第5話 共犯者たち
かつてこの屋敷には、厳格なルールが存在していたという。
『ヴォルグ家の人間は、弱みを見せてはならない』
『感情を殺し、ただ領地を守る剣となれ』
それは歴代当主が守り続けてきた鉄の掟であり、カイド様もまた、その教えを忠実に守ることで「氷の辺境伯」としての地位を築き上げたのだった。
けれど、その鋼の理性は、家庭という柔らかな場所を守る盾にはなり得なかった。
深夜の執務室は、氷室のように冷え切っていた。
暖炉の火は落ち、月明かりだけが室内に青白い影を落としている。
カイド様はデスクではなく、窓際のソファに深く沈み込んでいた。
その手にはグラスも書類もなく、ただ組み合わせた指を額に押し当て、彫像のように動かない。
子供部屋から逃げ帰って以来、彼はこうして数時間もの間、自分自身を断罪し続けているのだろう。
私はノックもせずに扉を閉め、彼の前まで歩み寄った。
「……エレナか」
顔を上げることなく、彼が掠れた声で呟く。
「入るなと言ったはずだ」
「聞いていません。それに、今のあなたを一人にしておくわけにはいきませんから」
私は彼に対面するソファへ腰を下ろした。
月光に照らされた彼の顔は、やつれきっていた。
戦場で数日寝ていない時よりも、今のほうがずっと消耗しているように見える。
「……見たか」
カイド様が呻くように言った。
「あの子たちの姿を。……俺が手を伸ばしただけで、あんなにも怯えて……床に頭を擦り付けて……」
彼の大きな手が震えている。
その脳裏には、ルカが絶叫しながら土下座する光景が焼き付いて離れないのだろう。
「ああ、見たわ。一生忘れられない光景ね」
私は努めて冷静に肯定した。
ここで「気にしないで」と言うのは、子供たちの痛みを否定することになる。
「俺は……守っているつもりだった」
カイド様が独白を始める。
「前妻が亡くなった後、どう接すればいいかわからなかった。厳しく育てることが愛情だと、自分に言い聞かせた。……だが、それは逃げだったんだ」
彼は顔を覆った手の中に言葉を吐き出す。
「仕事にかまけて、面倒なことから目を逸らした。金さえ出していれば、使用人に任せておけば、勝手に育つだろうと……。その怠慢が、あいつらを地獄に突き落とした」
彼の告白は、痛々しいほどに的確だった。
無知は罪ではないと言うけれど、親にとって無関心は罪だ。
彼が背を向けた隙間に、マーサたちのような悪意が入り込み、巣食ってしまったのだから。
「俺の手は……あの子たちにとって、守ってくれる手じゃない。殴られるための凶器だったんだ」
絶望の色が濃い。
彼は今、父親としての資格を自ら放棄しようとしているように見えた。
「だから、もう関わらないほうがいいと言うの?」
私が静かに問うと、彼はビクリと肩を震わせた。
「俺がいるだけで、あの子たちは怯える。……俺がいないほうが、あいつらは幸せなんじゃないか」
「逃げるのね」
私は冷たく言い放った。
カイド様が顔を上げ、驚いたように私を見る。
「か、過去の清算をするのではなかったの? 自分が作った地獄を見たくないから、また背を向けて逃げ出すの?」
「違う! 俺はただ……!」
「同じことよ。あなたが離れれば、子供たちの恐怖は『見えない場所』に行くだけ。あの子たちの心に刻まれた『父親は怖い』という傷跡は、一生消えないままになるわ」
私は立ち上がり、彼の目の前に立った。
「カイド様。あなたは加害者よ」
その言葉に、彼が息を飲む。
「直接手を上げなくても、あなたの無関心が彼らを殴り続けていた。食事を抜き、暗闇に閉じ込めたのは、あなたの名代である使用人たちよ。……あなたはその責任から逃げられない」
残酷な事実を突きつける。
愛する人だからこそ、言わなければならない。
傷口を開いて膿を出さなければ、本当の治癒は始まらないのだから。
カイド様は唇を噛み締め、血が滲むほど強く拳を握った。
その瞳に涙が溜まり、月明かりを受けて光る。
「……どうすればいい」
迷子のような声だった。
「謝っても、あの子たちは許してくれないだろう。償おうとしても、近づくことさえできない。……俺はどうすれば、罪を償える?」
「まずは、事実を認めること。そして、二度と目を逸らさないこと」
私は彼の手を取り、自分の両手で包み込んだ。
冷え切ったその手に、私の体温を伝える。
「あなた一人じゃないわ。……私も同罪よ」
「エレナ……?」
「私も、見て見ぬふりをしようとした。この屋敷に来た時、子供部屋の惨状を見て、環境だけ整えて満足していた。『今は幸せだから』って、過去の傷を暴くのを恐れて、なぁなぁで済ませていた」
私もまた、自分の弱さを認めた。
「もしあの時、もっと深く踏み込んでいれば。マーサの存在にもっと早く気づいていれば、今日のあの子たちのパニックは防げたかもしれない。……私だって、共犯者なのよ」
カイド様が私を見つめる。
その瞳の奥にある絶望が、少しずつ、別の感情へと変わっていく。
孤独な罪人ではなく、痛みを分かち合うパートナーを見つけた者の目に。
「……共犯者、か」
「ええ。だから一緒に背負いましょう。子供たちに嫌われても、怖がられても、泥をかぶってでも、彼らの未来を守るの」
私は彼の手を強く握りしめた。
「明日、全て終わらせましょう。屋敷の膿を出し切って、それから……何度でも頭を下げて、許しを乞いましょう。何年かかっても」
カイド様は長い沈黙の後、深く息を吐き出した。
憑き物が落ちたような、しかし覚悟を決めた男の顔つきに変わっていた。
「……ああ。そうだな」
彼は私の手を握り返し、立ち上がった。
その背筋は、もう曲がっていなかった。
「俺は、辺境伯だ。領民を守る義務がある。……ましてや、自分の子供さえ守れずに何が当主か」
彼の声に力が戻る。
それは氷の冷たさではなく、燃え盛る炎のような熱量を持っていた。
「セバスチャンは?」
「別室で、使用人たちのリストを作成させています。徹夜作業になるでしょうけれど、彼もまた、罪を償う覚悟を決めています」
「わかった。俺も行こう」
カイド様は机に向かい、散らばっていた書類を整えた。
その横顔には、厳しい決意が刻まれている。
「マーサだけではない。関与した者、見て見ぬふりをした者、全てを洗い出す。……ヴォルグ家の名を汚した報い、たっぷりと受けてもらう」
それは、明日行われるであろう「大掃除」の宣言だった。
慈悲はないだろう。
けれどそれは、彼なりのけじめであり、子供たちへのせめてもの贖罪なのだ。
私は彼に寄り添い、執務室を出た。
廊下は静まり返っているけれど、その静寂は嵐の前のそれだ。
「エレナ」
歩きながら、カイド様がボソリと呼んだ。
「……ありがとう」
「お礼を言われることではありません。私は私のためにやっているのですから」
「それでもだ。……君がいなければ、俺は今日、完全に折れていた」
彼の手が、私の肩を抱き寄せる。
その温もりに、私もまた救われる思いがした。
私たちは共犯者だ。
過去の過ちを共有し、共に十字架を背負う。
きれいごとだけの夫婦ではない。
痛みと罪悪感で結ばれた絆は、きっとどんな契約書よりも強い。
夜が明ければ、審判の時が来る。
子供たちの泣き声が、二度とこの屋敷に響かないように。
私たちは、修羅になる覚悟を決めていた。




