第2話 旅立ちの準備
「奥様、こちらの生地はいかがでしょうか。王都で流行している最新のシルクでございます」
領内で最も腕が良いと評判の仕立て屋が、恭しい手つきで鮮やかな青色の布を広げた。
窓から差し込む陽射しを受けて、生地は水面のように艶めいている。
「素敵ね。でも、少し派手すぎるかしら」
私は布の感触を確かめながら、眉を寄せた。
王都行きが決まってからというもの、屋敷の中は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
特にセバスチャンは「ヴォルグ家の威信にかけて、完璧な準備を整えねばなりません」と張り切り、領内中から商人や職人を呼び寄せている。
応接間は、色とりどりのドレスや宝飾品、子供用の礼服で埋め尽くされていた。
「いえ、決してそのようなことはございません。奥様のプラチナブロンドには、これくらい鮮やかな色がよく映えます」
仕立て屋が熱弁を振るう。
商売っ気もあるだろうが、その目は真剣だ。
彼らにとっても、辺境伯一家の王都入りは一大事なのだ。
「田舎者」と侮られないよう、最高の技術で送り出そうとしてくれている。
「ママ、みて! リナ、おひめさまみたい?」
視線を下ろすと、薄桃色のドレスを着たリナが、くるりと回って見せた。
フリルとレースがあしらわれた可愛らしいデザインだが、子供の動きを妨げないよう丁寧に仕立てられている。
「ええ、とっても可愛いわ。本当にお姫様みたい」
私が屈んで頭を撫でると、リナはきゃっきゃと嬉しそうな声を上げた。
その隣では、ルカが濃紺のジャケットに身を包み、緊張した面持ちで鏡を見ている。
小さな蝶ネクタイが、背伸びした少年の愛らしさを引き立てていた。
「ルカ様も素敵よ。立派な紳士に見えるわ」
「ほんとう? ……パパみたいに、かっこいい?」
ルカが期待に満ちた瞳で私を見上げる。
最近の彼にとって、カイド様は絶対的なヒーローであり、憧れの対象だ。
かつて恐怖していた相手と同じような服を着られることが、誇らしくてたまらないらしい。
「ああ、かっこいいぞ。俺よりもな」
背後から低い声がかかり、ルカがパッと顔を輝かせた。
カイド様が執務の合間を縫って様子を見に来たのだ。
彼もまた、王都での式典用に新調した礼服――ヴォルグ家の紋章が入った漆黒の正装に身を包んでいる。
「パパ!」
二人が駆け寄り、カイド様の足元にまとわりつく。
カイド様は相好を崩し、ひょいとリナを抱き上げた。
「よく似合っている。……王都の貴族たちも、この可愛さには腰を抜かすだろう」
親馬鹿全開の台詞だが、誰もツッコミを入れない。
周りの使用人たちも、微笑ましそうに目を細めている。
平和だ。
この光景だけを見れば、これから向かう場所が「伏魔殿」であることを忘れてしまいそうになる。
「カイド様、衣装合わせは済みましたか?」
「ああ。窮屈だが、仕方ない」
彼は肩を回しながら苦笑した。
普段の軍服とは違い、飾り立てられた礼服は動きにくいのだろう。
それでも文句を言わずに着ているのは、これが「家族を守るための鎧」だと理解しているからだ。
「エレナ、君はまだ決まらないのか?」
「ええ。迷ってしまって……」
私はテーブルに広げられた数枚の図案に視線を落とした。
どれも素晴らしいデザインだ。
けれど、私の心の中には拭いきれない不安の影があった。
王都の社交界。
そこは、値踏みする視線と嘲笑が飛び交う場所だ。
『浪費家の娘』『売られた悪妻』というレッテルを貼られている私が、あまりに華美なドレスを着れば、「辺境伯の財産を食い潰している」と陰口を叩かれるだろう。
逆に地味すぎれば、「辺境暮らしで落ちぶれた」と笑われる。
正解がない。
どう振る舞っても、悪意ある人々は攻撃の材料を見つけ出す。
その矛先が、私だけでなくカイド様や子供たちに向くのが怖かった。
「……エレナ?」
私の沈黙を不審に思ったのか、カイド様が心配そうに顔を覗き込んできた。
「顔色が悪いぞ。やはり、無理をしているのではないか」
「いいえ、大丈夫です。ただ、少し……昔のことを思い出してしまって」
正直に打ち明けると、カイド様の表情が曇った。
彼はリナを下ろし、使用人たちに目配せをして下がらせた。
部屋には私たち家族だけが残される。
カイド様は私の手を取り、そっと握りしめた。
「君を守ると誓った。……どんな雑音も、俺が切り伏せる」
「暴力はいけませんよ」
私が茶化すと、彼は真面目な顔で首を振った。
「剣は抜かない。だが、君を傷つける言葉を吐く口は、二度と開かないようにしてやるつもりだ」
物騒なことを言っているけれど、その声音は温かかった。
「ねえ、ママ。おうとって、こわいところなの?」
ルカが不安そうに私のスカートを掴んだ。
子供は敏感だ。
私の微かな動揺を感じ取ってしまったらしい。
いけない。
私が不安な顔をしていたら、この子たちまで萎縮してしまう。
せっかくの初めての家族旅行なのに。
私はしゃがみ込み、ルカとリナの目を見て微笑んだ。
「ううん、怖くないわ。ただ、人が多いから迷子にならないか心配していたの」
「まいご?」
「ええ。だから、お願いがあるの」
私はカイド様を見上げた。
「衣装の色を、合わせませんか?」
「合わせる?」
「はい。私たちの服に、共通の色や意匠を入れるのです。そうすれば、遠くから見ても『ヴォルグ家の家族だ』とすぐにわかりますから」
それは、単なる迷子防止以上の意味を持っていた。
私たちは一つのチームだという意思表示。
誰にも分断させないという、無言の主張。
カイド様は瞬時に私の意図を理解したようで、ニヤリと笑った。
「なるほど。それはいい案だ」
彼はテーブルの上の見本帳から、深い青色のリボンを取り出した。
それは「ヴォルグ・ブルー」と呼ばれる、辺境伯家を象徴する色だ。
「俺の瞳の色であり、北の氷河の色だ。……これを全員の衣装に取り入れよう」
「わあ! パパとおそろい!」
リナが歓声を上げる。
ルカも嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、僕はネクタイを青にする!」
「リナはリボン!」
「私は、ドレスの差し色に使いましょうか」
方針が決まると、迷いは消えた。
仕立て屋を呼び戻し、私たちは具体的なデザインの打ち合わせに入った。
カイド様も積極的に意見を出し、子供たちも自分の希望を口にする。
そこには、かつての冷え切った空気など微塵もなかった。
あるのは、これから向かう戦場への準備を楽しむ、結束した家族の姿だけだ。
数日後。
出発の朝が訪れた。
屋敷の前には、ヴォルグ家の紋章が入った豪奢な馬車が停まっている。
その周りには、護衛の騎士たちと、見送りの使用人たちが整列していた。
「忘れ物はありませんか?」
セバスチャンが最終確認を行う。
彼は今回、屋敷の留守を預かることになっている。
新人たちの教育と、領内の管理のためだ。
代わりに、信頼できる副執事と侍女数名が同行する。
「ああ、問題ない」
カイド様は短く答え、ルカとリナを抱き上げて馬車に乗せた。
子供たちは窓から顔を出し、興奮した様子で外を見回している。
「行ってきます、セバスチャン!」
「おみやげ、かってくるね!」
「はい。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
セバスチャンは深々と頭を下げた。
その目元が少し潤んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
最後に、カイド様が私に手を差し出した。
「行こう、エレナ」
その手は大きく、温かかった。
私はその手に自分の手を重ね、ステップを上がった。
馬車の扉が閉まり、御者の掛け声と共に車輪が動き出す。
ガタゴトという振動が伝わってくる。
窓の外を流れていく景色を見ながら、私はふと、この屋敷に来た日のことを思い出した。
あの時は、絶望と諦めだけを抱えていた。
まさか数ヶ月後に、こうして夫と子供たちに囲まれて、胸を張って王都へ向かうことになるとは。
「……緊張しているか?」
隣に座るカイド様が、そっと私の肩を抱いた。
「少しだけ。でも、楽しみのほうが大きいです」
嘘ではない。
不安はあるけれど、それ以上に、この家族とならどんな場所でも大丈夫だという確信があった。
「パパ、まだつかないの?」
出発して五分も経っていないのに、ルカが聞いた。
カイド様が吹き出し、車内が笑いに包まれる。
「まだだ。たっぷり五日はかかるぞ」
「えーっ! そんなにー?」
子供たちの賑やかな声を聞きながら、私は王都の空を思い描いた。
待っていなさい、意地の悪い貴族たち。
今の私は、あなたたちが知っている「惨めな男爵令嬢」ではない。
氷の辺境伯に愛され、天使のような子供たちを守る、最強の母親なのだから。
馬車は北の街道をひた走る。
その車輪の音は、新しい物語の幕開けを告げるファンファーレのように、力強く響いていた。




