第3話 秘密の改革
私は腕まくりをして、厨房から勝ち取ってきた戦利品の入った籠をテーブルに置いた。
子供部屋には、パチパチと薪が爆ぜる音が響いている。
脅しが効いたのか、メイドたちは不服そうな顔をしながらも、薪と毛布だけは運んできたのだ。
おかげで、冷蔵庫のようだった部屋の空気は、少しずつ緩み始めていた。
「さて、始めましょうか」
私は籠の中から、小麦粉、卵、牛乳、そして貴重な砂糖と蜂蜜を取り出した。
厨房での戦いは熾烈だった。
料理長は「子供様方に甘い菓子など不要」と頑として譲らなかったけれど、「旦那様に直訴します」という私の切り札は最強だった。
しぶしぶ渡された食材と調理道具一式。
フライパンと、簡易コンロ代わりの魔石台もある。
振り返ると、部屋の隅にあるソファで、二人の子供が身を寄せ合っていた。
ルカとリナ。
五歳の双子は、まだ警戒心を解いていない。
まるで猛獣でも見るような目で、私の一挙手一投足を見張っている。
「……なに、するの?」
リナがおずおずと尋ねてきた。
ルカがすかさず、「話しかけちゃだめだ」と妹の腕を引く。
その必死な様子に、胸が少し痛む。
大人は敵。そう刷り込まれてしまっているのだ。
「美味しいものを作るのよ。魔法みたいにね」
私はボウルに卵を割り入れ、泡立て器でカチャカチャと混ぜ始めた。
リズミカルな音。
子供たちの視線が、私の手元に釘付けになる。
牛乳を入れ、砂糖を加え、振るった小麦粉をさっくりと混ぜる。
前世の保育園で、おやつ作り体験をした時のことを思い出す。
子供たちはみんな、ボウルの中の変化に興味津々だった。
「見ててね」
熱したフライパンにバターを落とす。
ジュワッという音と共に、芳醇な香りが部屋中に広がった。
そこへ生地をお玉一杯分、丸く流し込む。
甘く、香ばしい匂いが立ち上る。
幸せの匂いだ。
グゥ……。
可愛らしい音が響いた。
リナが顔を赤くして、自分のお腹を押さえている。
ルカも気まずそうに視線を逸らしたが、喉がゴクリと鳴るのが見えた。
あの冷たいスープには手を付けていないのだから、空腹は限界のはずだ。
「はい、焼き上がり」
きつね色に焼けたパンケーキを三枚、皿に載せる。
仕上げに蜂蜜をたっぷりとかけ、ナイフで一口大に切り分けた。
私は皿を持って、二人の近くのローテーブルに移動した。
床に座り込み、目線の高さを合わせる。
「どうぞ。熱いうちに召し上がれ」
フォークを差し出すが、ルカが動かない。
彼はじっとパンケーキを見つめ、それから私を睨んだ。
「……毒が入ってるかもしれない」
五歳児の口から出る言葉とは思えなかった。
貴族社会の闇を感じてゾッとするが、私は表情を崩さなかった。
信頼を得るには、行動で示すしかない。
「そうね。用心深いのはいいことよ、ルカ様」
私は自分用の一切れをフォークで刺し、口に運んだ。
ふわふわの食感と、蜂蜜の甘さが広がる。
最高だ。久しぶりのまともな食事に、私自身の頬が緩む。
「んー、美味しい! 毒なんて入ってないわ。ほら」
私は口を開けて見せ、ごっくんと飲み込んだ。
それから、二人にニッコリと微笑みかける。
「私の勝ちね。こんなに美味しいものを独り占めできちゃうなんて」
その言葉が決定打だった。
リナが我慢できずに飛び出してきた。
「たべる!」
「あ、リナ!」
ルカの制止も聞かず、リナは私の差し出したフォークに齧り付いた。
瞬間、彼女の青い瞳が見開かれる。
「……あまい」
「でしょう?」
「ふわふわ……あったかい……」
リナの目に涙が浮かんだ。
よほど美味しかったのか、それとも温かい食事が久しぶりだったのか。
彼女は夢中で次の一切れをねだった。
その様子を見て、ルカもおずおずと近づいてきた。
私は新しいフォークを彼に手渡した。
「ルカ様もどうぞ。男の子だから、もっとたくさん食べないと大きくなれないわよ」
ルカは警戒しつつも、小さな口でパンケーキを頬張った。
咀嚼するたびに、強張っていた表情筋が緩んでいくのがわかる。
美味しいものは、どんな言葉よりも雄弁だ。
あっという間に、三枚のパンケーキは二人の胃袋に消えた。
私はさらに追加で焼き続け、二人が満腹で動けなくなるまで食べさせた。
食後の温かい紅茶(もちろん子供用に薄めて砂糖を入れたもの)を飲みながら、リナがほうっと息をつく。
「おいしかった……」
「それはよかったわ」
さて、ここからが本番だ。
お腹が満たされれば、次は心を満たさなければならない。
保育士スキル、第二ラウンドの開始だ。
私は籠の底から、厨房で貰ってきた「紙」を取り出した。
食材の包装に使われていた厚手の紙や、使用済みの裏紙だ。
この世界には玩具屋なんてものはないし、あったとしてもこの部屋には一つもない。
積み木はいくつか転がっているが、塗装も剥げてボロボロだ。
「ねえ、これで遊ばない?」
私は正方形に切った紙を手に取った。
「かみ?」
「そう。魔法で生き物に変えるの」
私は手早く指先を動かした。
山折り、谷折り、袋折り。
前世で何千回と折った記憶が指先に染み付いている。
「はい、カエルさん」
完成した緑色の紙のカエルを、テーブルの上に置く。
そしてお尻の部分を指で弾くと、ピョンと跳ねた。
「わあ!」
リナが歓声を上げた。
ルカも身を乗り出して見つめている。
「すごーい! うごいた!」
「ふふ、こっちには鶴さんもいるわよ。羽を引っ張ると……ほら、パタパタ」
動く折り紙は、娯楽の少ないこの世界の子供たちにとって、本物の魔法のように見えたらしい。
二人の瞳がキラキラと輝き始めた。
さっきまでの、光のない死んだような瞳とは大違いだ。
「わたしもやる! やりたい!」
「僕も……やり方を教えてくれるなら、やってやってもいい」
ルカの素直じゃない言い回しに、思わず吹き出しそうになる。
私は二人の間に座り、手を取って折り方を教え始めた。
「ここはこうして、角と角を合わせるの。そう、上手よリナ様」
「むずかしい……」
「ルカ様は器用ね。指先が綺麗だわ」
褒めると、ルカの耳が少し赤くなった。
この子たちは、褒められた経験がほとんどないのだろう。
「厳しく躾ける」という名目で、否定され、放置されてきたのだ。
私たちは夢中で紙を折り続けた。
テーブルの上は、いつの間にか紙の動物園になっていた。
カエル、鶴、兜、紙飛行機。
ルカが作った少し歪な紙飛行機が、暖炉の風に乗ってふわリと舞った時、彼が初めて声を上げて笑った。
「飛んだ! リナ、見てろ、僕のが一番飛ぶぞ」
「ずるい! リナのも飛ばす!」
キャッキャとはしゃぐ声が、冷たかった子供部屋に響く。
その光景を見て、私は目頭が熱くなるのを感じた。
これが、本来あるべき姿だ。
子供は笑って、遊んで、食べて、眠るのが仕事だ。
大人の都合や家の事情なんて関係ない。
ふと、扉の方に気配を感じて視線を向けた。
わずかに開いた隙間から、誰かが覗いていた気がした。
メイドだろうか?
監視に来たのなら、せいぜい報告すればいい。
「奥様が紙屑で遊んでいました」と。
しばらくして、遊び疲れた二人は大きな欠伸をした。
満腹と暖かさ、そして適度な興奮。
睡魔には勝てない。
私は二人をベッドへ誘導した。
真新しい毛布――これも脅し取ってきたものだ――を掛けてやり、トントンと背中を叩く。
「……えれな」
半分夢の中にいるリナが、私の袖を掴んだ。
「あしたも、ぱんけーき、つくる?」
「ええ。作ってあげる。折り紙ももっと教えてあげるわ」
「……ん……やくそく……」
リナは安心したように目を閉じ、すぐに寝息を立て始めた。
ルカも必死に起きていようとしていたが、私のリズム良い背中トントンには抗えず、やがて静かに寝入った。
二人の寝顔は天使のようだった。
警戒心のない、無防備な寝顔。
今日一日で、ほんの少しだけ距離が縮まった気がする。
私はベッドの脇に座り込み、小さな手をそっと握った。
冷たかった手が、今はポカポカと温かい。
「絶対に守るからね」
誰に聞かせるでもなく、私は呟いた。
この子たちの笑顔を守るためなら、私は悪女にでも鬼にでもなってやる。
たとえ相手が、この屋敷の主である「氷の辺境伯」だとしても。
初日以来まだ見ぬ夫、カイド・ヴォルグ。
彼がこの状況を知ってどう出るか。
敵となるか、それとも……。
私は二人の寝息を聞きながら、明日からの戦いに備えて静かに闘志を燃やしていた。
まずはこの子供部屋を、屋敷の中で一番居心地の良い場所に改造しなくては。
私の「秘密の改革」は、まだ始まったばかりだ。




