獣帯の流れ星 9
ヴィンチェンツォとしては、満を持してのこの夜であった。
ようやく現れたロメオ達を「遅い!」の一言で出迎える。
「ルゥは一緒じゃなかったのか」
ヴィンチェンツォの苛立ちは当然のようにロメオにぶつけられる。なんで僕が、と口には出さずロメオは「メイフェアがどうしても来るってうるさいから任せたんだよ。そのうち一緒に到着すると思う」と我慢のできないヴィンチェンツォをなだめる。
そうか、と呟くとヴィンチェンツォは萎縮している見習い騎士らしき若者達に鋭い眼光を向け、何事か指示を出しては一人張り切っている。ように他の者達には見えた。
そもそも、その子達はあんたの部下じゃないんだけど。
ロメオはぼんやりとその様子を眺めていた。
「それにしてもよくもまあ、これだけ集めましたね」
山と積まれたまたたびを見上げ、ロッカは純粋に感心していた。
「王都中のまたたびを買い占めた。鼻がきく猫なら、というか見てみろ、まさに一網打尽じゃないか」
もしかしたら俺は案外商人に向いているかもしれない、とヴィンチェンツォはまたたび山を眺め一人ほくそ笑む。
あからさまに嬉々としているヴィンチェンツォをよそに、周囲に集った人々は声をひそめて閣下の作戦を突っつき始めた。
「本当にこんな稚拙な作戦でランベルトをおびき寄せられるのかな」
ロメオの声は極限にまで抑えられたものだったはずだが、メイフェアといい勝負の地獄耳である。ヴィンチェンツォは離れた場所から上機嫌で即答した。
「禁断症状てやつだ。またたびの為なら危険を冒してでもここへやってくるはずだ、お前らの言うことが事実ならな」
ロメオ達の足元は、「にゃーごにゃーご」と興奮した猫達で足の踏み場もない状態であった。
「これだけ集まると、さすがに気持ち悪いんだけど」
「十日ほど前に、最後の砦だったうちの庭のまたたびがやられました。彼としても、ここに来るしかないでしょう」
珍しく忌々しげな口調になるロッカである。
大切に育てていたまたたびが根こそぎ盗まれてしまい、ロッカはめらめらと燃えるものを己の内に感じていた。
そしてランベルト用に仕掛けたはずの罠は巧妙に避けられ、それを見たモニカは「意外と賢いんですね」と本音をもらしてしまう始末である。
「そういえばビアンカはどこ?」
思い出したようにアンジェラが辺りを見回し、ヴィンチェンツォはこともなげに言った。
「北の庭園に行くと言っていた。暗いし、そろそろ迎えに行った方がよさそうだな」
「私行ってくるね!」
くまちゃんを抱きかかえたアンジェラが北の庭園を目指して駆けだした。
ヴィンチェンツォはくすりと笑い、アンジェラから「重いから、お寄こし」とくまちゃんを取り上げて肩車をした。
なんでヴィンス様が王都にいらっしゃるんだろう。
次から次へと予測不可能の連続である。元から飽和状態の思考ではあるが、ヴィンチェンツォの肩の上で、ランベルトは例えようもない緊張感に支配されていた。
あ、でも、むかーし無理やり肩車されたことがあった。だけど結局ヴィンス様が石か何かにつまずいて、俺は顔から地面にたたき落とされたんだっけな。
なんだかものすごく腹が立ってきた。いい加減俺に気付けよ、このむっつりが!涼しい顔して憎たらしいんだこの野郎!
「ん?」
「どうしたの?」
アンジェラはわずかに表情を変えたヴィンチェンツォを見上げながら、その上にいるくまちゃんに目で合図を送る。
じっとしていなさい。
とアンジェラは軽く睨んでいるようにさえ見えた。
気のせいかランベルトには、アンジェラの仕草がステラのそれと重なる。
小さいくせに一人前な気遣いを見せるアンジェラを見降ろし、ランベルトはしみじみと「大きくなったなあ」と感慨にひたっていた。
「いや、妙に安定しないのが気になってしまっただけだ。でかすぎるからかな」
「おなかにまたたびが入ってるんだよ。猫ちゃんをおびき寄せる為に、ぎゅうぎゅうに詰めたの」
「そうか」
あっさりと納得するヴィンチェンツォに、ランベルトは胸を撫で下ろした。
それにしても何だよ。
小さい子には優しいんだな。
でもそういう人だったよな。ロッカが俺より小さい時とか、やたら過保護だったし。
俺にはそんな優しい態度とか言葉とか、全然なかったけどな。
暇すぎて、普段なら考えないようなことばっかり考えてる。
もしかして本当は俺、哲学的な男だったのかもしれない。人間に戻れたら本でも書いてみようかな。瑠璃ちゃんなんて目じゃないくらい、大先生になっちゃったりして……。
突然あごの辺りに衝撃を受け、ランベルトは「ぐえっ」と情けない声を漏らした。
「すまない、木の枝に気付かなかった」
転がるくまちゃんを拾い上げて横抱きにすると、ヴィンチェンツォは数歩先から振り返るアンジェラに駆け寄っていった。
***
一方、ビアンカもヴィンチェンツォに負けず劣らず上機嫌であった。暗闇もなんのその、静寂に包まれた庭園で夏草の匂いを存分に楽しんでいた。あずまやの下で目を閉じ、ご機嫌な歌を口ずさみながら懐かしい香りのする草花に囲まれ、幸せそうに笑みを浮かべた。
突然、荒々しく草木を踏み分ける音が聞こえるが、ビアンカは警戒心の欠片もなくその人の気配に振り返り「ランベルト様!」と満面の笑みで駆け寄った。
あずまやに置かれた淡い灯りが、ランベルトのはちみつ色の髪を浮かび上がらせていた。
「お、おう」
いきなりこいつの知り合いに出くわしてしまったにゃん……。にこにこしているビアンカに悟られないよう、猫は自然に挨拶をする。
だが猫の心配は杞憂であった。詳しい事情を知らされていないビアンカは、
「お懐かしゅうございます。皆がランベルト様を探していますよ。一緒に参りましょう」と言うのみである。
猫はそんなビアンカを恍惚の眼差しで見つめていた。
先ほどまでヴィンチェンツォのお手伝いに精を出していたビアンカは、当然またたび臭に覆われていた。
全身から香り立つまたたびのかぐわしい匂いに誘われ、猫はふらふらとビアンカに歩み寄った。
ビアンカの手を取り、くんくんと匂いを嗅ぎ始めたランベルトは思わず柔らかい手のひらをぺろりと舐めた。
「どう、なさいましたの」
そこでようやくビアンカの笑顔が消え、反射的に濡れた手を振り払った。
「おいしいにゃん。もっとよこすにゃん!」
暗がりの中ランベルトの瞳が妖しく光り、目の前の獲物を捕らえた。
背を向けて逃げ出そうとするビアンカの腕をつかみ、力任せに石畳の上で組み伏せる。
猫は抵抗するビアンカを押さえ付け、おいしそうな匂いのする場所を一心不乱に探している。
「ランベルト様、気でもふれたのですか!やめてください!」
頬を舐められ、ビアンカはたまらず悲鳴をあげる。
ランベルト様が猫になってしまわれたって、本当だったんだわ。ランベルト様はいつも笑っていて、優しくて、兄のようにも思っていたのに、こんなことをするランベルト様はランベルト様じゃない。
ビアンカは絶望に襲われながらも必死に「どうか正気に戻ってください!」と懸命に呼びかけ続けるが猫に届くはずもなく、ランベルトはビアンカの首に顔をうずめてぐりぐりと鼻を押し付けている。
石畳の上で揉み合う二人の上から、実に不機嫌な声が降り注いだ。
「両手を挙げてビアンカから離れろ。少しずつだ。それ以上おかしな真似をしたら背中から叩き斬るぞ」
尋常ではない殺気に、ランベルトはがばりと顔をあげる。
アンジェラに助け起こされ、ビアンカはひしと少女にしがみついた。
「子どもにそんなもの見せやがって。ステラに言いつけるからな」
その名に体が反射的に縮こまり、猫は思わず鳥肌を立たせてしまう。
こいつ、出来る……。
猫とヴィンチェンツォはにらみ合い、猫は「誰だお前」と言った。
ほお、とひくつく顔をひと撫でするとヴィンチェンツォは「俺に向かってよくもそんな口を聞けたものだな」と凄みをきかせた笑顔を見せる。
ランベルトではないとわかってはいたが、やはりあの顔でそれを言われると、実に腹立たしい。
その笑顔に、ランベルトの体がぞくりと反応した。体が知っているにゃん……やはりこいつ、只者ではないにゃん……こいつからは何か嫌な感じしかしないにゃん。
その時、茂みががさがさと音を立て、矢のような何かがランベルトに飛びかかった。
「痛いにゃん!何するにゃん!!」
素早くランベルトの体をよじ登り、顔に爪を立てるのは一匹の猫であった。
「にゃんだお前は!」
必死の形相で猫を振り払い、ランベルトは四つん這いになると「フーッ!」と戦闘態勢に入った。
「お前……助けてくれたの?」
へたり込むビアンカを守るように猫が毛を逆立て、ランベルトに向かって威嚇し続けている。
「俺の女に手を出すな、だとう?にゃまいきな!」
ヴィンチェンツォは四つん這いになるランベルトに少なからずも衝撃を受けていたが、そういえば昔似たようなことがあったからいいか、とすんなり事実を受け入れ、その様子を静観し始めていた。
「本当、ですか?」
ビアンカは瞳を潤ませ、猫の背中に語りかけた。
「私、すっかり嫌われてしまったのかと思っていました。でもまだ、私のことをそんなふうに思ってくれているなんて」
「『どんな雌猫を娶ろうとも、お前は生涯忘れられない女だ』……だとう!にゃまいきなんだにゃん!猫のくせに!」
キシャーと声を挙げたのを合図に、ビアンカの猫は再びランベルトに飛びついた。
「くそう、人間の体は使いづらいにゃん!たかが猫のくせに、痛いんだにゃん!」
「よりによって、あいつに、おいしい所を持っていかれた気がするな」
ヴィンチェンツォはどうにも腑に落ちぬといった様子で、忌々しげにビアンカの猫を眺めている。
騒ぎを聞きつけて駆けつけた人々はあっけに取られ、猫に攻撃されて転げまわるランベルトを遠巻きに眺めている。
さんざん手こずらせたわりに意外と弱かった、と皆急速に体の力が抜けていくのを感じていた。
「君は完全に包囲されています。大人しく縛に付きなさい。というか、本体に戻りなさい」
ロッカはランベルトの腕を容赦なくねじりあげ、後ろ手に組み伏せた。
ビアンカの猫はにゃーんと甘い声をあげると、何事もなかったかのように主の腕の中に納まった。そして先ほどランベルトに舐められた所を上書きするかのように、一生懸命ビアンカの頬や首筋を舐めてあげた。
「帰るところなんてないにゃん!俺はこいつとして、人間として生きることに決めたのにゃん!」
ロッカの下で暴れながら、猫であったランベルトは知らず知らずのうちに涙を流していた。
「現実から目を背けてはいけません。あなたの体はそこです」
ロッカがくいと顎で示した先にあるものは。
「にゃああああああああ!!そ、そいつは……」
ステラの腕の中に、巨大な白い毛玉があった。
「思いだしたか?お前はは死んでいない。ただショックが大きすぎて、現実を受け入れられずにいただけなのだろう?」
馬鹿馬鹿しい、と思いながらもステラはよっこいしょと白猫の巨体をだらーんとランベルトの目の前に突き付けた。
ランベルトは気が狂ったかのように叫び声をあげた。
「それは俺じゃないにゃん!そんな体……そんな体は……」
ない。
大事なものが、オスの象徴が綺麗さっぱり、つるりと失われていた。
「同じ男同士、君の気持ちは痛いほどわかるよ。だけど戻ってみれば、意外と快適かもしれないじゃん?」
ロメオがいけしゃあしゃあと口にするが、明らかに見下した口調は誰にも丸わかりである。
「嘘をつくにゃ!お前に、オスの大事なものを取られた絶望感がわかるのかってにゃー!」
むせびなくランベルトに向かって、ビアンカは優しく語りかけた。
「あってもなくても、あなたはあなたです。可愛らしい、とても素敵な猫ちゃんですよ?元にお戻りになるのでしたら、一緒に暮らしませんか?うちは少し遠くて寒いですけど、きっと毎日楽しく過ごせます」
ビアンカが朗らかに微笑んでみせた。
こんな姿になった俺様に、そんな優しい言葉をかけてくれるなんて……。
だが、ヴィンチェンツォは首を振りきっぱりと「それはいやだ」と言った。
「そんな、酷いわ。私がきちんとお世話しますから。いいでしょう?」
すねるビアンカに向かって、ヴィンチェンツォは毅然とした態度をとる。
「犬がいるだろう、犬が。これ以上飼わないって、この前約束したばかりじゃないか」
何度も「駄目ったら駄目」と首を横に振るヴィンチェンツォに、ビアンカはしゅんとなる。そして、猫に向かって深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、このお話はなかったことに」
一筋の光があっけなく立ち消え、ランベルト、もとい猫は再び咆哮した。
「にゃーーー!振られたにゃん!この俺様を振る女がいるなんてーーー!」




