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アセント 天使の右腕、炎の子  作者: 山彦八里
<1章:孤児院の天使>
17/99

16

 ――時の刻みはしばし遡る。


 ファウナ・イゼルトは東門陣地で膝をつき、剣を支えにして祈っていた。

 思い出すのは十年前のこと。

 騎士を辞めて神官になると実家と縁を切り、サティレの教会に転がり込んだ翌日のことだ。

 一晩経つと幾分冷静になって、彼女はひどく後悔した。


 神官になって孤児を育てる? 子育ての方法も知らないのに?

 自分が知っているのは魔物の殺し方くらいだ。それでどうやって子供たちを育てるのか。


 何も知らないから、何から手を付けていいのかわからない。

 そうやって途方に暮れていた時、ふと泣き声が聞こえた。

 慌てて外に出ると、暖かなおくるみに包まれた赤ん坊が扉の脇に置かれていた。傍らには金貨と手紙。

 捨て子だとすぐにわかった。……その割には随分と身綺麗であったが。

 そっと抱き上げると、赤子は泣きやみ、きょとんとしたかんばせでファウナを見つめた。

 疑うことを知らない無垢な琥珀色のまなこをじっと見返して、彼女は決意した。


「この子を死なせてはならない」


 心が決まってしまえば、後は早かった。

 とにかく近所で育児経験のある家を回って教えを請い、手順と知識を体で覚えていく。

 幸い、メイルと名付けたその子供は夜泣きひとつせず、驚くほど手がかからなかった。

 そうして、必死に子育ての真似事をしている内に孤児は増え、古いサティレの教会は随分と賑やかになった。

 そんな陽だまりのような日々の先に、今がある。

 辛いこともあった。悲しいこともあった。巣立っていく子どもたちを見送るのは今でも胸が苦しくなる。

 それでも、この十年、自分は幸福だったと、胸を張ってそう言える。


「ファウナ様、お時間です」


 壮年の騎士団長に声をかけられ、祈りを終える。

 身の丈の大剣を背負い、立ち上がったその姿こそ、十年を経て蘇った“戦乙女”の姿であった。

 砕けてしまいそうなほど透き通った横顔は美しく、それでいてあまりに儚かった。


「敬称はよしてください、団長。今の私は一介のサティレ神官です」

「しかし、剣を背負っておられる。たとえ立場が変わろうとも、貴殿が騎士であることに変わりはありませぬ。騎士とは誇りであるが故に」


 ファウナが困惑した表情で何か言おうとする。

 が、その前に傍らに整列していた騎士たちが口を開いた。


「おうおう、団長が柄にもなくかっこいいこと言ってるぜ」

「年甲斐もなく張り切ってるな、ハゲなのに」

「髪はなくとも神のご加護は篤いのが我らが団長だからな」

「おまえら、後で宿舎裏な」


 見事な禿頭に青筋を立てた団長に対し、騎士たちは見事な敬礼を返した。

 辺境都市の騎士は粗野だがタフだ。既に一昼夜を戦い続けたにもかかわらず、彼らの士気は高い。


「では、その前にひと働きしましょう。団長にばかり格好つけさせるわけにもいきません」

「応とも。我ら誉れ高きヴァーズェニト騎士団。戦乙女の旗を掲げし誇りの同胞!!」


 朗々たる鬨の声に続いて取り出したるは青に染め抜かれた騎士団の旗。

 そこに描かれた女騎士の旗章を目にしてファウナはぽかんと口を開いた。

 とても見覚えがあった。なにを隠そうモチーフは自分なのだ。


「え、ちょ、その旗まだ使ってたんですか!?」

「言ってやらんでください、ファウナ様。ここにいる騎士たちは貴殿の活躍を子守唄に育ってきた者たちです。貴殿こそが彼らの夢なのです」

「もう!! たしかにまだ乙女ではありますが、私もいい歳なんですよ」

「存じております。よい年の重ね方をされたようだ」


 かつてファウナと轡を並べた壮年の騎士団長は、そう言って彼女の前に右膝と右拳をつき、頭を垂れた。

 その容儀は騎士が主君に対するものと同列に扱うという最敬礼であった。


「十年前、貴殿を小娘と愚弄したこと、この身を盾とすることで謝罪させていただきます。

 重ねて、いまだ貴殿に頼らねばならぬ我らの未熟を、この命をもって贖わせていただきます」

「あ、こら、団長てめえ!! おいしいとこ独り占めする気だな!!」

「ハゲがハゲじゃなかった時にそんなこと言ってたのかよ。こりゃあとで宿舎裏だな」

「おまえたちがな」


 立ち上がった団長はにやりと口角をあげ、腰の剣を抜いた。


「さあ皆の者、反撃の時間だ!! 我らの愛すべき都市を襲う不埒者どもを叩き返す時が来た!!

 戦乙女の旗に集いし騎士の同胞よ!! 我らは一矢!! 我らは剣!! 我らは誇り!!

 ――こたびの一戦、救国の戦と心得よ!! 我らが命尽きるとも、死して戦乙女の盾とならん!!」

「応ッ!!」

「ファウナ様は何も気負うことはありません。どうかごゆるりと進まれよ」

「――――はい」


 頷くファウナの横顔に先ほどまでの儚さはなかった。



 ◇



 大気を轟する鬨の声をあげ、騎士団が出陣する。

 作戦は至極単純であった。

 騎士団全員で魔物の群れを突き破り、無傷のファウナをヌシに当てる。それだけだ。

 反論はいくつも噴出した。もはや騎士でない者に捨て身の作戦を実行させるのか、と。

 だが、たったひとつの厳然たる事実がすべての反論をねじ伏せた。

 すなわち、十年を経ても、後遺症を負っていても。


 ――それでもなお、この都市でファウナ・イゼルトが最も強い。


 ゆえに彼女は戦場にいる。


 傍から見れば、騎士団の突撃は奇跡のような光景だった。

 ブルファングとオーガからなる津波の如き群れを、鋼の一団が一直線に切り拓いていく。

 凄まじい錬度だと、左右を騎士たちに守られながらファウナは感嘆の息を吐いた。

 王剣都市の近衛にも見劣りはしない。彼女が抜けた後に残った騎士たちがどれほどの鍛錬を課したのか手に取るようにわかる。


 それでも、脱落者は出る。櫛の歯が抜けていくようにひとり、またひとりと。

 だが、彼らは役目を果たした。

 最後まで先頭を走り続けた騎士団長が魔物の波に呑まれると同時、ファウナは群れの最奥に辿りついた。

 既にヌシの姿は遠見のエルフが確認している。

 額に角持つ、ひときわ巨躯の黒いオーガ。常に群れの中心にいるその特異個体こそがヌシだ。


 黒い巨躯を認識した直後、ファウナは紋章を起動し、背の剣を抜きざまに叩きつけた。

 不意打ちの一刀。並の魔物ならそれだけで決着がつく一撃を黒オーガは両腕を重ねて防いだ。

 ギン、と金属同士をぶつけたような音が鳴る。

 黒オーガを中心に地面が放射状に砕ける。


(硬い!!)


 ファウナの大剣は黒オーガの腕を半ばまで断ったが、切断しきる前に振り払われた。

 弾かれるように後退したファウナは改めて黒オーガと対峙する。

 周囲の魔物は攻撃してこない。ヌシの攻撃に巻き込まれることを恐れているのだ。


「強いな、ニンゲン」


 そのとき、黒オーガが突如として口を開いた。

 やや掠れてはいるが、その言葉は紛うことなく大陸共通語であった。


「人間の言葉を喋れるのですね。ヌシよ、その知性がありながら、何故街を襲うのですか?」

「そこにニンゲンがいるからだ」

「……退いてはいただけないのですね?」

「無理だな」


 黒オーガはにやりと嗤った。

 明らかな知性とそれ以上の暴力性を感じさせる獰猛な笑みであった。


「オレの魔技は“人喰い”(カルニバス)。ニンゲンを喰うほどに力を増す、そういう魔技だ」

「――――」

「イイ目だ。一瞬で覚悟を決めたな、戦士よ。だが安心しろ、アンタが一人目だ。最初に喰らうのは強いニンゲンだと決めていた」

「……石の女神サティレよ、我が剣にどうかご加護を」

「我らが祖、魔神イムヴァルトにこの一戦を捧げん!!」


 ファウナの全身を青い紋章が包み、黒オーガの全身を漆黒の紋章が覆う。


「――いくぞ、ニンゲン!!」


 黒オーガが両腕を構える。

 ファウナが与えた手傷は既にない。恐るべき賦活能力だ。

 そして、両者は再度激突した。


 青と黒の軌跡を残し、衝撃が宙に花火のように散る。

 一秒間に交わされた剣戟と拳撃は五度を超える。

 横薙ぎに払われる大剣を黒オーガが跳び越え、打ち込まれる鉄槌打ちを“戦乙女”の紋章が防ぐ。


 数秒の後、勝負の天秤は一方に傾いた――黒オーガの側に。


「オオオオオオオッ!!」


 黒オーガが吼える。打ち込まれる連打は“戦乙女”の紋章の上からもダメージを与えていく。

 大剣を細かく振って直撃を避けながら、ファウナは我知らず歯噛みした。


 ――動きが読まれている。


 おそらくはそれが“人喰い”の効果。狩人の魔技だ。

 人間を狩って喰らう、その為に対人に特化した複合強化と「先読み」を得ているのだろう。

 おまけに、普通のオーガが見境なく暴れ回るのに対して、このオーガには知性がある。

 漆黒の猛打を加えながらも、致命的な攻撃は確実に回避している。


(まずい。これは十年前のヌシより遥かに強い……!!)


 ファウナの魔技は“戦乙女”(ヴァルキュリア)

 防御力を中心に、知覚、身体能力、反応速度その他あらゆる性能を強化する、複合強化の中でも上位に属する。

 肉体的には人間の域を出ない彼女が大剣を振り回せるのもそのおかげだ。

 大技はないが継戦能力が高く、魔物と正面戦闘を可能とする数少ない魔技だ。

 つまり、防御力と先読みの差はあれど、強化の方向性は“人喰い”と同じ。

 であれば、あとは地力の差が勝負を分ける。

 ――人間の域を出ない元騎士とヌシにまで至ったオーガ。比べるまでもなく、オーガが圧勝する。


(もしも――)


 もしも、体が万全なら、そんな弱音が泡沫のごとく浮かんでは消える。

 十年前に負った傷は塞がりはしても、しこりのように後遺症が残っている。

 かつては追いつけた筈の一歩が届かず、当てられた筈の一撃が空を切る。

 そして、攻撃できない分だけ相手の攻勢は激しくなる。

 結果、時を経るごとに防戦一方になっていく。

 気付けば、数歩後ろまで東門が迫っていた。随分と押し込まれたらしい。

 時折、城壁から矢が射かけられる。

 が、黒オーガは鬱陶しそうに手で払うばかりで、ファウナから意識を離さない。自分を殺せる相手がファウナだけであることを看破しているのだ。


(メイルには感謝しないといけませんね。先に伝えておくべきでした)


 オーガの豪拳を受けても軋むことすらないクレイモアの大剣。

 並の剣では傷を与えることすら不可能であったし、拳打を数発受ければ砕けてすらいただろう。

 その性能の高さが、本来なら蹂躙されてもおかしくない実力差を辛うじて縮めている。

 だが、それもいつまで保つか――


「成程、理解した。それがニンゲンの技か。喰うのが楽しみだ」


 そのとき、黒オーガは微笑みとも感嘆ともとれぬ表情を浮かべてファウナの脇をすり抜けた。

 何故、と思う間もなく黒オーガが疾走を開始する。

 向かう先にあるのは、東門だ。


「――ッ!!」


 ファウナの顔がさっと青ざめた。

 まずい。まずい。まずい。まずい。

 今すぐアレを殺さないと、死ぬ。みんな死んでしまう。


「――はああああああッ!!」


 ファウナは防御を捨てて、黒オーガめがけて突撃をかけた。

 青い光を彗星の尾のようにたなびかせ、巨躯の背中に斬りかかる。


 ――瞬間、くるりと振り向いた黒オーガと目があった。


 あるいは、それがファウナ・イゼルトの限界だったのだろう。

 彼女の本質は今でもなお騎士であった。

 民草を守るための騎士であった。

 それゆえに、心のどこかで誘いだとわかっていても、市内に入りこむ素振りを見せられれば乗らずにはいられなかった。

 そのツケを彼女はすぐに払うことになる。


 振り向いた黒オーガの全身を紋章が二重に覆う。

 漆黒の紋章たる“人喰い”の上から、さらにもうひとつ。

 その色は“赤”、紋様は“熱狂”(フレンジイ)。瞬間的に肉体の枷を外す狂化の魔技。

 そして、黒オーガは赤と黒のふたつの紋章を纏ったまま城壁に腕を突っ込み、柱を引きずり出した。

 ファウナは慌てて急制動をかけて大剣を防御に回す。

 突撃をかけていたために反応が致命的に遅れたのを自覚する。

 考えるまでもなく、次に敵が何をするのかわかる。

 それゆえに、衝撃に備えて――


「――GRAAAAAAAAA!!」



 束の間、ファウナは何が起こったのか理解できなかった。

 視界の端を吹き飛んでいく大剣の姿がよぎる。

 遅れて、状況を理解する。

 柱で薙ぎ払われた。城門が消し飛んだ。

 吹き飛ばされたままに地面を転がる。

 全身の骨を砕かれたような激痛に魔技を維持できない。

 視界が霞む。敵はどこに――


「っと、砕けちまった。ニンゲンの造ったモンは脆くていけねえ」


 敵は、黒オーガは目の前にいた。


「そん、な……“二重魔技(デュオスマギ)”、有り得ない――」

「別種の魔物を支配下におく王サマは初めて見たか?」


 力なく倒れたファウナを見下ろしながら、黒オーガは事もなげに告げた。


「――これが王の力。ニンゲンが“ヌシ”と呼ぶ魔物の特権。王は支配した者の魔技を奪う」


 人間が血で魔技を継ぐように、魔物は支配によって魔技を統一する。

 この黒オーガはヌシとして配下のブルファングから魔技を奪ったのだ。

 つまりは“弱肉強食”。強き者はより強くあるべし。

 それこそが魔物を統べる神【魔神イムヴァルト】の掲げる教義である。

 このとき、ファウナもまたその螺旋に組みこまれようとしていた。


「食事の時間だ、戦士よ。アンタは強かった」

「ま、だ……」


 黒オーガが手を伸ばす。

 その様を、ファウナは妙にゆっくりと流れる時間の中で見上げていた。

 逃れようと体を動かすが、這うことすら覚束ない。


「往生際が悪いな。さすがニンゲンだ。だが――ッ!?」


 その瞬間、突如として黒オーガが背後に向けて拳を振り抜いた。

 次いで、水晶が砕けるような音があたりに響く。


 そして、ファウナは見た。


 彼女の愛すべき息子、メイル・メタトロンが黒オーガに襲いかかっていた。



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