紙を舐め、赤い封蝋が溶けていく。
黒い灰になって崩れ落ちる様を見届けながら、私は深く息を吐いた。
嵐の予感に、肌が粟立つ。
しかし、その時の私はまだ知らなかった。
継母の強欲さが、想像をはるかに超えた行動を引き起こすことを。
そしてそれが、この屋敷のセキュリティの穴を突く形で訪れることを。
平穏な日常の崩壊まで、カウントダウンは始まっていた。




