第1話 過保護な日々
「奥様、そこは段差がございます。お手をどうぞ」
セバスチャンが滑り込むように現れ、私の目の前に恭しく手を差し出した。
そこにあるのは、わずか一センチほどの絨毯の継ぎ目だ。
「……セバスチャン。私はまだ、足腰が弱ったお婆さんではありませんよ」
私が苦笑しながら言うと、執事は真剣な顔で首を横に振った。
「滅相もございません。ですが、お身体には新しい命が宿っております。万が一にも転ばれましたら一大事でございます」
彼の言うことは正論だ。
けれど、さすがに過保護が過ぎるのではないだろうか。
私が妊娠を告げてからというもの、屋敷中の人間が私を「壊れ物」扱いしている。
歩くときは必ず誰かが付き添い、少しでも重い物を持とうとすれば飛んできて奪い取られる。
階段の上り下りなど、もはや冒険扱いだ。
「ありがとう。でも、これくらいは自分で歩けます」
私は彼の手を借りずに継ぎ目を跨いだ。
セバスチャンはハラハラした顔で見守っている。
まるで、私が綱渡りをしているかのような緊張感だ。
執務室に入ると、そこには書類と格闘するカイド様がいた。
窓から差し込む初夏の日差しが、彼の黒髪を照らしている。
私が部屋に入ったことに気づくと、彼はペンを置き、弾かれたように立ち上がった。
「エレナ! なぜここへ来た?」
「なぜって……少し退屈だったので、お茶でもご一緒しようかと」
「なら、使用人に命じて俺を呼べばいいだろう。わざわざ君が歩いてくる必要はない」
カイド様が大股で歩み寄り、私の肩を抱いてソファへ誘導する。
その手つきは、まるで硝子細工を扱うかのように慎重だ。
「座ってくれ。クッションは足りているか? 腰は痛くないか?」
「大丈夫です、カイド様。……まだお腹も目立たない時期ですし、つわりも軽く済んでいますから」
私が笑うと、彼は眉間に皺を寄せた。
「油断は禁物だ。医師も言っていたではないか。『安定期に入るまでは無理をするな』と」
「ええ、言われました。でも、『寝たきりでいろ』とは言われていませんわ」
最近の彼は、心配性の度が過ぎて、少し口うるさくなっている。
それもこれも、私と子供を大切に思うがゆえのことだと分かってはいるけれど。
「……すまない。つい、心配になってしまうんだ」
カイド様が私の隣に座り、お腹にそっと手を触れた。
まだ平らなその場所には、小さな命の鼓動があるはずだ。
彼の大きな手が、温かく包み込んでくれる。
「俺は……失うのが怖いんだ」
彼がポツリと呟いた。
その言葉の裏にある重みを、私は知っている。
彼は前妻を病で亡くしている。
そして、戦場では多くの部下を失ってきた。
「大切なものを失う恐怖」は、彼の心に深く刻み込まれているのだ。
「大丈夫ですよ。私は丈夫ですから」
私は彼の手の上に自分の手を重ねた。
「それに、この子は強い子です。……あなたの子ですから」
カイド様が顔を上げ、私を見て微笑んだ。
その笑顔は、かつての「氷の辺境伯」とは思えないほど、優しく、人間味に溢れていた。
「……そうだな。俺たちの子だ」
彼が私の額にキスをした時、扉が勢いよく開いた。
「ママ!」
ルカとリナが飛び込んでくる。
二人は私の姿を見つけると、駆け寄ろうとして――ピタリと足を止めた。
「あ、だめだ。はしっちゃだめなんだ」
ルカが自分に言い聞かせるように呟き、リナの手を引いてゆっくりと歩いてくる。
その様子が可愛らしくて、私は思わず噴き出した。
「どうしたの、二人とも。そんなに慎重になって」
「セバスチャンがいってたの。ママをびっくりさせちゃだめだって」
リナが真剣な顔で言う。
「おなかのアカチャンが、びっくりしちゃうから」
「そうなの。……二人とも、偉いわね」
私が頭を撫でようとすると、カイド様が割って入った。
「こら、ママに乗っかってはいけないぞ。重いからな」
「えーっ! だっこしたいー!」
リナが不満げに頬を膨らませる。
ルカも少し寂しそうだ。
妊娠がわかってから、私は以前のように二人を抱き上げたり、高い高いをしてあげられなくなっていた。
スキンシップが減ったことを、子供なりに我慢しているのだ。
「大丈夫よ。座ったままなら、抱っこできるわ」
私は両手を広げた。
カイド様が止めようとしたが、私が目で制すると、彼は渋々引き下がった。
二人が私の膝の上に乗ってくる。
ずっしりとした重み。
この数ヶ月で、二人とも随分と大きくなった。
「いい子ね。……ママはね、二人のことが大好きよ」
私は二人を抱きしめ、その柔らかい髪に頬ずりをした。
新しい命も大切だけれど、今ここにいるこの子たちも、かけがえのない宝物だ。
「お兄ちゃん・お姉ちゃんになる」というプレッシャーで、彼らが寂しい思いをしないように。
私は精一杯の愛情を伝えた。
「僕も、ママ大好き!」
「リナも!」
子供たちの体温が、私の胸を温める。
この幸せを守るためなら、多少の不便など何でもない。
その夜。
寝室のベッドで、私はカイド様に話しかけた。
「ねえ、あなた」
「ん? 何か欲しいものでもあるか? 水か?」
すぐに反応するカイド様に、私は苦笑して首を振った。
「いいえ。……ただ、少しだけ『普通』に扱ってほしいのです」
「普通?」
「ええ。確かに私は妊婦ですが、病人ではありません。あまり過保護にされすぎると、逆に気が滅入ってしまいますわ」
カイド様は少し考えてから、申し訳なさそうに眉を下げた。
「……そうか。窮屈な思いをさせていたなら、すまない」
「いいのです。あなたの愛は十分に伝わっていますから。……ただ、もう少し私を信じてくださいな」
私は彼の手を取り、自分のお腹に導いた。
「私は、母になるのです。……あなたよりも、ずっと強いかもしれませんよ?」
カイド様が目を丸くし、それから小さく吹き出した。
「違いない。……君には敵わないな」
彼は私の隣に横になり、優しく抱き寄せてくれた。
その腕の中は、世界で一番安全で、心地よい場所だ。
窓の外では、夏の虫たちが静かに鳴いている。
穏やかな夜。
過保護で、少し騒がしいけれど、愛に満ちた日々。
これが、私たちが勝ち取った「平和」の形なのだ。
私は目を閉じ、カイド様の鼓動を聞きながら、お腹の中の新しい命に語りかけた。
早く出ておいで。
ここには、あなたを愛してくれる人たちが、こんなにもたくさん待っているのだから。




