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獣帯の流れ星 4

 黒髪の美しい少女が自分を見下ろしていた。遠ざかってゆく視界に映るのは、大きな瞳からぽろぽろと涙を流し、血にまみれた自分の手を握りしめている姉の姿であった。 

 姉様、逃げて。

 声に出したつもりが、か細い息を吐き続けるだけで、言葉となって姉に届くことはなかった。

 一人なら、逃げられるから。今はかなわなくとも、いつかきっと、ここから出られる日が来るから。

 姉は励ますように力強く手を握り直すが、それは無理だと二人は悟っていた。

 自分をのぞき込んでいた姉の顔も霞がかったように揺らぎ始め、やがて自分の瞳は何も映し出さなくなった。


「さあ、次はお前の言葉を聞かせてくれるか」

 若い男の声には、一切の抑揚がなかった。

「可哀そうな人。とても、とても弱い。だから、悪しきものに利用される」

 握りしめた手に頬を擦り寄せ、血にまみれた小さな手を洗い流すように、少女の瞳からとめどなく涙がこぼれ続けた。

「ここで二人一緒に死ぬか。お前だけでも生きるか決めるといい」

 少女の首に刃を当て、男は先ほどと同じ口調で言うのだった。

 切っ先の禍々しい光が、少女の白い首元を照らしていた。

 

 扉が軽く叩かれ、瑠璃はうっすらと目を開けた。

「瑠璃。起きていますか」

「ええ」

 瑠璃の頬に長い髪が張り付き、それは汗粒のせいか涙のせいかはわからなかった。

 クライシュは瑠璃の顔を覆い隠している髪を丁寧によけながら、額の汗を拭ってやった。

 強張った表情になる妻からそっと離れ、クライシュは気付かないふりをして窓辺に歩み寄った。

 

「風を入れましょう。今日は朝から暑いですよ」

 乾いた空気が、はたはたと瑠璃の黒髪をなびかせていた。


***


 騎士団詰所の裏庭で、午後の惰眠を貪るロメオと、その隣でひたすら書物をめくるクライシュがいた。

 焦げた大木の根元で、二人は背中を合わせたまま時折会話を交わしている。


「毎日よく働くね」

「そうですか」

「あんなに嫌がってたじゃない」

「そうですか」

「まさか家に帰りたくないとか」

 返事はなかった。

 頭上の青葉を見上げるクライシュは、時が止まったかのようであったが、やがて手にした分厚い本に視線を戻した。


「瑠璃の邪魔をしないようにしているだけです」

「それって帰宅拒否じゃん」

 二度目は、完全に返答がなかった。

 まあ、そうだよね、とロメオは心の中でつぶやき、おもむろに瞼を閉じるのであった。 


「ロッカ様!私も来ちゃいました!」

 小声で路地の片隅から自分を呼ぶ人を、ロッカは唖然として見ていた。

「隠し事なんて出来ませんよ、モニカ様に洗いざらい吐き出させたんです。あ、でも、おうちに帰っても怒らないでくださいね?私が無理やり聞き出したんですもの」

 ロッカはため息をつき、そっとメイフェアを手まねきした。

「女性が来ていい場所じゃないんですから。自分から離れないで下さいね」


 ロッカに連れられ、メイフェアは裏町の賭場に向かって歩いていた。

 皆が言うほど、いかがわしい雰囲気でもないじゃない、とメイフェアは徐々に安心しながらロッカの広い背中を追っていた。

 やがて、空腹を刺激する匂いのする一角にたどり着いた。

「美味しそう。匂いだけでも」

「ここが例の賭場です」

 はっとして、メイフェアは厨房の窓に目をやった。

 突然扉が開き、太った男がのしのしと足音を立ててやってきた。

 そして舌を軽くならし、「おいでおいで~」と文字通り猫撫で声を出している。


「猫に餌をあげている料理人です」

 その男は頬に傷が付いており「そうれごはんだよ」と言いながら猫達に餌をやっていた。

 あっと言う間に数匹の猫達がいかつい男の足元に、しつこいまでにまとわりついている。

 猫はおねだりするように、体を地面にこすり付けながらお腹を見せていた。

「よーしよーし。いい毛づやになったなあ、お前ら。今日はこいつにするか」

 そして恍惚とする猫をいとも簡単につまみ上げ、男は裏の路地に消えていった。


「あの子、まさか」

「残念ですが本日の鍋でしょうか」

「どうにかならないの?ロッカ様だって、猫があんなふうにされて許せないでしょ?どうしてあのままにしておくのよ!」

 言い終えてから、メイフェアはロッカの表情の変化に気付いて思わず息を飲む。

 ロッカの涼やかな目元が、あり得ないくらい大きく見開かれていた。

 そして彼の形のよい唇から放たれた声は静かではあったが、呪いの言葉のような響きを持っていた。

「許せるわけがありません。もし本当に鍋の具材であれば、後悔してもし足りないほど痛めつけてやる予定です」

 ロッカ様なら、夏を冬に変えることができるかもしれない。

 と、メイフェアは思わず身震いをする。


 棒立ちになるメイフェアから離れ、ロッカは転がった一切れの干し肉を拾い上げていた。

 表面に付いた粉を指先に取り、ロッカは何度も匂いを確かめている。

 わずかに顔をしかめ、ロッカはややあってからきっぱりと言った。

「もしかしたら使えるかもしれない。ただの干し肉では無いようですね」

 指先の粉をメイフェアに見せ、ロッカは「なるほど」と一人でうなずいている。

「これ、何ですの?」 

「またたびです」


***


「奥さん来たって聞いたら掃除用具入れに籠城しちゃったんだけど」

 ロメオが指差す場所目がけ、ステラが憤怒の形相で我先にと走り寄った。

「開けろ!掃除ができぬではないか!」

 ステラが小さな扉をガンガンと蹴り上げるが、中の反応はなかった。


 あの日以来、ランベルトは騎士団詰所の一室で軟禁状態にあった。いつ何時、猫に乗っ取られておかしな行動を起こさないとも限らなかったからである。 

 実際夜になると猫が現れ、傍若無人に振る舞う。素のランベルトに戻るのは、主に猫が昼寝中の時間帯であった。

「夜寝れないのは辛い。やっと夜勤減ったばかりなのにさ、これじゃぺーぺーの時と変わんないよ!一日中起きてる感じで、気が狂いそうだよ!」

 睡眠不足が限界に達したのか、「ランベルトである時」でさえ狂人のようなやつれた眼差しでステラ達に訴えるのであった。 


「猫に絶大な効果があるって、ロッカ様が」

 用具入れの夫を無視し、メイフェアは息を切らせながら萎びた木の実を机の上に広げた。

「マエストロの木に、やたらと猫が集まる木があるんです。しかもその木の実は、猫を酩酊状態にするんですよ。うち一番の荒々しい猫ですら、この匂いを嗅ぐと従順になるんですよ、不思議だと思いませんか」

 なぜこんなにもこいつは嬉しそうなんだろう、としわしわになった木の実とロッカをぼんやりと眺めながら、ロメオは思った。


「ということは、これを使って猫を操る算段かな」

「はい!」

 嬉々としてメイフェアがうなずいていた。 

 だが、ロメオは「ふーん」とつぶやくと、いつものように机に足を乗せて天井を仰いだ。

「人間の体に効くのかなあ。むしろ酒の方がいいんじゃないの?」

「試してみる価値はあります」

 メイフェアのみならず、ロッカの明快な答えに対しても「うーん」と一人うなり続けるロメオである。

「だって瑠璃ちゃんがいないのに、この後どうすればいいんだよ」

 言葉に詰まる面々を眺め、まさかそこまで考えてなかったのかよ、とロメオは思わず口に出していた。


「あの子は僕らを避けている。僕らどころか、先生ですら。毎日毎日うっとおしいんだよ。辛気臭い顔で旦那に居座られてもさ」

 憮然とした面持ちで、クライシュがつるりとした顎を撫でながら言う。

「私達がぎくしゃくしているように見えるのでしたら、これは夫婦の問題です。それに瑠璃だって、今もきっとランベルトを助けたいと思っています。ただ、あの猫に会いたくないのでしょう」

 

 けれどもロメオは、笑わない顔でゆったりと足を組みかえると低い声で言った。

「瑠璃ちゃんらしくないな。猫ごときに翻弄されて」

 クライシュが珍しく声を荒げているのを、一同は固唾を飲んで年上二人の会話を見守っていた。

「君にはわかりませんよ。一番触れてほしくない部分をあの猫がほじくり返したんですから。やはりひと思いに成敗してしまった方が」 

「ランベルトが死んじゃうだろ!」

 そこでようやく、いつもの澄んだロメオの声に戻った。


 メイフェアは、瑠璃と最後に会った日の事を思い出していた。気にしても、私ごときにどうすることもできないだろうし、私は何もわからないけど。

 でも、わからない私でも酷く心が乱れて、とても痛い。瑠璃様の今にも消えてしまいそうな微笑みが、どうしても心から離れない。

 先生、とメイフェアは言った。


「あの猫が言ったことは、本当ですか。瑠璃様を、化け物だと」

 クライシュはこくりとうなずき、机の上の木の実を何度か宙に投げては受け止めていた。 

「瑠璃は一度絶命したのです。幸い姉君のお力で、この世にとどまる事となりましたが」

「どうしてそんなことに?」

 何気なく聞いたことがこの方には耐えようもなく重いものだったのだ、とメイフェアは長い沈黙に答えを見出した。

「すみません、余計なことを」

 いいえ、とクライシュはつぶやくと、かすれがちになる声を振り絞る。

 だからあなたは、今でも私を。 


「瑠璃を殺したのは私です」


***


 南の大国に、一人の王子がいた。兄弟はたくさんいたが、常に跡目争いで宮廷は陰謀にあふれていた。

 その王子は穏やかな性格であり、争いとは無関係な学者の道を志していたが、十五を過ぎると掃いて捨てるほどであった兄弟が政敵によって一人また一人と消され、次は自分の番かもしれないと怯えるようになっていた。


 ある日、王子は数百年も前に打ち捨てられた古い神殿にいた。半分以上は砂に埋もれ、かつては屋根を支えていた円柱だけが顔をのぞかせていた。

 その神殿は異教の神殿と呼ばれ、近づく人間はほとんどいなかった。

 だが王子には異教であろうが悪魔であろうが関係なく、かつて人々の心を集めたこの神殿が好きだった。

 時々、何かを見つけた。

 古い壺であったり、小さなガラス玉の首飾りであったり、王子はその度に遙かな昔に思いを馳せていた。

 今思えば、惹かれるのは必然だったのかもしれない。

 最後に見つけたのは古い金の指輪だった。

 これは自分のものだ、と彼には確信があった。

 その日を境に、指輪を手にした王子は別人となる。


 頼りない、御しやすいとまで評されていた王子が本性の残忍な性格を現したのだと人々は噂し合った。

 弱々しいふりも、全て自分の身を守るための狡猾な芝居だったのだと家臣達は囁いていた。

 他人が何と言おうともどうでもよかった。ただし、自分を脅かす者には容赦がなかった。

 ある時、自分を消そうと躍起になる家臣達を集めて皆殺しにした。それが決定的であったのか、人々は彼の秘めていた恐ろしさにひれ伏した。

 誰もが自分に服従し、次の王となるのに否と言わせなかった。


 そんな時、異国から来た姉妹が献上された。赤茶けた髪の妹は未来が見え、黒髪の美しい姉は人の目に見えないもの、とりわけ悪しきものを見分ける力があると言われていた。

 二人はそれぞれに言った。

「あなたは、王にはならない。なれない」

「過ぎた力を手放さなければ、いつか自分が滅ぶ」


 家臣達は青ざめ、即刻姉妹の首を刎ねようとするが、王子は興味深そうに二人を眺めていた。

 明くる日も、二人の言葉は変わらなかった。

 次の日も、その次の日も二人はその言葉しか発することはなかった。

「もうよい。つまらぬ言葉しか喋らぬ鳥はいらない」

 表情の変化に乏しい王子ではあったが、心の動きは見てとれた。


 自分の力以外、何も信じていないと彼は全身で語っていた。

 けれども、それならどうして、彼は私達の言葉を待ち続けているのか。

 私達は、同じことしか繰り返せない。あなたが変わらない限り、未来も変わらないから。

 

「最後にもう一度、何か言うことはあるか」

「お前は、王になどなれない」

 初めて、表情が変わった。と少女は思った。その刹那、胸を突きぬけていく衝撃があった。

 息を詰まらせた少女の口から血がこぼれ落ちた。少女の胸には長剣が突き立てられ、その切っ先は背中を貫いていた。

 姉の叫び声を聞きながら、少女は仰向けに倒れた。

  

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