船上余話:遅れてきたエルフ
川面に冬の太陽がきらきらと反射する、涼やかな昼下がり。
自室で引き続き猛勉強しているノキアを見ていた折に、男装エルフことフィアがやって来た。
「メイル、おぬしの今日を半分ほどもらえるか?」
「なにかありました?」
「港町を見て回りたい。たまには旅エルフらしいこともしなければな」
大陸西部にあたるこのあたりは街が少ない――エルフ図書館が少ないということだ。必然的にエルフに入る情報も減り、鮮度も落ちる。
「新しいもの探し」は旅エルフの仕事だ。ランガに着く前とはいえ疎かにするわけにはいかないのだろう。
ちらりとノキアを見る。夜なべして作った算数ドリルだ。解き終わるにはまだまだかかる。
「いいですよ。ノキアに勝ったご褒美もまだでしたしね」
「覚えておったか。うむ、自分から言い出すのはさすがに大人げなくてな」
変なところで奥ゆかしいフィアはそう言って照れたように頬を掻いた。その表情だけでなんでも頼みごとを引き受けてしまいそうになるから卑怯だと思う。
ともあれ、ちょうどいい機会だ。
僕もいい加減、訊いておかないといけないことがあった。
◇
むせ返るような鮮魚の匂いと炊煙の立ち昇る港市場。あちこちの屋台で焼き魚や蒸かし謎芋が売られているのが見える。
あたりを賑わす、活気というより喧噪と言いたくなる騒がしさは大陸西部ならではだろう。値切り交渉ひとつとっても今にも取っ組み合いを始めそうなほどだ。
たぶん、そのくらいエネルギッシュでないと開拓最前線に関わる仕事をしようなどとは思わないのだろう。
「いい空気だ。やはり人間はこうでなくてはな」
「エルフの皆さんは静かですからね」
「うむ、記憶を共有しているゆえ、会話する意味が薄いからな。だがそれはエルフの悪癖でもある。多くの発見は主張のぶつかり合いの中で生まれる。議論を交わさぬゆえに、エルフは自ら新しいものを作ることができない」
だから旅エルフなどという職業ができてしまう。他種族に寄生しておこぼれを与っている。
そう言って自嘲的に笑うフィアはやはり他のエルフとはどこか違う。
諦観というか、「こんなはずではなかった」という後悔のような気配を感じる。
「……でも、僕はエルフが好きですよ。魔物が闊歩する世の中で、離れた人々が結束できているのは貴女たちのおかげだ」
エルフがいなければ、きっと人類は各都市国家に引きこもったまま、魔物禍で各個撃破されるか、石器時代で社会が止まっていただろう。
都市間での情報の保存と共有。それができるのはエルフだけだ。
「だから、エルフの生き方は寄生ではなく――共生なのだと思います」
「我々がいなければいないなりに、人間は何かしらの伝達手段をみつけただろう」
「それがエルフより優れたものになるとは僕には思えませんが……」
「……ふっ、おぬしが言うならそうなのかもしれぬな。では、エルフらしいことをしようか」
そう言って、フィアは胸元から一通の便せんを取り出して、手渡してきた。
おそらくはこれが、わざわざ僕を連れ出した理由。ノキアに見せられない内容なのだろう。
「これは?」
「辺境都市ヴァーズェニトのエルフから共有された内容を書き写した。おぬしの近況を孤児院の者たちに伝えた返答だな」
「!!」
手紙!!
ここ十五年ほど使わなかった概念だ。すっかり忘れていた。じゃあお前の名前はなんなんだ。
いや、うん。話には聞いたことがあった。都市の有力者はエルフ伝いに手紙を出す。
さながらファックスのように。まあ、僕らに木々の区別がつかないようにエルフが他種族の「個人」を識別できるのは稀だから、あまり流行っていないとも聞いたけど。
「個人の“ぷらいばしー”に関わるものゆえ、ノキアのいないところで渡した方がよかろうと思ったのだが、合っていたか? どうにも我々は感情の機微に疎くてな」
「ええ、おかげであの子にだらしない顔を見せなくて済みそうです。ありがとうございます――――」
「――――フィンラスさん」
次の瞬間、フィアと名乗っていたエルフがすてーんとこけた。
それはもう見事にこけた。
あのエルフ美人だなーってこっちを見ていた人たちがそっと目を逸らすくらい見事にこけた。
男装のエルフは両手で顔を覆ったまま、しばらく倒れたままだった。
「……い、いつから気付いていた!?」
ややあって、お尻をさすりながらフィアことフィンラスさんがすっくと立ち上がる。
涙目で長い耳の先まで真っ赤にした表情は初めて見た。
それは卑怯だ。優しくいじめたくなってしまう。
「最初から、ですね」
「馬鹿な。顔も、声も、匂いだって『フィンラス』とはまったく違うではないか!?」
「普通のエルフはフィンラスさんを呼び捨てにはしませんし、やはり『木神の娘』なんて名前は畏れ多くて名乗りませんよ」
「ぐぬぬぬ……」
悔しそうにしているフィンラスさんだけど、正直隠す気がないとさえ思っていた。
記憶を共有しているからか、フィンラスさんは他のエルフも自分と同じことができると思っている節があるけど、そんなわけがない。エルフには明確に個性がある。個性があると言うことは得手不得手があるということだ、主に対人コミュニケーション関係で。
まあ、見た目が違ってもフィンラスさんはフィンラスさんということだ。……これで間違ってたら顔を覆っていたのは僕の方だった。
「それにしても、どうして変装?なんてしたんですか。見た目を変えても他のエルフの目を欺けるわけでもないでしょう?」
お忍びで城下町にやってきた王子様コーデをしても、エルフ間では意味がないはずだ。
けれど、フィンラスさんは僕を見て、それから照れたようにそっぽを向いた。
んん? もしかして、原因は――
「……おぬしと仲良くなりたかったからだ」
恥ずかしそうに呟かれた言葉は、まったく予想してなかったもので、頭が真っ白になった。
いつも茶化してくるカルニですら、空気を読んで背中で沈黙している。
「その、フィンラスのままだとおぬしは気後れするだろう? だから、旅エルフだと言えば気を楽にしてくれると思ったのだ」
「て、照れますね」
結局気付かれてしまったがな、とフィンラスさんは優雅に肩をすくめる。
こっちはそれどころじゃない。頬が熱を持って、フィンラスさんの顔を直視できない。
いつだってクールで泰然としていたあのフィンラスさんが、僕のことをどう思っていたか考えるだけで、頭がぐるぐるとしてしまう。
だというのに、フィンラスさんは僕の頬に細い手を添えて、まっすぐに目を合わせてくる。
そうして俯いていた顔を上げて、僕は息を吞んだ。
いつも表情の乏しかったフィンラスさんの表情が、迷子の少女のように揺れていた。
「その、だな。ふたりきりの時はフィンラスと呼んでくれないか?
おぬしがそう思ってくれるなら、やはり私はフィンラスなのだろう。初めて会った時から変わらぬ私だ」
「――――」
微かに震えを伴う言の葉に、混乱していた頭がすっと冴え渡る。
浮ついた気持ちで応じてはいけない。フィンラスさんは今、むき出しの心をさらけ出している。
エルフは種族内で記憶を共有する。おそらくはかなり深い部分まで。
誰かが体験したことが、そのままそっくり自分の経験になるのだ。
自他の区別など無意味なものだろう。エルフが他種族の個人を識別できないのも当然だ。
だからもしも、エルフが『自己』を確立するときがあるとすれば。
それは、他種族の誰かと深く関わったときなのだろう。
「――フィンラスさん」
そっと名前を呼ぶと、彼女は蕾がほころぶように、あどけない笑みを浮かべた。
きっとどれだけ見た目が変わっても、僕はこの笑顔を見間違えることはないだろう。
「ああ……やはりおぬしにそう呼ばれるのは嬉しいなあ」
そして、その刹那に確信した。たぶん僕は一生フィンラスさんに勝てない。
ほんと、このエルフは卑怯だ。




