第4話 パパはこわい
(彼が不器用なのは知っていたけれど、これほどまでとは思わなかった)
私は子供部屋の入り口に立ち、ハラハラとした思いで室内を見守っていた。
部屋の中央、ふかふかのラグの上には、身長一八〇センチを超える大男――カイド様が、小さくなって座り込んでいる。
その対面には、ルカとリナがちょこんと座っていた。
二人の表情は硬い。まるで猛獣の檻に入れられた小動物のように、全身を強張らせて父親の挙動を凝視している。
セバスチャンたちが屋敷の膿を出し切るための大掃除を進めている間、私たちはあえて「家族の時間」を作ろうとしていた。
いつまでも怯えているわけにはいかない。
悪い使用人たちはいなくなるのだから、これからは父親との関係を修復しなければならないのだ。
「……それは、何だ」
カイド様が低い声で尋ねた。
彼が指差したのは、ルカが手に持っている折り紙の兜だ。
「……かぶと、です」
ルカが蚊の鳴くような声で答える。
「エレナがおしえてくれました。つよいきしさまが、かぶるものです」
「そうか。……よく出来ている」
カイド様は精一杯の愛想笑いを浮かべようとしたのだろうが、緊張のあまり頬が引きつり、逆に凄みが増してしまっている。
リナがヒッと息を飲み、兄の背中に隠れた。
見ていて胃が痛くなる光景だ。
カイド様には悪気はない。
むしろ、彼なりに必死なのだ。
帳簿の調査で明らかになった「虐待の事実」に打ちのめされ、彼は一刻も早く子供たちの信頼を取り戻そうと焦っていた。
「俺も……やってみよう」
カイド様が意を決したように言った。
彼は私の作った折り紙の見本を手に取り、不慣れな手つきで折り始めた。
剣を振るうための大きな手は、繊細な紙細工には向いていない。
角を合わせようとするだけで紙が歪み、力加減を間違えて破けそうになる。
その不器用な姿は、普段の完璧な「氷の辺境伯」からは想像もつかないほど人間臭かった。
「……むずかしいな」
彼が困ったように眉を下げる。
それを見て、ルカがほんの少しだけ身を乗り出した。
子供にとって、大人が失敗したり困ったりする姿は、親近感を抱くきっかけになるものだ。
「……そこ、ちがいます」
ルカがおずおずと指摘した。
「かどと、かどを、ぴったりあわせるんです」
「こうか?」
「はい。……あと、しっかりおるんです」
ルカが小さな指で、カイド様の折った部分をキュッと押さえた。
指先が触れ合う。
カイド様の目が驚きに見開かれ、次いで嬉しそうに細められた。
空気が緩んだ。
いけるかもしれない。
私は胸の奥で安堵の息をついた。
子供たちは素直だ。
恐怖の対象であった父親が、自分と同じ目線で遊び、教えを乞うてくる。
その姿を見れば、少しずつ「怖い人」という認識が上書きされていくはずだ。
「できた」
数分後、少し歪な兜が完成した。
カイド様はそれを手のひらに乗せ、満足げに子供たちに見せた。
「ルカのおかげだ。……ありがとう」
素直な感謝の言葉。
ルカの頬がポッと赤らんだ。
「ど、どういたしまして……」
リナも兄の背中から顔を出し、興味深そうに歪な兜を見つめている。
良い傾向だ。
このまま穏やかに時間が過ぎれば、今日の目標は達成できるだろう。
そう思った矢先だった。
カイド様が、完成した兜をルカの頭に乗せてやろうと、手を伸ばした。
それはごく自然な、親愛の情を示す動作だった。
大きな手が、ルカの頭上に差し出される。
その時。
カイド様の袖口が、テーブルの上の積み木に引っかかった。
ガラガラッ。
乾いた音が響き、積み木が崩れる。
カイド様はハッとして、反射的に落ちる積み木を掴もうと腕を素早く動かした。
武人特有の、鋭く速い動き。
その腕が、ルカの目の前を風を切って通過した。
「ヒッ!!」
ルカが短い悲鳴を上げた。
次の瞬間、信じられないことが起きた。
ルカはその場に崩れ落ちるようにして床に額を擦り付けたのだ。
土下座。
五歳の子供が取るべきではない、完全な服従と謝罪の姿勢。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
ルカが絶叫した。
「わざとじゃないです! ごめんなさい! ぶたないで! いたいことしないで!」
リナも連鎖反応を起こし、頭を抱えて蹲った。
「ごめんなさい……いいこにします……ごはんぬかないで……ごめんなさい……」
子供部屋の空気は一変した。
穏やかな交流の場は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄へと変わった。
カイド様の手が、空中で凍りついていた。
彼は積み木を拾うことも、ルカに触れることもできず、石像のように固まっていた。
その顔からは完全に血の気が失せ、唇が震えている。
「ルカ……?」
彼が掠れた声で呼ぶ。
しかし、その声すら子供たちには恐怖の追い討ちにしかならないようだった。
「ゆるしてください……お父様……ごめんなさい……」
ルカは顔を上げようともしない。
ただひたすらに、床に額を打ち付け、許しを乞い続けている。
その背中の震えは、尋常ではなかった。
私は駆け寄りたい衝動に駆られたが、足が動かなかった。
目の前の光景があまりにも残酷で、衝撃的すぎたからだ。
カイド様は、ただ積み木を拾おうとしただけだ。
あるいは、頭を撫でようとしただけ。
暴力など振るうつもりは微塵もなかったはずだ。
けれど、子供たちの目にはそう映らなかった。
大人の男性が急に手を動かす。
その動作は、彼らにとって「殴られる予兆」でしかなかったのだ。
これまで、マーサや他の使用人たちから、どれほどの暴力を受けてきたのだろう。
物を落としただけで殴られ、粗相をしただけで食事を抜かれ、謝罪を強要されてきた。
その記憶が、条件反射として体に刻み込まれている。
カイド様の「不器用な優しさ」など、深いトラウマの前では無力だった。
「……俺は」
カイド様が呻いた。
彼は自分の手を見つめた。
剣ダコのある、大きくて無骨な手。
国を守り、魔獣を屠ってきた英雄の手。
今、その手が、彼自身の子供にとって「凶器」として認識されている。
「俺は……殴ろうなどと……」
弁解しようとした言葉は、喉の奥で消えた。
何を言っても無駄だと悟ったのだろう。
目の前で震える小さな背中が、すべての答えだった。
カイド様はゆっくりと立ち上がった。
その動作にさえ、ルカとリナはビクリと反応し、さらに小さくなる。
彼の瞳から、光が消えていくのが見えた。
絶望。
深い、底なしの絶望だ。
自分が「父親」であると名乗ることさえ烏滸がましいと感じているような、打ちのめされた顔。
「……すまない」
彼が絞り出したのは、誰に向けたとも知れない謝罪だった。
子供たちへか。
それとも、こんな状況を作ってしまった過去の自分へか。
彼は逃げるように踵を返し、足早に部屋を出て行った。
その背中は、どんな強敵と対峙した時よりも弱々しく、小さく見えた。
バタン、と扉が閉まる。
残されたのは、泣きじゃくる子供たちと、立ち尽くす私だけ。
「……ルカ、リナ」
私は震える足で二人に近づき、床に座り込んで抱きしめた。
「大丈夫よ。大丈夫。誰も怒っていないわ。誰もぶったりしないわ」
「うあぁぁぁん!」
私の腕の中で、二人は堰を切ったように泣き続けた。
その小さな体温を感じながら、私は涙が溢れてくるのを止められなかった。
酷すぎる。
こんなに小さな子たちが、どうしてここまで怯えなければならないの。
大人の手が、優しさではなく痛みを連想させるなんて、あってはならないことだ。
そして、カイド様。
あの人の受けたショックは計り知れない。
ようやく家族になろうと決意した矢先に、自分という存在そのものが子供たちを傷つける刃だと突きつけられたのだから。
(マーサ……)
怒りが、腹の底から湧き上がってくる。
あの女は、単に金を盗んだだけではない。
親子の絆を、信頼を、未来を盗んだのだ。
この深い傷跡は、犯人を捕まえたからといってすぐに消えるものではない。
窓の外では、春の風が吹いているはずなのに、私の心は真冬のように凍えていた。
カイド様の心が折れてしまわないか、それが心配だった。
あんな顔をした彼を、私は初めて見た。
最強の騎士が、たった五歳の子供の拒絶によって、膝を屈したのだ。
私は泣き疲れて眠り始めた子供たちの背中を撫でながら、強く決意した。
諦めてはいけない。
ここで終わらせてはいけない。
カイド様には、この痛みと向き合ってもらわなければならない。
逃げることは許さない。
だって、この傷を作った原因の一端は、間違いなく彼の「無関心」にあったのだから。
膿を出し切るとは、こういうことだ。
見たくない現実を直視し、血を流しながら治療することだ。
まだ、治療は始まったばかりなのだ。




