第5話 届かない手紙
北の空にかかる雲は、日を追うごとに厚く、黒くなっていた。
カイド様が出陣してから十日。
私は執務室の窓辺に立ち、いつものように北の方角を見上げていた。
ガラスに映る自分の顔は、少しやつれているかもしれない。
夜も眠れず、食事も喉を通らない日が続いているからだ。
「……また、来ない」
呟いた言葉は、誰に届くわけでもなく虚空に消えた。
カイド様からの定期連絡が途絶えて、もう三日になる。
出陣前は、「毎日必ず無事を知らせる」と約束してくれた。
最初のうちは、伝令の鳥が毎朝欠かさず飛んできていたのに。
それが、ぷっつりと途切れた。
戦況が激化しているのか、それとも通信手段が断たれたのか。
あるいは、もっと悪い事態が起きているのか。
想像するだけで、胸が冷たい手で鷲掴みにされたように苦しくなる。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「奥様、セバスチャンでございます」
「……どうぞ」
入室してきた執事の表情は、いつも通り沈着冷静だ。
しかし、その目元には隠しきれない疲労の色が見える。
彼もまた、主人からの連絡がないことに心を痛めているのだ。
「領内の巡回報告です。……領民たちの間に、動揺が広がっております」
セバスチャンが差し出した書類には、各地の村長からの報告がまとめられていた。
『旦那様の無事はどうなっているのか』
『魔獣が防衛線を突破したという噂は本当か』
不安と恐怖が、疫病のように領地全体を蝕み始めている。
「……噂の出処は?」
「不明ですが、不安に駆られた者たちが憶測で語り合っているようです。これ以上広がれば、パニックになりかねません」
「そうね……」
私は書類を机に置き、ギュッと拳を握りしめた。
領主であるカイド様からの連絡がない。
その事実だけで、人々は最悪の想像をしてしまう。
「辺境伯は敗れたのではないか」「私たちは見捨てられたのではないか」と。
私がここで弱気を見せれば、その不安は確信に変わってしまうだろう。
「セバスチャン。領内に布告を出します」
私は顔を上げ、毅然と言った。
「『戦況は膠着状態にあるが、辺境伯騎士団は健在である。防衛線は維持されているので、各自冷静に行動せよ』と」
「……しかし、奥様。確証はございませんが」
「確証なんていらないわ。私がそう信じている。それがすべてよ」
嘘でもいい。
今は、希望という名の嘘が必要な時だ。
それに、これはただの強がりではない。
カイド様は約束した。「必ず帰る」と。
あの人が約束を破るはずがない。
「……承知いたしました。直ちに手配いたします」
セバスチャンが一礼して下がろうとした時、廊下からバタバタと走る足音が聞こえた。
そして、ノックもなしに扉が開く。
「奥様! 大変です!」
飛び込んできたのは、アレンだった。
普段は冷静な彼が、肩で息をして、顔面を蒼白にしている。
「どうしたの、アレン」
「き、北の森から……負傷者が戻りました」
心臓が止まるかと思った。
負傷者。それはつまり、前線からの直接の情報源だ。
「カイド様は!? カイド様は無事なの!?」
私はなりふり構わず駆け寄り、アレンの腕を掴んだ。
「……それが」
アレンが言葉を濁し、視線を逸らす。
その態度に、嫌な予感が爆発的に膨れ上がる。
「はっきり言いなさい!」
「……戻った騎士の話では、カイド様は……『主』と呼ばれる巨大魔獣と対峙し、その後の行方が分からないと……」
目の前が真っ暗になった。
行方不明。
それは、戦場において「死」と同義語として扱われることが多い言葉だ。
「嘘よ……」
力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
セバスチャンが慌てて支えてくれた。
「奥様! しっかりなさいませ!」
「……嘘よ。あの方は、あんなに強いのに……」
涙が溢れてくる。
止まらない。
この十日間、必死に張り詰めていた糸が、プツリと切れてしまった。
カイド様がいなくなったら、私はどうすればいいの?
子供たちは?
この領地は?
絶望の暗闇が、津波のように押し寄せてくる。
「ママ?」
その時、開けっ放しの扉から、小さな声が聞こえた。
ルカとリナだ。
二人は不安そうな顔で、泣き崩れる私を見つめていた。
「……ママ、ないてるの?」
リナが駆け寄ってくる。
私は慌てて涙を拭おうとしたが、間に合わなかった。
「ううん、なんでもないの。目にゴミが入っただけよ」
見え透いた嘘をつく。
けれど、子供たちの目は誤魔化せなかった。
彼らは大人たちの会話を聞いてしまっていたのかもしれない。
あるいは、屋敷全体の重苦しい空気を察知していたのか。
「パパのこと?」
ルカが静かに聞いた。
その声は震えていたけれど、どこか芯の強さを感じさせた。
「……パパからの手紙、来ないね」
「ええ……そうね」
私は否定できなかった。
毎日、ポストを確認しに行く子供たちの姿を知っている。
その度に、「今日はまだかな」と寂しそうに肩を落とす姿を。
「でも、大丈夫だよ」
ルカが私の手を取り、ぎゅっと握った。
その手は小さくて、温かかった。
「パパは、約束を守る人だもん」
「ルカ……」
「『必ず帰る』って言った。だから、絶対に帰ってくるよ」
五歳の子供が、私を励ましている。
不安で泣きたいはずなのに、必死に涙をこらえて、母親を支えようとしている。
カイド様と交わした「留守を頼む」という約束を、彼は守ろうとしているのだ。
「リナもしんじてる! パパはつよいもん!」
リナも私の膝にしがみつき、精一杯の笑顔を見せる。
私は恥ずかしくなった。
子供たちがこんなに強く信じているのに、大人の私が絶望してどうするの。
カイド様が行方不明になったとしても、死んだと決まったわけではない。
彼が生きている限り、帰る場所を守るのが私の役目だ。
「……そうね。ごめんなさい」
私は涙を拭い、立ち上がった。
子供たちの頭を撫でる。
「パパは絶対に帰ってくるわ。私たちがここで待っている限り」
私はセバスチャンとアレンに向き直った。
その目には、もう迷いはない。
「アレン。負傷者の手当てを最優先に。そして、可能な限りの情報を集めてちょうだい」
「はっ!」
「セバスチャン。領内の動揺を抑えるために、私も巡回に出ます。領主代行の姿を見せれば、少しは安心するはずよ」
「……承知いたしました。ですが、ご無理はなさいませんよう」
「無理くらいさせてちょうだい。カイド様が戻ってきた時に、領地がボロボロだったら怒られてしまうもの」
少しだけ強がって見せると、セバスチャンは安堵したように微笑んだ。
窓の外を見ると、黒い雲の隙間から、一筋の光が差し込んでいた。
まだ終わっていない。
手紙が届かなくても、心は繋がっている。
私は胸元のペンダント――カイド様から贈られたサファイアを握りしめ、彼の無事を祈り続けた。
どんなに深い闇の中でも、信じる心だけは失わない。
それが、私たちが家族として生きていくための、唯一の道しるべなのだから。




