獣帯の流れ星 5
妹の亡骸を抱きしめる少女の首筋に、氷のような感触がじわりと広がっていく。だが、少女に恐れはなかった。
彼女は、己の柔らかい肌に食い込みかけた刃を感じながらも微動だにせず、彼女の言葉で呟いた。
獣よ。
滅びるがいい。
少女の呼吸が合図となり、灯された光が一斉に消え去った。その場にいた人々はおののき、地べたにうずくまりながらひたすら災いが立ち去るのを待った。
固く閉ざされたはずの瞼に降り注がれた光は、人々の逃げ場を失うほどに眩しかった。
まだ残っている。あなた達を救う時間は、わずかだけど残っているから。
あなたは、ここで死ぬ運命ではないと、私は知っているから。
そしてあなたの道標となる人間が、ここにいるということも。
「お前が、導く人に、なるのだ」
覚えたてのつたない言葉で、少女は王子にささやいた。
少女の言葉は嵐となり凶器となり、狂った王子の心を跡形もなく切り刻んで消えていった。
少女はわかっていた。妹を助けた後に、自分がどうなるのか。
だけどどうしてだろう、不思議と怖くない。
***
「その愚かな王子が誰なのか、言わずとも検討がつくと思いますが」
クライシュの瞳の奥はあの日の、全てを飲み込む光が焼きついたままだった。
「でも、クライシュ様は操られていただけなのでしょう」
メイフェアに向かってクライシュは静かに頭を振る。
「だけ、で済む問題ではありません。彼女を一度殺め、更に姉君を失ったのは私の弱さのせいです」
「彼女は忘れようと一生懸命でした。あまつさえ私を受け入れようとしてくれました。けれども、どうしても瑠璃は思い出してしまうのです。いえ、最初から忘れたふりをして私と一緒にいたのかもしれません。そうするしか、彼女に道がなかったから」
「でも先生は、瑠璃様を何より愛していらっしゃる」
「私もわからないのです。彼女を愛おしいと思う気持ちに変わりはありません。けれどそれが贖罪ゆえなのか、本当の愛なのかさえも」
ここまで彼に言わせてよかったのだろうか、とメイフェアは沈む心に問いかける。クライシュは寂しそうに、普段とは異なる笑顔を見せた。
「嘘だと言うには、あまりにも長い年月が経ってしまいました。二人でいることが、信じられないくらい自然で、幸せでした。彼女が、私の嘘につき合ってくれたから」
では、私たちは?私とランベルトはどうなのだろう。
好きだと言われて、自分も好きになった気でいただけ?
そばにいて、楽だったから?ランベルトをそばに置いておけば、都合がよかったから?
突然メイフェアはすっくと立ち上がると、クライシュに向かって人差し指を突き付ける。
「嘘じゃありません!私の大好きなお二人が、嘘なはずないわ!」
何かに向かって宣言するような高らかな声は、半ば自分に向けて発せられたものだったのかもしれない。
一瞬戸惑いの表情を見せ、クライシュは恥ずかしそうにほほ笑んだ。
「ありがとう、メイフェア」
それからクライシュはひとつ咳払いをすると、いつもの「教師」の顔に戻った。
「ですから、私はランベルトの気持ちがよーくわかるんですよ。強いものに守られ、自分を見失う心地よさと危うさに溺れるなれの果てを、彼が理解してくれているといいんですが」
***
「事情はわかった」
それまで黙りこくっていたロメオが、ぐるぐると肩を回しながら立ち上がる。
「そもそも、瑠璃ちゃんの力を借りるべき案件なのかも疑問だ。説得すれば出て行ってくれそうな気がするんだけど。いや、これはランベルトが招いた事態だ。たまには自分でどうにかさせないと、のちのち癖になるよ。わかりましたか、奥様」
はあ、とメイフェアは曖昧にうなずいた。
なんだかんだと言いつつ、瑠璃様に負担をかけたくないと思ってらっしゃるのかもしれない、とメイフェアは思った。
「お前の言う通りだ。師匠のお手を煩わせるには及ばん」
元から涙もろいたちではあったが、案の定号泣しながら鼻をかむステラである。
「自分も同意見です。だからこそ、このまたたびなんです」
ロッカの瞳がこの上なく輝きを増すのを眺めつつ、ロメオはだからなんでそこなの?と心の中で問いかけた。
「くまちゃんの準備ができたよー」
扉が開き、アンジェラがその場の空気を一新するようなさわやかな風を送り込んできた。
「くまちゃんのおなかに、またたびをいっぱい詰めたの。猫ちゃんはまたたびが大好きなんでしょ?」
くまちゃんをずるずると引きずりながら、アンジェラは天使の笑顔を振りまいていた。
だがステラは、そんな娘の笑顔に再び涙ぐみ、そっと金色の髪に手を当てた。
「アンジェラ……」
「なあに」
「よいのか?アンジェラの大事なくまちゃんを、化け猫などにあげて」
鼻をすすりながら、ステラはアンジェラの瞳をのぞき込んだ。
ややあってから、アンジェラは真顔で言った。
「今度は違うの買ってもらうからいいの。それにクリスがくまちゃんの耳かじってボロボロだし、よだれで汚いから、もういらない」
瞬きをしながら、ロメオは「あ、そうなんだ」とだけ言った。
だが母親のステラはまたもや涙腺を崩壊させ「そうか……お父様のくまちゃんを」と大げさに何度もうなずいている。
「おい、ランベルト、聞いているか!アンジェラがお前を救うために、大切なくまちゃんを犠牲にすると言っている!我が娘に一生分の借りが出来たぞ!」
「汚いからいらないって言ってたよね?」
「どれだけ小さくても女性は女性なんです。現実的で非常に切り替えが早い」
ロメオとクライシュは、何を聞いても感動してしまうステラを横目にひそひそと言葉を交わし合った。
「いつまでも出てこないなら、こっちにも考えがある!」
ステラは大股で歩み寄ると、ランベルトが立てこもっている扉に手をかける。
見た目は麗しいはずのステラの紅い唇から、「ふん!」と気合溢れる声がもれた。
みしみしと音を立て、ついに掃除用具入れの扉があけ放たれた。というよりは、ステラが強引に引き剥がした。蝶つがいがありえない方向にねじれている。
やはり、怪力は顕在であった。
怖い、と誰もが心の中で叫んだ。
「痛い痛い!首がもげるにゃん!」
ステラに首根っこを掴まれ、猫がじたばたともがいているが、鬼の形相のステラと目が合い、途端にしゅんと縮こまる。
「お前に選択肢などない。あれに入れ。またたび天国がお前を待っている」
ステラの指差す先には、再び縫い合わされたくまちゃんがくったりと壁に寄りかかっていた。
「また、たび……いい匂いだにゃん」
鼻をひくつかせ、猫はたちまちうっとりとした顔になる。すかさずロッカが手にしたまたたびを、ランベルトの鼻先でちらちらと振ってみせる。
「気に入ってもらえたようで、何よりです」
猫はますます恍惚とした表情になり、ランベルトの声で「にゃーん」と猫なで声を出すだけであった。
「ちょっと気持ち悪い」
アンジェラがぼそりと呟き、隣にいたメイフェアを慌てて見上げる。
「大丈夫よ、実は私もそう思ってたから」
メイフェアは寛容にうなずき、くたびれたくまちゃんに目をやった。
猫はまたたび天国に昇天するさまを脳裏に描いていたが、慌てて顔を引き締めるとぶんぶんと首を振る。
「嫌にゃん!こいつの体はうってつけにゃん!こいつは俺様の下僕にゃん!こいつのものは俺様のものにゃ……」
ステラの舌打ちが聞こえた。
それから間髪を置かず、副団長の罵声混じりの声が部屋中に響き渡った。
「四の五の言わずにとっとと出て行かんか!!」
くまちゃんをめがけて、ランベルトの体がゆっくりと綺麗な放物線を描いていた。
見事な背負い投げですねえ、とクライシュが感嘆混じりの声をもらす。
「ああああ!!」
ランベルトの情けない声が、虚しく宙を舞った。
***
「あれでよかったんでしょうか」
ロッカが皆を代表してぽつりと呟く。一同は、くまちゃんと重なり合うように倒れているランベルトを遠巻きに見守っている。
「確かに随分乱暴なやり方だったけど」
とロメオは小声で言った。
だが周囲の心配をよそに、ステラがしたり顔で何度もうなずいている。
「幼い頃に豆菓子を喉につまらせたことがある。その場にいたお祖父様が、死にかけた私を逆さ吊りにして、背中を何度も叩いて豆を吐き出させたのだ。つまり、それと同じだ」
もはや、言葉を発する者は皆無であった。
メイフェアが恐る恐る歩み寄り、伸びているランベルトの肩をそっと揺らした。
「ランベルト、大丈夫?」
うーん、とうめき声をあげ、ランベルトはかすかに指先を動かした。
「もしかして、まだ猫が入ってるんじゃないかな?」
ロメオがまたたびをランベルトの鼻先にぐりぐりと押し付けると、ランベルトは心底嫌そうに手で払いのける。
「いい加減にしろよ!」
大声をあげたのち、ランベルトは「あいたたたた」と伸びきったまま床の上で悶え苦しんでいた。




