18
精神世界での邂逅も現実では一瞬のことだったようだ。
まぶたを開ければ、黒オーガは最前と同じ姿勢で驚いた表情をしている。
ついでに、視界の端をピカピカと金色の粒子が舞っている。どうやら僕の体から漏れ出ているらしい。
先生が魔技を全開にしたときの光景に似ている。体に納まりきらないエネルギーが放出されているのだろうか。まぶしい。
「……オレの魔技が反応しなくなった? オマエ、ニンゲンじゃなかったのか?」
「元は人間だよ。天使謹製の、だけどね」
警戒を強める黒オーガににやりと獰猛な笑みを投げ返す。
“昇華”の効果は素材の質に比例する。
天使の創ったこの体は素材としては最上だろう。
だから、“昇華”もこの上なく発揮されたと、文字通り身を以って理解している。
「メイル、貴方……」
背後でファウナ先生が息を呑む気配がする。
先生は知っているからだ――『昇華したモノは元に戻せない』。
けど、それでもいい。先生を助けられるなら、僕は人間でなくていい。
拳を握る。さすがに天使そのものには届かなかったけど、存在強度はかなり増したようだ。少し動かすだけでも激増した身体能力を実感できる。
背中にも違和感があるけど、これはアレか。天使っぽいサムシングか。確認したいけどそんな余裕はない。
昇華は成功した。けれど、これで黒オーガをひとひねりできるかと言われたら疑問だ。
チートでブーストしたところで、こちらは異世界十年目の子供でしかないのだ。戦いの経験値が違う。
決め手はひとつ。目標の位置は戦闘に介入する前に確認している。そこまで詰められれば僕の勝ちだ。
「今のうちに祈っておくといい、オーガのヌシ。最後の機会になる」
「必要ねえな!!」
哄笑をひとつ残し、地を蹴って黒オーガが爆発的な速度で踏み込んでくる。
――見える。
顔面狙いの爪撃が迫る。
防御力の高い先生には打撃、僕には斬撃を主軸にする気か。ほんとに頭いいなコイツ。
というかこの爪の形状――メタルボアを追いやったのはお前かこの野郎!!
僕は突き込まれた巨腕をむんずと掴むと、肩を捻り上げるように振り回し、全力で投げとばした。
冗談のように都市外へ吹き飛んでいく黒オーガ。追いかけるように僕も走りだす。
着地地点を見切り、落下途中の黒オーガめがけて飛び蹴りを叩き込む。
衝撃。胸板に着弾。
「はっ――!!」
「チィッ!!」
さらに吹き飛んでいく黒オーガ。そのまま追いかけようとしたところで肩に痛みが走る。
触ってみると、ぬるりと血の感触がした。
爪をひっかけられたらしい。あの状況で反撃してきたのか。無茶苦茶な運動神経だ。
けど、狙った位置には近付いている。順調と言っていいだろう。
ひらりと着地した黒オーガに向けて一気に間合いを踏みつぶす。
このピカピカした状態がいつまでもつかわからない以上、時間は敵の味方だ。
こちらが採るべき戦術は速攻。これに尽きる。
改めて対峙してみれば、黒オーガは二メートルを超える長身だ。
巌のような、とはコイツみたいなのを言うのだろう。全身が筋肉の塊だ。
となれば――ちょっと、前世の知識を試してみるか。
「オラアアアッ!!」
放たれる爪撃を身を屈めてやりすごす。
即座に放たれる直蹴りを全身で受けとめる。
着弾した両腕がみしみしと軋むが、無視。攻撃直後の硬直した足首を掴んで捻る。
ぱきん、と小気味いい音を鳴らして右足首を力任せに外す。
このまま一気に膝までとりたかったけど、すぐに蹴り払われた。痛覚とかないのかコイツ?
「このヤロウ、味な真似を……!!」
悪態に応ずる余地なし。
相手の右側を占位するように円を描きつつ、攻撃に移る。
姿勢を低く、四指を揃えた貫き手を脇腹にぶち込む。
肋骨の隙間、筋肉の薄い部分を貫いた手応え。筋肉の束に捕まる前に指を引き抜く。
オーガも血は赤いのか、と指先に付いた色を見て思う。
直後、反撃に振るわれる爪を蹴り飛ばし、その勢いで体を捻り、飛び後ろ回し蹴りを顔面に叩き込む。
衝撃。
きれいに踵が入った。たしかに鼻骨を砕いた。
――すごい。体がイメージ通りに動く。オリンピック選手にでもなったみたいだ。
これが“昇華”、これが存在を引き上げるということか。
「やるな、小さき戦士」
なにが楽しいのか、鼻血まみれの顔に笑みを浮かべる黒オーガ。
その顔面で、潰れた鼻がめきめきと音を立てて再生する。
凄まじい賦活能力だ。いつの間にか外した右足首も治っている。
……なるほど。痛覚はむしろ邪魔になるか。プラナリアの親戚かな?
あの様子だと、下手したら即死レベルの損傷も治癒してしまうだろう。物理的に殺しきるのは無理か。
「このままでは勝負にならねえか。だったら、こうだな」
次の瞬間、黒オーガの全身を赤色の紋章が覆った。
“熱狂”の魔技。コイツは複数の魔技を持ってるのか。
それともヌシの特権みたいなのがあるのか。考えてみると、メタルボアの紋章も妙に大きかった。あれは複数の“熱狂”を重ねたものだったのか。
まあ、どっちでもいい。“熱狂”なら好都合だ。気付かれる前に予定地点まで押し込む。
「――GRAAAAAAAAッ!!」
狂乱任せに振るわれた爪を間一髪で躱す。
轟音と共に地割れのような爪痕が地面に残り、弾かれた石礫が頬を裂く。
続けざまに振るわれる爪を避ける、避ける、避ける。
ちょっとまずいか。大ぶりになった分だけ回避は容易になったけど、攻撃が途切れない。
敵は無理やり振るって千切れかけた腕を再生させながら攻撃し続けている。
狂戦士ここに極まれりだ。呼吸しているかも怪しい。
関節技や貫き手、投げ技を差し込む余裕はない。
かといって、このまま回避に徹しても押し込まれるだけだ。不利でもやるしかない。
大ぶりの隙をついて一気に懐に飛び込み、拳撃を叩き込む。
身長差がある分、べた足のインファイトならこっちの方が小回りがきく。
拳打に集中すれば手数だって有利がつく。
筋肉の鎧相手ではダメージはさして期待できない。押し込むことに集中する。
だからあとは、どっちの体力が先に尽きるか、我慢比べだ。
避ける。
殴る。
避ける。
殴る。
避ける。
殴る。
避ける。
殴る。
避ける。殴る。避ける。殴る。避ける。殴る。殴る。殴る殴る殴る殴る殴る殴る――――
「――――ああああああああっ!!」
気合が喉を突き破らんばかりに迸る。
肉体が危機的状況に適応していく。
爪を避ける動きがそのまま殴打の動きになり、反射すら追い越す速度で両の拳を連続して放つ。
敵が一撃を放つ間に二発、三発と拳を重ねる。
連続する拳打に、狂乱の中にいる敵がたまらず一歩押し下がる。
ここだ。限界を超えてさらに拳の回転数をあげる。
技巧は今いらない。ただひたすらにべた押しにする。
押せ、押しきれ、あと少し――――
直後、黒オーガの体からふっと赤色の紋章が消えた。
えっ、と思った次の瞬間、腹に膝が突き刺さった。
衝撃が背中まで抜ける。内臓が撹拌される。
一瞬、体がふわりと浮いて、崩れ落ちた。
「ガ、ハッ」
咄嗟に嘔吐を堪える。ここでそんな隙を晒せば、頭からがぶりといかれてしまう。
けど、代償は大きい。鳩尾を打ち抜かれた。息ができない。視界が霞む。
明らかに狙いすました一撃。こちらの思考が攻めに寄った一瞬をぶち抜かれた。
空恐ろしいほどの戦巧者。“熱狂”すらも見せ札。スペックで勝るこちらを破壊するための一撃を確実にいれてきた。
粗野な見た目通りに好戦的な癖に、戦運びは冷静冷徹そのものだ。
だからこそ、まずい。コイツが魔物の群れを率いたら、下手すれば人類が滅ぶ。
感覚で、本能で、それがわかる。
これはそういう類の災厄だ。人間の天敵だ。生きていてはいけない存在だ。
だから、僕の命に替えても、ここで討つ。
顔を上げれば、目前に迫る爪撃が視界に映る。
ダメージはまだ抜け切っていない。腕はあがらないし、膝は震えるばかりだ。
けど、まだ動く。動けるハズだ。だから――
「――――うごけええええええ!!」
膝をついた姿勢から踏み切る。
すれちがった爪に背中を裂かれる。引き裂かれた服の切れ目から翼が零れ出る。
【はばたけ】
瞬間、背中で空気を打つ音がして体が加速する。
そのまま黒オーガに組みつき、両足を地面からひっこ抜く。
これが僕にできる最後の手段だ。山を抜く怪力も地に足がついていなければ用をなさない。
「このっ、はなせ!!」
肩に担ぐようにして持ち上げた黒オーガが暴れる。
振り回される爪が肩を、背中を切り裂く。
けど、浅い。その程度のダメージではこの体は止まらない――!!
黒オーガを持ち上げたままひた走る。
刹那、視界の端で、“ソレ”がきらりと陽光を反射した。
(みつけた!!)
直後、縛めを脱した黒オーガが着地と同時に蹴りを放ってきた。
両腕を重ねて防ぐ。体を捻り、狙った位置に撥ね飛ばされる。
受け身をとる余力はもうない。ごろごろと地面を無様に転がる。
体はもうボロボロだ。傷ついていない場所を探す方が難しい。
けど、どうにか間に合った。
この場所だ――先生の大剣が落ちた、この場所に来たかった。
「ッ!?」
跳ね起きた僕の手には身の丈を超える大剣が握られている。
遅れて黒オーガも気付くが、やはり反応が遅い。
僕がコイツと打ち合えた理由が、それだ。
“人喰い”は人間にしか反応しない!!
「――はあああああああ!!」
真っ直ぐに構えた大剣を黒オーガの腹にぶちこむ。
ぶつりと肉の束を引き千切り、全体重をかけて突き込んだ切っ先が背中まで抜ける。
即座に再生が開始するも、剣が刺さったままでは治るものも治らない。
元より、先生を圧倒した相手に昇華しただけで勝てるとは想定していない。
ちょっと能力が上がったくらいで、戦いの経験を覆せるとは思っていない。
「けど、さすがに土手っ腹貫かれれば、お前の存在強度も下がるだろう!!」
「テメエ、なにを――」
答えの代わりに、僕は右手の紋章を起動した。
肘辺りまで範囲を増した紋章がこれまで以上に眩い光を放つ。
それはさながら、黄金の炎のように。
いける、と直感が、確信が――魂が咆哮をあげる。
「“昇華”――――」
覚えている。メタルボアにナイフが癒着したあの瞬間の感覚。
覚えている。石と木から矢を直接生み出したあの瞬間の感覚。
こいつの賦活能力相手では単純な“昇華”で止めることはできない。
だから――――
「――――お前はこのまま“剣”になれ、オーガッ!!」
狙いは合成昇華。この大剣に黒オーガを封じる。
自分を昇華したのもこの瞬間の為――コイツの存在強度を上回る為だ。
ここから根競べだ。オーガと僕、どっちの存在強度が上か。
絶対に負けない。今の僕ならドラゴンだってねじ伏せてみせる。
僕の右腕を伝わって、金色の光が黒オーガの全身を圧縮していく。
抗うように巨躯の各所で漆黒の光が燃え盛る。
それでも、黒オーガの下半身は既に剣に呑みこまれ、あとは上半身を残すのみ。
「消えろおおおおおおッ!!」
「ガ、アアアアアアアッ!!」
大剣をさらに押し込む。
最後の抵抗とばかりに振るわれる爪を避ける術は僕にはない。
両足は踏ん張り、両手は大剣を握りしめている。
動かせるのはあとこの頭くらいだ。
だから、全身を仰け反らせる。
瞬間、黒オーガが爪を振るって姿勢を下げたその瞬間に、頭突きを叩き込んだ。
互いの頭が激突し、金槌を思いっきり振るったような音が鳴る。
視界一杯に火花が散る。角に掠った額が割れて血が噴き出す。
けれど、それがトドメとなった。
からん、と音を立てて僕の手から大剣が滑り落ちた。
白一色だったその剣は、今や真っ黒に染め抜かれている。
そして、人喰い鬼の姿はもうどこにもなかった。血の一滴も残さずに大剣に呑み込まれていた。
「……勝った」
そこまでを確認して、ぶつり、と僕の意識は途切れた。




