獣帯の流れ星 6
「おかわりください!」
階下に向かって大声を出すメイフェアを一同は微笑ましく思いながら、それぞれの好物を口に運んでいた。
いつもの食堂での、いつもどおりの風景であった。
天井の高い吹き抜けをのぞき込み、メイフェアは馴染みの女給に向かって空いた麦酒の器を掲げて破顔一笑している。
「メイフェアの笑顔にこれほど癒される日も珍しいというか。とにもかくにもよかった」
ロメオは文字通り肩を撫でおろし、少々なで肩ぎみの肩をぐるぐると回している。
「全くです。お手柄ですよ、ステラ」
恩師の褒め言葉にステラは学生であった頃のような笑みを浮かべては、メイフェアに勝るとも劣らない早さで酒器を空にしている。
「ねえねえ、ところでランベルトは?さっきからいないの、知ってた?」
アンジェラはこの中でも比較的まともそうな大人を探していたが、もはや誰一人としてまともではないと悟っていた。結果、取り合えず母親にたずねてはみた。
「さっきとはいつだ」
「うーんと、豚が来る前に下に降りて行った」
けらけらと笑いながら、ステラがロメオの肩をばんばん叩いている。これ以上叩いたら、ただでさえいろいろ滑り落ちそうなロメオ兄ちゃんの肩が全部無くなっちゃうよ、母様。
すっかり出来上がっているっていう、あれだ。
と、娘は悶え苦しんでいるロメオを気の毒そうに見やった。
「相当前ではないか。豚が来てから少なくとも、私は三杯おかわりしたぞ」
「私も、同じ」
赤い目をした女性二人を見比べ、アンジェラはさくらんぼのジュースに手を伸ばした。
「どこに行ったのかな?」
アンジェラの呟きは、すっかり酔いの回った大人達の声にかき消された。
そして少女の隣に座ったくまちゃんの耳が、頼りなげにぷらぷらと動いている。
弟にさんざんかじられ、耳は今にもちぎれそうであった。
ビアンカだったら、すぐにお耳直してくれるのにな。
アンジェラは酔っ払いをぐるりと眺め、そして諦めたようにジュースの残りを飲み干した。
***
「奥様。旦那様がお戻りになられました」
「おお、そうか」
扉の向こうから、年老いた女性の声がした。
勢いよく扉を開けると、女性はしかめ面をして思わず顔をそむけた。
「またそのような格好をされて。何かお召しになってください」
「うん」
ステラは長椅子に掛けられていた夜着に袖を通し、面倒くさそうに前で紐を結ぶが、あまり上手に隠されているとは言い難かった。
もう一枚くらい何か着ないと部屋から出られないだろうな、とステラは服らしきものを探している。
そしてくったりと椅子に座り込んでいるくまちゃんと目が合い、「お前も暑いだろう」と労わりを込めて話しかける。
ただでさえ暑苦しい夏だ。
ステラは布が嫌いだった。
仕事中は一応我慢して着衣している。
だからこそ、家にいる時くらい好きにさせてくれ。
と声を大にして言いたいのだが、「仮にも王都の守護を担う騎士団長の奥様でございます。そしてまた、奥様も副団長という大変なお役をいただいております。お願いでございますから」とブルーノ家に仕えて五十年という老女に涙目で乞われてはステラも従わざるを得ない。
何より王都と自分の裸がどう関係あるのかなどと子どもっぽい屁理屈を口の中でこねくりまわしているうちに、主であるバスカーレが二人の寝室に入ってきた。
「お帰り、お待ちしておりました」
言い終えるともなくステラの腕が、屈強なバスカーレの首にがっちりと巻きつけられる。
半ばぶらさがるような形ではあったが、バスカーレは顔色ひとつ変えず「大事なかったか」とたずねた。
「ええ、まあ、いつもどおりでございます」
「そうか」
妻の腰に手を回し、バスカーレは寝台の上にステラをそっとおろす。
バスカーレがオルドに出張して以来、ほぼひと月ぶりの再会だった。
美しい妻の意図してか知らずかの悩ましい姿を目の前にして、何もするなという方が無理である。
それはわかります。
たぶん俺も、ひと月ぶりだったりしたら、そりゃあ……。だけどさ。
連日見てはいけないものを見せつけられて、もはやここが天国なのか地獄なのかもわからない。
とどめにこの二人ときた。
せめてとっとと明かりを消せと心の中で念じ続けるが、大きなろうそくは二人を煌々と照らしたままである。
再大の難問が自分を待ち受けている。
俺はどうしたらいいんでしょうか。
誰か。
誰か、俺をここから連れ出してください。
ランベルトは、くまちゃんの中で叫び続けていた。
***
雀が窓の外で鳴いている。
ステラは寝台から這い出ると、豪快な伸びをした。すらりとした足が、ランベルトの目に入った。
もう何も感じなくなってきた。
「いつからアンジェラはくまちゃんと一緒に寝なくなったのかな」
「汚いからいらないと言い始めて。新しいものをお父様にいただくと言っておりました。ですが直そうと思えば、直せます。自信はありませんけど、物を粗末に扱ってはよくありません」
よろしくないのは、そこにいる母です。
アンジェラが真似したらどうするつもりですか?
朝日に目を細め、窓辺に歩み寄るステラはやはり全裸であった。
酷過ぎる。
うちの奥さんですらもうちょっと慎みがあるのに、この人ときたら。
世の中の貴族のお嬢様は、全裸が普通なのだろうか。
「いつもどおりということは、相変わらず何かしら大騒ぎか」
ええ、とステラはうなずき、バスカーレの隣に腰かけたまま、しばらく言いよどんでいる。
ランベルトはくまちゃんの中でごくりと喉を鳴らした。しかしくまちゃんに喉はない。あくまでも気持の上では、である。
「とうとうランベルトが失踪しました。というか、窃盗犯として手配中にございますが、逃げ足があまりにも早く、いまだに捕獲できずにいます」
「そうか。ちなみに何を盗んだのだ」
一呼吸おいてから、ステラはぼそりと言った。
「またたびです」
***
「結局、猫に乗っ取られたままじゃん。全部ステラのせいじゃない?」
「君、それをステラに言えますか」
「言えるわけないじゃん。殺されちゃうよ」
「そうでしょう」
離宮の女官長代理を見舞いにやってきたロメオとクライシュである。瑠璃の姿はない。
ランベルトが忽然と姿を消し、とうとうメイフェアが倒れた。
床についたまま数日が経とうとしている。逃げた夫の行方は依然として不明であった。
だが、それよりも皆が懸念しているのは、指名手配中の男の妻である。
「そろそろ誰か言った方がよくない?」
「誰かとは、誰のことです?私は嫌ですよ。ただでさえデリケートな問題なのに」
「そんなのわかってるよ!だからステラとか瑠璃ちゃんとか、女の子が、さ」
はあ、と同時にため息をつく二人の背後から、凛とした声が投げかけられた。
「私が参りましょう」
息子をロメオの腕に預け、フィオナはつんと顎をあげるとメイフェアが療養している個室へ向かって行く。
「私も、その節はメイフェアの世話になりました。今度は私が恩を返す番です。私にお任せなさい」
王妃の背中が頼もしかった。同時に、こういう時に役に立つ男など世に存在しないのだと思い知らされる一幕でもある。
メイフェアは、壁を向いたり天井を見上げたり、ちょっと頭を上げて庭先の花を眺めたりしながら今日も過ごしていた。
だんだん暇になってきた。
でもすごく、調子が悪い。これも全部ランベルトのせいよ。
こういう時、ビアンカだったら、すぐに心が晴れる薬草を調合してくれるのに。
扉がこつこつと叩かれ、メイフェアは寝ころびながら「どうぞ」と投げやりに返した。
「あのねメイフェア。驚かないで聞いてちょうだい」
それまで落ち着かない様子で天井を見つめていたメイフェアであったが、王妃の姿に勢いよく飛び起きる。そしてやや硬い顔のまま突っ立っているフィオナの腕にすがりついた。
「まさか、ランベルトの死体があがったとか?」
「違う違う」
後ろで王子を抱いていたロメオが慌てて首を振った。
フィオナはメイフェアの足元に腰かけ、どういった表情を作ればよいのか悩んでいた。
ここは直接、はっきりと。
と、無言ながらも必死に訴えかけるロメオやクライシュの顔を見て、王妃は覚悟を決めた。
「おそらく、自分でも自覚していると思うけど。あなた、おめでたなのよ。だから」
「嫌……」
メイフェアの反応は、半ば予想通りではあった。
「気持ちはわかるわ。ランベルトのことで頭がいっぱいでしょう。だけどね、もうあなた一人の体じゃないのだから、しばらく安静にして」
「僕達もいるから。ランベルトは必ず見つけ出すから、だから体を大事にしないと」
慰めの言葉をかける面々から顔をそむけ、ややあってからメイフェアは今までに誰も聞いたこともないような低い声を絞り出した。
「私、猫の子を産むんですの……?」
「え」
「嫌よ!猫なんて嫌よ!」
ぶるぶると震えて叫び続けるメイフェアの背中を、フィオナはうろたえながら撫で続ける。
「なんでそうなるの」
「落ち着いてください。人から猫の子が産まれるわけないでしょう」
「そんなの、わからないじゃない!猫かもしれないわ!猫産んだなんて知れたら、私もう生きていけない!」
ロメオはいやああああ、と髪を振り乱してわめき散らすメイフェアから遠ざかりつつ、「殿下が怯えてるので」と言い残すと脱兎のごとく部屋から逃げ出した。
***
「この子だけ、おかしいですね」
「どうしてだろうなあ。失敗してしまったのだろうか」
「でも、とても安らかな寝息ですよ。問題があるようには思えないのですけれど」
猫鍋の男が、若い女性と会話をしていた。
ロッカは窓の下で様子をうかがっていたが、その女性の声にはっとなる。
どうしてこんなところに、彼女が。
壊れかけた扉に体当たりすると、ロッカは剣を構えて叫んでいた。
「その男から離れて下さい!」
「ロッカ様?いったいどうなさいましたの」
白い猫を抱き、こちらを見ている女性の琥珀色の瞳は相変わらず瑞々しかった。
「ビアンカ、何故ここに」
言うより早くビアンカの腕をぐいと掴むと自分に引きよせ、ロッカは太った男に突き刺すような視線を向けた。
「お前は相変わらずだなあ。いまだに反抗期か」
男とは面識があるはずもなかったが、聞き覚えのある声といい、どことなく飄々とした口調は。
ロッカの額から、一筋の汗が流れ落ちた。暑いせいではなかった。
「ひょっとして、その人はもしや」
そんなはずはない、とロッカは青ざめながらも最悪の答えを導き出していた。
「もしかしてって、何がですか?」
ビアンカは白猫を撫でながら不思議そうに小首をかしげた。
「元気そうだな、息子よ」
男はにやりと笑うと、たるんだ顎を撫で、満面の笑顔を浮かべていた。
ロッカは長い間無言で床に座り込んでいた。
時折注文が入り、「あいよ!」とルチアーノはいそいそと皿に料理を盛り付けている。
何故最初に気付かなかったのだろう。
否。気付けるはずもない。
あまりにも見た目が違う。もはや別人ではないか。
「春とは随分と見た目が変わったような。変装ですか」
「王都の飯が美味すぎてなあ、ここの仕事のせいもあるが、つい食い過ぎてしまった。この体は自前だ」
でっぷりと突き出たお腹を撫で、ルチアーノは「よいしょ」と椅子に腰を下ろしたが、椅子が今にも壊れそうな気がする、とロッカははらはらしながら父を見守る。
「面影が全くありません」
「変装成功だな」
「元に戻すのも大変でしょうね」
「いっそこのままでも何も問題は」
「あります」
こんな太った諜報員など、何の役にも立たないではないか。
ビアンカは猫を櫛ずき始めた。そして歌うような、鈴の音のような声を出す。
「お父様は、ルチアーノ様は私に賛同して、町の猫ちゃん達のお世話をしてくださっているのです」
「世話?猫鍋じゃなくて?」
眉をひそめる息子同様に眉間に皺を寄せた父である。
「何の話だ」
「町から猫が消えている件に関わっているのでしょう?」
ビアンカは櫛の手を止め、怪訝そうな顔をした。
「飼い主を探す活動です。白の奉仕団の子達が率先してくれています。おかげさまで、貴族の方々が猫ちゃん達を引き取ってくださっているの」
父とは違うほっそりとした顎に手を当て、ロッカは野菜の屑や小麦粉で薄汚れた床に目を落としていた。
「おかしいですね。あの猫は、猫鍋にした奴らに復讐すると息巻いていました」
「猫ちゃんとお話ができるのですか?さすがロッカ様です」
「いえ……」
「皆、今頃幸せに暮らしているはずなのに、どうしてでしょう。確かに稀に、この子のような猫ちゃんもいますけど」
ビアンカは悲しそうに胸に抱いた白猫を見下ろしていた。
「その猫が何か」
「目を覚まさないんです。でもちゃんと生きていて、ずうっと、ずうっと寝たままなんです」
「そいつはな、この界隈のボス猫なんだ。目を開けると実にふてぶてしい顔をしているんだがなあ」
「ちょっと失礼」
ロッカは大きな白猫を持ち上げ、だらんと伸びきった体を上から下まで眺めていた。
猫のでっぷり具合は、父といい勝負であった。
なるほど。無い。
ひとつ謎が解けたような気がする。
どうしてあれほどまでにランベルトの体に執着するのかさえも、おそらくは……。
「そうだ、またたびが手に入らないんだ。品薄って、どういうことだ。お前、融通してくれないか」
「ラ……またたび泥棒のせいです」
自分で言っていて、実に情けない。
そしておそらく。それもみな、この人達が元凶であるに違いない。
珍しくも、わけのわからない怒りの火が点こうとしていたロッカであった。
生ぬるい風の気配と、新たな生き物の気配が入り交じり、ビアンカの踊るような瞳は窓辺に向けられていた。
窓の向こうの石畳には大きな月が、男のものらしき無粋な影を映し出していた。
転がるように表に出ると、ロッカは男をうんざりした顔つきで眺める他なかった。
「何しに来ました?ビアンカの護衛ですか」
「俺はルゥの新作を取りに来ただけだが」
小脇に抱えた本は、間違いなく瑠璃の最新刊であった。
今回で記念すべき十作目であり、当然いつものように挿絵を……というか、僻地から帰還して急かされるままに不眠不休で絵を描き散らし、どれだけ時間との戦いだったかなど、あなたにわかる由もない。
再び理不尽な怒りが込み上げるロッカに向かって、ヴィンチェンツォはあくまでも余裕の笑みを浮かべていた。
「大騒ぎだな。俺はまどろっこしいのは嫌いだ。一気に片をつけよう」
「全部ご存じなんでしょう。それで、閣下にはどういった策がお有りで」
自分の知る人間の誰よりもふてぶてしい声に、ロッカは反射的に跪いていた。
「泥棒を捕まえるに決まってるじゃないか。捕り物は嫌いじゃない」




