第3話 ママのお腹
窓の外では、夏の日差しが木々の緑を鮮やかに照らしている。
本来なら、ピクニックにでも出かけたくなるような快晴だ。
けれど今の私には、そんな眩しささえも少し辛かった。
「……うっ」
私はベッドから起き上がろうとして、すぐにまた横になった。
世界がぐるりと回るような感覚と、胃の奥からこみ上げてくる不快感。
つわりだ。
妊娠初期は軽く済んでいたのに、ここ数日で急激に症状が重くなっていた。
「奥様、大丈夫でございますか」
枕元には、心配そうな顔をしたメイド――かつてマーサの横暴に耐えていた、古株の若い娘だ――が控えている。
彼女の手には、レモン水を浸したタオルが握られていた。
「ええ、ありがとう。……少し、休めば治まるわ」
冷たいタオルで額を拭ってもらうと、少しだけ気分が楽になる。
けれど、体のだるさは消えない。
何も食べたくないし、匂いを嗅ぐだけで吐き気がする。
これが「母になるための試練」だと言われても、正直なところ逃げ出したい気分だった。
コンコン。
控えめなノックの音がして、扉が少しだけ開いた。
「ママ……?」
小さな声。
ルカとリナだ。
二人は扉の隙間から顔を覗かせ、不安そうに私を見ている。
「お勉強は終わったの?」
私が弱々しく微笑むと、二人はおずおずと入ってきた。
「うん、おわったよ。……ソフィア先生が、ママぐあいわるいから、しずかにしてなさいって」
ルカが私のベッドサイドまで来て、心配そうに顔を覗き込む。
「ママ、だいじょうぶ? どこかいたいの?」
「ううん、痛くないのよ。ただ、少し気持ちが悪いだけ」
「アカチャン、元気ないの?」
リナが涙目で聞く。
子供たちにとって、私が寝込んでいる姿はショッキングなのだろう。
今までどんな時でも、私は二人の前では元気な母親でいようとしていたから。
「赤ちゃんは元気よ。……元気すぎて、ママに『休んでてね』って言ってるのかも」
私が冗談めかして言うと、二人は少しだけ安心したようだ。
けれど、まだ心配の色は消えない。
「ママ、なにかたべる?」
「リナ、プリンもってるよ。あまいよ?」
リナが大事そうに抱えていた小瓶を差し出す。
おやつのプリンを、私のために残しておいてくれたのだ。
その健気さに胸が温かくなる。
でも、今の私には甘い匂いさえも辛かった。
「ありがとう、リナ様。でも、今は食べられないの。ごめんね」
「そっか……」
リナがしゅんと肩を落とす。
その姿を見て、ルカが何かを決意したように顔を上げた。
「ママ、待ってて。僕たちが、元気になるお薬もってくる!」
「え?」
「行こう、リナ! アレンに聞いてみよう!」
ルカがリナの手を引き、二人はパタパタと部屋を出て行ってしまった。
止める間もなかった。
お薬なんて、アレンが持っているわけがないのに。
「……あの子たち、大丈夫かしら」
「ご安心ください。屋敷の中ですし、ソフィア先生もついておられます」
メイドが優しく言ってくれた。
そうね。過保護になるのは私の悪い癖だ。
あの子たちは、自分たちなりに考えて行動しようとしている。
その気持ちを信じてあげなくては。
しばらくして、廊下から再び足音が聞こえてきた。
今度は、少し重い足音も混じっている。
「失礼します」
扉が開き、カイド様が入ってきた。
その両手には、ルカとリナが抱えられている。
そして、その後ろには困った顔をしたアレンがいた。
「カイド様……お仕事は?」
「早退してきた。……アレンから、子供たちが『ママを治す薬を探して庭を掘り返そうとしている』と聞いてな」
カイド様が苦笑しながら、二人を下ろす。
ルカの手には泥だらけのスコップが、リナの手には摘みたての薬草(ただの雑草だが)が握られていた。
「だって、本にかいてあったんだもん! もりの奥には、万能薬があるって!」
ルカが必死に弁解する。
どうやら物語の本を真に受けて、庭の植え込みを探検しようとしたらしい。
「気持ちは嬉しいけど、危ないことはしちゃだめよ」
私が諭すと、二人はしょんぼりと俯いた。
「ごめんなさい……。ママに、元気になってほしくて……」
「僕たちが、なにもできないのが、くやしくて……」
ルカが唇を噛む。
無力感。
それは、かつてカイド様が抱いていた感情と同じだ。
大切な人が苦しんでいるのに、代わってあげることも、治してあげることもできない。
そのもどかしさが、小さな胸を痛めているのだ。
カイド様が、二人の頭に大きな手を置いた。
「何もできないなんてことはないぞ」
低い、落ち着いた声。
「ママは今、戦っているんだ。……新しい命を守るために」
「たたかってるの?」
「ああ。剣や魔法ではないが、命がけの戦いだ。……だから、俺たちにできることは、ママが安心して戦えるように支えることだ」
カイド様は私の隣に座り、汗ばんだ額を拭ってくれた。
「静かに見守ることも、応援することも、立派な手助けだ。……薬草を探すよりも、ママの手を握ってあげるほうが、ずっと薬になる」
その言葉に、ルカとリナは顔を見合わせた。
そして、泥だらけの手を服でゴシゴシと拭いてから、そっとベッドに近づいた。
「……ママ、手、にぎっていい?」
「もちろんよ」
私が手を差し出すと、二人は左右から私の手を握りしめた。
小さくて、温かい手。
土の匂いがするけれど、それが今の私には何よりも心地よかった。
「がんばれ、ママ」
「アカチャンも、がんばれ」
二人の声援が、心に沁みる。
不思議なことに、あれほど酷かった吐き気が、すっと引いていくような気がした。
これが「手当て」というものなのだろうか。
「ありがとう。……すごく、楽になったわ」
私が微笑むと、二人はパッと顔を輝かせた。
「ほんとう!? やったあ!」
「ママの手、あったかい!」
カイド様も、愛おしそうに私たちを見つめている。
彼の手が、私の足元に置かれ、優しくマッサージを始めた。
血行を良くするためだと、本で読んだのだろう。
その不器用な優しさが、今は何よりも頼もしい。
「……俺たちはチームだ。辛い時は、分け合えばいい」
カイド様が言った。
そう。
かつては孤独だった私たちだけれど、今は違う。
苦しみも、痛みも、喜びも。
すべてを分かち合える家族がいる。
私はお腹の中の子供に語りかけた。
聞こえるかしら。
あなたのお兄ちゃんとお姉ちゃんは、こんなに頼もしいのよ。
そして、パパはこんなに優しいの。
だから、安心して育ちなさい。
窓の外から、夕方の鐘の音が聞こえてきた。
屋敷は穏やかな夕暮れに包まれている。
つわりの辛さはまだ続くだろうけれど、もう怖くはない。
私には、世界最強の「看病チーム」がついているのだから。
私はカイド様と子供たちの温もりに包まれながら、静かに目を閉じた。
吐き気ではなく、幸福感で胸がいっぱいになるのを、感じていた。




