9-2
厚く垂れこめた夕雲がしきりに雨を降らせる。
体感的に、もうすぐ雲の向こうから夜が来る。夜行性の魔物にとっては今が「朝」。
急いだほうがいいだろう。不意打ちは寝ぼけているところに叩き込むのが効率的だ。
「メ、メイル、ほんとにやるのですか……?」
「うん。一思いにやっちゃって」
「えぇ……」
ノキアがドン引きした顔を見せる。
旅を経て常識力が鍛えられたのか、最近よくする表情だ。
気持ちはわかる。
僕は今、ノキアに抱きかかえられて高度2000メートルほどを飛行していた。
眼下に見えるは竜撃要塞アルマテリア。首魁と思しき魔人の位置も“人喰い”で捕捉済み。
投下ポイントは要塞の司令室の直上。最短最速で踏み込む心積もり。
この高さからノーロープバンジーをするのは前世含めても初めてに違いない。
つまりは、これからするのは奇襲であり、トップアタックであり、オーソドックスな攻城戦だ。
「ほ、ほんとにいいんですか? メイルは高いところ苦手なのでは……」
「かまわない。どんとこい!!」
ほんとはまだちょっと怖い。ここは色々と限界な場所だ。心臓の不自然な動悸はきっと高いところにいるからだ。
思わずぎゅっと抱きしめたノキアから甘いにおいがするのもきっと気のせいだろう。
……コホン。
メタルボアに垂直射出された日からおよそ6年。記憶は薄れても体が恐怖の手触りを覚えている。
いくら天使ボディが優秀でも高いところでは体が強張る。こういう小さな減点の積み重ねでカルニとの差がついているのだろう。
だけど――
『無駄だぜ、ノキア。わかってんだろ。コイツは勝つためならいくらでもテメエをねじ伏せられる。極めつけの意地っ張りだ。オマエもオレもその産物だろ?』
「わたしの大切な思い出をあなたと同列に扱わないでください、カルニ」
『ケケ、それにデカ巨人の置き土産でな。我らが王は魔人どもに勝って正しさを示さなきゃいけねえんだ』
「あれれ、もっと感動的な話じゃなかった? 主従の絆的な」
『知らん』
カルニの、自分から台無しにしていくスタイル。
『そんなわけでこれからもっと忙しくなるぜ、ノキア。付き合うのも一苦労だな』
「それをあなたに言われたくは……いえ、忘れてください」
呆れたようにも、悔しそうにも見える不思議な表情をして、ノキアがゆるゆるとかぶりを振る。
仄かな月光を浴びた銀糸の髪がその動きにつれられてきらりと瞬いた。
「メイル、あなたに必要とされることはわたしの喜びです」
「……うん」
「だから、わたしはカルニには負けません」
「うん?」
いま話とばなかった?
僕の疑問には応えず、この僅かな時間にだけ許された紫紺の空を背に、ノキアが強く咲む。
「――いきます」
宣言と同時に、銀色の紋章翼を閉じる。
体を包んでいた浮遊感が消える。
倒れ込むように頭から地上へ、水中に飛び込むウミガラスに似た急角度の急降下。
最初の数瞬はゆっくりと時間が流れる。まるでジェットコースターの上り坂。
そして、重力に捕まったふたりと一振りが落下する。
「ううぅぅぅうううぅぅぅ!!」
「ひゃあああああああああああ!!」
『ヒャッハアアアアアアアアアアアアアア!!』
僅か数秒のスカイダイビング。
視界の中でアルマテリアがどんどん大きさを増していく。
けど、まだ足りない。
「ちょっと重くなるよ――“重創”!!」
脚甲に深紅の紋章が走る。
ぐん、と全身にかかる重みが増す。自己の内部でのみ重力を10倍に設定する。
「よし、このまま加速して」
「ばっ、ばかですかメイルは!?」
「ブリーチングの威力が足りないんだからしょうがないじゃん!!」
「なんですかそれ!?」
完全に涙目になったノキアはそれでも健気に翼を打つ。
羽ばたく度に上下逆さまの世界が速度を増していく。全身を打ち据える雨風はほとんど打擲の域に達している。
このまま地面に激突すればぺしゃんこだ。
もちろんそんなヘマをする僕ではないし、ノキアではない。
「カウント3で離して。――3,2,1」
「い、まっ!!」
完璧なタイミングで抱きしめていた互いの体をリリース。
「アンカー射出!!」
翼を翻して離脱するノキアを横目に、脚甲側面に取り付けられたアンカーを展開。
地面に向かって伸びる太い杭を重力加速度に任せて打ち込み、要塞の天井を踏み抜いた。
◇
重さを10倍した高度2000メートル分の衝撃にウルザの脚甲が軋み――余裕で耐える。さすが魔人骨。
ドゴンッと砲弾めいた激突音とともにアンカーが天井を貫き、着地。
突入した司令室にいるのはひとりだけ。
両足にかかる衝撃を捻じ伏せ、人間にしか見えない敵に奇襲をかける。
『何者!?』
「先手必勝ッ!!」
人喰いの先読みに導かれ、突然の闖入者に誰何の声をあげる妖艶な美女――魔人の気配――の豊かな胸元にカルニを叩き込む。
ぐずり、といやに軽い感触が柄を握る手に返る。
『か……はっ……』
魔人の喉からひきつったような声が漏れる。
刀身を引き抜く。反動で女体がふらりと踊り、宙に血の線を曳きながら地面に倒れ伏す。
致命傷だ。致命傷のはずだ。天使ボディの全力を切っ先に集中させた一撃。粉砕を通り越して爆砕の域で胸部を破壊した。
自分のメンタルを犠牲にした奇襲は完璧な効果を上げた。
「ふ、ふはは、見たか、急降下人間爆撃!!」
『涙目じゃねーカ……』
「うるさい」
警戒しつつ、倒れた女魔人に近づく。
ウルザしかり、魔人の生命力は常軌を逸している。彼らは魔物版の亜神なのだ。生物的な常識などぶっちぎっている。胸部爆砕という人間なら5,6回死んでいる攻撃を喰らってもピンピンしてる可能性がある。
人喰いでも確実な生死判定はできない。人喰いの先読みはあくまで感知できた現状からの予測でしかないからだ。相手が人体からかけ離れた肉体をしているほど予測の精度は低くなる。
おかげで生きたまま昇華することは非常に難しい。今回はうまくいくといいのだけれど――
『……なるほど。ウルザを倒したのは貴様か』
ほらー!!
即座に昇華しようと右手を伸ばす。
が、右手は何も掴めずすり抜けて、勢い余って床板を粉砕した。
こちらが触れる直前に女魔人の姿は蠢く血だまりに消え、高速で床を這いずっていた。
……血啜りのカーラ、と呼ばれる魔物を思い出す。
人喰いのオーガと同じく人間を主食とする魔物だ。
“血啜り”という変身系魔技で、人間に化ける効果と接触した相手の生命力を奪う能力を併せ持つ。
まるで吸血鬼。前世知識のそれと違うのは、カーラの本来の姿が血の塊じみた不定形生物であることか。
『名を聞いておこうか、侵入者よ』
血の海の中から甘く囁くような声がする。グロすぎでは??
「僕はメイル。こっちは外套の“炎命”」
自己紹介にあやかって魔技を起動。
外套から放射される炎で室内を焼き尽くす。
“炎命”の付随効果で僕は火傷のひとつも負わないし、煙を吸って咽ぶこともない。
なので、閉鎖空間であっても出力に特化したこの魔技を全力でぶっぱなすことができる。
この魔人を生かして帰すわけにはいかない。
『蒸し焼きだオラァッ!!』
『フン、たかが炎如きでこの身を焼き尽くせると思うたか?』
「ッ!?」
次の瞬間、室内を埋め尽くすような大量の血が炎を圧し潰した。
咄嗟にカルニを振り抜いて隙間を作っていなければ、僕も壁に叩きつけられていただろう。
『名乗りを返す。我が名はマリス。血啜りたちの母にして原初の夜』
声に味がする。甘く、苦く、耳から溶かさんとする音の連なり。
室内を埋め尽くしていた血の海が人型の穴に吸い込まれ、いくつもの渦を巻く。
充満する鉄くさい匂いに“人喰い”の嗅覚が酔ったような感覚を寄越す。
「これが血啜りか。本体は渦潮みたいだね」
『気ィ抜くな、メイル。吸われてるぞ』
「……わかってる」
肌の表面をピリピリとした感触が撫でる。
生命力を奪取しようとするマリスの魔技を存在強度が弾いているのだろう。
おそらくはこれが要塞に一切の損傷なく詰めていた第二隊だけを全滅させた魔技。
つまりは、超広範囲ドレインによる集団衰弱死。
マスタードガスみたいなものだろうか。前世の知識を思い出すまでもなく、閉所における殺傷力は想像に難くない。要塞を無傷で手に入れるのにこれほど有効な魔技もないだろう。
加えて、要塞内に死体がないあたり、物質も溶かせるのか。カーラのそれとは規模が違いすぎる。
辛うじて現存するカーラの魔技は精々が美女の姿をとる/接触した相手の生命力を吸収する程度なのだ。
『ほう、我が鮮血の領域にてカタチを保つか』
「特別製なので、ねっ!!」
“炎命”を再起動、押しつぶそうとする血の津波を蒸発させる。
次いで、カルニを振り抜く。前方の血の海を切り開いて一歩、剣の間合いへ。
視線の先、明らかに質量を無視した圧縮の果てに、先ほどと寸分たがわぬ姿の美女、マリスが現れる。
改めて見ると、空恐ろしいほどの美女のカタチをしている。
一糸まとわぬ白磁の肌、豊満な胸元と引き締まった腰つき、踝まで届く黝の髪。
凡そ完璧な美の権化。フィアやノキアを見慣れていなければ動揺していただろう、うむ。
『魔技が効かぬ……天の怪物か。ウルザも運がない。我が先に出逢うておれば死なずに済んだものを』
『――ッ!? メイル!!』
人食いの先読みよりもなお早いカルニの直感が警告を発する。
併せて勝手に持ち上がった左腕が大剣を振り抜く。
直後、剣の軌道に血の槍が突き立った。
刃がぶつかった槍の穂先は固く、しかし勢い任せに砕くと水のような手応えに変わった。
斬風が司令室に夥しい血を飛び散らせる。
次の瞬間、宙に散った血の雫が集まり、再度無数の槍を成して襲い掛かってきた。
切り裂かれた勢いすら利用して全方位から刺突が迫る。
念動系のオーソドックスな挙動だけど、常識外れの制御能力だ。一滴でも体内に侵入されるのはまずいだろう。天使ボディとはいえ、内臓や血管の強度まではそこまで自信ない。
けれど、状況が悪い。あるいは相性が悪い……相手にとっては、だ。
閉鎖空間なら、僕は気体にだって触れられる。
「――“昇華”!!」
右腕の紋章を伝って黄金の光が血の槍を逆流する。
イメージは【燃えろ】。
果たしてこの魔人は昇華された血に耐えられるのか。
答えは否だ。
マリスは昇華の光に飲まれて燃え上がった血の槍を破棄した。
室内の至る所にぼとぼとと落ちた血の塊が干渉された存在意義に従って燃え尽きていく。
重要なことがわかった。マリス――キスキル・リラは血の一部を切り捨てられる。
どうすれば死ぬ。何割か喪えば死ぬのか、あるいは核と従属部分に分かれているのか。
おそらくは後者。変身系の魔技は自己を保つために絶対に変化させられない核を持つ。セリアンもそうだとフツさんが言っていたのを思い出す。
『……成程、ウルザが勝てぬわけだ。その“存在”、我らよりも高位にあるか』
「みたいですね。魔技に特化している貴女では勝ち目はありません」
僕が“昇華”を、カルニが“人喰い”と“炎命”の二重魔技を起動する。
血を変形させた攻撃は“昇華”の餌食、範囲攻撃は“炎命”で焼く。本体の攻撃は“人喰い”でお見通し。
現状の最適解。
難点はカルニでも二重魔技中は炎命を制御できないこと。できるのは最大火力で炎を生成するだけ、要塞の耐火性能が限界を迎える前に勝負をつけないといけない。
あとは相手の“偉業”次第か。できれば発動される前に勝負をつけたい。
(……核は頭の中か)
“人喰い”が相手の急所を嗅ぎつけると同時、血の海を踏みしめて一気に突っ込む。
危険だけど、核を確実に捉えるには接近して“昇華”をぶつけるしかない。
無数の血の槍衾が正面を塞ぐ。カルニの刃で砕き、撒き散らす炎で蒸発させる。
右腕が届くまであと二歩。
『貴様を王の元に行かせるわけにはいかぬ。我が全力を以ってここで融かし尽くす』
殺意とも執念とも違うマリスの宣言。これは忠義だ。命を捨てる覚悟がこの魔人にはある。
真下の視覚外から伸びてきた血の槍を脚甲で踏み潰す。
時間をかけてはまずい。一気に決める。
あと一歩。
『たとえ貴様が天の怪物だとしても、その身も、その“存在”も天に連なるものだとしても――』
届く。
右手を最短距離で射出。
マリスの顔面を掴んで首を圧し折りつつ核を“昇華”する――
『――地上で口にしたモノは地上のモノだ』
圧し折ったマリスの喉が甘く冷たい声で囁く。
血の海に巨大な蒼色の紋章が奔る。
ぞくり、と肌が粟立った。
巨人のそれすら超える巨大な紋章。久しく感じていなかった死の気配。
真っ向からの力勝負で上回っていたウルザの時とは違う。
なにか、致命的な攻撃を受ける予兆。
たしかに核を昇華した手応えがあったのに、マリスが生きている。反撃しようとしている。
まずい。「切り札」、間に合うか――
『我が啜るは貴様の時。貴様が地上で得た全ての活力――
――原初の夜まで遡れ、“奪命・血海”』
それが魔人マリスの“偉業”であることを理解した瞬間。
バチン、とテレビの電源を落とすように意識がオチた。
◆
『……ふぅ』
あっけないと言うべきか。あるいは、紙一重だったと言うべきか。
立ったまま意識を喪ったメイルを見遣りながらマリスは小さく息を吐いた。
危険な賭けだったが、マリスは競り勝った。
目の前に立つどう見ても人間に見える怪物はしかし、人間ではないのだと魔技が告げる。
“血啜り”の魔技が効かないからだ。
ゆえに、思考も読めない。マリスにしてみればおぞましい外見をした数多の魔物よりも、よほど恐ろしい存在に感じられる。
『さて、殺すか』
マリスはトドメを刺すべく血を圧縮する。
偉業の吸収能力ですら死ななかった以上、物理的に殺すしかないのだ。
『穴という穴から血を注ぎ込み、体内から破裂させる。これで死なねば……どうするかな』
ありえそうな未来にマリスはげんなりとした。破壊力という面では魔人の中で最も劣っている自覚があるのだ。
マリスは魔人の中でも珍しく魔技と偉業を使い分けるタイプである。“偉業”の使い勝手が悪いからだ。
――偉業“奪命・血海”。
魔技“血啜り”の行き着いた果て。
人間の生命力を吸収する魔技に対して、この偉業は範囲内のあらゆる生命力を無差別に吸収する。
マリスが脆弱なアンデッドしか配下にいない理由がこれだ。ひとたび彼女が偉業を発動すれば、ヌシクラスの魔物ですら時を置かず衰弱死する。
すでに生命力を持たないアンデッドでなければ逃れ得ない致死の御業、目の前の例外に出会うまではそう信じていた。
生命力を吸い尽くしてなお、気絶するだけで済む生物の殺し方をマリスは知らない。
(けれど、これではっきりした。我が偉業は神に届く)
それこそが他の魔人たちをしてマリスが「自己を変革した」と言われる所以。
魔人たちの中で彼女だけが、神を目指すのではなく、神を制する力を求めた。
人間を殺す魔技を、神を殺す偉業へと進化させた。
全ては来たる決戦に臨む王の為に。
『ああ、イーライ様。貴方のマリスは神に勝利致しました。お伝えする時が待ち遠しく感じます』
恍惚とした表情のままマリスが血を手繰る。
無数に伸ばした血の触手がメイルの全身を拘束し、その内部へ侵入を――
「――勝ち鬨はまだ早いぜ、血啜りサンよ」
刹那、マリスは腹部に唐突な熱を感じた。
そして、己の腹に男の左手が突き刺さっているのを目にした。




