獣帯の流れ星 7
ランベルトは騎士団詰所でうつらうつらと、くまちゃんの中で船を漕ぎ続ける。朝から日暮れまで、さまざまな人々の会話がいやおうなしにも耳に入ってくる。
「……だとよ。狂ってやがる」
「しかもあのお方が直々にらしい。あの人は人使いが荒いことで有名だろう」
「それはそうと、女官長代理が」
「それって本当なんですか?」
「さすがに副団長にも愛想が尽きたんだろうな。腹の子だって、副団長の子かどうか」
「最近陛下付きになった男だろう」
「確かに男の僕でも、あっちの方がいいかなって。格好いいですよね。出来る男ってあんな感じすよね」
「おい、お前達」
もう一人の副団長のどすの利いた声に、騎士達はいっせいに縮みあがった。
「無駄口をたたく暇があるなら、外を手伝ってこい」
ステラのひと睨みは効果絶大である。蜘蛛の子を散らすように人が消え、ステラは誰もいなくなった部屋で舌打ちをした。
「あの馬鹿は本当にどこへ消えてしまったのか……。奥方が心移りしても仕方のない状況にはあるが」
「心うつりってなあに」
アンジェラはくまちゃんを抱き上げ、よっこいしょと少しばかり足の長い椅子に腰かけた。
「それはだな」
ステラとアンジェラの声が、すうっとランベルトから遠のいていった。さっきからこの人達といい、生意気な見習いと俺の格下君達といい、いったい何の話をしているの?
……それってもしかして、俺のことかよ!!
男って誰?
腹の子??
メイフェアぁぁぁぁぁあああ!?
ふいにアンジェラの腕からくまちゃんがするりと抜け落ち、床に転がった。
「おや」と腰をかがめて拾い上げようとするステラを制止し、アンジェラはくまちゃんを抱き上げると「私帰る」と言った。
***
慌ただしく湯あみを済ませ、バスカーレ達は挨拶ももどかしく玄関で見送る執事に不在中の用をあれこれと確認していた。
「子ども達を頼むぞ。あまり夜更かしさせぬようにな」
「はい、旦那様」
老齢の執事が心得たとばかりにうなずくが、
「お嬢様は、そのう、あまりお腹がすいていないとおっしゃっております」
と、悲しげな顔を見せた。
「今日はあまりおやつを食べていないのだが、どうしたんだろう」
ステラは小首をかしげながらもバスカーレと顔を見合わせ、無言で子ども部屋に向かう。
足音を忍ばせ、二人は薄く開いた扉の隙間からアンジェラの様子をそっとうかがう。
娘は何やらくまちゃんに話しかけているようである。
二人でこっそりのぞいては、顔を見合せ笑いをこらえるのは楽しいひと時でもあった。
アンジェラはくまちゃんの頭を撫でながら、寝台にうつ伏せで寝転がっていた。
「だからね、最近つまんないの。早くランベルト兄ちゃん、帰ってこないかな。早く帰ってこないと、そうじゃないと、ほんとうのお母様みたいに、メイフェアもいなくなっちゃうかもしれないよ……」
バスカーレ・ブルーノは、指がかろうじて二、三本入るほどの隙間から見える小さな背中を険しい顔で見つめていた。
そして自分の横で立ち尽くす二番目の妻に気付き、「いや、その」と言葉にならないものをもごもごとこねくり回していた。
「あの馬鹿が……」
ステラはいつものように遠慮など欠片もない音を立てて扉を開けた。
「おい、ステラ」
せめてひと声かけてから、と弱々しく呟くバスカーレを押しのけ、ステラはずんずんとアンジェラのそばに歩み寄った。
驚いて顔をあげるアンジェラをうるんだ瞳で見つめると、ステラはがっしりと娘を抱き寄せた。
「心配はいらぬ。草の根をかき分けててもこの母が必ずあの馬鹿を探し出してみせる。だからそんな悲しそうな顔をするな」
「ほんとう?」
「ああ、私に任せろ。騎士に二言は無い」
何度もアンジェラの頭を撫で、ステラは鼻をすすりあげる。
こくりとアンジェラはうなずき、「お腹すいた」と言ってステラの手を握った。
だから、こんなすぐそばにいるのに、どうして誰も気付いてくれないんだよ!
ランベルトは文字通り床をのたうちまわりたい心境である。
しかし、気付ける者など皆無であった。瑠璃であればすぐに気付いてくれそうであるが、全く顔を合わせることなく、月日が無駄に流れていった。
どさり、と大仰に寝台から落下したくまちゃんに、ステラ達が怪訝そうに目線をくれた。
駆け寄って自分を抱き起こすアンジェラの曇りない瞳に、涙腺のないぬいぐるみではあるが、思わず涙を流しそうになるランベルトである。
「あのね、くまちゃんは分かるんだよ。何かあると、動いたり、たまに手とか動かしたりするの。神様のみつかいなんだよ。みんながランベルトの話をしてると、何か言いたそうにするの」
眉をひそめ、バスカーレはくまちゃんを見下ろしていた。
「何を言って……」
疑ってる、とアンジェラは不服そうな顔になり、突然くまちゃんに話しかけた。
「ほら、くまちゃん、立てるよね?前に手すりにつかまって窓の外見てたもんね?」
アンジェラ……なんていい子なんだ。君だけが俺をわかってくれる。君こそが天使だ。
ここで頑張らねば、じゃあ俺はいつ本気出すんだ!
自分の手にすがり、やっとのことでつかまり立ちをするくまちゃんを誇らしげに見守るアンジェラである。
「ほら、言ったとおりでしょ?」
団長!俺だよ!これで俺ってわかってもらえたよね!
ランベルトは安定しない足をぷるぷる震わせながら、生まれたての小鹿さながらに立ち上がり、これでどうだ、とばかりにバスカーレを見上げてみせた。
だが頭が重く、すぐにころん、と後ろに倒れてしまった。
「嘘じゃないでしょ!ね、父様」
嬉々として振り返ったアンジェラの目に映るのは、「うーん」とうめき声をあげて昏倒する父の巨体であった。
ステラは腕を組んだまま、じいっとくまちゃんを見下ろしている。その辺り、肝の座り方が尋常ではないのである。
「やはり師匠しかおらぬな……そろそろ時間だ」
床に転がる二匹のくまを放置し、ステラは急ぎ執事を呼ぶのであった。
***
瑠璃はクライシュと共に離宮を訪れていた。ゆったりとした時の流れる離宮は、瑠璃の好きな場所であった。
代々離宮は女主人のものであり、かつての住人達の残した気配は、限りなく優しかった。
瑠璃を包み込むように、日暮れの柔らかい風が吹いていた。
「お客様です」
色づき始めた月見草を見つめていた瑠璃が、ふわりと言い放った。
庭は夕闇が広がり始め、そろそろ灯りが欲しい頃である。クライシュは目をこらし、足音のする方につられて向かっていた。
内心では逃げられたらどうしよう、と気弱なことも考えていたステラであったが、幻想的な風景に溶け込むように佇み、花と同じようにふわふわとした笑みを浮かべている瑠璃に安堵する。
少なくとも自分達と話をする準備はあるのだと確信を持つが、同時に自分達がここに来ることをご存じだったのかもしれない、とも思った。
なにせ師匠の感とやらは、己には到底理解できないものだから。
「くまちゃん、行こう」
長い渡り廊下をアンジェラに引きずられながら、一縷の望みを託すランベルトである。
瑠璃ちゃん、俺だよ!助けて!早くなんとかして!
何度か目をしばたたかせ、瑠璃は「それは自業自得では」と、くまを見据えて言うのであった。
「会話できるのですか?」
ステラはさほど驚いた様子もなかったが、やはり、と悩ましげにため息をもらす。
「いいえ、全く」
うなだれるくまを無視し、瑠璃は続けた。
「ただ、この中にいるのはランベルトです。それは間違いありません」
「やっぱりあの時だったか」
どこから現われたのか、王子をあやしながらロメオが会話に加わってきた。
「猫に負けて追い出されてしまったか。情けない奴」
取りつく島もないほどに非情なステラを眺めながらも、それって間違いなく君のせいだから、と言葉にできる勇者は存在しなかった。
ぽんと手のひらを打つと、クライシュはこともなげに言った。
「それでは、このぬいぐるみをメイフェアに渡してこの件は終了ということに」
「ちょっと待って下さい。本体はどうするつもりで?」
「そうだよ。今もきっとどこかで悪さしてるんだよ。またたび泥棒だよ」
親子でそれぞれ同情の度合いは天と地ほどであったが、ステラとアンジェラはクライシュの提案に異を唱えた。
「狭い王都ですから、いずれ捕まります。死ぬまで牢屋にでも繋いでおけばいいんじゃないんですか」
「別に生きてる犬猫みたく餌やったり下の世話しなくていいんだからいいじゃん、ぬいぐるみの一個くらい。その辺に置いとけばいいんだもん。でもこれって、もはや旦那じゃなくてただのぬいぐるみだよね?」
あくびをするロメオが心底憎らしかった。本当に一生このままだったら、俺はこいつらが生きたまま地獄に落ちますようにと呪ってやる、とランベルトは心に固く誓った。
「世俗的感情を捨て去るんです。精神的な愛に生きればいいじゃないですか。夫の姿はなくとも、心はいつも共にあるのですから」
良いことを言ったはずのクライシュであったが、周りの反応は予想と反していた。
「メイフェアってそういう感じでもないし。そのうち引っ越しのどさくさで捨てられそう」
「あるかも。もうボロボロだし、直してあげるくらいなら新しいの買うと思う」
ロメオとアンジェラは阿吽の呼吸で答えた。
隣ではステラが重々しくうなずいている。
「例えば目の前で他の男と……辛いかもしれぬが、そう遠くない日にくまちゃんはその現場を目撃することになるやもしれん」
そっくりそのまま、お前に返してやるわ!
とランベルトはくまの中でうなり声をあげた。
また何か言ってる、とだけ呟き、アンジェラはくまをどうしたものか迷いながら大人達を見上げる。
そうだった、とステラはぬいぐるみの運命はさておき、クライシュと瑠璃に跪くと型どおりの口上を述べた。
「閣下から召集にございます。急ぎお二人を王庁までお連れするようにと」
「私達が断れないと知っていて、ですか」
「たまたま、たまたまですよ」
微笑みながら顔を見合わせる二人を見上げたまま、ステラは悪童のごとき笑みを浮かべた。
「いざという時は、それを口実にお呼びしようと思っていましたが、なにせあの方は待つのがお嫌いですから、私が進言するまでもありません。でしょう?」
なんだかわからないけど、こっちの夫婦は仲直りしたみたいだ、とロメオは肩の荷がひとつ下りた気がした。




