第5話 食卓の魔法
(まるで処刑台に向かう囚人の気分だわ)
私は子供たちの冷たい手を握り締めながら、心の中でそう呟いた。
案内された本邸の食堂は、無駄に広かった。
高い天井からはシャンデリアが下がり、壁には歴代当主の肖像画がずらりと並んでいる。
中央に鎮座するのは、二十人は座れそうな長いマホガニーのテーブルだ。
その最奥、上座と呼ばれる席に、カイド様が座っていた。
漆黒の礼服を着込み、背筋を伸ばしたその姿は、まさに「氷の辺境伯」の異名に相応しい威圧感を放っている。
使用人たちが壁際に整列し、私たちの一挙手一投足を見張っていた。
針の落ちる音さえ聞こえそうな静寂。
リナが私のスカートをぎゅっと掴み、ルカが青ざめた顔で俯いている。
「……座れ」
カイド様の低い声が響いた。
私は子供たちを促し、カイド様から少し離れた席に座らせた。
あまり近すぎると子供たちが萎縮するし、遠すぎると会話ができない。
私は二人の間に座り、それぞれの背中をそっと撫でた。
「失礼いたします」
給仕が始まり、次々と料理が運ばれてくる。
前菜のテリーヌ、温野菜のスープ、メインのローストビーフ。
さすがは辺境伯家の食卓だ。子供部屋で食べていた質素なものとは格が違う。
湯気が立ち上り、食欲をそそる香りが漂っている。
けれど、誰もカトラリーを手に取ろうとしなかった。
カイド様が動かないからだ。
彼は腕を組み、じっと子供たちを見ている。
その鋭い視線に射すくめられ、ルカとリナは石のように固まっていた。
(どうして睨むのよ……)
私は内心で溜め息をついた。
彼に悪気はないのかもしれない。単に観察しているだけなのだろう。
でも、その強面で凝視されたら、子供は「怒られている」としか思わない。
「……食べないのか?」
沈黙に耐えかねたのか、カイド様が口を開いた。
その問いかけすら、尋問のように聞こえてしまう。
「い、いただきます……」
ルカが蚊の鳴くような声で言い、震える手でスプーンを握った。
リナも泣き出しそうな顔でそれに続く。
カチャリ、カチャリ。
食器が触れ合う微かな音だけが、広い空間に虚しく響く。
美味しいはずの料理が、砂を噛むように味気ない。
これでは「家族の団欒」どころか「通夜の席」だ。
私はチラリとカイド様を見た。
彼は無言でワインを口に含んでいる。
どうにかして、この空気を変えなければ。
私は「平穏」を愛する事なかれ主義者だが、子供たちが委縮してご飯が喉を通らない状況は見過ごせない。
「リナ様、ルカ様」
私はあえて少し明るい声を出した。
「見て、このスープ。星形のお野菜が入っているわよ」
「……ほし?」
リナが反応して、おずおずと皿の中を覗き込んだ。
コンソメスープの中に浮いている人参を指差す。
厨房の料理人が、少しだけ気を遣って飾り切りをしてくれたらしい。
「本当だ。こっちはお月様みたい」
「ええ。キラキラしていて綺麗ね。魔法がかかっているのかしら」
「まほう?」
「そう。『美味しくなあれ』っていう魔法よ。一口食べると、体がポカポカするの」
私がスプーンでスープを口に運んで見せると、リナも恐る恐る真似をした。
温かいスープが口に入り、こわばっていた彼女の表情がふわりと緩む。
「……おいしい」
「よかったわね。ルカ様もどうぞ」
ルカも一口飲み、小さく息をついた。
緊張が少しだけ解けたようだ。
私はさらに畳み掛けた。
マナー? 知ったことではない。
今は子供たちが楽しく食べることが最優先だ。
「このお肉も柔らかくて美味しそう。ねえカイド様、この領地で採れたお肉なのですか?」
私は思い切って、氷の彫像に話を振った。
使用人たちがギョッとして私を見た気配がする。
食事中に当主に気安く話しかけるなど、無礼だと思われたかもしれない。
カイド様は怪訝そうに眉を寄せたが、無視はしなかった。
「……ああ。領の北部に広がる牧草地で育てたものだ。魔獣の被害が少ない地域だから、質はいいはずだ」
「まあ、そうなのですね。だからこんなに風味が豊かなのですね」
私は大袈裟に感心して見せた。
そして子供たちに向き直る。
「聞いた? パパが守ってくれている場所で育ったお肉なんですって。だからとっても強い力が貰えるはずよ」
「……パパが、まもったの?」
ルカが顔を上げ、カイド様を見た。
その瞳には、恐怖だけでなく、微かな興味の色が宿っていた。
男の子にとって「強い」「守る」という言葉は響くものだ。
カイド様は不意に向けられた純粋な視線に、戸惑ったように目を瞬かせた。
「……仕事だ。当然のことをしているに過ぎない」
相変わらずの素っ気なさだが、拒絶の響きはない。
私は密かにガッツポーズをした。
会話が繋がった。
「パパはね、とっても強い騎士様なのよ。怖い魔獣をやっつけて、みんなを守っているの」
私はここぞとばかりにカイド様の株を上げる情報を吹き込む。
子供たちにとって、父親が「得体の知れない怖い人」から「強くてカッコいい人」に変われば、恐怖心は尊敬に変わるはずだ。
「へえ……」
ルカがローストビーフを頬張りながら、カイド様をまじまじと見つめた。
「つよいの?」
「……誰にも負けるつもりはない」
カイド様が短く答えた。
その言葉には、確固たる自信と誇りが滲んでいた。
ルカの目が輝く。
「ぼくも、つよくなる。そしたら、エレナとリナをまもる」
ルカがフォークを握り締めて宣言した。
なんて健気なのだろう。
私は思わず彼の頭を撫でた。
「ええ、頼りにしているわ、小さな騎士様」
すると、それまで黙って食べていたリナが、口の周りをソースだらけにして顔を上げた。
「リナも! リナもまもる!」
「ふふ、リナ様も? じゃあ、いっぱい食べて大きくならないとね」
「うん!」
リナがニッコリと笑った。
花が咲くような、無邪気で愛らしい笑顔。
食堂の冷たい空気が、一瞬で春の陽射しに変わったような気がした。
カチン。
音がして振り返ると、カイド様がフォークを取り落としていた。
彼はリナの笑顔を、呆然と見つめていた。
まるで、信じられないものでも見るかのように。
「……笑うのか」
独り言のような呟きが漏れた。
「え?」
「この子たちは……俺の前では、いつも泣くか、怯えるかしかしないと思っていた」
カイド様の声は震えていた。
その表情から、いつもの冷徹さが抜け落ちている。
そこにあるのは、初めて子供の成長を目の当たりにした父親の、不器用な驚きと感動だった。
(ああ、この人は本当に知らなかったんだ)
子供たちがどんな顔で笑うのか。
どんな声ではしゃぐのか。
ずっと背を向けて、遠ざけていたから。
「笑いますよ」
私は優しく告げた。
「美味しいものを食べて、安心できる場所があれば、子供は笑うものです。誰の前であっても」
カイド様はハッとしたように私を見た。
その瞳の奥にある氷が、音を立てて溶けていくのが見えた気がした。
彼はしばらくの間、言葉を探すように口を開閉させ、やがて静かにナプキンで口元を拭った。
そして、テーブルの上の大皿にある、一番大きな肉の塊を指差した。
「……これを」
給仕係が慌てて近寄る。
カイド様はその肉を切り分けさせると、自らの手で皿を持ち、ルカの前に置いた。
「食え。……大きくなりたいのだろう」
不器用すぎる行動だった。
言葉も足りないし、唐突すぎる。
でも、それは彼なりに歩み寄ろうとした、精一杯の愛情表現だった。
ルカは目を丸くして、皿とカイド様の顔を交互に見た。
そして、こくりと頷いた。
「……うん。ありがとう」
小さな声だったが、確かに届いたはずだ。
カイド様が、わずかに口元を緩めたのを私は見逃さなかった。
ほんの一瞬、瞬きすれば見逃してしまうほどの微かな変化。
けれどそれは、確かに「微笑み」の形をしていた。
食後のデザートが出される頃には、食堂の空気はすっかり柔らかくなっていた。
リナは甘いプリンに夢中で足をぶらぶらさせ、ルカはお腹いっぱいで満足そうにしている。
使用人たちの視線も、いつの間にか温かいものに変わっていた。
食事を終え、退室しようと席を立った時。
カイド様が私に声をかけた。
「……エレナ」
名前を呼ばれたのは初めてだったかもしれない。
「騒がしい食事だったな」
言葉とは裏腹に、その声色は穏やかだった。
「申し訳ありません。マナーが悪かったでしょうか」
「いや……悪くない」
彼は短くそう言い、子供たちの頭上を一度だけ撫でるような視線でなぞってから、背を向けて出て行った。
その背中は、以前見た時よりも、少しだけ柔らかく、そして頼もしく見えた。
私はホッと息を吐き、子供たちの手を引いた。
「さあ、お部屋に戻りましょうか」
「うん! おにく、おいしかった!」
「パパ……こわくなかった、かも」
ルカの呟きに、私は心の中で同意した。
ええ、そうね。
あの人はただの不器用で、口下手なだけの、普通の人間に過ぎないのかもしれない。
私の胸の中に、小さな灯火が灯ったような気がした。
それは「義務」として始めた関係が、少しずつ「安らぎ」へと変わり始めた証拠だったのかもしれない。
冷たかったこの屋敷に、本当の意味での「魔法」がかかり始めていた。




