4
雨がざあざあと降り注ぐ。風は弱いけど、雨勢はひどく激しい。
地面はぬかるみ、濁った水たまりが休む間もなく波紋を立たせる。
緑風都市ファルナムから徒歩三日。街道から慌てて駆けこんだ洞窟からひょいっと顔を出せば、黒々とした分厚い雲が空を覆っているのが見える。
「この調子だとしばらく止みそうにないね」
「雨の降る気配はなかったのですが……」
散々に濡れた銀髪をぎゅっと絞りながら、ノキアが悔しそうに唇を噛む。
“水冠”の魔技を持つ彼女は雨の気配に敏感だ。
もともと雨の降りそうな時期と場所を選んで行使する魔技だから、受け継いだ血の記憶と、そこから導かれる予測精度はかなりのものだろう。
現にこの二ヶ月、旅の道中にあっても、ノキアが天候の崩れを見逃したことはなかった。
「ノキアの魔技で雨を止ませることはできそう?」
「……難しいですね」
ちょっと考えて、ノキアはそう結論付けた。
「“水冠”は自分のいる場所に雨を降らせる魔技です。雨を呼び寄せることはできても、余所へやるようにはできていません。頑張れば雲をずらすくらいはできますが、今回は広範囲に渡って降っているので……」
「そっか。じゃあしばらくここで雨宿りかな」
「いいんですか?」
「急ぐ旅じゃないしね。ここも安全そうだし」
おそらくは前に来た人が作ったのだろう。
街道のすぐ傍にあったこの洞窟は、壁面も均一に整っていて人の手が入った匂いがする。
奥行きは浅いし、焚き火の跡もある。周囲に魔物の気配もない。野営地としては合格だ。
ひとまず道中で拾っておいた枯れ枝を組み、外套の裾を伸ばして火を点ける。
こういうとき“炎命”は便利だ。多少湿気ていても火力で補える。
ついでに濡れた服も乾かせるし、フェネクス様様だ。
「警戒はしておくから、ノキアは着替えてて。風邪引くよ」
「はい」
こくんと頷いたノキアはそのまま躊躇なく外套を外す。
濡れた服が身体にぴたりと張り付いて、細い身体の線がくっきりと見える。
やや難儀しながら中のシュミーズまで脱げば、白い肌が……僕はそれとなく洞窟の外に視線を移した。
「ん……メイル、どうかしましたか?」
雨音にまぎれて聞こえる声は、純粋に不思議そう。
ここで慌てたら負けだ。何が負けか知らないけど、負けだ。
数年ほど異性と接触する機会がなかったからか、ノキアの無防備さは心臓に悪い。
「いや……うん、ノキアも余裕がある時は恥じらいを持とうね。成人してるんだし」
この世界の人間の成人年齢は十二歳。対して、ノキアは十三歳前後。
見た目は幼いし、社会経験はまったく足りていないけど、立派に結婚できる年齢だ。
そう諭しても、不可解といった雰囲気が漂ってくるばかりだけど。
「貧相な体ですし、見てもおもしろくないと思いますが……」
「十分魅力的だと思うよ、僕は」
「――ッ!!」
爆弾を投げた途端、背後でばさばさと毛布を被る音がした。
……うん。なにかこう、尊厳と引き換えに今後の安寧を得たような気分だ。
実際、年齢以上に幼さを残すノキアだけど、彼女を飾る言葉が綺麗や美しいに変わる日もそう遠くないだろう。
というより、強制引きこもり時代の痩せ過ぎが改善された現時点で、儚さと溌剌さが奇跡的なバランスで両立した銀髪美少女に進化している。
そんな子が、きらきらした純真な瞳で見上げて!!めちゃくちゃ慕ってくれるのだ!!
正直、いつ僕の理性がノックアウトされてもおかしくない。
いまだ反応する気配のない僕のメタルボアも不確定要素だ。天使ボディに発情期とかあったら、たぶん、すごく困った事態になる。
だから、問題が起こる前にノキアに一般的な感性を教えておきたい。
ここで挫けては、いざ彼女が都市で生活を送るときに恥をかいてしまう。
彼女のことを思えば、僕はベストな選択肢を選んでいるハズなのだ。ハズ、なのだ……。
そうして謎の敗北感に打ちひしがれていると、しばして、控え目に外套の裾が引かれるのを感じた。
振り向けば、毛布に包まれ、困惑したような空色の瞳と目があった。
「な、なにかな?」
「…………メイルはわたしの裸に興味があるんですか?」
「その言い方は語弊があると思うよ!?」
『そうだそうだ!! もちっと肉付いてないと食いでがねえだろうが!!』
「……」
「……」
洞窟の中が、不気味な沈黙に包まれた。
カルニ、今だけは感謝する。そして、さようなら。
「ノキア、好きにしていいよ」
「ありがとうございます」
『ちょ――』
カルニをぽいっと投げ渡し、相変わらず荒れた空模様に視線を戻す。
ノキアが雨を予期し損ねたとは考えにくい。
むしろ、なにか別の要因によって天候が急激に変化したとみるべきだろう。
考えられる要因は二つ。
“水冠”に代表される天候に影響を与える現象系の魔技か。
あるいは、存在するだけで世界に影響を及ぼす――高位の魔物だ。
胴間声の悲鳴をバックに、僕はしばらく不審な雨模様を眺め続けた。
◇
雨は降り続ける。昼食を挟んで、場の雰囲気も落ち着いてきた。
さておき。期せずして時間が出来たので、鍛錬のお時間である。
「――せっ!!」
洞窟に掛け声ひとつ。ノキアがぐっと力を込めると、握り込んだ石が粉々に砕けた。
普通の子供の握力で砕ける石ではないけど、もちろん、彼女の身体能力は普通の域にはない。
抱きしめたら折れてしまいそうなほど華奢なノキアだけど、その実態はゴリラばりに人体を鯖折りできる天使ボディなのだ。
「自分の体のこととはいえ、不思議な感じですね」
石を握りつぶしても傷ひとつない白い掌を開いたり閉じたりしながら、ノキアがしみじみとひとりごちた。
天使(仮)の体は性能の“幅”が大きい。意識して力を引き出せばこれくらいは余裕だ。
一方で、普通に生活するのに不自由もない。リンゴを握り潰せる格闘家が普通に生活できるように、僕らも食器を握りつぶしてしまうようなことはあんまりない。
ただ、ノキアの場合は急激に変化した身体に意識がついてこれていないように見える。
咄嗟に発揮できるのは天使全力の三割、並の“強化”持ちの冒険者くらいだろう。
「こればっかりは慣れだね。はじめは目とか耳に集中して、意識して性能を引き出す感覚を身につけた方がいいかもしれない」
「メ、メイルもそうだったんですか?」
まだ若干の気恥しさを残すノキアに、僕は苦笑を返した。
「この身体は天使さん……神様的な存在に作られたものだから、昇華する前から色々研究してたんだ」
五歳の時に手紙燃やして諸々思い出したから、そこから数えて十年分の経験が僕にはある。
それを考えれば、二ヶ月ちょっとで三割まで引き出せているノキアはとても優秀だろう。
人間でなくなった自分に抵抗感がない、とも言えるけど。
「神様が手ずから……メイルはエルフのような種族だったんですね」
「そうだね、エルフだね」
なるほど、とノキアが真面目な表情で頷く。
エルフ概念が便利すぎる。
困ったらエルフみたいって言えば通じてしまうので、この世界に慣れるほどに説明が大雑把になっている気がする。
「メイルを遣わしてくださった神様には感謝しなければなりませんね」
「どうだろう。仕事ですから、で片付けられそう」
「か、変わった神様ですね……」
「生きてる内は関わり合いになることがないからね」
小神メタトロンはどうも死後と転生を管理する監視者の役割を担っているように思われる。
関わり合いがある僕の方がイレギュラーだろう。フィンラスさんにぼかしぼかし聞いた限りでは、いわゆる転生者が他にいたこともないようだし。
これは――天使さんの公私を割り切った性格を鑑みるに、僕が特別扱いされたと考えるより、そうしなければ割りに合わないほどの「手違い」があったからだとみるべきだろう。
空からトラックが降ってくる手違いってどんなだよって話だけど。
ううむ。考えても仕方ないから前世のことなんてとんと気にしてなかったけど、思い付いたら気になってきた。今度啓示を受けるときにでも訊いてみよう。呼吸止まっちゃうけどね!
「天使さんはさておき、足の方はどう? ブーツがきつかったりしない?」
「ちょっとだけ」
「ん、見せて」
適当な石に腰かけたノキアの前に膝をついて、編み上げブーツを解く。
露わになったタイツに包まれた足はまだまだ細っこいけれど、前に見たときよりわずかにサイズが大きくなっている。栄養と運動の不足が解消されてぐんぐん成長しているのだ。
「靴擦れはしてないみたいだね。作り直す必要はなさそうだ」
「それは大丈夫なんですが、どうにも履き慣れなくて……」
仄かに頬を赤らめたノキアが困ったように言葉を零す。
この世界で靴と言えば、基本は木靴だ。形状的にはサンダルを紐で固定したようなのが多い。都市では走ることはそうないから、とりあえず足を保護できればいいという感じ。
これが馬車での移動が基本になる富裕層だと布靴になる。柔らかくて肌触りもいいけど、不整地を歩くのには木靴以上に向かない。ノキアも岩屋にいた頃は布靴だったから、これに慣れているのだろう。
そして、跳んだり跳ねたりする冒険者は革のブーツを履く場合が多い。防御面からもこれが推奨される。
僕が着けている脚甲も、魔物の革で作ったブーツに脛当てや膝覆い、靴裏を硬質素材で補強したものだ。なにげに関節の可動性や中敷きにまで凝った逸品(自作)だ。
最終的にはノキアにも同じくらいの防御力を確保したいけど、しばらくは履き慣れることに注力した方がいいだろう。木靴や布靴だと戦闘時にすっぽ抜けそうでこわい。
「まぁ履き慣れないというか、そもそもノキアは運動が足りてないよね」
「む、これでも岩屋に入る前はおてんばだったんですよ?」
「七年は前の話じゃん。ほら、ふくらはぎとかぷにぷにだよ」
「んっ……」
マッサージついでにぐにぐにとふくらはぎを揉むと、ノキアが鼻にかかった声をあげた。
タイツ越しでも殆ど筋肉がついていないのがわかる。
これでも走れば並の大人より速いのだから、ほんと天使ボディはファンタジーだ。
「痛かったりはしない?」
「いえ、痛くは、んっ、ちょ、ちょっとくすぐったいですっ!」
「ちょっとって感じじゃないけど」
「わかってるならやめてください!!」
涙目で怒られた。
手を離すと、そそくさと逃げ出したノキアは毛布を被ってしまった。
猫みたいでちょっと和む。
ほっこりした気持ちで眺めていると、じっとりとした目で睨み返された。
「……メイルはいじわるです」
「心配だっただけだよ。ほら、履かせたげるから足出して」
「……はい」
毛布からちょこんと突き出された足にブーツを履かせて靴紐を締める。
遠慮がちな性格だし、ノキアの成長はこれからも注意しておいた方がいいだろう。
丸焦げになった腕が数日で元通りになるくらいには、天使ボディは賦活能力が高い。
ここ数年の自分を振りかえるに、成長速度もこれに準じている可能性が高い。ちょっと目を離した隙に靴のサイズが変わるくらいは有り得るだろう。
このあたり、先人がいないので色々と手探りだ。僕はたぶん一人目だと思うから。
そんでもって、ノキアは二人目だ。他に同族はいない。
「……ノキアはさ、元の体に未練とかないの?」
「ないです」
結んでいた靴紐から顔を上げる。
割と深刻な質問だったのにあっさりと答えられてしまって、困惑が先立つ。
「冗談とかじゃないよ?」
「わかってます。それでも答えは変わりません」
「……」
落ち着いた色合いを伴って、ノキアは過去を思い返すように瞼を閉じる。
髪と同じ銀の色をした睫毛が微かに震え、彼女は祈るように言葉を紡いだ。
「わたしは……岩屋にいた頃のわたしは、何もかも諦めていました。無価値な自分が生き残ってしまうことに恐怖さえ感じていました。
けど、今は違います。わたしは生きている。あなたを通じて生きる意味を信じられる。だから――」
目を開けたノキアが、空色の瞳を笑みに細めた。
「――だから、わたしは、選んだのです」
「……」
「たとえ他に方法がなかったのだとしても、わたしは自分の意思で人間をやめたのです。メイルが罪悪感を覚える必要はありません」
「…………そっか。うん、そうだったね。僕もそうだった」
「おそろいですね」
「かもしれない」
笑みと共に無意識に止めていた息を吐き出すと、遠のいていた雨音が戻ってきた。
我ながら現金な話だと思う。
それでも、ノキアの言葉に、心の奥底にわだかまっていた不安が溶けていく気がしたのは、たしかだった。




