第3話 執事の罪
「どうして気づかなかったの、セバスチャン」
静まり返った執務室に、私の問いかけが冷たく響いた。
目の前には、この辺境伯家を長年支えてきた初老の執事が跪いている。
いつもなら完璧に整えられている白髪には乱れが見え、背中は小さく丸まっていた。
その額は床の絨毯に押し付けられたままだ。
傍らのソファでは、カイド様が腕を組み、苦渋に満ちた表情で目を閉じている。
彼もまた、これから暴かれる真実を聞く覚悟を決めているのだ。
「……申し開きもございません」
セバスチャンが絞り出すように答えた。
震える声。
それは恐怖からか、それとも己の恥辱からか。
「私は……奥向きのことはすべてマーサに任せておりました。彼女は前妻様の頃から仕える古株で、旦那様からの信頼も厚いと……そう思い込んでおりましたゆえ」
「思い込んでいた?」
私は彼を見下ろしたまま、冷ややかに言葉を重ねた。
「あなたは『氷の辺境伯』の懐刀と呼ばれるほど優秀な執事よ。領地経営においては、麦一粒の収支さえ見逃さないと聞いているわ。そのあなたが、屋敷の中で起きている横領に五年も気づかないなんてことがあるかしら?」
「……面目次第もございません」
「違うわ、セバスチャン。あなたは無能だから気づかなかったんじゃない」
私は一歩、彼に近づいた。
「あなたは『見ようとしなかった』のよ」
セバスチャンの肩がビクリと跳ねた。
彼は優秀だ。
だからこそ、主人の意向を誰よりも敏感に察知する。
カイド様が子供たちに関心を持たず、避けていることを、彼は痛いほど理解していたはずだ。
だから彼の中で、子供部屋の優先順位は限りなく低く設定された。
領地の防衛や、対外的な折衝、財政の管理。
それらの「重要な仕事」に比べれば、子供たちの世話など些末なことだと切り捨てたのだ。
「旦那様が関心を持たないものには、あなたも関心を払わなくていいと判断した。マーサからの虚偽の報告を鵜呑みにしたのは、確かめる手間さえ惜しかったからでしょう?」
「……っ」
図星だったのだろう。
セバスチャンは顔を上げることさえできず、ただ床に爪を立てていた。
「子供たちが痩せ細っていくのを見て、何も思わなかったの? ルカ様が怯えた目であなたを見るたびに、何とも感じなかったの?」
「……私は、それが……『躾』の一環なのだと……」
彼は苦し紛れに呟いた。
「ヴォルグ家の人間は強くあらねばならぬと……旦那様もそう仰っておりました。ですから、厳しく育てているのだと……自分に言い聞かせておりました」
「それは都合の良い言い訳ね」
私は容赦なく切り捨てた。
「厳しさと虐待は違うわ。食事を与えず、寒さに晒し、心を壊すことが躾? そんなものがヴォルグ家の教育だと言うなら、この家はとっくに滅びているわ」
カイド様が呻くような息を漏らした。
その言葉は、彼自身の胸にも突き刺さっているはずだ。
彼が口にした「厳しく」という言葉が、使用人たちにとって「虐待の免罪符」として利用されていたのだから。
「セバスチャン。あなたは共犯者よ」
私は断言した。
「直接手を下していなくても、見て見ぬふりをした。管理責任を放棄して、マーサたちの暴走を許した。その罪は、実行犯と同じくらい重いわ」
「……はい。おっしゃる通りでございます」
セバスチャンがようやく顔を上げた。
その老いた瞳には涙が溜まり、深い後悔の色が滲んでいた。
「私は……執事失格でございます。旦那様の名誉を守るべき立場でありながら、足元から腐らせてしまった。幼いあの方々をお守りするどころか、地獄へ突き落としていたのですから」
彼は再び床に頭を打ち付けた。
ゴン、と鈍い音がする。
「旦那様、奥様。どうか、私にご処分を。この首を差し出す覚悟はできております」
その言葉に嘘はないだろう。
彼は忠誠心だけは本物だ。
だからこそタチが悪い。
歪んだ忠誠心が、結果として最悪の事態を招いたのだから。
私はカイド様を見た。
彼は静かに目を開け、長年仕えてきた執事を見つめていた。
その瞳には、かつてのような冷たさはなく、ただ悲しみと自責の念が宿っていた。
「……首などいらん」
カイド様が低く言った。
「お前を処刑したところで、子供たちの傷が癒えるわけではない」
「し、しかし……」
「それに、お前をそこまで追い込んだのは、他ならぬ俺だ」
カイド様は自嘲気味に笑った。
「俺が子供たちを見ていれば、お前も背を向けることはなかっただろう。……一番の罪人は俺だ」
「旦那様……!」
セバスチャンが嗚咽を漏らす。
美しい主従愛かもしれない。
互いに庇い合い、罪を認め合う姿は。
でも、私はここで涙を流して「よかったですね」とは言わない。
「感傷に浸るのは後になさってください」
私は冷水を浴びせるように言った。
二人がハッとして私を見る。
「罪を認めたのなら、償いをしていただきます。死んでお詫びなんて、一番楽な逃げ道よ。生きて、泥をかぶって、後始末をしなさい」
私は机の上の帳簿を指差した。
「セバスチャン。あなたは今から、屋敷中の使用人を洗い直しなさい。マーサと繋がっている者、不正に関与した者、見て見ぬふりをした者。一人残らずリストアップして」
「……は、はい」
「そして、横領された資産の行方を突き止めなさい。使ってしまった分は、彼らの給金や財産を没収してでも補填させるのよ。……できますね?」
「もちろんでございます」
セバスチャンの目に、鋭い光が戻った。
それは執事としての、最後の矜持だろう。
「必ずや、すべての膿を出し切ってみせます。……それが、私にできる唯一の贖罪でございますから」
「期待しているわ」
私は短く告げた。
許したわけではない。
信頼を取り戻すには、言葉ではなく結果が必要だ。
セバスチャンは深く一礼し、よろめきながらも立ち上がった。
その背中は、部屋に入ってきた時よりもさらに小さく見えたが、同時に悲壮な決意を纏っていた。
彼が退室した後、執務室には重苦しい沈黙が戻った。
カイド様が深く息を吐き、天井を仰いだ。
「……君は、強いな」
「強くなどありません。怒っているだけです」
私は正直に答えた。
本当は、あんな年配の方を責め立てるのは気が引ける。
胃が痛いし、手が震えているのを隠すのに必死だった。
でも、誰かが言わなければならない。
なぁなぁで済ませてはいけないのだ。
「俺には、あそこまでは言えなかっただろう」
カイド様が寂しげに笑う。
「俺もまた、彼に甘えていたのだな。セバスチャンなら上手くやっているはずだ、と。……その甘えが、あいつの目を曇らせた」
「……これからは、二つの目で見ればいいのです」
私は彼の隣に座り、そっと手を重ねた。
「あなたの目と、私の目。四つの目があれば、見落とすことも減るはずです」
「……そうだな」
彼は私の手を握り返した。
その手は冷たかったけれど、震えてはいなかった。
「まずは、大掃除だ。……マーサたちには、相応の報いを受けてもらう」
カイド様の声に、確かな力が戻っていた。
それは単なる復讐心ではない。
領主として、そして父親として、自分の領分を守ろうとする正当な怒りだ。
私は窓の外を見た。
陽が傾き始めている。
夜になれば、マーサたちを捕らえるための準備が整うだろう。
戦いはこれからだ。
敵は外にいるのではない。
長年、この屋敷に巣食っていた「信頼」という名の皮を被った怪物を、私たちは引きずり出さなければならない。
セバスチャンの背中を思い出す。
彼はきっと、鬼のような形相で調査を進めているはずだ。
自分の過ちを清算するために。
(見ていてね、ルカ、リナ)
私は心の中で、子供たちに語りかけた。
あなたたちを怖がらせるものは、もうすぐいなくなる。
大人は汚くて、弱くて、間違いばかり犯すけれど。
それでも、何度だってやり直してみせるから。
私はカイド様の手をもう一度強く握りしめ、来るべき断罪の時に向けて心を研ぎ澄ませた。




