第8話 膝を折る時
カイド様は子供部屋の扉の前で立ち止まり、震える手でノックをした。
コン、コン。
控えめな音が廊下に響く。
それは武骨な騎士の手によるものとは思えないほど、繊細で、どこか弱々しい音だった。
「……入るぞ」
返事を待たずに、彼はゆっくりと扉を押し開けた。
私はその背後について、室内へと足を踏み入れた。
部屋の空気は、張り詰めていた。
中央のラグの上に、ルカとリナが身を寄せ合って座っている。
二人は入ってきたのが父親だと分かった瞬間、反射的にビクリと肩を跳ねさせ、互いの手を強く握りしめた。
「お、お父様……」
ルカが消え入りそうな声で呼ぶ。
その顔色は青白く、視線は床を彷徨っている。
リナに至っては、兄の背中に顔を埋め、ガタガタと震えているのが見て取れた。
以前、カイド様が手を上げた(ように見えた)時の記憶が、まだ鮮明に残っているのだろう。
彼らが抱いているのは、親愛ではなく純粋な恐怖だ。
「また怒られる」「また何かされる」という、生存本能に近い警戒心。
カイド様は痛ましげに顔を歪めた。
その光景が、自分の過去の振る舞いの結果であることを、今は痛いほど理解しているからだ。
「……怖がらせて、すまない」
彼は扉を閉め、ゆっくりと歩を進めた。
一歩、また一歩。
その足取りは重い。
彼が近づくにつれ、子供たちの緊張が高まっていくのがわかる。
ルカが意を決したように、震える膝で立ち上がろうとした。
また土下座をして、許しを乞うつもりなのだ。
「ちがう!」
カイド様が叫んだ。
その大声に、ルカが「ひっ」と息を飲み、すくみ上がる。
「あ……いや、違うんだ。すまない、大声を出して」
カイド様は慌てて口元を覆い、自分の不器用さを呪うように眉間を揉んだ。
威圧するつもりはないのに、どうしても威圧的になってしまう。
長年染み付いた「氷の辺境伯」としての振る舞いは、そう簡単に抜けるものではない。
私は黙って見守った。
ここで私が助け舟を出してはいけない。
これは、彼が乗り越えなければならない壁なのだ。
カイド様は深呼吸をし、ルカとリナの数メートル手前で立ち止まった。
そして、静かにその場に膝を突いた。
ドサリ。
重厚な軍服の膝が、ラグに沈み込む。
子供たちが目を見開いた。
この屋敷で最も偉い人間が、絶対的な権力者である父親が、自分たちと同じ目線の高さに降りてきたのだから。
「ルカ、リナ」
カイド様は子供たちの目を真っ直ぐに見つめた。
その蒼い瞳には、涙が滲んでいた。
「俺は……お前たちに、酷いことをした」
言葉を探すように、彼は一度視線を伏せ、再び顔を上げた。
「お前たちが寒い思いをしているのを知らなかった。お腹を空かせているのに気づかなかった。……知ろうともしなかった」
「お父、様……?」
ルカが戸惑ったように呟く。
謝られることに慣れていないのだ。
彼らにとって大人は、命令し、叱責し、罰を与える存在だったから。
「仕事が忙しいと言い訳をして、面倒なことから逃げていた。お前たちを守るべき立場にありながら、俺が一番、お前たちを傷つけていた」
カイド様の声が震え始める。
彼は拳を膝の上で握りしめ、溢れ出しそうな感情を必死に抑え込んでいた。
「マーサたちは罰した。もう二度と、お前たちを虐げる者はいない。……だが、一番の罪人は俺だ」
彼は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「俺が、お前たちを地獄に突き落としたんだ」
その告白は、血を吐くような響きを持っていた。
自分の罪を認め、言葉にする。
それはプライドの高い貴族にとって、何よりも屈辱的で、困難な行為のはずだ。
けれど、カイド様は止まらなかった。
彼は両手を床につき、ゆっくりと頭を下げた。
かつてルカがしたように。
絶対的な服従と、謝罪の姿勢。
辺境伯としての威厳も、大人のプライドも、すべてをかなぐり捨てて。
額が、ラグに押し付けられる。
「すまなかった……!」
絞り出すような謝罪の言葉。
「許してくれとは言わない。父親と呼んでくれなくてもいい。……ただ、これだけは信じてほしい。俺は、もう二度と……お前たちから目を逸らさない」
静寂が落ちた。
聞こえるのは、カイド様の荒い息遣いと、暖炉の薪が爆ぜる音だけ。
ルカとリナは、呆然としていた。
目の前で平伏している大男が、あの恐ろしい父親だとは信じられないようだった。
恐怖よりも、驚きが勝っている。
「……お父様、ないてるの?」
リナがポツリと呟いた。
床に伏せられたカイド様の顔は見えない。
けれど、ラグにぽつり、ぽつりと黒い染みが広がっていくのが見えた。
涙だ。
氷の辺境伯が、子供たちの前で泣いている。
私は胸が熱くなるのを感じた。
彼は本気だ。
形だけの謝罪ではない。
魂からの慟哭だ。
ルカが、おずおずと一歩踏み出した。
まだ足は震えている。
けれど、その瞳にあるのは恐怖だけではなかった。
「……いたくない?」
ルカが尋ねた。
それは、カイド様が床に頭を打ち付けていることへの、純粋な問いかけだった。
カイド様は顔を上げなかった。
背中を震わせながら、掠れた声で答えた。
「……痛い。だが、お前たちの痛みに比べれば……こんなものは、痛みではない」
その言葉に、ルカは何かを感じ取ったようだった。
彼はリナの手を引き、もう少しだけカイド様に近づいた。
まだ触れることはできない。
抱きつくこともできない。
心の傷は、そう簡単には塞がらない。
けれど、子供たちは逃げなかった。
泣き崩れる父親の姿を、じっと見つめ続けていた。
そこには、今までのような「得体の知れない怪物」を見る目ではなく、「過ちを犯して傷ついている人間」を見る、戸惑いと好奇心があった。
「……エレナ」
ルカが私を振り返った。
どうすればいいのか、正解を求めている目だ。
私は優しく微笑んで、首を横に振った。
正解なんてない。
あなたたちが感じたままにすればいい。
「パパはね、本当に反省しているの。悪いことをしたって、わかっているのよ」
「……悪いことしたら、ごめんなさいするの?」
リナが聞いた。
「ええ、そうよ。大人でも、間違えたらごめんなさいをするの」
リナはコクンと頷き、カイド様の頭の近くまでトコトコと歩み寄った。
そして、小さな手を伸ばし、躊躇いがちにその黒髪に触れた。
「……よしよし」
拙い手つきで、頭を撫でる。
それは、私がいつもリナにしてあげていることの真似だった。
カイド様の肩が、大きく跳ねた。
嗚咽が漏れる。
彼は顔を伏せたまま、子供の小さな手の温もりを噛み締めるように、さらに低く頭を下げた。
「……ありがとう……リナ……」
許されたわけではない。
「いいよ」と言われたわけでもない。
けれど、その小さな「よしよし」は、どんな赦しの言葉よりも雄弁に、カイド様の罪悪感を溶かしていくようだった。
ルカも、つられるようにカイド様の腕に触れた。
指先でつんつんとつつくような、頼りない接触。
それでも、拒絶ではなかった。
私はその光景を目に焼き付けた。
これが、再生の始まりだ。
権力も、立場も、何もかも捨てて膝を折った時、初めて対等な関係が生まれる。
長い冬が終わろうとしていた。
まだ風は冷たいけれど、雪の下では確実に、新しい命が芽吹いている。
カイド様はしばらくの間、そのまま泣き続けていた。
子供たちは困ったような顔をしながらも、離れようとはしなかった。
その不器用で、いびつな家族の肖像は、私にとって何よりも愛おしく、美しいものに見えた。




