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【第5章開始!】「愛はない」と言われた契約妻ですが、子供たちを愛でるのに忙しいので旦那様は空気として扱います  作者: 月雅
第5章

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第1話 過保護な日々



「奥様、そこは段差がございます。お手をどうぞ」


 セバスチャンが滑り込むように現れ、私の目の前に恭しく手を差し出した。

 そこにあるのは、わずか一センチほどの絨毯の継ぎ目だ。


「……セバスチャン。私はまだ、足腰が弱ったお婆さんではありませんよ」


 私が苦笑しながら言うと、執事は真剣な顔で首を横に振った。


「滅相もございません。ですが、お身体には新しい命が宿っております。万が一にも転ばれましたら一大事でございます」


 彼の言うことは正論だ。

 けれど、さすがに過保護が過ぎるのではないだろうか。

 私が妊娠を告げてからというもの、屋敷中の人間が私を「壊れ物」扱いしている。

 歩くときは必ず誰かが付き添い、少しでも重い物を持とうとすれば飛んできて奪い取られる。

 階段の上り下りなど、もはや冒険扱いだ。


「ありがとう。でも、これくらいは自分で歩けます」


 私は彼の手を借りずに継ぎ目を跨いだ。

 セバスチャンはハラハラした顔で見守っている。

 まるで、私が綱渡りをしているかのような緊張感だ。


 執務室に入ると、そこには書類と格闘するカイド様がいた。

 窓から差し込む初夏の日差しが、彼の黒髪を照らしている。

 私が部屋に入ったことに気づくと、彼はペンを置き、弾かれたように立ち上がった。


「エレナ! なぜここへ来た?」


「なぜって……少し退屈だったので、お茶でもご一緒しようかと」


「なら、使用人に命じて俺を呼べばいいだろう。わざわざ君が歩いてくる必要はない」


 カイド様が大股で歩み寄り、私の肩を抱いてソファへ誘導する。

 その手つきは、まるで硝子細工を扱うかのように慎重だ。


「座ってくれ。クッションは足りているか? 腰は痛くないか?」


「大丈夫です、カイド様。……まだお腹も目立たない時期ですし、つわりも軽く済んでいますから」


 私が笑うと、彼は眉間に皺を寄せた。


「油断は禁物だ。医師も言っていたではないか。『安定期に入るまでは無理をするな』と」


「ええ、言われました。でも、『寝たきりでいろ』とは言われていませんわ」


 最近の彼は、心配性の度が過ぎて、少し口うるさくなっている。

 それもこれも、私と子供を大切に思うがゆえのことだと分かってはいるけれど。


「……すまない。つい、心配になってしまうんだ」


 カイド様が私の隣に座り、お腹にそっと手を触れた。

 まだ平らなその場所には、小さな命の鼓動があるはずだ。

 彼の大きな手が、温かく包み込んでくれる。


「俺は……失うのが怖いんだ」


 彼がポツリと呟いた。

 その言葉の裏にある重みを、私は知っている。

 彼は前妻を病で亡くしている。

 そして、戦場では多くの部下を失ってきた。

 「大切なものを失う恐怖」は、彼の心に深く刻み込まれているのだ。


「大丈夫ですよ。私は丈夫ですから」


 私は彼の手の上に自分の手を重ねた。


「それに、この子は強い子です。……あなたの子ですから」


 カイド様が顔を上げ、私を見て微笑んだ。

 その笑顔は、かつての「氷の辺境伯」とは思えないほど、優しく、人間味に溢れていた。


「……そうだな。俺たちの子だ」


 彼が私の額にキスをした時、扉が勢いよく開いた。


「ママ!」


 ルカとリナが飛び込んでくる。

 二人は私の姿を見つけると、駆け寄ろうとして――ピタリと足を止めた。


「あ、だめだ。はしっちゃだめなんだ」


 ルカが自分に言い聞かせるように呟き、リナの手を引いてゆっくりと歩いてくる。

 その様子が可愛らしくて、私は思わず噴き出した。


「どうしたの、二人とも。そんなに慎重になって」


「セバスチャンがいってたの。ママをびっくりさせちゃだめだって」


 リナが真剣な顔で言う。


「おなかのアカチャンが、びっくりしちゃうから」


「そうなの。……二人とも、偉いわね」


 私が頭を撫でようとすると、カイド様が割って入った。


「こら、ママに乗っかってはいけないぞ。重いからな」


「えーっ! だっこしたいー!」


 リナが不満げに頬を膨らませる。

 ルカも少し寂しそうだ。

 妊娠がわかってから、私は以前のように二人を抱き上げたり、高い高いをしてあげられなくなっていた。

 スキンシップが減ったことを、子供なりに我慢しているのだ。


「大丈夫よ。座ったままなら、抱っこできるわ」


 私は両手を広げた。

 カイド様が止めようとしたが、私が目で制すると、彼は渋々引き下がった。


 二人が私の膝の上に乗ってくる。

 ずっしりとした重み。

 この数ヶ月で、二人とも随分と大きくなった。


「いい子ね。……ママはね、二人のことが大好きよ」


 私は二人を抱きしめ、その柔らかい髪に頬ずりをした。

 新しい命も大切だけれど、今ここにいるこの子たちも、かけがえのない宝物だ。

 「お兄ちゃん・お姉ちゃんになる」というプレッシャーで、彼らが寂しい思いをしないように。

 私は精一杯の愛情を伝えた。


「僕も、ママ大好き!」

「リナも!」


 子供たちの体温が、私の胸を温める。

 この幸せを守るためなら、多少の不便など何でもない。


 その夜。

 寝室のベッドで、私はカイド様に話しかけた。


「ねえ、あなた」


「ん? 何か欲しいものでもあるか? 水か?」


 すぐに反応するカイド様に、私は苦笑して首を振った。


「いいえ。……ただ、少しだけ『普通』に扱ってほしいのです」


「普通?」


「ええ。確かに私は妊婦ですが、病人ではありません。あまり過保護にされすぎると、逆に気が滅入ってしまいますわ」


 カイド様は少し考えてから、申し訳なさそうに眉を下げた。


「……そうか。窮屈な思いをさせていたなら、すまない」


「いいのです。あなたの愛は十分に伝わっていますから。……ただ、もう少し私を信じてくださいな」


 私は彼の手を取り、自分のお腹に導いた。


「私は、母になるのです。……あなたよりも、ずっと強いかもしれませんよ?」


 カイド様が目を丸くし、それから小さく吹き出した。


「違いない。……君には敵わないな」


 彼は私の隣に横になり、優しく抱き寄せてくれた。

 その腕の中は、世界で一番安全で、心地よい場所だ。


 窓の外では、夏の虫たちが静かに鳴いている。

 穏やかな夜。

 過保護で、少し騒がしいけれど、愛に満ちた日々。

 これが、私たちが勝ち取った「平和」の形なのだ。


 私は目を閉じ、カイド様の鼓動を聞きながら、お腹の中の新しい命に語りかけた。

 早く出ておいで。

 ここには、あなたを愛してくれる人たちが、こんなにもたくさん待っているのだから。


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