第6話 氷解の予兆
私は氷の入った桶を抱え、立ち入りを禁じられていた東棟への廊下を早足で進んだ。
窓の外では吹雪が吹き荒れている。
屋敷の中も凍えるような寒さだが、私の額にはじわりと汗が滲んでいた。
「奥様、申し訳ございません。このようなことをお願いしてしまって」
隣を歩く執事のセバスチャンが、悲痛な面持ちで頭を下げる。
普段の冷静沈着な彼からは想像もつかないほど、動揺している様子だった。
「いいえ、気にしないで。それより状況は?」
「熱が下がらず、意識も混濁されております。医者を呼びにやりましたが、この吹雪では到着まで時間がかかるでしょう」
事態は深刻だった。
あの「氷の辺境伯」ともあろうお方が、執務中に倒れたというのだ。
遠征から戻って以来、ろくに休息も取らずに溜まった書類仕事を片付けていたらしい。
まさに過労だ。
「旦那様は、誰にも弱みを見せようとなさいません。使用人が部屋に入ることすら拒まれて……」
セバスチャンが困り果てたように言う。
頑固な人だ。高熱がある時くらい、大人しくしていればいいのに。
「任せてちょうだい」
私は重厚な扉の前で足を止めた。
ここは主人の寝室だ。契約結婚の妻である私にとって、本来なら足を踏み入れることのない場所。
深呼吸をして、ノックもせずに扉を開け放った。
ムッとした熱気が顔を撫でる。
広い寝室は薄暗く、暖炉の火だけが赤々と燃えていた。
天蓋付きの大きなベッドの中央に、苦しげな息を吐くカイド様の姿があった。
「……誰だ」
侵入者に気づいたのか、掠れた声が飛んでくる。
彼は半身を起こそうとして、力なくシーツの上に崩れ落ちた。
「入るなと……言ったはずだ……」
虚ろな瞳が私を捉える。
青い瞳は熱で潤み、頬は異常なほど赤い。
普段の氷のような冷徹さはどこへやら、今の彼はただの傷ついた獣のように見えた。
「失礼します。看病に参りました」
私は彼の拒絶を無視してベッドサイドへ進み、桶をサイドテーブルに置いた。
そして躊躇なく、彼に覆いかぶさるようにして額に手を当てる。
「なっ……」
「熱いですね。かなりの高熱です」
火傷しそうなほどの熱さだ。
カイド様は私の手を振り払おうとしたが、その力は驚くほど弱かった。
「出て行け……うつる……」
「うつりません。私は丈夫さが取り柄ですので」
私は桶の中からタオルを取り出し、魔法で作り出した氷水に浸して絞った。
それを彼の額に乗せる。
「……っ」
冷たさに驚いたのか、彼がビクリと肩を震わせた。
しかしすぐに、安堵のため息のようなものが漏れる。
「気持ちいいでしょう? 魔法で冷やしておきましたから」
「……余計な、ことを」
口では悪態をつきながらも、彼の体から力が抜けていくのがわかった。
高熱による倦怠感と、冷たいタオルの心地よさには抗えないらしい。
私は部屋を見回した。
水差しは空っぽ、着替えも用意されていない。
セバスチャンたちは部屋から閉め出されていたのだろう。
これでは治るものも治らない。
「セバスチャン、着替えと新しい水、それから消化の良いスープを持ってきて。あと、子供たちには『パパはちょっとお疲れだから休んでいる』と伝えておいて」
「は、はい! 直ちに!」
入り口で立ち尽くしていた執事が、弾かれたように走り去っていく。
再び二人きりになった部屋に、カイド様の荒い呼吸音だけが響く。
私は椅子を引き寄せ、ベッドの脇に腰を下ろした。
「……なぜ、来た」
目を閉じたまま、彼が問いかけてくる。
まだ意識があるのが不思議なくらいだ。
「執事にお願いされたからです。それに、家主が倒れられては、私の平穏な生活も脅かされますから」
私は事務的に答えた。
変に恩を着せるつもりはない。
これは契約上の妻としての義務であり、同居人としての情けだ。
「……君は、変わっているな」
「よく言われます」
タオルがぬるくなってきたので、裏返して乗せ直す。
その何気ない動作に、カイド様が薄く目を開けた。
「俺は、君に……何もしていない。……金で買った、だけの……」
途切れ途切れの言葉。
熱のせいで、普段の理性が働いていないのだろうか。
いつもなら絶対に口にしないような弱音がこぼれ落ちてくる。
「ええ、そうですね。私もあなたに期待はしていません」
私は淡々と返した。
期待していないからこそ、優しくできる。
見返りを求めていないからこそ、無償の奉仕ができる。
それは保育士時代、理不尽な保護者や手のかかる子供たちと接する中で学んだ処世術でもあった。
「でも、あなたは子供たちのお父様ですから。早く元気になってもらわないと困ります」
「……あの子たちは、俺を嫌っている」
「昨日の食事の席で、そうは見えませんでしたけれど?」
「……俺が、怖いからだ」
彼は自虐的に笑おうとして、顔をしかめた。
頭痛がするのだろう。
「俺は……不器用で、言葉を知らない。……どう接すればいいのか、わからないんだ」
やはり、そうだったのか。
私はタオルを氷水に浸しながら、彼を見つめた。
この国の北方を守る英雄。
魔獣を屠る最強の騎士。
そんな男が、たかか五歳の子供との接し方に悩み、高熱にうなされながら懺悔している。
なんて人間くさい人なのだろう。
「わからなくて当然ですよ。誰だって最初から親になれるわけじゃありません」
私は冷えたタオルを再び彼の額に乗せた。
そして、無意識に彼の手を握っていた。
熱い。
その大きな手は、剣を振るうために硬く、節くれ立っていた。
「少しずつ覚えればいいんです。あの子たちは待っていますよ」
「……待っている、か」
カイド様は私の手を握り返してきた。
弱い力だったけれど、そこには確かな縋るような意思が感じられた。
「……冷たくて、いい気持ちだ」
私の手のことだろうか。
彼はそのまま、ふうっと深く息を吐き、泥のように眠りに落ちていった。
握られた手は離されないままだった。
しばらくして、セバスチャンがスープと着替えを持って戻ってきた。
眠っている主人と、その手を握る私を見て、彼は目を丸くした。
「……旦那様が、他人に触れられるのを許すとは」
「熱のせいですよ。子供返りしているだけです」
私は小声で答え、そっと手を引き抜こうとした。
しかし、カイド様の指は思いのほか強く私を掴んでいて、離れそうにない。
「困りましたね」
「そのまま、そばにいて差し上げてください。旦那様は……ずっとお一人で戦ってこられましたから」
セバスチャンの声が震えていた。
長年仕えてきた彼にとって、主人の孤独は痛いほど分かっていたのだろう。
私は諦めて、椅子に座り直した。
窓の外では吹雪が唸りを上げているけれど、この部屋の中は静かだ。
カイド様の寝顔は、起きている時の険しさが消え、年相応の青年のものに見えた。
(意外と、可愛い顔をして寝るのね)
そんな不敬な感想を抱きつつ、私は彼の手を両手で包み込んだ。
自分の手から、少しでも熱を奪ってあげられるように。
ふと、扉がわずかに開く音がした。
隙間から、二つの小さな顔が覗いている。
ルカとリナだ。
「……エレナ?」
「パパ、しんじゃうの?」
ひそひそ声が聞こえる。
私は人差し指を口元に当てて「しーっ」と合図をし、手招きをした。
二人は忍び足でベッドに近づいてきた。
そして、眠っている父親の顔を、恐る恐る覗き込む。
「顔、赤いね」
「くるしそう」
「お熱があるの。でもね、こうして氷で冷やしてあげれば、すぐに良くなるわ」
私が言うと、リナが小さな手を伸ばし、カイド様の頬に触れた。
「……あつい」
「そうね。だからリナ様が、『痛いの飛んでけ』って魔法をかけてあげてくれる?」
「うん。……いたいの、いたいの、とんでけー」
リナが一生懸命に唱える。
ルカも、意を決したようにカイド様の布団の端を直してあげていた。
「早く治って。……また、お肉食べたいから」
素直じゃない言い方。
でも、それがルカなりのエールなのだ。
眠りの中のカイド様の眉間から、皺が消えていくような気がした。
家族の体温が、氷の心を溶かしていく。
その光景は、私がこの屋敷に来てから見た中で、一番温かいものだった。
その夜、私は一睡もせずに看病を続けた。
カイド様が何度かうなされ、そのたびに氷を替え、汗を拭き、水を飲ませた。
彼は時折、私の名前を呼んだような気がしたけれど、それはきっと夢の中の話だろう。
翌朝。
吹雪は止み、窓から眩しい朝日が差し込んでいた。
「……ん」
カイド様が身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。
熱は下がっているようだ。瞳の焦点も合っている。
「……エレナ?」
彼はベッドの脇で椅子に座ったまま微睡んでいた私を見て、驚いたように名を呼んだ。
私はパチリと目を覚まし、伸びをした。
「おはようございます。気分はいかがですか?」
「……頭が重いが、熱は引いたようだ」
彼は上半身を起こし、自分の手を見た。
そこには、まだ私の手が触れていた感覚が残っているのかもしれない。
彼は急に顔を背け、口元を手で覆った。
「……昨晩は、無様なところを見せた」
耳が赤い。
熱のせいではないだろう。
自分が弱音を吐き、私の手を握って寝ていたことを覚えているのかもしれない。
「いいえ。とても人間らしくて、安心しましたよ」
私が微笑むと、彼はバツが悪そうに視線を泳がせた。
「……礼を言う」
ボソリと言われた言葉は、聞き取れないほど小さかったけれど。
それは確かに、彼からの降伏宣言のように聞こえた。
氷の辺境伯の鉄壁のガードに、小さなひびが入った瞬間だった。
私は桶を片付けながら、こみ上げてくる笑いを噛み殺していた。
これでもう、彼は私に対して「無関心」ではいられないはずだ。
私たちの関係は、確実に変わり始めていた。
それが恋と呼べるものになるには、まだ程遠いけれど。
少なくとも「共犯者」くらいの距離には近づいた気がする。
(さて、次はどうやってこの人を攻略してやろうかしら)
そんなことを考えていた私の平和な朝は、執事セバスチャンが持ってきた一通の手紙によって、脆くも崩れ去ることになる。




