第9話 小さな許し
「……痛いの?」
その純粋な問いかけが、凍りついた時間を溶かすように静寂を破った。
私は呼吸を忘れたまま、眼前の光景を見守っていた。
子供部屋のラグの上。
領内最強と謳われる「氷の辺境伯」カイド様が、巨体を小さく丸め、床に突っ伏している。
その背中は、嗚咽と共に小刻みに震えていた。
その頭に、リナの小さな手が乗せられている。
恐る恐る、けれど確かな意思を持って。
「パパ、痛いの? よしよししてあげようか?」
リナがもう一度尋ねた。
彼女にとって、泣くことは「痛い」か「悲しい」ことと同義なのだろう。
かつて自分がそうされたように、あるいは私がそうしてあげたように、彼女は父親を慰めようとしていた。
カイド様は顔を上げることができなかった。
ラグに吸い込まれていく涙の量が増える。
「……痛く、ない」
彼が絞り出した声は、掠れて聞き取りにくかった。
「痛くないんだ。……ただ、申し訳なくて……」
「もうしわけ?」
リナが首を傾げる。
難しい言葉の意味はわからない。
けれど、父親が苦しんでいることだけは伝わっているようだ。
ルカが、リナの隣でじっとカイド様を見つめていた。
その瞳には、まだ警戒の色が残っている。
けれど、それ以上に「戸惑い」が大きかった。
彼らが知っている父親は、いつも遠くから冷たい目で見下ろしてくる存在だった。
声を荒らげたりはしなくとも、近寄りがたい威圧感を纏っていた。
それが今、自分たちの目の前で、こんなにも無防備に泣いている。
「……パパは、僕たちのことが嫌いじゃなかったの?」
ルカがポツリと聞いた。
それは、彼がずっと抱えていた最大の恐怖であり、疑問だったはずだ。
カイド様が、ゆっくりと顔を上げた。
その顔は涙で濡れ、目元は赤く腫れている。
普段の整った美貌が台無しの、ひどい顔だった。
でも、私には今までで一番、人間らしく、魅力的に見えた。
「嫌いなものか」
カイド様は声を震わせながら、必死に言葉を紡いだ。
「愛している。……大切なんだ。ただ、俺が愚かで……どう接すればいいか分からなかっただけなんだ」
彼は大きな手を、子供たちの方へ差し出しかけて、止めた。
まだ触れる資格がないと思っているのだろう。
その躊躇いが、彼の深い後悔を物語っていた。
「お前たちが生まれた時、俺は怖かった。こんなに小さくて、壊れやすそうな命を、俺のような血塗られた手で触れていいのかと」
彼の告白に、私は胸が締め付けられた。
それは武人としての葛藤だったのかもしれない。
けれど、その恐れが「回避」へと繋がり、結果として子供たちを孤立させてしまった。
「遠くから見守ることが守ることだと思っていた。……だが、それは間違いだった。俺が離れている間に、お前たちは傷ついていた」
カイド様は再び頭を下げそうになり、ぐっと堪えて子供たちの目を見た。
「二度と間違えない。これからは、何があっても俺がお前たちを守る。……だから、お願いだ」
彼は懇願するように言った。
「もう一度だけ、父親になるチャンスをくれないか」
重い言葉だった。
それは命令でも、契約でもない。
一人の人間としての、心からの願い。
ルカは唇を噛み締め、カイド様の手を見た。
土下座をした時に床についた泥と、涙で汚れた手。
かつては「凶器」に見えたその手が、今はただの「父親の手」に見えているのだろうか。
ルカは一歩、踏み出した。
そして、カイド様の手に自分の手を重ねた。
「……いいよ」
小さな声だった。
「パパが泣くの、もう見たくない。……僕も、パパとお話ししたい」
「ルカ……」
「リナも! リナもパパすき!」
リナが便乗するように叫び、カイド様の首に抱きついた。
その衝撃に、カイド様がよろめく。
けれど、彼は倒れなかった。
しっかりとリナの背中を支え、そしてルカの手を握り返した。
「……ありがとう。……ありがとう……!」
カイド様は二人をまとめて抱きしめた。
力加減を間違えないように、慎重に、けれどありったけの愛を込めて。
その肩に、子供たちの顔が埋まる。
ルカもリナも、もう震えていなかった。
温かい体温が、言葉以上の速度で伝わっているのだ。
「この人は敵じゃない」「自分たちを愛してくれている」という確信が。
私はその光景を、涙で滲む視界の端に捉えながら、そっと壁に寄りかかった。
長い冬が終わった。
本当に、終わったのだ。
帳簿の不正を暴くことも、悪党を処罰することも必要だった。
けれど、何よりも必要だったのは、この瞬間だ。
プライドを捨てた父親と、それを受け入れた子供たち。
この「小さな許し」こそが、ヴォルグ家を再生させるための最後のピースだった。
「エレナ」
ふいに名前を呼ばれた。
涙を拭って顔を上げると、カイド様が私を見ていた。
その瞳は赤かったけれど、憑き物が落ちたように澄んでいた。
「……君も、来てくれ」
彼が片腕を開いて見せた。
ルカとリナも、私を手招きしている。
「エレナもいっしょ!」
「おいでよ、エレナ」
私は微笑んで、首を横に振りかけた。
これは水入らずの親子の時間だ。
他人が割り込むべきではない。
でも。
彼らの目は「他人」を見る目ではなかった。
家族を呼ぶ目だった。
「……はい」
私は歩み寄り、その輪の中に加わった。
カイド様の腕が私をも包み込む。
汗と涙、そして微かな土の匂い。
それは決して上品な香りではなかったけれど、世界で一番安心できる匂いだった。
「約束する」
カイド様が私たちの耳元で誓った。
「この先、どんなことがあっても、この手は離さない。……俺の命に代えても、この幸せを守り抜く」
その言葉に、嘘はないと信じられた。
かつて契約書の上だけで交わされた約束とは違う。
痛みと後悔を経て、泥の中で結び直された絆だ。
そう簡単には解けない。
リナが私の胸元でくすくすと笑った。
「パパ、おひげがチクチクする」
「あっ、すまない……」
カイド様が慌てて顔を離そうとするが、リナは「でも、あったかい」と言って離れない。
ルカも「僕が一番強いんだからね」と、カイド様の腕の中で張り合っている。
窓の外から差し込む春の陽射しが、私たちを照らしていた。
部屋の空気は柔らかく、穏やかだ。
少し前までここが「監獄」のようだったなんて、もう誰も信じられないだろう。
私はカイド様の肩越しに、部屋の隅を見やった。
そこには、私たちが積み上げた新しい思い出――折り紙や、絵本や、積み木が散らばっている。
これからは、ここに新しい記憶が増えていくのだ。
恐怖ではなく、笑顔の記憶が。
カイド様が私を見た。
言葉はなかったけれど、その瞳が語っていた。
『ありがとう』と。
そして、『これからもよろしく』と。
私は無言で頷き返した。
共犯者として、妻として、そして母親として。
この不器用で愛おしい人たちと共に歩んでいく覚悟は、もうとっくにできていた。
私の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
それは悲しみの涙ではなく、溢れ出した幸福の雫だった。
過去の傷は消えないかもしれない。
でも、それを上書きするほどの愛で、これからを満たしていけばいい。
私たちは、ようやくスタートラインに立ったのだ。
本当の家族としての、最初の一歩を。




